第3話 私の給料、多すぎませんか?
アルヴァレス帝国の帝都へ入ったとき、エレナが最初に驚いたのは皇宮の大きさではなかった。
「……あの街灯、全部同じ明るさですね」
馬車の窓へ額がつきそうなほど身を寄せたエレナに、向かいへ座っていたクロムウェルが書類から顔を上げる。
「帝都へ入って最初の感想がそれか」
「だって、見てください。通りの端から端まで光量がほとんど変わっていません。王都では設置時期が違う魔導灯を継ぎ足していたので、一本ごとに明るさが違いました。こちらは魔力供給をどこかで一括調整しているんですか?」
「中央区画はそうだ。地下を通した供給管から一定量を送っている」
「地下に?」
婚約を破棄され、仕事も住む場所も失ってから、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、エレナの頭はすでに新しい魔導具の仕組みでいっぱいになりつつあった。
自分でも現金だとは思う。
ただ、知らない技術を見るたびに胸の奥が勝手に動くのだから仕方がない。
「降りて確認したいか?」
「いいのですか?」
「今は駄目だ」
「では、なぜ聞いたのです」
「君がどれくらい本気で降りようとするか確認したかった」
「陛下、意外と性格が悪いですね」
言ってから、相手が皇帝だったことを思い出した。
けれどクロムウェルは怒らず、持っていた書類を一枚めくっただけだった。
「帝都へ来て半日も経たずにそれを言ったのは、君が初めてだ」
「褒められている気がしません」
「褒めてはいない」
どうやら、この人には遠慮というものがあまりないらしい。
その代わり、エレナも以前より少しだけ言葉を選ばず話せるようになっていた。
帝国へ来ると決めたとはいえ、正式な雇用契約はまだ結んでいない。あくまで研究院を見学し、条件を確認した上で決める。それがクロムウェルとの約束だった。
馬車は皇宮へ向かわず、帝都北部にある巨大な石造りの建物の前で止まった。
正面の門には、歯車と羽根ペン、それを囲む魔導環を組み合わせた紋章が刻まれている。
「ここが……?」
「帝国国立魔導研究院だ」
扉が開き、エレナは工具箱を抱えて馬車を降りた。
見上げても、建物の端が視界へ収まりきらない。
中央棟だけでもガイウスの工房が何十軒入るのか分からず、その両側には別棟が伸びている。中庭の向こうには細長い塔まで建っており、窓のいくつかから青白い光や薄い煙が漏れていた。
「……あれ、爆発していませんか?」
右手の建物から鈍い音が響いた。
クロムウェルはそちらを一度見ただけだった。
「研究院では珍しくない」
「珍しくないのは問題では?」
「死者が出ない程度には管理している」
「基準が思ったより物騒です」
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しわくわくする。
研究のために建てられた場所なのだと、一目で分かったからだ。
正面玄関を入った途端、エレナはさらに足を止めた。
壁際には新旧さまざまな魔導具が並べられ、天井を走る導魔管には種類ごとに異なる刻印が入っている。廊下を行き交う人々も、貴族らしい服装より作業着や白衣姿の者のほうが多かった。
誰もが皇帝の姿を見ると道を空け、一礼する。
当然といえば当然なのだが、そのたびにエレナは自分まで背筋を伸ばしてしまった。
「陛下、本当にこちらへいらしてよかったのですか? 皆さん、かなり緊張されていますけれど」
「いつものことだ」
「それで済ませるのですね」
「私が帰れば緊張しなくなる」
「でしたら先にお帰りになるという選択肢は」
「ない。君を連れてきたのは私だ。条件を確認するところまでは付き合う」
言葉は淡々としている。
それでも、エレナにはその態度が少し嬉しかった。
誰かへ任せて終わりにするのではなく、最後まで自分で確かめる。それはクロムウェルにとって、きっと特別な親切ではなく仕事の一部なのだろう。
だからこそ信頼できる気がした。
案内されたのは中央棟の三階にある応接室だった。
中では、すでに三人の人物が待っていた。
一人は白髪交じりの髪をきっちり後ろへ撫でつけた細身の男性。もう一人は四十代ほどの女性で、袖口に細かな焦げ跡のある白衣を着ている。最後の一人は若い事務官らしく、大量の書類を抱えていた。
三人とも皇帝が入ってくると立ち上がった。
「陛下、お待ちしておりました」
「待たせたな。彼女がエレナだ」
紹介が簡潔すぎた。
エレナは慌てて頭を下げる。
「エレナ・ヴァリエと申します。本日は見学の機会をいただき、ありがとうございます」
白髪の男性が穏やかに微笑んだ。
「研究院長のオルディスです。あなたのお名前は、陛下から何度も聞いております」
「何度も?」
思わずクロムウェルを見る。
「必要な情報共有だ」
「どの程度の情報を共有されたのか、少し不安になってきました」
白衣の女性が吹き出しかけ、咳払いで誤魔化した。
「私は開発部門を預かるミレイアです。今日はあなたに使っていただく予定の工房もご案内します」
「使っていただく予定の……?」
エレナが首を傾げると、ミレイアは当然のように答えた。
「専用工房ですよ」
「本当にあるんですか」
「陛下から聞いていませんか?」
「聞きましたけれど、私はもう少し小さな作業机くらいのものを想像していました」
「それを専用工房とは呼ばないだろう」
クロムウェルが横から言う。
「私が今まで使っていた場所は、そのくらいでした」
その一言で、部屋の空気がほんの少し変わった。
だが、クロムウェルは何も問い返さなかった。
「先に見たほうが早い」
案内された工房は、中央棟から渡り廊下でつながった別棟にあった。
ミレイアが扉を開ける。
「こちらです」
エレナは中へ入り、そのまま立ち尽くした。
「……ここ全部ですか?」
「はい」
「この部屋全部?」
「正確には隣の素材庫と、奥の小型実験室も専用区画に含まれます」
聞き間違いではなかったらしい。
広い。
とにかく広い。
中央には頑丈な作業台が四台あり、それぞれに固定器具と魔力測定器が備え付けられている。壁一面には工具棚が設けられ、奥には精密加工機まで置かれていた。
エレナは思わず工具箱を床へ置き、最も近い測定器へ歩み寄った。
「これ、六系統同時測定型ですよね?」
「ご存じですか?」
「本でしか見たことがありません。王国では王立研究所に一台しかないと聞いていました」
「ここには三台あります」
「三台」
同じ言葉を繰り返した。
少し離れたところで、クロムウェルが腕を組んでいる。
「足りないか?」
「そういう問題ではありません」
「必要なら増やせる」
「増やさなくて結構です。これ以上あっても私の腕は二本しかありません」
ミレイアがとうとう笑った。
「陛下、その調子で設備を増やすと、彼女が使う前に工房が測定器で埋まりますよ」
「必要なものは揃えると言っただけだ」
「陛下の『必要』は規模が大きすぎるんです」
どうやら研究院では、皇帝へこのくらいのことを言える者もいるらしい。
エレナは少し安心した。
工房の奥へ進む。
工具棚を開けば、精密用の鑿や刻印針が太さごとに並び、引き出しには魔力を通しにくい特殊合金のピンセットまで揃っている。
夢のようだった。
けれど同時に、怖くもなる。
ここまで与えられて、期待に応えられなかったらどうする。
ガイウスの工房で自分が優秀に見えたのは、周囲の技術水準が低かっただけかもしれない。
帝国最高峰の研究者たちの中へ入れば、たいしたことのない職人だと分かるかもしれない。
エレナは新しい作業台の縁を指先でなぞった。
「……本当に、私が使っていいのでしょうか」
思ったままが口から出た。
ミレイアが不思議そうな顔をする。
「もちろんです。そのために整えましたから」
「でも、私はまだ何もしていません」
成果も出していない。
この国のために何かを作ったわけでもない。
それなのに専用工房を与えられるというのは、エレナにとって落ち着かない話だった。
クロムウェルが静かに答える。
「何もしていない人間に用意したつもりはない。私はすでに君の作品を見ている」
「あれは、以前の工房で作ったものです」
「作った場所が変われば、君の技術まで別人のものになるのか?」
「そういうわけでは……」
「なら問題ない」
簡単に言われてしまった。
エレナが反論を探している間に、ミレイアが隣の素材庫を開けた。
今度こそ声が出なかった。
棚には青晶石、紅魔石、銀導鉱をはじめとする一般素材だけでなく、これまで価格が高すぎて試したことすらない希少素材まで並んでいる。
「全部使っていいのですか?」
「申請は必要ですが、研究目的なら基本的には」
「この純度の白輝晶も?」
「ええ」
「こちらの銀導鉱も?」
「もちろん」
エレナは黙り込んだ。
頭の中で、試したかった構造が次々に浮かんでくる。
青晶石では熱に耐えられなかった回路。
銀導鉱を一部に使えば、もっと細くできるかもしれない。白輝晶との組み合わせなら、出力を落とさず安定性を上げられる可能性もある。
気づけば、さきほどまでの不安より好奇心のほうが勝っていた。
「エレナ」
クロムウェルに名前を呼ばれ、我に返る。
「今、頭の中で何を作っていた?」
「……分かりますか?」
「十分近く、同じ棚を見ていた」
そんなに経っていたらしい。
「少し試したいことができました」
「そうなると思った」
クロムウェルの声音に、ほんのわずかな満足が混じっていた。
その後、二人の若い技師を助手候補として紹介された。
一人は魔力測定を専門とする青年で、もう一人は素材加工を得意とする女性だった。
エレナは慌てて首を振った。
「待ってください。私に助手なんて必要ありません」
「どうして?」
ミレイアが尋ねる。
「今まで全部一人でやっていましたから。材料の整理も、計測も、加工も、記録も」
「一人で?」
「はい」
「納品前の検品は?」
「それも私です」
「研究記録の清書や在庫管理は?」
「それも……」
ミレイアの顔から、徐々に笑みが消えていく。
「それでは研究時間が削られませんか?」
「削られますけれど、そういうものだと思っていました」
「そういうものではありません」
今度はかなり強く言われた。
エレナは思わず背筋を伸ばす。
「少なくとも、この研究院では専門外の雑務だけで技師を潰すようなことはしません。もちろん自分の道具の管理くらいはしていただきますが、あなたにしかできない仕事へ集中してもらうために助手がいるんです」
エレナは、二人の助手候補へ目を向けた。
仕事を奪われるような妙な居心地の悪さがある。
同時に、そんな働き方が許されるのかという驚きもあった。
「慣れるまで時間がかかると思います」
「それでいいですよ」
素材加工を担当する女性が笑った。
「こちらも、あなたがどういう手順で仕事をする方なのか知るところからです。いきなり全部任せろとは言いません」
その言葉に、エレナはようやく小さく頷いた。
「では……よろしくお願いします」
自分一人で抱えなくてもいい。
それだけのことが、ひどく新鮮だった。
工房の見学を終えると、再び応接室へ戻った。
今度はいよいよ契約の話だった。
若い事務官が机の上へ数枚の書類を並べる。
「こちらが仮採用期間を含む雇用条件です。業務内容、研究成果の権利、休暇、機密保持、退職時の条件まで記載しておりますので、必ずすべてお読みください」
「はい」
エレナは真剣に読み始めた。
成果物の著作者名は原則として実際の開発者を記録する。
個人研究から派生した技術については、研究院と開発者双方に一定の権利を認める。
無断で成果を別人名義へ変更することは禁止。
その項目を見つけたとき、指が止まった。
クロムウェルが言っていたことが、ただの慰めではなく契約書に明記されている。
少しだけ胸が熱くなった。
そのまま読み進め、最後に給与欄へ辿り着く。
そこでエレナの目が止まった。
もう一度読む。
桁を数える。
念のため、最初から数え直した。
「……あの」
事務官が顔を上げる。
「はい」
「ここ、数字が間違っています」
室内が静かになった。
事務官は書類を覗き込む。
「どちらでしょう?」
「年俸です。一桁多いと思います」
「多くありません」
「いえ、多いです」
「規定通りですが」
「規定がおかしいのでは?」
事務官が困ったように院長を見た。
オルディスは眼鏡の位置を直しながら答える。
「特別技術職としては、むしろ標準的な範囲ですよ」
「標準?」
「はい」
エレナは再び数字を見る。
ガイウスの工房で一年間にもらっていた生活費の、優に十倍を超えている。
しかも住居は別途用意されると書いてある。
研究に必要な材料費も別。
頭がおかしくなりそうだった。
「こんなにもらえません」
「なぜだ?」
クロムウェルが尋ねた。
「なぜって……働いた分以上のお金を受け取るのは困ります」
「君は自分の労働価値をいくらだと思っている?」
予想していなかった質問だった。
「それは……」
答えに詰まる。
これまで、自分の仕事へ価格をつけたことがなかった。
工房はガイウスのもの。
売上もガイウスが管理していた。
エレナには毎月、衣食に必要な金額が渡され、それで足りていた。
「以前は、いくらもらっていた?」
「陛下」
聞かれて、なぜか言いたくなくなった。
恥ずかしいという感情が先に立った。
自分があまりに安く働いていたと、ここへ来てようやく分かり始めている。
「答えたくないなら構わない」
クロムウェルは無理に聞こうとはしなかった。
その態度が、かえってエレナの意地を刺激した。
「……これくらいです」
書類の余白へ、これまで一月にもらっていた金額を書いた。
事務官が見る。
ミレイアも見る。
オルディスも見る。
誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙が、一番つらかった。
「住居費は別に?」
ミレイアが慎重に尋ねる。
「工房に住み込んでいましたので、部屋はありました」
「では食費や衣服代を引いた純粋な給与が、この額ということですか?」
「……給与という扱いではなく、生活費でした」
「生活費?」
「婚約していたので、いずれ夫婦になれば工房の利益は二人のものになるから、今は細かく分ける必要がないとガイウス様が……」
そこまで話して、エレナは自分の言葉が急にひどく愚かに聞こえた。
当時は納得していた。
夫婦になるのだから。
二人で工房を大きくしているのだから。
今だけ自分の名前で給金を受け取らなくても、何も問題はないと思っていた。
部屋の空気が重くなった。
クロムウェルだけは何も言わない。
その静けさが妙に怖くて、エレナはそちらを見た。
表情は変わっていない。
けれど、馬車で話していたときとは違う。
机の上に置かれたクロムウェルの指が、いつの間にかぴたりと動きを止めていた。
「念のため聞く」
低い声だった。
「君が設計した魔導具が売れた場合、売上に応じた報酬は?」
「ありません」
「新製品の開発報奨金は?」
「ありません」
「特許使用料に相当するものは?」
「特許はガイウス様の工房名義でしたので……」
クロムウェルが黙った。
エレナは何となく居心地が悪くなり、余計なことまで付け加える。
「でも、私も納得していたんです。本当に。無理やり奪われたわけではありませんし、婚約者だったので、工房が成功すれば将来は私にも返ってくると思っていました」
「だから、君が悪いと?」
「そこまでは言っていません」
「なら、彼を庇う必要もない」
声を荒らげてはいない。
それなのに室内の温度が下がったように感じた。
「私は君に、過去を全部否定しろと言ったつもりはない。君が彼を信じたことまで間違いだったとは言わない」
クロムウェルは一度言葉を切った。
「だが、信頼されていることと、その信頼を利用して正当な対価を払わないことは別だ」
エレナは返事ができなかった。
分かっていたはずなのに。
誰かにそう言われると、胸が痛んだ。
ガイウスを庇いたいわけではない。
ただ、自分まで馬鹿だったと認めるようで嫌だったのだ。
「……私も、何も考えていなかったわけではないんです」
「分かっている」
「結婚したら、ちゃんと話そうとは思っていました。研究に使えるお金を少し増やしてほしいとか、私の名前も商品に小さく載せてもらえないかとか。でも、今は工房を大きくする時期だから、わがままを言うのは後でいいと思って……」
自分で口にしているうちに、情けなくなってきた。
後で。
いつか。
結婚したら。
そんな言葉ばかりだ。
クロムウェルは責めなかった。
「今後は、後回しにするな」
「え?」
「条件に納得できなければ言え。設備が足りなければ申請しろ。名前を出したくない研究なら、それも相談すればいい。君の仕事について決めるとき、君自身が話し合いの席から外されることはない」
エレナは契約書へ目を落とした。
そこには、先ほどまで多すぎると思っていた金額がある。
「でも、やはりこの給料は……」
「少ないか?」
「なぜ増やす方向へ行くんですか」
「先ほどから聞いている限り、君の金銭感覚を基準にすると危険だと判断した」
ミレイアがとうとう口元を押さえた。
院長まで咳払いをしている。
エレナは少し頬が熱くなった。
「私だって、物の値段くらい分かります」
「では、自分の値段だけ分かっていないらしい」
その言葉には、からかいだけではないものがあった。
エレナは一瞬、返せなくなる。
「人に値段をつけるような言い方は好きではないが、仕事には対価が必要だ。少なくとも、君が食事と材料費を天秤にかけるような働かせ方をするつもりはない」
「……材料費を選んでいたことまで、なぜ分かったんですか」
「やっていたのか?」
しまった。
クロムウェルの眉間に、今度こそはっきり皺が寄った。
「たまにです」
「エレナ」
「本当にたまにです。高価な素材が必要なときだけで、食事を一回抜くくらいなら問題ないかと」
「問題だ」
「でも、結果的に試作品は完成しました」
「君が倒れたら誰が続きを作る」
「……私です」
「倒れている人間がか?」
「治ってから」
「却下だ」
皇帝に何を却下されたのか分からなかったが、エレナはそれ以上反論できなかった。
叱られている。
なのに、不思議と嫌ではない。
もっと自分を大事にしろと言われたことが、これまでほとんどなかったからかもしれない。
クロムウェルは事務官へ顔を向けた。
「食堂の利用条件も説明しておけ」
「承知しました」
「待ってください。そこまで管理されるのですか?」
「食べるかどうかまで監視するつもりはない。ただし、研究費と食費を同じ財布から出す必要がないことは理解してもらう」
エレナは何とも言えない顔になった。
ミレイアが小さく笑う。
「諦めたほうがいいですよ。陛下は合理性を理由にすると、かなり頑固ですから」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言いました」
どうやら、この研究院では皇帝も苦労しているらしい。
そう思うと、張り詰めていたものが少し緩んだ。
エレナはもう一度、契約書を最初から読み直した。
給与。
休暇。
研究成果の権利。
退職の自由。
すべてが書かれている。
口約束ではない。
ガイウスを信じたことを後悔したくはなかった。
でも、信頼しているから契約など必要ないという考え方が、どれほど危うかったのかは、今なら少し分かる。
「一つ、確認してもいいでしょうか」
「何だ」
「もし私が、陛下の期待ほど優秀ではなかった場合はどうなりますか?」
部屋の中が静かになった。
それは帝都へ着いてからずっと、エレナの胸の奥にあった不安だった。
クロムウェルはすぐには答えなかった。
「それを決めるためにも、まず働いてみればいい」
「それだけですか?」
「ああ。失敗したら原因を調べる。技術が足りなければ学ぶ。研究とはそういうものだろう」
「……失望されないんですか?」
「成果が出ないことと、努力や能力まで無価値になることを混同するつもりはない」
あまりにも自然に言われた。
エレナは契約書を見つめたまま、しばらく動けなかった。
失敗してもいい。
その言葉自体を言われたわけではない。
けれど、そういう意味だった。
ガイウスの工房では、失敗すれば材料費を無駄にしたと思った。だからなるべく一度で成功させようとし、夜遅くまで机に向かっていた。
ここなら。
失敗しても、その失敗を次へ使えるのだろうか。
「……署名します」
エレナはペンを取った。
自分の名前を書く。
エレナ・ヴァリエ。
これまで何百枚もの設計図へ小さく記してきた名前なのに、今日はまったく違って見えた。
事務官が契約書を受け取り、内容を確認する。
「確かに受領いたしました。本日付で、帝国国立魔導研究院特別技術職として仮採用となります」
「よろしくお願いします」
エレナは頭を下げた。
ミレイアと院長も、それぞれ歓迎の言葉を返してくれる。
クロムウェルだけは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「では、住居へ案内させよう。明日は休め」
「え?」
「何だ」
「明日から工房を使っていいのでは?」
「使っていいとは言ったが、今夜着いた人間へ翌朝から働けとは言っていない」
「でも、白輝晶を少し試したくて」
「明後日にしろ」
「一時間だけでも」
「駄目だ」
「陛下」
「駄目だ」
取りつく島もない。
エレナは不満だったが、周囲を見ると誰も助けてくれそうになかった。むしろミレイアなど、笑いを堪えるのに苦労している。
「分かりました。明日は休みます」
「そうしろ」
「その代わり、明後日は朝から使います」
「好きにすればいい」
「夜までいても?」
「研究院の規則の範囲内ならな」
「では決まりです」
気づけば、エレナは笑っていた。
仕事を始めるのが待ち遠しい。
そんな気持ちは久しぶりだった。
これまでも魔導具を作ること自体は好きだった。
けれどいつからか、新しいものを作る喜びより、納期や売上やガイウスの期待に応えることばかりを考えるようになっていた。
今は違う。
あの素材を使ったらどうなるだろう。
あの測定器なら、これまで確認できなかった細かな魔力損失まで測れるかもしれない。
考え始めると止まらなかった。
「エレナ」
「はい?」
「今度は何を作っている」
クロムウェルに問われ、エレナは少し迷ったあと答えた。
「魔導灯です」
「またか?」
「はい。でも、今までのものとは違います」
先ほど見た白輝晶と銀導鉱。
帝国の測定設備。
頭の中では、すでに新しい魔力経路の形が組み上がり始めている。
「今の構造なら、まだ魔力を無駄にしています。たぶん……もっと減らせます」
「どの程度だ?」
「試してみなければ分かりません」
以前なら、確実に成功すると分かるまで口にはしなかった。
けれど今は、失敗しても次に進めばいいと思える。
「ただ、うまくいけば――」
エレナは少しだけ笑った。
「今までの十分の一くらいの魔力で、同じ明るさを出せるかもしれません」
応接室が静まり返った。
院長が眼鏡を外し、ミレイアが目を見開く。
「エレナさん」
「はい」
「明日は本当に休んでください」
「なぜミレイア様まで陛下側に回るんですか?」
「明後日から忙しくなりそうだからですよ」
その返事を聞いて、エレナは自分がとんでもないことを言ったらしいとようやく気づいた。
けれどクロムウェルだけは驚いた様子を見せず、静かに彼女を見ていた。
「十分の一か」
「まだ仮説ですよ」
「ああ。だから確かめればいい」
それだけだった。
無理だとも、大げさだとも言わない。
エレナの胸が、また少しだけ軽くなる。
明後日、この国で初めて自分のための作業台へ向かう。
そこで何が作れるのかは、まだ分からない。
ただ、これまでずっと誰かの名前の陰で磨いてきた技術を、ようやく自分の名前で試せるのだ。
そのことを考えるだけで、今夜は眠れそうになかった。




