第2話 冷徹皇帝は、私の作品を覚えていた
「……条件を、詳しく聞かせていただけますか」
エレナがそう答えると、クロムウェルはようやく差し出していた手をわずかに動かした。
「もちろんだ。だが、その前に馬車へ乗れ。このまま話していたら、君が風邪をひく」
「あ……」
言われて初めて、自分が髪の先から外套までずぶ濡れになっていることを思い出した。工具箱だけは外套で包んで守ったものの、その代わり肩も腕もすっかり冷えている。
クロムウェルは当然のようにエレナから工具箱を受け取ろうとしたが、彼女は反射的に抱き込んだ。
「これは自分で持ちます」
「取るつもりはない。馬車へ運ぼうと思っただけだ」
「……すみません」
「謝ることでもない。大事な物なのだろう」
その言い方には、からかいも呆れもなかった。
エレナは少しだけ迷ってから工具箱を渡した。クロムウェルは重さを確かめるように一度持ち直したものの、何も言わず大切そうに馬車の中へ置く。
その扱い方を見ただけで、胸の奥に妙な安心感が生まれた。
馬車の内部は外見以上に豪華だった。深い色の布張りの座席、足元には厚い絨毯が敷かれ、壁には揺れを抑えるための魔導術式が組み込まれている。
エレナは腰を下ろすより先に、その術式へ目を奪われた。
「これ……車輪の衝撃吸収だけではなく、車体側でも揺れを逃がしているんですね」
思わず身を乗り出すと、向かいへ座ったクロムウェルの眉がわずかに上がった。
「気づくのが早いな」
「すみません。つい」
「なぜ謝る?」
「皇帝陛下の馬車に乗せていただいて、最初に見るところが内装ではなく魔導術式というのも、失礼かと思いまして」
「私には、そのほうが好ましい」
あまりに真顔で言われたため、エレナは返答に困った。
冷徹皇帝。
その呼び名から想像していた人物とは、どうにも少し違う気がする。
もっとも、たった数分話しただけで相手を分かったつもりになるのも危険だ。なにしろ目の前にいるのは、一国を統べる皇帝である。
エレナが姿勢を正すと、クロムウェルは備え付けられていた布を差し出した。
「髪を拭け」
「ありがとうございます」
「それから、私に対して必要以上に畏まらなくていい。公式の場では困るが、今は君を臣下として呼びつけているわけではない」
「そう言われましても、皇帝陛下ですよね」
「私が皇帝であることは、今夜中には変わらないだろうな」
「そういう意味ではありません」
思わず言い返してしまい、エレナは口を閉じた。
クロムウェルの口元が、ほんの少し動いたように見えた。
笑ったのだろうか。
それを確かめる前に、馬車が静かに走り出した。
雨粒が窓を流れていく。先ほどまで立っていた工房の明かりが遠ざかっていくのを見て、エレナの胸に一瞬だけ痛みが戻った。
あそこに何年いたのだろう。
明日から来なくていい。
ガイウスは簡単にそう言った。
自分も簡単に「分かりました」と答えた。
けれど、遠ざかる建物を見ていると、そこで過ごした年月まで一緒に消えてしまうわけではないことを思い知らされる。
「戻りたいか?」
不意にクロムウェルが尋ねた。
エレナは驚いて振り返った。
「分かりますか?」
「先ほどから三度、後ろを見た」
「……見ないふりをしてくださってもよかったのに」
「私は、分からないものを分からないままにしておくのが嫌いでな」
実にこの人らしい返事なのだろう。
エレナは濡れた髪を布で拭きながら、少し考えた。
「戻りたいわけではありません。ただ……悔しいんです。あそこにいた時間が嫌だったわけではないので」
「そうか」
「もっと早く辞めればよかったとも思いません。楽しいこともありましたし、完成した魔導具が初めて動いた夜なんて、ガイウス様と二人で朝まで喜んだこともあります。だから今日のことだけで、全部が嘘だったと思いたくはないんです」
口にすると、思っていたより胸が痛んだ。
ガイウスを嫌いになれれば楽なのだろう。
けれど、人の感情は魔導具の壊れた部品のように、不要になったからと取り外せるものではない。
「でも、戻りません」
エレナは自分に言い聞かせるように続けた。
「今日、あの人が私の仕事をどう見ていたのか分かりました。それでも戻るなら、たぶん私はこれから先も同じことを繰り返します」
クロムウェルはしばらく黙っていた。
それから、静かに頷く。
「その判断なら、私は尊重する」
「引き留めないのですね。今ここで『そんな男は忘れろ』くらい言われるのかと思いました」
「なぜ私が、君の過去の価値まで決める?」
エレナは返事ができなかった。
「君が大切だったと言うなら、大切だったのだろう。今日彼が愚かな判断をしたことと、過去に君が感じたものまで無価値になることは別だ」
その言葉が、思いのほか深く胸へ入ってきた。
慰められているのに、慰められている気がしない。無理に前向きにさせられているわけでもない。ただ、自分の感情をそのまま置いていいと言われたような気がした。
それがありがたかった。
「陛下は……意外と優しいのですね」
「それは初めて言われた」
「でしょうね」
「即答するのか」
「冷徹皇帝と呼ばれている方ですから」
「本人の前でそれを言う人間も珍しい」
今度こそ、クロムウェルはわずかに笑った。
ほんの一瞬だったが、冷たく整った顔立ちから緊張が抜けると、驚くほど若く見える。
エレナはつられて笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。
「それで、本題なのですが」
「ああ。そうだったな」
「忘れていらしたんですか?」
「君が先に馬車の術式へ興味を持つからだ」
「私のせいですか」
「半分ほどは」
この人、本当に皇帝なのだろうか。
そんな疑問が浮かびかけたが、さすがに口にはしなかった。
クロムウェルは座席脇に置かれた革鞄から、小さな金属製の筒を取り出した。
「これを覚えているか?」
掌に乗せられたのは、小型魔導灯だった。
外装には細かな傷がつき、かなり使い込まれている。しかし、その形には見覚えがあった。
「……うちの工房の商品です」
「正確には、元いた工房の商品だな」
「まだ慣れません」
エレナは受け取って側面を確認した。
初期型だ。
今夜発表された新型より一世代前のもので、それでも当時としてはかなり小型化できた自信作だった。
「これ、陛下が買われたんですか?」
「ああ。半年前、身分を隠して王国の魔導具市場を視察したときにな」
「皇帝陛下自ら?」
「報告書だけでは分からないことがある。特に技術に関してはな」
クロムウェルはエレナの手にある魔導灯へ目を向けた。
「宿へ戻ってから分解した」
「分解したんですか?」
「悪いか?」
「いえ。私も初めて見る魔導具なら同じことをしますので、何も言えません」
「なら問題ない」
やはり妙に話が合う。
エレナは魔導灯を裏返し、小さな留め具を指でなぞった。
「これを見て、私を?」
「正確には、中の魔導核を見てだ」
クロムウェルの声から、先ほどまでのわずかな冗談めいた響きが消えた。
「帝国にも、小型の魔導核を研究している技師はいる。しかし小さくすれば魔力経路が狭まり、通常は出力が落ちる。無理に出力を上げれば発熱して寿命が縮む。それが常識だ」
「はい」
「ところが、これは違った。小型化されているのに出力が落ちていない。それどころか、同規模の製品より安定していた。最初は素材が特殊なのかと思った」
「普通の青晶石です」
「調べれば分かった。それで余計におかしいと思った」
エレナは魔導灯を見つめた。
そんなふうに評価されたのは初めてだった。
ガイウスからは「また小さくできたのか。じゃあ商品にしよう」と言われただけだ。
商人たちは「場所を取らないから売りやすい」と喜んだ。
客は「前より長持ちする」と褒めてくれた。
それも嬉しかった。
けれど、どうしてこの形になったのか、何が難しかったのかを理解した上で褒められたことはなかった。
「それで、工房へ?」
「ああ。私はガイウスに尋ねた。この核の魔力路をどう圧縮したのか、と」
嫌な予感がした。
「……何と答えました?」
「『企業秘密です』」
エレナは頭を抱えそうになった。
「それだけなら、まだ不自然ではない」
「では、何が?」
「次に聞いた。発熱した魔力をどの経路で逃がしているのか、と」
「はい」
「彼は『特殊な触媒を使っている』と言った」
エレナはとうとう片手で顔を覆った。
「使っていません」
「知っている。分解したからな」
「申し訳ありません。なぜか私が恥ずかしくなってきました」
「まだあるぞ」
「もう聞きたくない気もします」
「最後に、魔力路の刻印を誰が行っているのか尋ねた。そこで彼は奥にいた君を呼んだ」
エレナは手を下ろした。
記憶が戻ってくる。
確かあの日、ガイウスから突然「おい、これの説明をしてやってくれ」と呼びつけられた。
作業の途中だったため、エレナは革の前掛けを着けたまま客の前へ出た。
青年にいくつか質問され、魔力路の幅を一定にするだけでは駄目で、素材の結晶方向に合わせて一部だけ流量を変えている、と説明した。
すると彼は、さらに細かな質問を重ねてきた。
楽しかった。
珍しく、自分の作った物そのものについて話せる客だったからだ。
「あの時点で確信した」
クロムウェルが言った。
「作ったのはガイウスではない。君だと」
エレナの指が止まった。
「そんなに、はっきり分かるものですか?」
「分かる」
迷いのない返事だった。
「知識を暗記した人間と、実際に何十回も失敗した人間では、話し方が違う。君は私が聞く前に、初期型で起きた発熱の問題まで説明した。そして『ここはまだ改善できます』と言った」
「……そんなことまで覚えているんですか?」
「覚えている」
クロムウェルは平然としていた。
「私は肩書ではなく、作られた物を見る。技術は嘘をつかない。その人間がどれだけ考え、どれだけ試し、どこで失敗したのか、完成品には痕跡が残る」
エレナは何も言えなかった。
魔導灯を握る手に、力が入る。
今夜ガイウスに「細かい部品を弄っているだけ」と言われたとき、胸のどこかが折れかけた。
自分だけが、自分の仕事を大層なものだと思い込んでいたのではないか。
そんな疑いが、ほんの少しだけ生まれていた。
けれど目の前の男は、その仕事の難しさを、エレナ自身より丁寧な言葉で説明している。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけ言えた。
「礼を言われる理由が分からない。事実を述べただけだ」
「それでもです」
声が少し震えた。
エレナは誤魔化すように魔導灯をクロムウェルへ返した。
「私には、必要な言葉でした」
クロムウェルは何も追及しなかった。ただ魔導灯を受け取り、大切そうに革鞄へ戻した。
「だから君の動向を調べていた」
「そこなのですが」
「何だ」
「少し怖いです」
エレナが率直に言うと、クロムウェルは黙った。
「皇帝陛下が半年も私を調べていらしたと聞けば、普通は少し怖いと思います」
「それは……確かに説明が不足していたな」
意外にも素直に認めた。
「君個人の生活を監視していたわけではない。帝国にとって価値のある技術者として、公開されている情報と工房の商取引を調べさせていた。それ以上はしていない」
「なぜ直接声をかけなかったのです?」
「君には婚約があり、工房との関係もあったからだ」
「それが理由ですか?」
「他国で雇用されている技術者を皇帝が直接引き抜けば、ただの転職では済まない。外交問題になる。それに――」
クロムウェルはそこで一度言葉を切った。
「君自身が望んで残っている可能性もあった。技術が欲しいからといって、本人の事情を無視して連れていくつもりはない」
エレナはゆっくり瞬きをした。
今夜。
ガイウスは、エレナがどう思うかなどほとんど聞かなかった。
婚約を破棄する。
工房から追い出す。
必要ない。
すべて決めてから告げられた。
それに対して、冷徹と恐れられる皇帝は、半年も前から技術を評価していたのに、エレナ自身が選べる状況になるまで待っていたという。
何だか皮肉だった。
「ですから、あの工房を辞めたと聞いて、すぐに来られたのですね」
「そうだ」
「……早すぎませんか?」
「近くにいた」
「最初から今日のことをご存じだったんですか?」
「ガイウスが今夜、婚約者を替えるつもりらしいという情報は入っていた」
「婚約者を替えるって、部品みたいに言いますね」
「私が言ったのではない」
「分かっています」
エレナは思わず笑った。
今夜初めて、無理に作ったものではない笑いだった。
それに気づいた途端、少しだけ恥ずかしくなる。
「それで、雇用条件ですが」
クロムウェルは本題へ戻した。
「帝国国立魔導研究院の特別技術職として迎えたい。身分は成果に応じて正式に決めるが、研究内容については可能な限り君の裁量を認める。専用工房、助手、材料、測定設備も用意する」
「待ってください」
「何だ」
「専用工房?」
「ああ」
「助手も?」
「必要だろう」
「材料も?」
「研究するのに材料なしでどうする」
エレナはだんだん不安になってきた。
あまりにも待遇が違いすぎる。
「もしかして私、帝国へ行ったら何か恐ろしい兵器を作らされるのではありませんか?」
「その発想になるのか」
「だって話がうますぎます」
「警戒心があるのは悪くない」
クロムウェルは少し考えてから続けた。
「軍事研究を頼む可能性はある。ただし、君が嫌なら拒否して構わない。私は技術者を使い潰してまで成果を得る趣味はない」
使い潰す。
その言葉が妙に胸に引っかかった。
「それと、契約書は必ず読んでから署名しろ」
「もちろんです」
「今日のようなことが二度と起きないよう、君自身が条件を理解したうえで決めるべきだ」
エレナは目を伏せた。
自分が思っていた以上に、今日のことをこの人は見ていたのかもしれない。
「今すぐ返事をしなくても?」
「構わない」
「明日になって断っても?」
「構わない」
「帝国まで行って、やっぱり合わないと思ったら?」
「契約に定めた期間を守れば辞められる」
あまりにも当たり前の返答が続くので、逆に拍子抜けしてしまう。
「……自由なんですね」
「働くとは、本来そういうものだろう」
クロムウェルにとっては、本当にそれが当然なのだろう。
エレナには、その当然が眩しかった。
窓の外では雨が少し弱くなっていた。
工房の灯りはもう見えない。
代わりに、王都の門へ続く街道が前方へ伸びている。
戻ろうと思えば、まだ戻れる。
明日の朝、ガイウスのもとへ行き、「やはり残してください」と頼むことだってできる。
けれど、その未来を想像しても、胸は少しも動かなかった。
エレナは自分の膝の上に置いた手を見つめた。
この手で、もっと作れるだろうか。
誰かの名前ではなく、自分の名前で。
失敗しても笑われず、成功したら誰かの手柄にされることもなく、思う存分魔導具を作れるのだろうか。
そんな場所が本当にあるのなら。
「陛下」
「何だ」
「まだ正式なお返事ではありません」
「ああ」
「でも、帝国を見てみたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軽くなった。
「研究院も、工房も。それから……私の技術が本当にどこまで通用するのか、自分の目で確かめたいです」
クロムウェルはしばらくエレナを見ていた。
やがて静かに頷く。
「それで十分だ」
「もっと喜ばれないのですか?」
「君がまだ契約書を読んでいない」
「そこを気にするんですね」
「重要だ」
エレナは堪えきれずに笑った。
するとクロムウェルも、わずかに口元を緩めた。
「ただ、一つだけ約束しよう」
「何でしょう」
「君が自分の価値を確かめたいというなら、その機会はいくらでも与える」
青灰色の瞳が、真っ直ぐにエレナを見る。
「少なくとも私の国では、君の成果を他人の名前で発表させるつもりはない」
胸の奥が大きく揺れた。
エレナは返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
今夜、失ったものは多い。
婚約者も、仕事も、住む場所も失った。
けれど不思議なことに、馬車が王都から離れていくほど、何もなくなったとは思えなくなっていた。
むしろ今まで他人の名前の陰へ置いてきたものを、一つずつ取り戻しに行くような気がする。
エレナは窓の外へ目を向けた。
雨雲の切れ間から、かすかに月の光が差し始めている。
そしてそのとき初めて、自分は工房を追い出されたのではなく、そこから出てきたのかもしれないと思った。




