第29話 皇帝陛下、好きになってもらう努力の方向が少し変です
国家魔導技師長になってから、エレナには一つだけ困っていることがあった。
仕事が増えたことではない。
それも確かに困ってはいるが、補佐官が書類を選別してくれるようになり、研究室でも作業を分担するようになったので、想像していたほど破綻はしていない。
問題は、クロムウェルが以前に宣言した言葉だった。
『好きになってもらう努力まで禁止されるつもりはない』
あれから数日。
エレナは、いったい何をされるのだろうと少しだけ警戒していた。
花だろうか。
宝石だろうか。
どこかへ食事に誘われるのかもしれない。
相手は皇帝である。
本人は権力で押しつけるつもりなどないと言っていたが、何をするにしても普通の規模では済まないのではないかという心配があった。
そして、その予想はある意味で当たった。
「主任、これ」
午前中。
リナが一枚の書類を持ってきた。
「何でしょう」
「設備申請の決裁です」
「もう?」
エレナは手を止めた。
数日前、研究院へ新しい測定器の導入申請を出したばかりだった。
治癒魔法保存器の長時間保存試験では、これまでの測定器だと微細な波形変化を追うのに限界がある。
特に、五十時間を越えたあとに起きるごく小さな乱れを見たい。
そのため、高精度魔力波形測定器を申請した。
値段は高い。
かなり高い。
エレナ自身、申請書を書きながら三度ほど金額を確認した。
「予算審査、こんなに早かったんですか?」
「それが」
リナが書類を机へ置く。
「研究院だけじゃなくて、国家技術予算の共通設備枠から出ることになったみたいです」
「共通設備枠?」
「はい。精密魔導核研究室だけの専用品じゃなくて、医療研究や軍用回路試験でも使えるから、共同設備にしたほうがいいって」
エレナは決裁書を見る。
確かに。
自分の申請した機種そのものではなく、より大型で複数部門が使える仕様になっている。
「……上位機種ですね」
「主任が欲しいって言ってたものより、かなり良いやつです」
「誰が変更したんでしょう」
「技術審査欄に院長と軍研究部と中央治療院。予算承認欄が……」
リナの指が一番下へ移動する。
エレナも見る。
そこに、見慣れた署名があった。
『クロムウェル・アルヴァレス』
エレナはしばらく黙った。
「主任?」
「これ」
「はい」
「陛下ですよね」
「どう見ても」
「まさか」
嫌な予感がした。
いや、嫌というほどではない。
むしろ。
かなり困る種類の予感だった。
「好きになってもらう努力って……これですか?」
リナが固まった。
「え?」
しまった。
エレナは口を押さえた。
「今の忘れてください」
「無理です」
「忘れてください」
「陛下が主任に、好きになってもらう努力を?」
「リナさん」
「そういう話になってるんですか?」
「研究へ戻りましょう」
「無理です」
今度はリナが言った。
近くにいた若い測定技師まで、聞いていないふりをしながら明らかに手を止めている。
「皆さん、聞かなかったことにしてください」
「もう遅いです」
リナは妙に真剣な顔になった。
「それで、陛下は好きになってもらうために測定器を買ったんですか?」
「まだそうと決まったわけではありません」
「でも今、主任がそう言ったじゃないですか」
「確認します」
「誰に?」
「本人にです」
即答すると、リナが少し笑った。
「主任、そこは強いですね」
「何がです?」
「普通なら、贈り物をもらったのかなって照れて終わるところなのに」
「これ、国家予算ですよ?」
「確かに」
「もし私情で通したなら、かなり問題です」
「そこから入るんですね」
当然だと思う。
エレナはもう一度書類を見る。
審査欄は正式だ。
複数部門の利用予定。
費用対効果。
既存設備との差。
全部書かれている。
だからこそ、余計に分からない。
その日の午後。
クロムウェルが研究院へ来ると聞き、エレナは会議が終わるのを待っていた。
待っていたというより、捕まえた。
「陛下」
廊下へ出てきたクロムウェルへ声をかける。
「どうした」
「お話があります」
「珍しいな。君から待っていたのか」
「はい」
少し嬉しそうな顔をする。
それだけで、エレナの胸が妙に落ち着かなくなった。
だが今は測定器の話だ。
流されてはいけない。
「高精度魔力波形測定器の件です」
「ああ」
「ご存じなんですね」
「決裁した」
「なぜです?」
クロムウェルが少し首を傾げる。
「必要だったからだろう?」
「そうですけど」
「なら問題ない」
「問題があります」
「どこに」
「私が申請したものより上位機種です」
「複数部門で共用するなら、あちらのほうが効率がいい」
「そこも分かります」
「では何が問題だ」
本人は本気で分かっていないらしい。
エレナは少し言いにくくなった。
「……好きになってもらう努力ですか?」
クロムウェルが黙った。
沈黙。
その時点で、ほぼ答えだった。
「やっぱり?」
「半分は」
「半分?」
「設備として必要なのは事実だ」
「残り半分は?」
「君が欲しがっていた」
エレナは額へ手を当てたくなった。
「陛下」
「何だ」
「それは恋愛ではなく研究支援です」
「違うのか?」
「違います」
「かなり喜ぶと思ったが」
「喜びますよ!」
思わず声が大きくなる。
「ものすごく喜びます。あの精度なら治癒魔法保存器の長時間劣化も、家庭用魔導灯の微細損失も今までより正確に測れますし、軍用回路の振動試験にも使えます」
「ならいいだろう」
「恋愛としては違います」
クロムウェルが本気で考え込んだ。
「君が最も欲しいものを用意した」
「予算で」
「正式な審査を通した」
「なおさらです」
「私物として贈ったほうがよかったか?」
「それも困ります!」
エレナは即答した。
「あんな高価なものを個人的にもらえません」
「なら国家予算で正解では?」
「話が一周しました」
そこへ、ちょうどミレイアが通りかかった。
「何を廊下で揉めているの?」
「ちょうどいいところに」
エレナは助けを求めた。
「陛下が、好きになってもらう努力として研究設備の予算を通したんです」
ミレイアの足が止まった。
それからクロムウェルを見る。
「陛下」
「何だ」
「それは口説いているのではなく、優秀な研究主任を囲い込んでいるだけです」
「囲い込んではいない」
「結果としてそう見えます」
ミレイアは呆れた顔をした。
「花とか食事とか、そういう発想はなかったんですか?」
「花は枯れる」
「そこから?」
「食事は以前からしている」
「研究室に持ってきて食べさせるのは、半分健康管理です」
「健康管理は重要だ」
「駄目です。この人、難しいわ」
ミレイアがエレナへ向く。
「頑張って」
「私が頑張るんですか?」
「受け取る側にも技術が必要そうだから」
「そんな技術、研究していません」
「新分野ね」
「嫌です」
ミレイアは楽しそうに笑い、そのまま去っていった。
残されたエレナは、もう一度クロムウェルを見る。
「陛下」
「何だ」
「測定器は嬉しいです」
「そうか」
「本当に嬉しいです」
「なら」
「でも、これは恋愛点には入りません」
クロムウェルの眉が動いた。
「点数制なのか?」
「今決めました」
「では何をすれば点が入る」
真剣に聞かれて、今度はエレナが困った。
「それを私に聞くんですか?」
「君に好きになってもらいたいのだから、本人へ聞くのが一番確実だろう」
「効率で考えないでください」
「非効率なほうがいいのか?」
「そういう話でもありません」
恋愛は本当に魔導具より難しい。
原因と結果が分かりにくい。
数値化もできない。
しかも相手は、皇帝としては極めて有能なのに、こういう部分では妙な方向へ合理的だった。
「では、好きになってもらう努力は何をするのが正しい?」
クロムウェルが聞く。
エレナはしばらく考えた。
「……普通に話すとか」
「今もしている」
「一緒に過ごすとか」
「それもしている」
「仕事ではなく」
そこまで言って、エレナは自分で少し恥ずかしくなった。
クロムウェルの目が僅かに柔らかくなる。
「仕事ではなく、か」
「はい」
「では、どこかへ出かける?」
「急に豪華なところは嫌です」
「まだ何も言っていない」
「陛下の『出かける』は宮廷晩餐会とかになりそうなので」
「さすがにそこまで鈍くはない」
「測定器を口説き文句にした人が言っても説得力がありません」
クロムウェルが少し黙った。
「それは今後しない」
「反省したんですか?」
「恋愛点に入らないなら効率が悪い」
「だから効率で考えないでください」
エレナは耐えきれず笑った。
クロムウェルも少し笑う。
その笑顔を見ていると、測定器よりこちらのほうがずっと胸に響く。
そう思った瞬間。
エレナは気づいた。
たぶん。
こういうことなのだ。
何か大きなものをもらうことではない。
ただ、二人で話して。
笑って。
その時間が少し続けばいいと思う。
「陛下」
「何だ」
「今度、仕事が早く終わった日に、少し街を歩きませんか?」
口にしたあとで、自分から誘ったことに気づいた。
急に恥ずかしくなる。
「街を?」
「はい。帝都を、まだあまりゆっくり見たことがなくて」
「護衛は必要だ」
「分かっています」
「人混みは避けたほうがいい」
「そこも」
「それなら」
クロムウェルが少し考えた。
「明日の夕方はどうだ」
「早いですね」
「空いている」
「確認済みなんですか?」
「今朝予定を見た」
「まさか、最初から何かするつもりだったんです?」
「少し」
「何を?」
クロムウェルは答えなかった。
「陛下」
「明日分かる」
「珍しく秘密にしますね」
「恋愛点を稼ぐには、少しくらい意外性が必要だと聞いた」
「誰に聞いたんですか?」
「言えない」
ものすごく不安だった。
翌日。
エレナは珍しく、研究を定時より少し早く切り上げた。
「主任、今日は早いですね」
リナがすぐ気づく。
「外へ行く予定があります」
「誰と?」
聞き方が速い。
「……陛下と」
リナの顔が輝いた。
「デートですか?」
「そこまで大げさなものでは」
「仕事です?」
「違います」
「じゃあデートです」
「決めつけないでください」
「主任」
「何です」
「顔、赤いですよ」
「知っています」
最近はもう、そこを否定する気力がない。
「それで、どこへ?」
「知りません」
「陛下に任せたんですか?」
「一応」
「大丈夫です?」
「どういう意味です?」
「測定器を口説き文句にする方ですよね」
「……少し不安になってきました」
研究院の正門を出ると、いつもの皇室用馬車ではなく、目立たない黒い馬車が待っていた。
護衛はカミラと、もう一人だけ。
クロムウェル自身も、普段の皇帝らしい正装ではなく、落ち着いた色の外套を着ている。
「陛下」
「今日は陛下と呼ばないほうがいい」
「では何と?」
「クロムウェルでいい」
いきなり難易度が高い。
「……外で?」
「無理ならそのままでいい」
「努力します」
「君も努力目標か」
「陛下にうつりました」
馬車が動き出す。
到着したのは、帝都の中心部から少し離れた商店街だった。
高級店が並ぶ場所ではない。
職人や商人、家族連れが多い普通の通り。
焼き菓子の匂い。
果物を売る声。
小さな魔導具店。
衣料品店。
エレナは窓から外を見て、少し驚いた。
「ここなんですか?」
「ああ」
「もっと……その」
「豪華な場所だと思った?」
「少し」
「君が急に豪華なところは嫌だと言った」
「覚えていたんですね」
「当然だ」
馬車を降りる。
護衛は少し離れてついてくる。
クロムウェルは歩幅をエレナへ合わせた。
それだけのことなのに。
研究院の廊下を一緒に歩くのとは違った。
「どこか目的地が?」
「ある」
「今度こそ花屋では?」
「違う」
「宝石店?」
「違う」
「測定器専門店?」
クロムウェルが足を止めた。
「それは少し考えた」
「やっぱり」
「却下した」
「成長しましたね」
「褒められている?」
「かなり」
しばらく歩くと、小さな焼き菓子店の前で止まった。
ガラス越しに、丸い焼き菓子や果実入りの菓子が並んでいる。
「ここ?」
「ああ」
「どうして?」
「以前、研究院へ持っていった昼食に入っていた焼き菓子を、君が最後まで取っておいた」
エレナは目を瞬いた。
「覚えていたんですか?」
「君は甘いものをあまり残さない」
「そんなところまで」
「好きなのかと思った」
「好きです」
素直に答えると、クロムウェルが少し安心したように見えた。
「なら入ろう」
店は小さかった。
皇帝が来るような場所ではない。
店主も、最初はクロムウェルの正体に気づいていないようだった。
二人は窓際の席へ座る。
焼き菓子と温かい紅茶。
それだけ。
エレナは、何だか拍子抜けするほど普通だと思った。
そして。
だからこそ、妙に嬉しかった。
「これが好きになってもらう努力ですか?」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
「測定器よりは正しいだろう?」
「かなり」
クロムウェルが少し得意そうな顔をした。
「恋愛点は?」
「そういう聞き方をすると減点します」
「難しいな」
「だから点数制はやめます」
「助かる」
焼き菓子を一口食べる。
外側は少し硬く、中は柔らかい。
蜂蜜と木の実の香りがする。
「おいしいです」
「そうか」
「陛……クロムウェル様は?」
一瞬つまる。
呼び捨てはまだ無理だった。
「様はつけるのか」
「いきなり全部は難しいです」
「仕方ない」
「嫌ですか?」
「いや。少しずつでいい」
その言葉に、エレナの胸が温かくなる。
何でも急がせない。
返事も。
距離も。
呼び方さえ。
「クロムウェル様」
「何だ」
「今日は、ありがとうございます」
「菓子くらいで?」
「菓子だけではありません」
エレナは少し言葉を探した。
「仕事ではない時間を作ってくださったことです」
クロムウェルは黙って聞いている。
「私、こういう時間があまりなかったので」
昔も、ガイウスと食事をしたことはある。
祭りへ行ったことも。
楽しい思い出だってある。
でも、仕事がいつもすぐ隣にあった。
注文。
納期。
工房。
将来。
今は違う。
何かを作る必要がない。
成果を出す必要もない。
ただ一緒に菓子を食べている。
「私は、こういうほうが嬉しいみたいです」
「測定器より?」
クロムウェルが聞く。
エレナは本気で悩んだ。
「……かなり難しい質問です」
「そこは即答してほしかった」
「測定器も本当に欲しかったので」
「君らしいな」
「でも」
エレナは焼き菓子を皿へ戻す。
「今日のほうが、たぶん特別です」
クロムウェルの目が僅かに見開かれた。
「そうか」
「はい」
それ以上は言わない。
まだ、自分の気持ち全部に名前をつけるには少し早い。
けれど。
この人とまたこういう時間を過ごしたい。
その気持ちは、もうかなりはっきりしている。
帰り道。
商店街の端に小さな魔導具店があった。
エレナが無意識に足を止める。
店先には新型の家庭用魔導灯が展示されている。
「見る?」
クロムウェルが聞く。
「今日は仕事ではないので」
「見るだけならいいだろう」
「でも」
「君が見たいなら入ればいい」
エレナは少し迷った。
「……五分だけ」
「十分でもいい」
「長くなります」
「知っている」
二人で店へ入った。
結局、十五分いた。
出てきたとき。
クロムウェルが言う。
「仕事ではない時間だったはずだが」
「商品を見るのは趣味です」
「その理屈、以前も聞いた気がする」
「研究とは違います」
「そういうことにしておく」
夕暮れの帝都を並んで歩く。
護衛は少し後ろ。
人々の声。
焼き菓子の残り香。
店先に灯り始める魔導灯。
特別なことは何も起きていない。
それなのに。
エレナは研究院へ初めて来た日のことを思い出していた。
自分の名前が書かれた研究室。
高すぎる給料。
正当な評価。
あの頃の自分は、それだけでも十分すぎると思っていた。
今は。
仕事とは関係のないところで。
ただ自分と一緒に時間を過ごしたいと思ってくれる人がいる。
「クロムウェル様」
「何だ」
「また来てもいいですか?」
自分から聞いた。
「もちろんだ」
「今度は私がお店を選びます」
「分かった」
「測定器の店でも?」
「恋愛点には入らないんじゃなかったのか」
エレナは吹き出した。
「覚えていたんですね」
「かなり重要な規則だったからな」
「では、お菓子屋さんにします」
「助かる」
二人で笑った。
好きになってもらう努力の方向は、まだ少し変だった。
けれど。
その不器用さごと、エレナは以前よりずっと好きになり始めている。
少なくとも。
次に会える日を待つ理由が、仕事だけではなくなっていることだけは、もう疑いようがなかった。




