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第27話 治癒瓶、初めて人を救う

 治癒魔法保存器の限定臨床試験が始まった朝、エレナは中央治療院の一室で、同じ操作説明を三度繰り返すことになった。


「こちらの銀色の留め具を先に外して、それから蓋を半回転させます。完全に外す必要はありません。ここまで回すと内部の循環路が解除され、保存していた治癒魔法が放出されます」


 机の向こうには、治療院の看護補助員が五人。


 その隣にはアメリア。


 さらに安全確認役として二人の治癒魔導師が立っている。


 机の中央には、透明な小瓶に似た試作器が三つ並んでいた。


 正式名称は携帯型治癒魔法保存器。


 だが、研究室では誰もそんな長い名前で呼ばない。


 いつの間にか「治癒瓶」で定着していた。


「質問していいですか?」


 若い看護補助員が手を上げた。


「もちろんです」


「緊急時って、焦りますよね」


「はい」


「留め具を外して、蓋を半回転して、ここを確認して、それから患者さんへ当てるんですよね?」


「今の試作器ではそうです」


「たぶん、間違えます」


 あまりにも率直だった。


 エレナは一瞬だけ黙る。


「どこを?」


「全部です」


 室内から小さな笑いが漏れた。


 本人は真面目だった。


「普段ならできます。でも、目の前で血が出ていたり、患者さんが苦しんでいたりしたら、留め具を外す順番なんて飛ぶと思います」


 エレナは試作器を見る。


 研究室では誰も間違えない。


 何度も触っているからだ。


 構造も知っている。


 失敗したとき何が起こるかも分かっている。


 それを基準にしていた。


「……そうですね」


 エレナは一本を手に取った。


「では、今の操作方法は駄目です」


 アメリアが少し笑う。


「早いですね」


「間違える前提で作らないといけません」


「そこまで言い切ります?」


「使う方に注意してもらえば安全です、では医療用には向かないと思います」


 エレナは机の上の説明書へ目を落とした。


 そこには、研究室で決めた手順が七項目並んでいる。


 七項目。


 多い。


 そう気づいてしまうと、急にひどく多く見えた。


「三つまで減らします」


「三つ?」


「できれば二つです」


 アメリアが腕を組む。


「エレナさん、今日は臨床試験初日なんですが」


「はい」


「今、試験品を作り直そうとしていません?」


「操作手順だけです。内部構造は変えません」


「その顔は帰ったらすぐ作る顔ですね」


「……明日までは待ちます」


「かなり進歩しましたね」


 エレナは少し不満そうにアメリアを見た。


「私、今はちゃんと休んでいますよ」


「知っています。だから褒めています」


 その言い方まで、研究院の人々に似てきた気がする。


 限定臨床試験は、いきなり重傷者へ使うものではなかった。


 まずは安全性確認から。


 治癒魔導師が必ず近くにいる状態で、軽い裂傷や術後の傷の回復補助へ使う。


 保存時間も、最初は六時間以内のものだけ。


 研究室では五十時間を越える保存に成功しているが、人体へ使うのは別の話だった。


 数値が残っている。


 培養組織で反応する。


 それだけで人へ使えると決めるわけにはいかない。


「一号室、術後患者さんです」


 治療助手が声をかけた。


 アメリアが立ち上がる。


「行きましょう」


 エレナも後ろについていこうとした。


「エレナさん」


「はい?」


「見るだけですよ」


「分かっています」


「患者さんへ近づいて、器具を触ろうとしない」


「私は技師ですから」


「だから言っています」


 信用がない。


 少しだけ悔しい。


 病室には、腹部の小手術を終えた中年女性がいた。


 強い治癒魔法を必要とする状態ではない。


 ただ、傷口周辺の回復を補助すれば痛みや炎症を抑えられる。


「これが例の瓶?」


 女性がアメリアへ尋ねた。


「そうです。ただし、まだ試験中です。使わなくても通常の治療で問題ありません」


「説明は聞いたよ。私は構わない」


 女性はエレナへ目を向けた。


「あんたが作った人?」


「一人ではありません」


「はいはい。そういうところまで説明書に書いてあったよ」


 エレナが瞬く。


 事前説明書には、研究担当者と共同研究機関の名前を入れてある。


 少し照れくさくなった。


「何かあったらすぐ中止します」


 アメリアが念を押す。


「お願いするよ」


 治療助手が治癒瓶を手に取る。


 先ほどの説明どおり。


 留め具を外す。


 蓋を回す。


 魔力表示石が緑であることを確認する。


 傷へ近づける。


 瓶の内部に保存されていた淡い緑色の光が、細い霧のように傷口へ流れていく。


 エレナは測定器を見る。


 出力は安定。


 波形も崩れていない。


 患者の呼吸。


 皮膚の変化。


 治癒魔導師の反応。


 全部を確認する。


「痛みは?」


 アメリアが尋ねる。


「少し温かいだけ」


「気分は悪くありませんか?」


「平気」


 数分後、処置は終了した。


 劇的なことは起こらなかった。


 傷が一瞬で消えるわけでもない。


 患者が飛び起きるわけでもない。


 ただ。


 術後の赤みが少し引いた。


 痛みも軽減したらしい。


「うん」


 女性は腹部へ触れないよう注意しながら、少し身体を動かした。


「さっきより楽だね」


 エレナはその言葉を聞いて、測定表へ視線を落とした。


 六時間保存後。


 実測効力八十八パーセント。


 放出ロス七パーセント。


 数字なら昨日から知っていた。


 でも。


「エレナさん」


 アメリアに呼ばれ、顔を上げる。


「どうしました?」


「いえ」


 エレナは小さく首を振った。


「数字で見るのと、違うんだなと思って」


「でしょう?」


 アメリアはそれ以上何も言わなかった。


 午前中は三件。


 いずれも軽症。


 重大な副作用なし。


 出力不足もなし。


 ただし問題は次々見つかった。


「表示石、これ患者さんから見えませんね」


「使う人が見るものですから」


「でも、患者さんも残量が分かったほうが安心しません?」


「なるほど」


「あと、暗い場所だと緑と黄色の区別がつきにくいです」


「色だけでは駄目ですね」


「蓋も、手袋をしていると滑ります」


「表面に刻みを入れます」


「エレナさん」


 アメリアが笑う。


「楽しそうですね」


「問題が具体的なので」


「普通は問題が出たら少し落ち込むところなんですけど」


「使ってもらわないと分からなかったことですから」


 研究室では完璧に見えた。


 現場では不便。


 それは失敗というより、次の設計条件だった。


 午後。


 エレナは操作試験を始めた。


 治療助手だけでなく、普段魔導具を扱わない事務職員にも試してもらう。


「これ、どっちが上ですか?」


「縦ならどちらでも」


「じゃあ、何でこっちに印があるんです?」


 エレナが止まる。


「……製造時の位置合わせです」


「使う側には関係ない?」


「ありません」


「なら消したほうがいいです。上印だと思いました」


「消します」


 別の職員。


「蓋を半回転って、どこまでです?」


「ここまでです」


「印がないですね」


「……つけます」


「そもそも半回転じゃなくて、止まるところまで回したら駄目なんですか?」


 エレナは器具を見つめた。


「できます」


「じゃあ、そうしたほうが簡単では?」


「できますね……」


 アメリアが隣で肩を震わせている。


「笑っています?」


「少しだけ」


「そんなに変ですか」


「いえ。国家魔導技師長が、事務員さんに設計を直されているのが面白くて」


「使う人の意見ですから正しいですよ」


「その顔で即答できるところは好きです」


 エレナは少し困った。


「褒められているんですよね?」


「かなり」


 夕方までに、改良項目は十二個になった。


 操作は七手順から三手順へ。


 一、蓋を止まるまで回す。


 二、表示を確認する。


 三、患部へ当てる。


 安全留め具は蓋の内部へ一体化し、間違った方向には開かない構造へ。


 残存効力表示は色だけでなく、三段階の模様でも判別できるようにする。


 握り部分には滑り止め。


 使用済みかどうかも一目で分かるようにする。


「性能は一つも上がっていませんね」


 エレナが改良案を見ながら言う。


「でも使いやすさはかなり上がります」


 アメリアが答えた。


「以前の私なら、保存時間を伸ばすほうを優先していました」


「今は?」


「この状態で五日保存できても、使うときに間違えたら意味がありません」


「正解です」


「医療って厳しいですね」


「命を扱いますから」


 その言葉が、少し重く響いた。


 今日使ったのは軽症患者だけ。


 治癒魔導師もすぐそばにいた。


 もし壊れても。


 操作を間違えても。


 すぐ通常治療へ切り替えられる。


 だから試せる。


 本当にこの治癒瓶が必要なのは、治癒魔導師がいない場所だ。


 それはつまり。


 失敗したときに助けてくれる人もいない場所なのだ。


「もっと安全にします」


 エレナが言う。


「お願いします」


 アメリアの返事は柔らかかった。


 その日は予定どおり、エレナは夕方で帰るつもりだった。


 少なくとも、そのはずだった。


 外套へ手を伸ばしたところで、治療院の廊下を慌ただしい足音が走った。


「急患です!」


 声が響く。


 エレナは反射的に振り返った。


 玄関方向から担架が運ばれてくる。


 十歳前後の少年だった。


 服の脇腹が赤黒く染まっている。


 付き添っている男も泥だらけだ。


「北街道で荷馬車が横転したそうです!」


「腹部裂傷、意識低下!」


「治癒魔導師は?」


「上階の緊急手術に二人とも入っています!」


 アメリアの表情が一瞬で変わった。


「もう一人は?」


「南区へ往診中です。戻るまで最低でも二十分!」


「外科医を呼んで! 圧迫止血、輸液準備!」


 エレナは動けなかった。


 治療院は急に別の場所になったようだった。


 朝まで穏やかに行っていた試験。


 説明。


 記録。


 笑い声。


 全部消えた。


「お父さん……」


 少年がかすかに声を出した。


 付き添いの男が担架へ縋る。


「ここにいる! 大丈夫だ、もう治療院だから!」


 大丈夫。


 その言葉が、ひどく頼りなく聞こえた。


 アメリアが傷を見る。


 顔が強張った。


「深い……」


「先生」


 看護助手が呼ぶ。


「治癒瓶を」


 空気が止まった。


 アメリアが振り返る。


 試験用の治癒瓶。


 今日、軽症患者へ使ったものとは別に、未使用の瓶が二本残っている。


 保存時間は四時間。


 効力は九割以上。


「でも、臨床試験の対象条件を超えています」


 別の治療助手が言った。


 正しい。


 今日の試験は軽症者限定。


 重傷者へ使う承認はまだない。


「治癒魔導師が戻るまで二十分です」


 アメリアが時計を見る。


 少年の血圧を確認した医師が首を振った。


「それまで保つ保証がない」


 付き添いの男が顔を上げた。


「何でもしてください」


「お父様」


 アメリアが向き直る。


「今から使おうとしている器具は、まだ正式な治療器具ではありません」


「それでもいい!」


「効果が十分でない可能性もあります。予期しない反応が出る可能性も否定できません」


「使ってください!」


 男の声が震える。


「お願いします。何でもいい。助けてください」


 アメリアは数秒黙った。


 そしてエレナを見る。


「エレナさん」


 心臓が強く鳴った。


「はい」


「この保存器。今の状態で放出した場合、急激な過剰出力の可能性は?」


「四時間保存品なら低いです。午前中の試験と同じ充填条件です」


「効力不足は?」


「重傷へ単独で使うには足りないと思います」


「単独では使わない。止血処置と外科処置を続けながら、治癒魔導師が戻るまで傷の拡大を抑える目的で使う」


 それなら。


 エレナは頭の中で回路を追った。


 治すためではない。


 時間を稼ぐ。


「できます」


 声が少し震えた。


「少なくとも、組織の損傷拡大を抑える効果は期待できます。ただし全部を一度に放出しないでください。出力を半分に絞ったほうがいいです」


「調整できる?」


「できます」


「あなたが?」


 エレナは一瞬答えかけて、止まった。


 自分が操作するべきではない。


 ここは治療院だ。


 判断するのは医療者。


「方法を説明します」


 その答えに、アメリアが頷いた。


「それでいい」


 治療助手が瓶を持つ。


 エレナは横から指示する。


「蓋を完全には開けません。三分の一で止めてください。そこから出力が上がりすぎないよう、表示石を見ながら調整します」


「三分の一?」


 緊急時。


 さっき言われたばかりだ。


 半回転ですら間違える。


 三分の一など、もっと危険だ。


「待ってください」


 エレナは言った。


「私が持ちます」


「エレナさん?」


「放出量の調整だけです。患部へ当てるのはお願いします」


 アメリアが一瞬迷い、それから頷いた。


「分かった」


 瓶を受け取る。


 手が冷たい。


 こんなに軽い道具だっただろうか。


 研究室では何十回も触った。


 落とした。


 壊した。


 分解した。


 作り直した。


 でも今は、この小さな瓶の中に入っている魔法が、目の前の子供へ届く時間を決める。


「開けます」


「お願い」


 蓋をゆっくり回す。


 内部循環が解除される。


 緑色の光が強くなる。


「出力、二十二」


「維持して」


「はい」


 アメリアが患部へ魔力を導く。


 少年の身体が僅かに震えた。


「反応あり」


「血圧は?」


「まだ低い。でも下がり方が止まりました」


「外科処置を続けて!」


 声が飛び交う。


 エレナは瓶だけを見る。


 出力。


 残量。


 循環温度。


 それ以外は見ない。


 見れば手が震えそうだった。


「二十三」


「そのまま」


「残量七割」


「まだ保つ?」


「十分以上」


「十分あればいい」


 アメリアの声が強い。


 数分。


 長かった。


 研究の耐久試験で一時間待つより長く感じた。


「治癒魔導師、到着!」


 廊下から声がした。


「交代します!」


 治癒魔導師が処置室へ入る。


 アメリアが状況を早口で説明する。


「保存治癒魔法で損傷拡大を抑えています。ここから直接治療へ移って!」


「了解!」


 エレナの手から治癒瓶が外された。


「エレナさん、下がって」


「はい」


 壁際へ移る。


 そこから先は、完全に医療者の仕事だった。


 強い治癒魔法が傷へ流れ込む。


 外科医も同時に動く。


 エレナには何がどこまで成功しているのか分からない。


 ただ待つしかなかった。


 付き添いの男も、少し離れたところで両手を組んでいる。


 誰も喋らない。


 十分後。


 十五分後。


 やがて。


 アメリアが処置室から出てきた。


 額に汗が浮かんでいる。


「先生」


 父親が立ち上がる。


「大丈夫です」


 男の顔が崩れた。


「本当に?」


「まだ安静は必要ですし、感染にも注意します。でも、命に関わる状態は脱しました」


 男は何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 アメリアが彼を支える。


「治癒魔導師と外科の先生方のおかげです」


「でも、さっきの瓶がなかったら」


 男がエレナを見る。


 エレナは何も言えなかった。


 胸の奥が詰まっている。


「治癒魔導師が戻るまで、持たなかった可能性があります」


 アメリアが静かに言った。


 エレナの喉が動く。


「……そうですか」


「はい」


 それだけだった。


 歓声もない。


 拍手もない。


 発表会でもない。


 ただ、廊下の向こうで一人の子供が生きている。


 エレナは手元を見る。


 さっきまで治癒瓶を握っていた手。


 少し震えていた。


「エレナさん」


 アメリアが近づく。


「大丈夫?」


「はい」


 反射的に答えてから、エレナは少し考えた。


「……たぶん、今は大丈夫じゃないです」


 アメリアが柔らかく笑った。


「それでいいと思います」


「怖かったです」


「私もです」


「壊れたらどうしようって。出力が上がりすぎたら。逆に足りなかったら」


「うん」


「研究室では、失敗したら次を作ればいいと思っていました」


 エレナは廊下の奥を見る。


「でも、人に使うときは、それじゃ駄目なんですね」


「そうです」


 アメリアの声は優しかったが、甘くはなかった。


「だから医療用の道具は、研究室より面倒なんです」


「……もっと安全にしないと」


「そうですね」


「操作も簡単にします。今回みたいな出力調整も、三分の一なんて感覚でやらせてはいけない。低出力、中出力、全出力で固定できる構造にします」


「エレナさん」


「はい」


「今日はもう設計しない」


 エレナの口が止まった。


「でも」


「今のことを記録するところまではいいです。そのあと帰る」


「忘れそうです」


「忘れません。私も覚えています」


「でも」


「今日は一人、人を救うのに役立った日です」


 アメリアは静かに言った。


「改善点を探す前に、それを一度受け取ってください」


 以前にも似たことを言われた。


 二十四時間保存に成功したとき。


 まだ三割落ちるから足りない、とエレナは言った。


 アメリアは、今ある七十点でも救える人がいると言った。


 今日。


 本当に救えた。


 完璧ではない道具で。


 完成品ではない試作品で。


 それでも。


「……はい」


 エレナは小さく頷いた。


「分かりました」


 その日の記録には、いつものように数字が並んだ。


 使用時保存時間、四時間十二分。


 初期推定効力、九十三パーセント。


 低出力放出、約二十二から二十四パーセント。


 使用時間、九分四十秒。


 重大な副反応なし。


 治癒魔導師到着までの応急処置として使用。


 そして最後に。


 エレナは少し迷ってから、一行だけ書き加えた。


『本器使用により、専門治療開始まで患者状態を維持できた可能性が高い』


 研究者としては、断定しない。


 でも。


 その可能性があったことだけは残しておきたかった。


 帰り際。


 治療院の玄関で、アメリアがエレナを呼び止めた。


「エレナさん」


「はい」


「前に話した子供のこと、覚えています?」


 治癒魔導師が間に合わず、助けられなかった子供。


 エレナは頷く。


「覚えています」


「今日、ずっと思い出していました」


 アメリアは少し笑った。


 けれど、その目には涙が溜まっていた。


「もしあのとき、これがあったらって」


 エレナは何も言えなかった。


「もちろん、救えた保証はないです」


「はい」


「でも、今日みたいに時間を繋げたかもしれない」


 アメリアは目元を拭った。


「だから、ありがとう」


「私一人では」


「知っています」


 遮るように言われた。


「あなた一人ではありません。でも、あなたもその一人です」


 その言葉を、エレナは今度こそ否定しなかった。


「……はい」


 治療院を出る。


 外はすでに薄暗かった。


 カミラが待っている。


「遅くなりましたね」


「すみません」


「事情は聞いています」


「陛下へも?」


「報告は行くでしょうね」


 エレナは少し困った。


「また心配されますね」


「今日は胸を張っていいのでは?」


「どうしてです?」


「残業の理由が研究ではなく、人命だったので」


「基準が変ではありません?」


「私もそう思います」


 二人で少し笑った。


 馬車へ乗る前に、エレナは一度だけ治療院を振り返った。


 窓のいくつかに灯りがともっている。


 あの中で、さっきの少年は眠っているのだろう。


 自分の魔導具が。


 初めて。


 本当に誰かの命へ届いた。


 これまでも軍用灯が救助活動を支えた。


 長く光ることで、誰かを助けた。


 それも確かな価値だった。


 でも今日は違う。


 自分の手の中にあった小さな瓶から流れた魔法が、治癒魔導師が来るまでの数分を繋いだ。


 その重さを、エレナはようやく知った。


 もっと長く保存したい。


 もっと安くしたい。


 もっと簡単に使えるようにしたい。


 欲は、まだいくらでもある。


 けれど今日は。


 足りないものを数える前に。


 ここまで来たことを、少しだけ喜んでもいい気がした。


 エレナは治療院の灯りへ小さく頭を下げてから、待っている馬車へ向かった。

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