第26話 元婚約者の工房から、正式な訂正申請が届きました
国家魔導技師長になったからといって、朝の研究室が急に立派になるわけではなかった。
作業台には昨日のままの治癒魔法保存器十三号が置かれ、乾燥させた青晶石の粉が小皿の縁へ少し残っている。窓際では測定器が低い唸りを上げ、リナは材料箱の中身を一つずつ確認していた。
変わったことがあるとすれば、エレナの机の端に、見慣れないほど大きな書類箱が増えたことくらいだ。
「これ、本当に全部私が見るんですか?」
エレナは箱の中を覗き込みながら尋ねた。
「全部を細部まで読む必要はありません」
新たに補佐役としてつくことになった研究院の事務官が、淡々と答えた。
「技師長として判断が必要なものだけ付箋をつけています。残りは要約を添えました」
「要約だけで、この厚さなんですね」
「各部門が、国家魔導技師長という役職ができた途端に『これは技術案件ではないか』と送ってきていますので」
「何でも私のところへ集めないでください」
「私も同意見です」
事務官が真顔で答えたので、エレナは思わず笑った。
「そこは止めてくださらないんですか?」
「止めています。これでも半分以下です」
「……ありがとうございます」
技師長という肩書きは、思っていたより紙が多い仕事らしい。
魔導具は壊れれば音や熱や魔力の乱れで訴えてくれるが、書類は黙って机の上へ積み重なる。そのぶん、少し厄介だった。
「主任」
リナが呼んだ。
「はい」
「十三号、昨日の最後の測定値からほとんど落ちていません」
エレナの意識が即座に研究へ戻る。
「どのくらいです?」
「五十六時間で、初期効力の六十四パーセント」
「十二号より良いですね」
「第二循環路の温度差も小さくなっています」
「では素材方向の変更は正解だった可能性が高いです。ただ、回路も変えたほうとの比較がまだなので――」
「その前に、こちらをお願いします」
事務官が一通の封筒を差し出した。
エレナは少し残念そうに十三号から手を離した。
「今でないと駄目ですか?」
「優先に指定されています」
「どこからです?」
「王立魔導技術協会です」
その名前で、エレナの手が止まった。
封筒は前回の帰還要請ほど豪華ではない。
ただし、技術協会の正式印が押されている。
「また調査の件でしょうか」
「内容までは開封していません」
エレナは自分で封を切った。
中には数枚の書類が入っていた。
最初の一枚には、過去の登録作品についての調査が現在も継続中であること、その中間経過として、関係者から新たな訂正申請が提出されたことが記されている。
「訂正申請……?」
続きを読んだ。
申請者。
ガイウス。
その名前を見ても、以前のように胸が強く波立つことはなかった。
ただ少しだけ、呼吸が深くなる。
「何かありました?」
リナが尋ねた。
「ガイウス様から、技術協会へ訂正申請が出たそうです」
「訂正?」
「昔の登録品についてです」
エレナは一枚ずつ確認した。
小型長時間魔導灯。
高効率冷却装置。
王宮用分配核。
携帯用温水器。
小型保温箱。
それぞれについて、従来はガイウス単独、またはガイウス工房名義で登録されていた技術的貢献を、工程ごとに分け直す内容だった。
『製品企画・顧客要求整理・価格設計・販売工程――ガイウス』
『魔導核基本設計・試作・回路調整――エレナ・ヴァリエ』
『量産工程補助――工房所属技師複数名』
全部が同じではない。
製品によっては、ガイウス自身が初期構想へ深く関わったものもある。
王宮用分配核のように、そもそもの基本概念は王立魔導院側にあるものもある。
過去を一枚の紙で「全部エレナの発明でした」と塗り替える内容ではなかった。
むしろ逆だった。
誰が何をしたのか。
それを一つずつ分けようとしている。
「……これ」
エレナはしばらく書類を見つめた。
「どうしました?」
「正しいと思います」
リナが隣から少し覗き込む。
「全部、主任の名前に変わるわけじゃないんですね」
「そのほうがいいです」
「いいんですか?」
「はい」
迷いはなかった。
「私はガイウス様の営業や工房経営までやっていません。お客様が何を求めているかを聞いて、商品として成立する形にまとめるのは、ガイウス様のほうがずっと得意でした」
その事実を、今さら否定する必要はない。
「私がしたところだけ、私の名前に戻ればいいんです」
口にしてみると、それが自分の本当の望みだったのだとよく分かった。
ガイウスを空っぽにしたいわけではない。
自分が全部を奪い返したいわけでもない。
ただ。
自分の仕事の上に、自分の名前がほしい。
それだけだった。
「協会からの説明では」
エレナは先を読む。
「この申請だけで最終決定にはしないそうです。過去の記録や第三者証言と照合して、正式な訂正内容を決めると」
「ガイウスさんが申請したから、全部そのまま認めるわけではないんですね」
「当然だと思います」
「主任、嬉しそうですね」
「そう見えます?」
「少し」
エレナは考えた。
「嬉しいというより……安心したのかもしれません」
「何に?」
「私が帝国へ来たことで、向こうの過去まで全部壊れたわけではないんだなって」
ガイウスはガイウスの功績を持つ。
工房には工房の歴史がある。
弟子たちにも、それぞれの仕事がある。
その中で、自分の名前だけが消えていた。
だから、消えていた部分を戻す。
それなら過去そのものを壊さずに済む。
「それに」
エレナは一番下の文面を見た。
『申請者本人より、今後の審査において必要な技術説明には誠実に応じる旨の申し出あり』
あの夕暮れ。
『俺がやったことは俺が。お前がやったことは……お前が』
ガイウスが言ったことを思い出す。
「約束を守ろうとしているみたいです」
少しだけ胸が痛んだ。
でもその痛みは、戻りたいという気持ちとは違う。
昔大切だった人が、ようやく自分自身の問題へ向き合い始めた。
そのことへの、複雑な安堵だった。
「返事は必要ですか?」
リナが聞く。
「協会には、受領確認だけでよさそうです。調査内容に異議があれば後から出せるそうです」
「ガイウスさん本人には?」
「出しません」
エレナはすぐ答えた。
リナが少し驚く。
「冷たいですか?」
「いえ。むしろ安心しました」
「どうして?」
「主任、前なら何か一言返したほうがいいんじゃないかって悩みそうだったので」
確かに。
お礼を言うべきか。
励ますべきか。
謝罪を求めるべきか。
そうやって、また相手の感情まで自分が背負おうとしたかもしれない。
「これはガイウス様が協会へ出した申請ですから」
エレナは書類を整えた。
「私が返事をするものではないと思います」
「うん。そのほうがいいです」
「リナさん、最近かなり遠慮がなくなりましたよね」
「主任が遠慮しなくていいって言ったんじゃないですか」
「言いましたけど」
「では正しい運用です」
どこかで聞いたような理屈だった。
エレナは笑いながら、書類を技師長用の保管箱へ入れた。
そこで、封筒の底にもう一通、小さな手紙が入っていることに気づいた。
「まだありますね」
技術協会の正式文書とは違う。
粗い紙。
見覚えのある筆跡。
「テオ君?」
封筒の端に、小さく名前が書いてある。
協会が調査資料と一緒に転送したらしい。
エレナは少し迷ってから開いた。
『エレナさんへ。
勝手に手紙を送ってすみません。
先生が帝国から戻ってきてから、工房では昔の記録を全部見直しています。
誰がどの工程をやったのか、残っている帳簿や図面に書き足しています。昔の弟子にも連絡しています。
正直、今さらだと思います。
俺も、エレナさんがやっていたことを見ていたのに、先生の名前で商品が出るのが普通だと思っていました。
先生は今、簡単な核から自分で作り直しています』
そこまで読んで、エレナの目が止まった。
ガイウスが。
基礎から。
少し想像しにくい。
彼は昔から、細かな加工そのものを好まなかった。
できないわけではない。
基礎教育は受けている。
ただ、工房主になってからは営業や設計指示へ比重を移し、細かい核はほとんどエレナに任せていた。
『昨日、小型灯用の核を三つ作って、一つだけ点きました。
でも二十分で止まりました。
先生はすごく機嫌が悪かったです。
それでも翌朝、また作っていました。
前なら誰かにやらせていたと思います。
だから、少し変わったのかもしれません』
エレナは思わず口元を緩めた。
「何て?」
「テオ君からです」
「ガイウスさん、どうしてるんですか?」
「小型灯用の核を三つ作って、一つだけ点いたそうです」
「おお」
「二十分で止まったそうです」
「ああ……」
リナの反応が分かりやすすぎて、エレナは笑った。
「笑ったら失礼ですけど、最初はそんなものです」
「主任も?」
「私は父に教わっていたので、もう少しましだったと思います」
「そこは遠慮しないんですね」
「事実です」
手紙にはまだ続きがあった。
『工房の注文は前よりかなり減りました。
でも、修理できるものからやっています。
俺たちも、エレナさんしか分からなかったところを、今度は記録するようにしています。
もし迷惑でなければ、一つだけ聞きたいことがあります。
青晶石の個体差を三段階で分けているんですが、第三段階だけどうしても新しい核の出力が揃いません。
先生は流路幅を広げようとしています。
俺は刻印を深くしたほうがいいと思っています。
エレナさんなら、どこを最初に確認しますか。
もちろん、答えたくなければ無視してください。
それと。
戻ってきてほしいとは書きません。
エレナさんが戻らないって言ったことは、もう分かっています。
ただ、俺はちゃんと技師になりたいです。
昔、エレナさんがしていたことを、今度は見て分かる側になりたいです』
最後の一文で、エレナはしばらく動けなかった。
テオはまだ若い。
あの工房で、エレナの作業を何度も見ていた。
けれど当時は「エレナができること」として通り過ぎていたのだろう。
それは彼だけの責任ではない。
工房全体がそういう構造だった。
「返しますか?」
リナが尋ねた。
「はい」
今度は迷わなかった。
「技術的な質問には答えます」
「ガイウスさんの工房なのに?」
「テオ君が聞いてきていますから」
「その線引き、主任らしいですね」
「それに、青晶石の話は別に秘密技術ではありません」
エレナは便箋を取り出した。
書き始める。
『テオ君へ。
手紙をありがとう。
工房の記録を作り直していると知って、安心しました。
昔のことについて、あなたまで責任を感じすぎる必要はありません。ただ、これから同じことを繰り返さないように記録してください。
質問の件ですが、流路幅や刻印深度を変える前に、第三段階に分類した青晶石そのものの分類条件を確認してください。
同じ「第三段階」でも、魔力抵抗が高い理由が同じとは限りません。
結晶方向の乱れなのか、含有不純物なのか、表面加工の問題なのかを先に分けたほうがいいと思います。
原因が違うものを一つの調整方法で揃えようとすると、別の場所に無理が出ます』
そこまで書いて、一度筆を止める。
以前なら、このまま図面まで描いただろう。
細かな寸法。
調整手順。
場合分け。
全部。
でも、それではまた同じだ。
相手が考える前に、自分が答えを渡してしまう。
『ここから先は、自分たちで測ってみてください。
結果が出たら、どう分類したか教えてください。
その上でなら、また一緒に考えられます』
そして最後に。
『私は帝国での仕事を続けます。
工房へ戻ることはありません。
でも、技術者同士として質問を受けることまで拒むつもりはありません。
テオ君が自分の名前で仕事をできる技師になることを願っています。』
読み返す。
余計なことは書いていない。
ガイウスの話も、ほとんど触れていない。
それでいい。
「できました」
リナが覗こうとする。
「見ます?」
「いや、そこは個人的な手紙でしょう?」
「最近、境界線を覚えましたね」
「主任の周りにいると学びます」
「それ、褒めています?」
「かなり」
午前の残りは十三号の試験に戻った。
技師長の書類もある。
王国からの通知もある。
それでも、魔導具を前にすると頭が切り替わる。
十三号の二種類を比べると、素材方向のみ変更したものは温度差が減った一方、回路まで変更したほうは流量が少し不安定だった。
「やりすぎましたね」
エレナが言う。
「回路変更、戻します?」
「全部は戻しません。一箇所ずつ戻しましょう。どこが影響しているか分からなくなるので」
「三つに分けますか?」
若い測定技師が聞く。
「はい。ただし私は一つだけ見ます。残り二つはお願いします」
以前なら、自分で全部やっていた。
青年が少し笑う。
「本当に任せるようになりましたね」
「任せないと、技師長の書類が夜まで待っていますから」
「理由が現実的だ」
「成長ってそういうものでは?」
研究室に笑いが広がった。
昼過ぎ。
王国では、ガイウスが自分の工房の作業台に座っていた。
帝国から戻って以来、以前より客は少ない。
入り口の呼び鈴も、かつてほど頻繁には鳴らなくなった。
奥の修理棚にはまだ仕事が積まれているが、新規開発用の注文書は薄い。
以前なら、その静けさに苛立って弟子へ当たっていたかもしれない。
今は別の理由で機嫌が悪かった。
「まただ」
作業台の上で、小さな魔導核が黒く焦げている。
四つ目。
今度は十分しか保たなかった。
「先生」
テオが少し離れたところから声をかける。
「何だ」
「青晶石、やっぱり第三分類の中でばらつきが大きいんじゃないですか」
「分類表どおりだ」
「その分類表自体が粗いかもしれません」
ガイウスは反射的に言い返しかけた。
だが止まる。
以前なら、「まず言われた通りやれ」と言った。
最近、その言葉を口へ出すたびに、自分がかつてエレナへどんな指示をしていたか思い出すようになった。
「……何を追加で測る」
テオが少し驚いた。
「え?」
「分類が粗いと思うなら、何を測れば分けられる」
「あ、えっと」
テオは慌てて帳面を持ってくる。
「魔力抵抗だけじゃなくて、結晶方向の乱れを別に記録してみたいです。それと、同じ抵抗値でも色の濁りが違う石があるので」
「濁り?」
「不純物かもしれません」
ガイウスは石を一つ手に取った。
昔なら、こんな細かな違いを見ても「エレナに任せればいい」と思った。
今は任せる相手がいない。
いや。
それ以上に。
任せきっていたから、自分は知らないままだったのだと少しずつ理解し始めていた。
「測れ」
「はい」
「全部記録しろ」
「分かりました」
「失敗した核も捨てるな」
テオがまた驚く。
「先生がそれ言うんですか?」
「悪いか」
「いえ。前は焦げたの、すぐ捨ててたので」
「……うるさい」
ガイウスは焦げた核を机の端へ置いた。
不格好な失敗作が四つ並ぶ。
どこかで聞いた話を思い出す。
エレナが帝国の研究室で、失敗作を棚へ残しているという話。
くだらないと思ったことがあった。
失敗など、見せるものではない。
成功だけ出せばいい。
そう思っていた。
今は。
何が違ったのか確認するには、失敗作のほうが必要だった。
「……本当に、面倒なことばかりやってたんだな」
ガイウスが小さく呟く。
「誰がです?」
「何でもない」
そこへ、店の入口から明るい声がした。
「ガイウス様、いらっしゃる?」
セシリアだった。
以前と変わらず華やかな装い。
けれど、最近は訪ねてくる回数が減っている。
ガイウスは手を止めた。
「いる」
「まあ、また作業を?」
「ああ」
セシリアは作業台へ近づき、並んだ焦げた核を見た。
「これ、失敗作?」
「ああ」
「四つも?」
悪意のない言い方だった。
それでも、以前のガイウスなら腹を立てただろう。
「今は練習中だ」
「あなたが?」
「悪いか」
「悪くはないけれど……」
セシリアは少し困った顔をした。
「あなた、魔導具の天才だったんでしょう?」
ガイウスの手が止まる。
以前なら、誇らしかった言葉。
今は重い。
「誰から聞いた」
「誰からって、みんな言っていたわ。私だって、そう思っていたから」
セシリアは不思議そうだった。
「王宮の注文を取る有名工房の若き天才職人。新しい魔導具を次々作る人。だから……」
「だから?」
ガイウスが顔を上げる。
セシリアは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「素敵だと思ったの」
それは恋の告白のようでいて、何か違った。
ガイウスにも、その違いが今は少し分かる。
「俺が天才じゃなかったら?」
「何です?」
「協会の訂正が通って、俺一人の発明じゃなかったと正式に公表されたら」
セシリアはすぐに答えなかった。
ほんのわずかな間だった。
けれど、その沈黙をガイウスは見逃せなかった。
「……そんな話、今ここでする必要あります?」
「ある」
「私はあなたを好きで」
「何が好きなんだ」
セシリアの顔が固まる。
ガイウスは自分でも嫌な問いだと思った。
でも止められなかった。
「有名な工房主だからか。王宮御用達だからか。天才職人だと思っていたからか」
「どうしてそんな意地悪な聞き方をするの?」
「俺も同じことをしてたからだよ」
セシリアが黙る。
ガイウスは焦げた核へ目を落とした。
「俺も、エレナが何を考えてるかより、俺の工房に必要な女かどうかで見てた」
自分で言うと、ひどく苦かった。
「いなくなって初めて困った。戻ってくれば元どおりになると思った。戻らないって言われても、本気じゃないと思った」
「ガイウス様」
「それで帝国まで行った」
セシリアの顔が強張る。
「行ったんですか?」
「ああ」
「エレナさんに会いに?」
「戻ってこいと言った」
「……戻らなかったのね」
「国家魔導技師長になってた」
「え?」
今度こそ、セシリアは驚いた。
「何ですか、それ」
「帝国の技術責任者だ」
「エレナさんが?」
「ああ」
セシリアはしばらく何も言わなかった。
以前なら。
『あの地味な人が?』
そう笑ったかもしれない。
実際、婚約破棄の頃はそういう目で見ていた。
けれど今は、笑えない。
「すごいのね」
やがて出た言葉は、それだけだった。
ガイウスは顔を上げた。
「お前もそう思うのか」
「だって、国家の役職なんでしょう?」
「俺より?」
「何で比べるの?」
その返しに、ガイウスは黙った。
セシリアも少し気まずそうに口を閉じる。
「……私、今日は帰ります」
「そうか」
「また来ます」
以前なら、すぐ「いつ」と聞いたかもしれない。
今日は聞かなかった。
セシリアもそれに気づいたようだったが、何も言わず工房を出ていった。
扉が閉まる。
ガイウスは作業台へ戻る。
焦げた核。
測定途中の石。
帳面。
地味で面倒なものばかりだ。
名声にはならない。
誰も拍手しない。
それでも、ここから始めるしかない。
「先生」
テオが戻ってきた。
「石、分けました。抵抗値が似ていても、結晶方向の乱れが違うものがあります」
「見せろ」
帳面を受け取る。
昔なら読み飛ばしたような細かな数字を、一つずつ追う。
「……これか」
「はい」
「次は、この二群を別に作る」
「流路幅は?」
ガイウスは少し考えた。
「まだ変えない」
「刻印深度も?」
「変えない。まず材料だけで差を見る」
テオが嬉しそうに頷いた。
「それ、エレナさんなら言いそうですね」
ガイウスの眉が動いた。
「余計なことを言うな」
「すみません」
少し間があった。
「……でも」
ガイウスは帳面へ目を落としたまま言った。
「たぶん、そうだ」
その頃。
帝国の研究室で、エレナは十三号の測定値を記録していた。
王国で誰が何を言っているのか、彼女は知らない。
知ろうともしていなかった。
ただ、自分の机の端に置いた技術協会の書類だけが、過去が少しずつ正しい形へ戻り始めていることを教えていた。
全部を奪い返さなくてもいい。
誰かを空っぽにしなくてもいい。
自分の名前が、自分の仕事へ戻ればいい。
それだけで。
昔のエレナが、工房の奥で誰にも見えないように積み上げてきた時間は、ようやく「なかったこと」ではなくなり始めていた。




