第25話 彼女を侮辱するなら、私が相手になろう
# 第25話 彼女を侮辱するなら、私が相手になろう
「今の発言は、聞かせてもらった」
クロムウェルの声は決して大きくなかった。
それなのに、研究院の正門前に流れていた夕刻のざわめきが、一瞬だけ遠のいたように感じた。
エレナの隣でカミラが姿勢を正し、少し離れた場所にいた警備兵たちもクロムウェルへ意識を向けている。
ガイウスは明らかに動揺していた。
当然だろう。
工房を訪れた銀髪の客がアルヴァレス帝国皇帝だったと知ったあとも、彼と直接向き合ったことはない。しかも今は、自分がエレナへ言い放った言葉を聞かれた直後である。
「皇帝陛下……これは、その」
「私へ弁明する必要はない」
クロムウェルが遮った。
「君とエレナの過去について、私が口を挟むつもりもない。二人の間で何があり、どういう感情が残っているのか、それを私が勝手に決めるべきでもない」
エレナは横に立つ彼を見た。
怒っている。
それでも最初に、そこを分ける。
自分には自分の過去があり、そのことまで奪わない。
そういうところが、この人らしかった。
「でしたら」
ガイウスがわずかに息を取り戻す。
「これは俺とエレナの問題です。陛下に出てきていただく話では――」
「そこまではそうだ」
クロムウェルは否定しなかった。
「だが、今の君は彼女の現在の職務と能力を侮辱した」
ガイウスの顔が強張る。
「侮辱など」
「『工房の奥で部品を削っていた女が、急に国家を背負えるわけがない』。そう言ったな」
ガイウスは返事をしなかった。
「それは私情の話ではない。帝国が正式な審査を経て任命した国家魔導技師長への評価だ。だから、その部分については私にも答える資格がある」
クロムウェルの言葉は静かだった。
怒鳴らない。
威圧するために皇帝という肩書きを振り回しもしない。
けれど、逃げ道も与えなかった。
「俺は事実を言っただけです」
ガイウスも引かなかった。
ここまで来た意地なのかもしれない。
「エレナは確かに技術があります。俺もそれは認めます。だが、国家魔導技師長なんて大役は別でしょう。帝国へ来てまだ短い。行政経験もない。外国人で、年齢だって二十歳です」
「その指摘は審査でも出た」
クロムウェルが答える。
「だからこそ、軍、研究院、医療部門、行政部門がそれぞれ評価した。反対意見も記録されている」
「それでも任命したのは陛下でしょう」
「ああ」
「なら、結局は陛下がエレナを気に入っているからでは?」
エレナの胸が少し硬くなった。
それは、自分自身も確認したことだった。
役職がクロムウェルの私情で与えられたものではないか。
そこだけは曖昧にしたくなかった。
だからエレナは、クロムウェルがどう答えるかを知っている。
「私が彼女を特別に思っていることは否定しない」
ガイウスの表情が変わった。
周囲まで静かになったような気がした。
エレナは自分の頬が熱くなるのを感じる。
「陛下」
小声で呼ぶ。
「何だ」
「今、それをここで言う必要は」
「ある」
即答された。
エレナは黙った。
「そこを隠して答えれば、後から都合よく疑われるだけだ」
確かにそうだが、もう少し言い方というものがあると思う。
クロムウェルはガイウスへ向き直る。
「私はエレナを一人の女性として特別に思っている。だからこそ、彼女の職務評価から私は距離を取った」
「そんな都合のいい話が」
「議事録がある」
クロムウェルの返答は簡潔だった。
「候補者の推薦者、審査項目、反対意見、採用理由。すべて残っている。私から彼女を候補に入れろと指示した記録があるなら持ってくるといい」
「記録なんて皇帝なら」
「書き換えられる、と?」
ガイウスが言葉に詰まった。
クロムウェルはわずかに眉を寄せた。
「そこまで言うなら、議論ではなく私個人の信用を否定する話になる。もちろん君には、私を信用しない自由もある」
意外な言葉だったのか、ガイウスが目を瞬く。
「ただし、信用しないことと、証拠もなく不正があったと断定することは別だ」
ガイウスの口が閉じた。
クロムウェルはさらに続ける。
「君が挙げた懸念そのものは間違っていない。エレナには行政経験が少ない。帝国の制度にも、まだ学ぶべきことが多い。国家魔導技師長だからといって、すべての分野で最も優秀なわけでもない」
エレナは少し意外に思った。
庇うなら、全部を褒めるのかと思った。
でもクロムウェルはそうしない。
「だから補佐官をつける。各分野の専門家も置く。一人で何でもできる人間を選んだのではない。自分に分からないことがあると理解し、必要な専門家へ聞ける人間を選んだ」
それは、今日の任命審査で聞いた言葉と同じだった。
「ガイウス殿」
クロムウェルの声が少しだけ低くなる。
「君は先ほど、彼女が工房の奥で部品を削っていた女だと言ったな」
「……言いました」
「それの何が劣っている?」
ガイウスが答えられなかった。
「表へ立つ者だけが仕事をしているわけではない。細かな部品を削る者がいなければ、魔導具は動かない。材料を測る者がいなければ量産できない。運ぶ者がいなければ兵士へ届かない。治療院で使う者がいなければ医療技術にはならない」
バルクやハロルドたちから学んだことを、クロムウェルも同じように見ているのだとエレナは思った。
「エレナが国家魔導技師長になったのは、工房の奥にいた過去を捨てたからではない」
クロムウェルは言った。
「そこでしていた仕事まで含めて、価値があったからだ」
エレナの胸の奥が熱くなる。
昔の自分。
誰からも名前を呼ばれず。
小さな部品を削り。
失敗した核を片づけ。
夜中まで調整を繰り返していた自分。
今の肩書きを得て、ようやく価値が生まれたわけではない。
あの頃から。
見つけてもらえなかっただけで。
ちゃんと価値はあった。
「だが俺が仕事を取らなければ、エレナの技術は商品にならなかった」
ガイウスが絞り出すように言った。
クロムウェルは否定しない。
「そうだろうな」
ガイウスが顔を上げる。
「なら」
「君の功績だ」
はっきり認めた。
「工房を経営し、顧客を得て、商品の要求を定め、市場へ出した。その能力まで誰も否定していない」
ガイウスの顔に戸惑いが浮かぶ。
敵として全否定されると思っていたのかもしれない。
「だからこそ、分けるべきだった」
クロムウェルの声は厳しかった。
「君がしたことは君の功績だ。彼女がしたことは彼女の功績だ。それだけの話を、なぜ一人の名前へまとめる必要があった?」
ガイウスは答えない。
「婚約者だから?」
クロムウェルが問う。
「将来夫婦になるから?」
エレナの胸へ、昔の言葉が蘇る。
『いずれ夫婦になるんだから、俺の名前でも君の名前でも同じだよ』
あのときは、本当にそうなのかもしれないと思おうとした。
「夫婦になれば、片方の仕事の名前を消していいのか?」
「そんなことは」
「では、違ったのだろう」
クロムウェルの言葉が落ちる。
ガイウスは苦しそうに眉を寄せた。
「今さら、俺だけが悪かったみたいに」
「私はそんな話をしていない」
クロムウェルは即座に否定した。
「エレナ自身も、自分が何も言わなかったことを反省している」
エレナは少し驚いた。
「聞いた」
クロムウェルが彼女へ一瞬だけ視線を向ける。
「自分も断らなかった。必要とされたくて無理をした。そう言っていたな」
「……はい」
「だから彼女は変えようとしている」
再びガイウスへ向く。
「君は?」
その一言だけが、最も鋭かった。
ガイウスの顔が止まった。
「俺だって変えると言っている」
「何を」
「給料を出す。名前も出す。条件も良くする」
「それは待遇だ」
「何が違う!」
「君はまだ、彼女が戻ることを前提にしている」
クロムウェルの声に怒気が混じった。
「彼女が何度戻らないと言っても、『本当は傷ついているだけだ』『皇帝に持ち上げられているだけだ』『意地を張っているだけだ』と、自分の納得できる理由へ置き換える」
エレナの胸が震えた。
自分が二日かけて伝えたことを、クロムウェルは正確に掴んでいる。
「それは彼女を見ているのではない」
クロムウェルは言った。
「君にとって都合のいいエレナを見ているだけだ」
ガイウスの顔が青ざめた。
「俺は……エレナを何年も知っている」
「長さは理解の保証にはならない」
「陛下に何が分かる! 会ってから何年も経っていないくせに!」
とうとうガイウスが声を荒らげた。
警備兵が動く。
けれどクロムウェルは手で制した。
「その通りだ」
あまりにも素直に認めたため、ガイウスのほうが怯んだ。
「私は彼女の過去のすべてを知らない。好物も知らないものがあるだろう。幼い頃のことも、父親とどんな会話をしたのかも、君のほうが知っていることが多いかもしれない」
エレナも黙って聞いていた。
「だから私は、知らないことを勝手に決めないようにしている」
クロムウェルの言葉が、ゆっくりエレナの中へ染み込んでいく。
「聞く。彼女が嫌だと言えば、理由を聞く。必要なら説得することはある。それでも最後に本人が選ぶべきことなら、本人に決めさせる」
「皇帝なのに?」
ガイウスが嘲るように言う。
「皇帝だからだ」
クロムウェルは迷わなかった。
「力のある側ほど、それを間違えてはいけない」
エレナは思わず彼を見た。
この人を怖くないと思った理由。
自分で話したことがある。
強い立場にいることより、その力をどう使う人なのかが大切だと。
あのときの自分の言葉を、今こうして形にして見せられた気がした。
「では」
ガイウスが乾いた声で言う。
「陛下は、エレナを何だと思っているんです」
「何だ、とは?」
「才能のある技師だから欲しいんでしょう」
ガイウスの視線がクロムウェルへ刺さる。
「軍用魔導灯を作った。治癒魔法を保存した。だから帝国に置いておきたい。それだけなら、俺と何が違う」
エレナの心臓が強く鳴った。
クロムウェルが自分を見つけたきっかけは、確かに技術だった。
それは彼自身が認めている。
「最初はそうだった」
今回も、彼は隠さなかった。
「彼女の技術を帝国へ迎えたいと思った。価値のある技術者だと判断した」
「やっぱり」
「だが、それだけではなくなった」
ガイウスの表情が固まる。
エレナも動けなかった。
「私は彼女が何も作れない日にも、無事でいてほしい」
クロムウェルはエレナを見なかった。
あくまでガイウスへ答えている。
それなのに、一言一言がエレナへ向かって届いてくる。
「失敗して落ち込んでいるときも。研究を忘れて笑っているときも。食事を忘れて周囲に叱られているときも」
「最後はいりません」
思わずエレナが言った。
クロムウェルが一瞬こちらを見る。
「重要だ」
「今ですか?」
「今だからだ」
この状況で何を言うのだろう。
それでも少しだけ空気が緩んだ。
ガイウスだけは笑わなかった。
「……そんなもの」
低い声が漏れる。
「今だけだ」
「何がだ」
「今は珍しいからそう思うんでしょう。エレナが新しい技術を作っているから。成果が出なくなったら、どうせ――」
「その話は、本人とすでにした」
クロムウェルが遮った。
ガイウスが黙る。
「作れなくなったらどうする、と彼女自身に聞かれた」
エレナはあの日を思い出した。
研究室のみんなが、自分の休んでいる間に十二号を作った日。
自分がいなくても研究が進むことを、怖いと思ってしまった日。
「私は答えた。仕事の形は変わるかもしれない。研究者として評価できなくなれば、職務上の扱いまで同じとは約束できない」
そこは甘くない。
だから信じられる。
「だが、それで彼女がエレナでなくなるわけではない」
ガイウスの顔が引きつった。
「技術者としての評価と、一人の人間として大切に思うことは別だ」
クロムウェルははっきり言った。
「私は彼女の技術だけを欲しいのではない」
その言葉は、以前エレナへ向けられたものだった。
今度は人前で。
しかも、自分を「役に立つ女」として取り戻そうとしている元婚約者の前で言われる。
エレナはどういう顔をしていいのか分からなくなった。
「……陛下」
「何だ」
「その辺りまで公開しなくても」
「君が困るならやめる」
すぐ止まった。
エレナはそれにも困った。
「いえ……もう十分聞かれましたから」
「なら続ける」
「続けるんですか?」
「必要な分だけだ」
ガイウスが二人を見ていた。
その顔には怒りもあった。
嫉妬も。
そして、少しずつ覆い隠せなくなっている敗北感のようなものもあった。
「俺のほうが、エレナと長くいた」
ガイウスが言う。
「はい」
今度はエレナが答えた。
「それは事実です」
「お前がどれだけ俺を支えていたかも、今は分かってる」
「そうですか」
「だから戻ってきてほしいと言っているんだ!」
まだ。
結局、そこへ戻る。
エレナは少しだけ悲しくなった。
「ガイウス様」
「何だ」
「分かっていただけたことは嬉しいです」
これは本心だった。
「昔の私がしていたことを、今になってでも認めてくださった。それは嬉しいです」
ガイウスの顔に僅かな期待が浮かぶ。
「でも」
エレナは続けた。
「だから戻る、にはならないんです」
その期待が消える。
「どうしてだよ」
「私の過去の仕事を評価してくれることと、私がこれから誰と、どこで、どう生きるかは別だからです」
「またそれか」
「はい。またです」
エレナは少し笑った。
「何度でも同じことを言います。そこが一番大切だから」
ガイウスは拳を握った。
「お前は、俺よりこいつを選ぶのか」
クロムウェルの眉が僅かに動く。
エレナはすぐに答えなかった。
以前なら。
この問いを向けられたら、誰かと誰かを天秤にかけること自体に戸惑っただろう。
今は少し違う。
「ガイウス様」
「何だ」
「私は、陛下を選ぶかどうかについて、まだ正式なお返事をしていません」
クロムウェルが横で僅かに固まった。
そう。
愛おしいと言われた。
好きになってもらう努力はするとまで言われた。
でもエレナは、まだ自分の気持ちをゆっくり考えている途中だ。
「ですが」
エレナは一度、クロムウェルを見た。
目が合う。
この人なら。
今ここで何を言っても、後からそれを義務にはしない。
そう思える。
「ガイウス様のもとへ戻らないことだけは、陛下とは関係なく決めています」
ガイウスが唇を噛んだ。
「そして、もし誰かの隣にいたいと思うなら」
そこから先は、自分でも少し勇気が必要だった。
「私が自分で選びます」
クロムウェルは何も言わない。
ただ、その目が少し柔らかくなった。
ガイウスは俯いた。
「……俺は」
掠れた声だった。
「そんなに、間違っていたのか」
初めて聞く問いだった。
自分を正当化するためではなく。
誰かを責めるためでもなく。
分からなくなっている人間の声だった。
エレナはすぐには答えなかった。
「全部が間違っていたとは思いません」
やがて言った。
「工房を大きくしたことも。お客様の要望を聞いて商品へまとめたことも。弟子を雇って育てたことも。ガイウス様にしかできなかったことは、たくさんあります」
ガイウスが顔を上げる。
「でも」
エレナは続けた。
「私の仕事まで、ガイウス様の仕事だと思ってしまったことは、間違っていたと思います」
もう一つ。
「私がずっとガイウス様を選び続けると、勝手に決めていたことも」
ガイウスは何も言えなかった。
クロムウェルがそこで初めて一歩前へ出た。
「ガイウス殿」
声は冷静だった。
「私は君の工房を潰したいわけではない。君から功績を奪いたいわけでもない」
「……」
「だが、エレナを侮辱するなら話は別だ」
クロムウェルの目が鋭くなる。
「彼女を侮辱するなら、私が相手になろう」
ガイウスの顔から血の気が引いた。
それは皇帝による脅しではなかった。
むしろ逆だった。
「ただし、権力で黙らせるつもりはない」
クロムウェルは続ける。
「技術なら技術で比べる。記録なら記録で確認する。功績なら事実に基づいて分ける。君が彼女より自分のほうが優れた技師だと言うなら、作品と説明で示せばいい」
「……」
「だが、『地味だから』『人前に出られなかったから』『昔は助手だったから』という理由で価値がないと言うなら、その判断は技術評価ではない」
そして。
クロムウェルは、あの日ガイウスの工房で見抜いていたものを、今度は本人へ真正面から突きつけた。
「彼女を無価値と判断した君の目が、最も価値を見抜けていなかっただけだ」
ガイウスは完全に黙った。
言い返せないのだろう。
軍用魔導灯。
治癒魔法保存器。
家庭用省魔力灯。
そして、国家魔導技師長という役職。
全部がクロムウェルの言葉を証明していた。
けれどエレナは、不思議と勝ち誇る気持ちにはならなかった。
胸がすっとした部分はある。
ずっと言ってほしかったことを、世界へ向かって言ってもらえたような気持ちもある。
それでも目の前にいるのは、何年も一緒にいた人だ。
崩れた顔を見て喜べるほど、過去を憎み切ってはいない。
「ガイウス様」
エレナが呼ぶ。
彼がゆっくりこちらを見る。
「王国へお帰りください」
「……追い返すのか」
「違います」
エレナは首を横に振る。
「ガイウス様にも、向き合わなければならない仕事があるでしょう?」
技術協会の調査。
工房の立て直し。
弟子たち。
取引先。
自分の名前で残る、本当の功績。
「私を連れ戻すことではなく、ご自分の仕事を立て直してください」
ガイウスは苦しそうに笑った。
「お前に言われるとはな」
「そうですね」
「昔は、俺の後ろをついてきていたのに」
「はい」
「……本当に変わった」
今度は嫌味に聞こえなかった。
エレナは少しだけ笑う。
「たぶん、前から考えていたことを言えるようになっただけです」
ガイウスはしばらくエレナを見ていた。
そして、クロムウェルを見る。
「陛下」
「何だ」
「エレナを……」
その先を言いかけて、ガイウスは自分で止めた。
エレナは分かった。
『頼む』
あるいは。
『大切にしてくれ』
そんな言葉を言おうとしたのかもしれない。
でも、それではまだエレナを誰かから誰かへ渡すような言い方になる。
ガイウスも途中で気づいたのだろう。
「……いや」
彼は首を振った。
「何でもありません」
クロムウェルは追及しなかった。
ガイウスは踵を返す。
数歩進んだところで、一度だけ足を止めた。
「エレナ」
「はい」
「協会の調査には、正直に答える」
振り返らずに言った。
「俺がやったことは俺が。お前がやったことは……お前が」
それは謝罪ではなかった。
すべてを認めた言葉でもない。
けれど。
今のガイウスにできる最初の一歩なのだろうと、エレナには思えた。
「お願いします」
それだけ返した。
ガイウスは今度こそ歩いていった。
夕暮れの街路へ小さくなっていく背中を、エレナはしばらく見送った。
終わった。
たぶん、今度こそ。
「エレナ」
クロムウェルに呼ばれて振り返る。
「平気か?」
「はい」
少し考えてから、正確に言い直した。
「寂しくないわけではありません。でも、戻りたいとは思いません」
「そうか」
「それでいいと思っています」
「ああ」
クロムウェルはそれ以上何も言わなかった。
慰めるでもなく。
過去を否定するでもない。
ただ隣に立っている。
それがありがたかった。
「ところで陛下」
「何だ」
「先ほどのことなんですけれど」
「どれだ」
「『彼女を侮辱するなら、私が相手になろう』というところです」
「何か問題が?」
「格好をつけすぎです」
クロムウェルが珍しく言葉に詰まった。
「……そうか?」
「かなり」
エレナは笑った。
「でも」
一度、言葉を切る。
「嬉しかったです」
クロムウェルの表情が少し柔らかくなる。
「そうか」
「ただし、次からは私にも言わせてくださいね」
「何を」
「自分を侮辱されたときの反論です。私、もう昔みたいに黙っていませんから」
クロムウェルは数秒エレナを見ていた。
それから、小さく笑った。
「知っている」
「なら、先に全部言わないでください」
「努力する」
「そこは約束ではないんですね」
「君が黙っていれば、私が言う」
「黙りません」
「なら問題ない」
結局、少しも譲る気がないらしい。
エレナは呆れながらも笑った。
「帰るか」
「はい」
クロムウェルの馬車が正門近くで待っていた。
歩き出したところで、エレナは今日一日の出来事を思い返す。
国家魔導技師長になった。
ガイウスへもう一度、戻らないと言った。
クロムウェルが自分を守ると言った。
あまりにも多い。
「今日は疲れました」
「研究はしていないのに?」
「午前中はしました」
「そうだったな」
「それに、人と話すほうが疲れます」
「知っている」
「では、今日は早く寝ます」
「良い判断だ」
「陛下もですよ」
「……努力する」
「またそれですか」
馬車へ乗り込む。
窓の外には、帝都の街灯が一つずつ灯り始めていた。
エレナはその光を眺めながら、静かに息を吐く。
もう、証明しなくていい。
ガイウスへ。
昔の自分へ。
誰かへ価値を認めさせるためだけに、壊れるまで働かなくていい。
明日からはまた、新しい仕事が始まる。
国家魔導技師長として。
研究室主任として。
そして何より。
エレナ・ヴァリエとして。
自分で選んだ場所で、自分の名前のまま歩いていけばいいのだ。




