第24話 私、国家魔導技師長になりましたので
# 第24話 私、国家魔導技師長になりましたので
翌朝、エレナが研究院へ着くと、精密魔導核研究室の様子が妙だった。
いつもなら測定器の起動音や工具の擦れる音が聞こえてくる時間なのに、今日は入口を開けた途端、室内にいた全員がこちらを見た。
「……おはようございます」
「おはようございます、主任」
リナが答える。
普通の挨拶だった。
ただし、笑顔が妙に大きい。
若い測定技師まで、何か言いたそうな顔でこちらを見ている。
「何ですか?」
「何がです?」
「皆さん、何か知っていますよね」
「私たちから言っていいことなのか分からないので」
「では、何も知らないふりをしてください。今のほうが気になります」
エレナが外套を脱ぎながら言うと、リナが困ったように笑った。
「あと少しで分かります」
「その言い方が一番気になるんですけれど」
机へ工具箱を置く。
昨日分解した治癒魔法保存器十二号の横には、予定どおり十三号の材料が二組用意されていた。
エレナはそちらへ手を伸ばしかけた。
「主任」
「はい?」
「今から始めないほうがいいですよ」
「どうして?」
「すぐ呼ばれると思いますから」
言われた直後、研究室の扉が開いた。
入ってきたのはオルディスだった。
その後ろにミレイアまでいる。
「エレナ主任。少しよろしいですか」
「やっぱり」
リナが小さく呟いた。
エレナはますます警戒した。
「私、何かしました?」
オルディスが珍しく笑う。
「なぜ最初に叱られる可能性を考えるのです?」
「お二人が揃っていらっしゃるので」
「休養後は勤務規則も守っているでしょう?」
ミレイアが聞く。
「守っています」
「食事は?」
「食べています」
「睡眠」
「昨日は七時間です」
「なら今回は違うわね」
「今回は、という言い方が気になります」
「細かいことはいいから来なさい」
エレナは研究室を振り返った。
全員が明らかに何か知っている。
「あとで説明してくださいね」
「たぶん説明する必要なくなりますよ」
リナの返事を背中で聞きながら、エレナは二人について研究棟を出た。
向かった先は院長室ではなかった。
研究院本館にある大きな会議室だった。
「……会議ですか?」
「似たようなものです」
オルディスが扉を開く。
中を見て、エレナは足を止めた。
ハロルドがいる。
帝国軍兵站局長のバルクもいる。
中央治療院からアメリアまで来ていた。
さらに研究院の各部門長と、見知らぬ官僚が数人。
そして一番奥には、クロムウェルが座っている。
「陛下まで?」
「来たか」
クロムウェルはそれだけ言った。
エレナは自分だけ事情を知らないことが急に心細くなった。
「……本当に、私が何かしたわけではないんですよね?」
バルクが豪快に笑った。
「むしろ、やりすぎたから呼ばれたんだろうな」
「その説明では安心できません」
「座りなさい、エレナ」
ミレイアに促され、用意されていた席へ座る。
目の前には厚い書類が一冊置かれていた。
表紙には帝国の紋章。
その下に、自分の名前がある。
『エレナ・ヴァリエ』
さらに、その上。
『国家魔導技師長任命審査 最終報告』
エレナは数秒、文字の意味を理解できなかった。
「……国家魔導技師長?」
聞いたことのない役職ではない。
正確には、昔の制度で似た呼び方が使われたことがある。
ただし、現在の帝国には常設されていないはずだった。
「どういうことですか?」
クロムウェルではなく、オルディスが答えた。
「近年、魔導技術が軍、医療、生活基盤、運輸など複数部門へまたがるようになっています。ところが現在の制度では、それぞれの研究機関や官庁が独立して技術評価を行っている」
「はい」
「その結果、規格が統一されていない。成果の権利関係も部門ごとに違う。軍で使える技術が民間へ移るまで必要以上に時間がかかる例もあります」
エレナは話を聞きながら、嫌な予感ではなく別の予感を覚え始めた。
「そこで、分野を越えて魔導技術を評価し、各機関を調整する技術責任者を置く制度案が以前から検討されていました」
「それが国家魔導技師長ですか?」
「そうです」
今度は、官僚の一人が説明した。
「ただし名称から想像されるほど、帝国中の技師へ直接命令する職ではありません。研究そのものは各専門家の判断を尊重します。国家事業に関わる魔導技術について、技術面から意見をまとめ、規格や安全基準、功績の記録方法などを調整する立場です」
そこでエレナは、ようやく自分の名前が書かれている意味を理解した。
「……まさか」
「そのまさかよ」
ミレイアが笑った。
「候補者の選定で、あなたの名前が上がったの」
「でも、私二十歳ですよ」
室内の何人かが笑った。
エレナは真面目だった。
「笑うところではありません。私は帝国へ来て、まだそれほど経っていませんし、外国出身です。それに研究室主任になったばかりで――」
「全部、審査で出た意見だ」
ハロルドが口を開いた。
「俺も最初は反対寄りだった」
「ハロルドさん?」
「年齢が若い。帝国の行政制度にも詳しくない。軍事技術の実地経験も少ない。専門は精密核で、何でも知っているわけではない。懸念としては正しい」
遠慮のない言い方だった。
だからエレナはかえって安心した。
「では、どうして?」
「何でも知らないことを、お前自身が分かっているからだ」
エレナは目を瞬く。
「軍用灯のときもそうだった。回路はお前が強い。だが耐久性や補修については、俺たちの意見を取り入れた。治癒魔法保存器でも、医療判断を勝手にやらず治癒魔導師へ聞いているそうだな」
アメリアが頷く。
「止めても聞かないところはありますけど、医学的な線引きには従ってくれます」
「止めても聞かないとは何ですか」
「研究を始めると時間を忘れるところです」
「最近は改善しています」
「知っています」
なぜかアメリアまで笑った。
オルディスが話を戻す。
「国家魔導技師長に必要なのは、帝国で最も何でも作れる人間ではありません。専門家の意見を聞き、その技術がどこまで自分の知識で判断できるかを理解し、それでも必要な決定を下せる人です」
「それに」
バルクが腕を組んだまま言う。
「お前さんは、兵站の話を聞いたときに『それは私の仕事ではありません』で終わらせなかった。だからといって、軍の都合だけを優先したわけでもない。治癒瓶の話でも軍専用にすることへ反対したそうじゃないか」
「治癒魔法保存器です」
「長い」
「勝手に名前を変えないでください」
「本人も最初、治癒瓶でいいと言っていたと聞いたぞ」
アメリアが吹き出した。
「言いましたけど、正式名称ではありません」
張りつめていた空気が少し緩んだ。
そのおかげで、エレナも目の前の話を考えられるようになった。
「でも」
一つだけ、どうしても確認したかった。
エレナはクロムウェルを見る。
「これは、陛下が決められたことですか?」
部屋の空気が静かになった。
失礼な質問かもしれない。
それでも、ここだけは曖昧にしたくなかった。
クロムウェルは気を悪くした様子もなく答えた。
「最終任命権は私にある」
「では」
「だが、候補者選定に私から君の名前は出していない」
エレナは黙った。
「制度設計と候補審査は研究院、軍、医務局、工務行政部門からそれぞれ人を出して行った。私は最終報告を受けた側だ」
「本当に?」
「疑うなら議事録を読め」
「読めるんですか?」
「機密部分以外ならな」
即答だった。
エレナは少し恥ずかしくなった。
「すみません」
「謝る必要はない」
クロムウェルの声は穏やかだった。
「むしろ確認してもらわなければ困る。私の私情で任命されたと思われれば、最も困るのは君だ」
私情。
その言葉に、エレナの胸が妙な反応をした。
クロムウェルは何事もなかったように続ける。
「君を特別に思っていることと、国家の役職へ任命することは別にする。そこを混ぜれば、君がこれまで積み上げたものまで傷つける」
室内には人がいる。
そんなところで「特別に思っている」と自然に言われ、エレナは一瞬固まった。
ミレイアが面白そうな顔をしている。
アメリアは視線を資料へ落としたが、口元が怪しい。
「陛下」
「何だ」
「その部分は、皆さんの前で言わなくてもよかったのでは?」
「事実だからな」
「事実でもです」
「今は役職の話だ」
「誰のせいで話が逸れたと思っているんですか」
クロムウェルが少し笑う。
エレナはますます居心地が悪くなった。
けれど、その一方で安心もしていた。
自分の仕事は、自分の仕事として評価されている。
そこをクロムウェル自身が守ろうとしてくれている。
「任命された場合、私は今の研究室を離れるんですか?」
実務へ話を戻した。
オルディスが答える。
「完全には離れません。精密魔導核研究室主任は兼務とします。ただし日常の運営は副主任を置き、徐々に分担してもらう予定です」
「副主任……」
真っ先に研究室の皆の顔が浮かんだ。
「私は、現場から離れたくありません」
「その意見も審査資料に書いてあります」
「誰が?」
「推薦者全員が、あなたを机上の管理職だけにすると能力を無駄にすると」
ミレイアが肩をすくめる。
「本人も絶対嫌がるって、私も書いたわ」
「よくご存じで」
「何年一緒に働いたと思ってるの」
「まだそんなに長くありません」
「あなたは一か月分の出来事が普通の人の三か月分くらいあるのよ」
それは褒められているのだろうか。
「仕事は増えますか?」
エレナが尋ねる。
今度は全員が少し黙った。
「増えるんですね」
「増える」
クロムウェルが答えた。
「やっぱり」
「だから補佐官をつける」
「自分で全部やろうとするのは禁止よ」
ミレイアも釘を刺す。
「技師長になった翌月に過労で倒れたら、制度そのものが失敗扱いされるわ」
「それは困ります」
「研究が止まるから?」
「私が恥ずかしいので」
バルクが大きく笑った。
「少しは自分の心配もするようになったじゃないか」
「最近、かなり教育されました」
「誰に?」
問いに、エレナは答えなかった。
答えなくても、何人かは分かっている顔をしていた。
エレナは改めて書類を見る。
国家魔導技師長。
あまりにも大きな文字だった。
「一つ、条件を出してもいいでしょうか」
クロムウェルが頷く。
「聞こう」
「国家事業の成果を記録するとき、実際に誰が何をしたのかを必ず残す仕組みを作りたいです」
室内の空気が少し変わった。
「主任設計者だけではなく、回路、素材、測定、耐久、量産工程。それぞれの責任と貢献を記録するんです」
昔。
自分の名前は消えた。
工房主一人の名前の下に、全部がまとめられた。
けれど、今度は逆に自分一人の名前へ全部を集めたくない。
「軍用魔導灯も、私一人では完成しませんでした。治癒魔法保存器もそうです。誰か一人だけを天才として記録すると、あとで技術そのものが失われます」
ハロルドが頷く。
「賛成だ」
「もう一つ」
「まだあるの?」
ミレイアが笑う。
「あります」
「言ってみなさい」
「失敗した試作の記録を、正式な研究成果として残せる仕組みも欲しいです」
「失敗を?」
「はい。成功した完成品だけ残すと、次の人が同じ失敗をします。どの材料で駄目だったか、どの条件で壊れたか。それも技術だと思います」
オルディスがゆっくり頷いた。
「それは研究院で先行して制度化できます」
「それから、休養規定も」
一瞬、全員がエレナを見る。
「……何ですか?」
ミレイアが笑いを堪えている。
「あなたの口から休養規定が出る日が来るとは思わなかっただけよ」
「私も学習します」
「良い傾向ね」
「技術者が倒れなければ完成しない工程は、工程のほうに問題があります。特定の一人へ作業が集中しているなら、それも設計不良と同じだと思うんです」
言いながら、自分でも実感があった。
以前の自分自身が、まさにそうだった。
エレナがいなければ止まる工房。
それを優秀さの証だと思っていた。
違った。
組織としては危険な状態だった。
「以上を提案として受け入れていただけるなら」
エレナは書類の最後へ目を落とした。
「国家魔導技師長の任を、お受けします」
静かな拍手が起こった。
最初はアメリアだった。
次にハロルド。
やがて会議室全体へ広がる。
エレナはどう反応していいのか分からず、少しだけ頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「もっと堂々としていなさい」
ミレイアに言われる。
「まだ慣れていないので」
「これから慣れればいい」
その言葉を聞いて、エレナはクロムウェルを見た。
彼が以前から何度も言っていた言葉だ。
慣れろ。
褒められることに。
正当に評価されることに。
大切にされることに。
クロムウェルは何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
正式な任命辞令が読み上げられた。
エレナ・ヴァリエ。
帝国国立魔導研究院、精密魔導核研究室主任を兼任。
新設される国家魔導技術統括制度に基づき、国家魔導技師長へ任命。
軍、医療、生活基盤その他の国家事業に関わる魔導技術について、技術評価と各専門機関の調整を担う。
それは「何でも一人で作る天才」の称号ではなかった。
むしろ逆だ。
一人では作れないものを、専門家たちと一緒に作るための役職だった。
だからこそ、今のエレナには受け取ることができた。
任命式を終えて研究室へ戻ると、扉を開けた瞬間に拍手が起きた。
「おめでとうございます、技師長!」
リナの声だった。
エレナは入口で固まる。
「もう知っているんですか?」
「朝から知っていました」
「やっぱり」
「ただ、正式に受けるかどうかは主任次第だと聞いていましたから」
「断ると思いました?」
「少し」
「どうしてです?」
「肩書きが大きすぎるって言うかなって」
「言いました」
「やっぱり」
研究室に笑いが起きる。
エレナも笑った。
「ただ、呼び方は主任のままでお願いします」
「ええ?」
「だってこの研究室では主任でしょう?」
「国家魔導技師長ですよ?」
「毎回そんな長い肩書きで呼ばれたら、返事をする前に疲れます」
若い測定技師が真面目な顔で言う。
「では、技師長主任?」
「増やさないでください」
また笑いが起きた。
その賑やかさが、嬉しかった。
役職が変わっても、ここでは変わらない。
エレナは自分の机へ戻り、いつもの椅子へ座った。
「それで、十三号を――」
「主任」
リナが止める。
「今日は少しくらい任命を喜びません?」
「喜んでいます」
「顔が完全に研究の顔です」
「役職が上がっても十三号の問題は解決しませんから」
「さすがです」
結局、午後は予定どおり治癒魔法保存器十三号の組み立てに使った。
国家魔導技師長になったからといって、刻印幅が勝手に最適化されるわけではない。
そこだけは肩書きも皇帝も助けてくれない。
エレナには、その現実がむしろ心地よかった。
夕方。
勤務終了時刻を迎えたエレナは、自分から工具を置いた。
「今日はここまでにします」
誰かに言われる前だった。
リナが驚く。
「技師長になった途端、模範的ですね」
「初日に過労で残業したら一生言われそうなので」
「よく分かっています」
外套を羽織り、カミラとともに研究院を出る。
正門の外には、夕暮れの帝都が広がっていた。
そこでエレナの足が止まった。
「……ガイウス様」
門の少し離れた場所に、ガイウスが立っていた。
研究院への再入館を断られたのだろう。
警備兵が距離を取って見張っている。
彼はエレナに気づくと、すぐこちらへ歩いてきた。
「待っていた」
「昨日、お話は終わったはずです」
「俺は終わったと思っていない」
カミラがエレナの前へ出ようとする。
エレナは片手で制した。
「ここで話します。少しだけなら」
「主任」
「大丈夫です。警備の方もいますから」
カミラは完全には納得していない顔だったが、一歩後ろへ下がった。
ガイウスは昨日より疲れて見えた。
長旅のせいだけではないのだろう。
「昨日言っていた『今の立場』って何だ」
いきなり本題だった。
「もう公示される時間ですから、お話しして構いません」
「何なんだ」
「今日、正式に任命されました」
「何に」
エレナは少しだけ息を整えた。
自慢したいわけではない。
この肩書きがあるからガイウスより偉い、と言いたいのでもない。
ただ、彼がいまだに「工房へ戻って以前の仕事を優先しろ」と言うなら、今の事実を伝える必要があった。
「国家魔導技師長です」
ガイウスの顔が止まった。
「……何?」
「帝国の国家魔導技師長に任命されました」
「そんな役職、聞いたことがない」
「新しい制度です。国家事業に関わる魔導技術について、各部門の技術調整を担当します。研究院の主任も兼任します」
ガイウスは数秒、何も言わなかった。
「お前が?」
「はい」
「二十歳のお前が?」
「年齢の話は審査でも出たそうです」
「外国人だぞ」
「それも出ました」
「だったら、どうして」
「審査の結果だそうです」
淡々と答えるほど、ガイウスの顔色が変わっていく。
「皇帝がやったのか」
「違います」
「そんなわけがあるか!」
「候補審査は研究院、軍、医療、行政の合同です。陛下は最終任命をされただけです」
「それを信じているのか?」
その言い方に、エレナの胸が少し冷えた。
「議事録も確認できます」
「そんなもの、どうとでも作れる!」
「ガイウス様」
声を少しだけ強くした。
「陛下や研究院の方々を、根拠なく侮辱しないでください」
ガイウスが黙る。
エレナは続けた。
「私が国家魔導技師長になったから、ガイウス様のところへ戻らないわけではありません」
「なら」
「役職がなくても戻りません」
そこははっきりさせる。
「昨日お伝えした気持ちは、何も変わっていません」
「だったら、肩書きをわざわざ言う必要があるのか」
「あります」
「何でだ」
「ガイウス様がまだ、『工房へ戻って以前の仕事を優先しろ』と言うからです」
エレナは真正面から彼を見た。
「私は今、帝国で責任のある仕事を任されています。研究室にも共同研究にも、これから関わる国家事業にも、私なりの責任があります」
「王国に戻れば、もっと大きな仕事を――」
「だから、そういう話ではありません」
もう怒鳴る必要もなかった。
「私が決めた仕事です」
ガイウスの表情が歪む。
「工房だって、お前の仕事だっただろう」
「そうでした」
「なら」
「終わったんです」
静かに言った。
「ガイウス様が終わらせました。そして私は、そのあと別の仕事を選びました」
「選び直せばいい」
「選び直しません」
「エレナ!」
ガイウスが声を荒らげた。
警備兵が動く。
カミラもすぐ前へ出ようとした。
それでもエレナは、その場を動かなかった。
「俺はここまで来たんだぞ!」
「はい」
「王国からわざわざ!」
「頼んでいません」
ガイウスの口が止まる。
「俺の工房は今、本当に危ない。お前が戻れば立て直せる。協会の調査だって、お前が一緒に説明すれば――」
「それはガイウス様が向き合うことです」
「冷たいことを言うな!」
「冷たいのかもしれません」
以前なら、その一言で罪悪感に負けた。
今は違う。
「でも、ガイウス様の工房を立て直すために、私が今の仕事を捨てる理由にはなりません」
「俺が困っていてもか?」
エレナは一瞬だけ黙った。
昔好きだった人だ。
困っていると聞けば、何も感じないわけではない。
でも。
「困っているなら、できる範囲で技術協力することはあります。正式な窓口を通してなら、王国の技師さんたちと情報共有もします」
ガイウスの顔に僅かな期待が浮かぶ。
「なら工房にも」
「戻りません」
期待はすぐ消えた。
「技術協力することと、もう一度ガイウス様の下で働くことは別です」
「下じゃない。一緒にだ」
「今度は?」
ガイウスが言葉に詰まる。
「今度は一緒にすると言っている」
「でも、私はそれを望んでいません」
エレナは少しだけ困ったように笑った。
「昨日から、ずっとそこが抜けています」
ガイウスの拳が震えている。
「……その肩書きが、そんなに大事なのか」
「大事です」
エレナは認めた。
「肩書きそのものより、そこへ至るまでに皆さんが私の仕事を見てくださったことが大事です」
「俺だって今は見ている」
「失ってからですね」
ガイウスが黙る。
「それが悪いと言いたいわけではありません。人は失って初めて分かることもあります」
自分だってそうだ。
倒れて初めて休む大切さを知った。
人に任せて初めて、一人で抱え込む必要がないと知った。
「でも、分かったからといって、必ず元に戻せるわけではありません」
「……」
「私も、もう元の私ではありませんから」
昔と同じ工具を使う。
同じように細かな刻印を見る。
けれど今は、自分の仕事へ自分の名前を書く。
嫌なことを断る。
人に任せる。
休む。
好きな人へ、会いたいと思える。
その全部を覚えてしまった。
「ですから」
エレナは少しだけ頭を下げた。
「申し訳ありません。私、もう帝国の国家魔導技師長になりましたので、ガイウス様の工房へ戻って以前と同じように働くことはできません」
そこで一度、言葉を区切る。
「……いいえ」
エレナは自分で訂正した。
「役職がなくても、戻りません。そこは間違えないでください」
ガイウスは何も言えなかった。
夕暮れの風が二人の間を抜ける。
研究院の正門では、仕事を終えた技師たちが行き交っている。
何人かがエレナへ気づき、「技師長、おめでとうございます」と声をかけていく。
エレナはそのたび少し照れながら頭を下げた。
ガイウスは、それを黙って見ていた。
工房の奥で自分を待っていた女ではない。
自分の指示を聞き、細かな仕事を引き受け、自分の名義の下で黙って働いていた婚約者でもない。
この国で。
この研究院で。
多くの人間から、一人の技術者として名前を呼ばれている。
「……国家魔導技師長」
ガイウスが低く呟いた。
その声には、まだ納得できない感情が滲んでいた。
「そんなもの……」
エレナは彼を見る。
「そんなもの?」
「そんな肩書きを一つもらったくらいで、お前自身まで偉くなったわけじゃない」
カミラの表情が変わった。
けれどエレナは止めなかった。
ガイウスは、抑えていたものが切れたように続ける。
「帝国の連中が持ち上げているだけだ。お前は元々、人前にも出られなかっただろう。俺がいなければ客ともまともに話せなかった。工房の奥で部品を削っていた女が、急に国家を背負えるわけがない」
昔なら。
一つ一つが刺さっただろう。
今のエレナは、不思議なくらい静かだった。
「そうですね。今でも苦手なことはあります」
「だったら――」
「だから、人に助けてもらいます」
ガイウスの言葉が止まる。
「全部一人でできる人が国家魔導技師長になるわけではないそうです」
「言い訳だ」
「かもしれません」
エレナは穏やかに答えた。
「でも私は、もう一人で全部できるふりをするつもりはありません」
「……」
「できないことは、できる人にお願いします。それで一緒に作ります」
ガイウスは何か言おうとした。
けれど、その前に背後から落ち着いた声がした。
「そこまでにしてもらおう」
エレナの胸が一瞬で大きく鳴った。
振り返らなくても分かる。
聞き慣れた声だった。
カミラが姿勢を正す。
正門の内側から、クロムウェルが歩いてくる。
護衛と秘書官を伴っていたが、その視線はまっすぐガイウスへ向けられていた。
冷静で。
静かで。
それだけに、エレナには分かった。
クロムウェルは、怒っている。
ガイウスも相手が誰なのか気づいたらしい。
顔から血の気が引いた。
「……皇帝陛下」
クロムウェルは答えなかった。
エレナの隣まで来ると、一度だけ彼女の顔を確認する。
「帰るところだったのか」
「はい」
「そうか」
それだけ言ってから、ガイウスへ向き直った。
いつもの研究室で見せる穏やかな表情は消えていた。
「今の発言は、聞かせてもらった」
ガイウスの喉が動く。
エレナは、クロムウェルの声が低くなるのを聞きながら、ほんの少しだけ困った。
どうやら。
今日の話は、まだ終わってくれないらしい。




