第23話 あなた、まだ自分が選ぶ側だと思っているんですか?
# 第23話 あなた、まだ自分が選ぶ側だと思っているんですか?
「意地を張るな、エレナ。俺のところへ戻れ」
その言葉を聞いても、エレナの胸はもう以前のようには乱れなかった。
驚きも、悲しみもないわけではない。
むしろ、目の前にいるガイウスが昔とほとんど同じ調子でそれを口にしたからこそ、長い間うまく言葉にできなかった違和感の正体が、ようやくはっきり見えた気がした。
ガイウスは「戻ってほしい」と頼んでいるのではない。
まだ、自分がエレナの行き先を決められると思っている。
婚約を終わらせたときと同じだった。
あの夜も、ガイウスは自分が選び、自分が終わらせ、自分が新しい婚約者を選ぶ側だと思っていた。
そして今度は、自分が判断を変えたのだから、エレナも元の場所へ戻るのが当然だと思っている。
「ガイウス様」
エレナは椅子へ座ったまま、静かに彼を見上げた。
「一つ、確認してもいいですか?」
「何だ」
「私が戻ったとして、どうなるんです?」
ガイウスは少し意外そうな顔をした。
てっきり拒絶されると思っていたのかもしれない。
「さっき言っただろう。待遇は以前より良くする。給料も正式に払うし、設計したものにはお前の名前も出す。協会にも説明する」
「研究内容は?」
「工房の仕事を優先してもらう。当然だろう」
「帝国で進めている治癒魔法保存器は?」
「それは……持って来ればいい」
エレナの眉が僅かに動いた。
「持って来る?」
「研究の続きを王国でやればいい。王国だって帰還要請を出したんだから、設備くらい用意するだろう」
「共同研究者は?」
「必要なら、向こうで新しく集めればいい」
「今一緒に研究している人たちは?」
「帝国の人間だろう。お前がそこまで気にする必要があるのか?」
その言葉に、エレナの気持ちはさらに静かになった。
リナ。
測定担当の青年。
アメリア。
医療側の人々。
素材加工に協力してくれた技師たち。
全員で積み上げてきた研究を、ガイウスはまるでエレナ一人の荷物のように扱っている。
「あります」
「何?」
「気にする必要があります。治癒魔法保存器は私一人の研究ではありませんから」
「でも主任はお前なんだろう?」
「主任なら、共同研究者を置いて行っていいんですか?」
「そういう意味じゃない」
「私には、そう聞こえました」
ガイウスが苛立ったように息を吐いた。
「細かいことばかり言うな。研究ならどこでもできるだろう。必要な設備も人間も、王国で揃えればいい」
「研究って、そんなふうに交換できるものではありません」
「人の話を聞け」
「聞いています」
エレナは声を荒らげなかった。
だからこそ、ガイウスの苛立ちは目立った。
「ガイウス様は、私が何をしているかではなく、私の技術だけを王国へ持ち帰りたいんですか?」
「違う」
即答だった。
「俺はお前自身に戻ってほしいと言っている」
「では、私が今どんな生活をしていて、何を大切にしているかも含めて考えてくださっていますか?」
「だから工房へ戻れば、以前より自由に――」
「それです」
エレナが言葉を挟んだ。
「何がだ」
「最初から、戻ることが前提になっています」
ガイウスが黙る。
「私が戻りたいかどうかを、一度も聞いていませんよね」
「聞く必要があるのか?」
その答えがあまりにも自然に返ってきたので、エレナは一瞬だけ言葉を失った。
ガイウス自身、本当に疑問なのだろう。
だからこそ、悲しい。
「あると思います」
「何年も一緒にいたんだぞ」
「はい」
「結婚する予定だった」
「それも覚えています」
「工房だって一緒に大きくするつもりだった。なら、俺が間違いを認めて条件まで改善すると言っているのに、戻らない理由がどこにある?」
エレナはしばらくガイウスを見た。
昔なら。
ここまで言われたら、自分が贅沢なのではないかと思ったかもしれない。
ガイウスが譲歩してくれている。
給料もくれる。
名前も出してくれる。
戻っていいと言ってくれる。
それなら自分も歩み寄るべきではないか、と。
けれど今は分かる。
問題は条件だけではなかった。
「私が戻りたくないからです」
簡単な答えだった。
ガイウスの顔が歪む。
「だから、それは今の感情で――」
「ガイウス様」
エレナは少しだけ声を強くした。
「私が戻りたくないと言っていることを、どうして『本当の気持ちではない』ことにするんです?」
「お前は傷ついているからだ」
「傷つきました」
「あの婚約破棄でだろう」
「はい」
「なら」
「でも、傷ついた人間の判断は全部間違っているんですか?」
ガイウスが止まった。
「私は確かに傷つきました。腹も立ちました。自分が何年もしてきたことを、何だったんだろうと思いました。でも、それだけで帝国に残ると決めたわけではありません」
「皇帝に言いくるめられたのか」
「違います」
「では何だ」
「ここにいたいからです」
エレナは同じ言葉を、今度はもっとはっきり言った。
「研究室のみんなと仕事を続けたい。治癒魔法保存器を完成させたい。家庭用魔導灯も途中です。それに、自分の名前で仕事をして、自分の意見を言って、自分で仕事を選べる今の生活が好きなんです」
「王国でもできる」
「できるかもしれません」
ガイウスが僅かに勢いを取り戻す。
「なら――」
「でも私は、王国でやり直したいわけではありません」
「なぜそこまで王国を嫌う!」
「王国を嫌っているなんて、一度も言っていません」
また、自分の理解しやすい形へ押し込めようとする。
エレナはそれに気づいた。
「今日だって王国の使節団と技術協議をしました。今後、共同研究をする可能性もあります」
「だったら帰ればいいだろう!」
「協力することと、住む場所を変えることは別です」
「お前は昔から理屈ばかり――」
そこでガイウスが止まった。
言ってはいけないと気づいたらしい。
けれど、エレナは続きを予想できた。
細かい。
面倒だ。
融通が利かない。
何度も言われてきた言葉だ。
「昔から?」
「……何でもない」
「続けてください」
「エレナ」
「どうぞ」
ガイウスは目を逸らした。
昔なら、その仕草を見ただけでエレナのほうが折れていた。
今は待った。
「お前は昔から、細かいところに拘りすぎる」
「そうですね」
あっさり認める。
「だから話が進まないんだ」
「その細かいところで、魔導具は動くんですよ」
ガイウスが黙った。
魔導具だけではない。
人間関係もそうなのかもしれない。
外から見れば大したことがない差。
呼び方。
名義。
休息。
給料。
選ぶ権利。
そういう「細かいところ」を無視した結果、長い時間をかけて関係は壊れた。
「ガイウス様は、私に戻ってほしいと言いますけれど」
エレナはゆっくり言葉を選んだ。
「私が戻ったら、ガイウス様にとって都合がいいからではありませんか?」
「都合って」
「工房の修理ができる。協会の調査でも、私が戻れば『本当は問題なかった』と説明しやすくなる。王宮の信頼も取り戻せるかもしれない。商品もまた作れる」
「それだけじゃない!」
強い否定だった。
エレナは黙って次を待つ。
「俺は……」
ガイウスは拳を握った。
「俺は、お前がいなくなってから何もかもおかしくなった」
「はい」
「工房へ帰っても、お前がいない。誰も新型核を完成させられない。修理品が積まれて、客には責められる。弟子には昔のことまで言われる。協会では、俺の発明じゃないみたいに扱われる」
言葉が次々に出てくる。
怒り。
焦り。
惨めさ。
そして、ようやく隠し切れなくなった弱さ。
「最初は、お前が少し休めば戻ってくると思っていた」
エレナは何も言わなかった。
「手紙を出せば、戻ると思った。王国が正式に呼び戻せば、さすがに戻るだろうと思った」
「でも戻らなかった」
「ああ」
「それで帝国まで?」
「そうだ」
初めて、ガイウスの声から命令口調が少し薄れた。
「何でだよ」
苦しそうな声だった。
「何で、そこまで俺のところへ戻りたくないんだ」
その質問を。
エレナはずっと聞いてほしかったのかもしれない。
命令ではなく。
決めつけでもなく。
どうして、と。
ようやく尋ねられた。
「怖かったからです」
ガイウスが顔を上げる。
「何が」
「また同じことになるのが」
「ならない。俺は条件を変えると言っている」
「条件だけではありません」
「だったら何だ」
「私は、ガイウス様のところにいた頃、自分がどこまで我慢すればいいのか分からなくなっていました」
言葉にすると、昔の自分が少し遠く感じた。
「名前がなくても、いつか夫婦になるからいい。お給料がほとんどなくても、将来は同じ工房だからいい。寝なくても、納期が終われば休める。怪我をしても、動けるなら仕事をする。私だけが調整できるなら、私がやるしかない」
「俺はそんなことを強制したつもりは――」
「はい」
エレナは遮らなかった。
「分かっています」
ガイウスが意外そうに黙る。
「命令されたことばかりではありません。私が勝手に頑張ったことも多いです。ガイウス様に必要とされたかったから」
「なら俺だけが悪いわけじゃ」
「悪い人を決めたいんじゃありません」
エレナの声は穏やかだった。
「私もよくなかった。言わなかったし、断らなかった。だからこそ、同じ場所へ戻ったら、また同じことをする自分になるのが怖いんです」
ガイウスはすぐには答えなかった。
「今は違います」
エレナは続ける。
「皆さんが私に休めと言います。仕事を分担します。間違ったら、普通に訂正されます。私も人に任せられるようになりました。誰かに良い案を出されたら、少し悔しいですけど、嬉しいと思えるようになりました」
「そんなことなら工房でもできる」
「できるかもしれません」
「だったら」
「でも、私はもう試したくないんです」
ガイウスの顔が強張る。
「何?」
「ガイウス様ともう一度やれば今度は上手くいくかもしれない。そういう可能性がゼロだとは言いません」
エレナは正直に言った。
「でも、その可能性へ自分の人生を賭けたいとは思いません」
長く一緒にいたから。
良い思い出もあるから。
彼にも彼なりの事情があったから。
だからもう一度。
そんなふうに決める必要はない。
「私は、今の生活を捨ててまで試したくありません」
「俺より帝国を選ぶのか」
「比べ方が違います」
「同じだろう!」
「違います」
エレナは首を横に振った。
「私は誰か一人を選んで、残りを全部捨てる話をしているわけではありません。私は、自分の人生をどうしたいか決めているだけです」
ガイウスは理解できないという顔をした。
その顔を見ながら、エレナはとうとう一番聞きたかったことを口にした。
「ガイウス様」
「何だ」
「あなた、まだ自分が選ぶ側だと思っているんですか?」
室内の空気が止まった。
カミラも、事務官も何も言わない。
ガイウスだけが、明らかに息を呑んだ。
「……何を」
「婚約を破棄したときもそうでした」
エレナは淡々と続けた。
「ガイウス様が私を不要だと判断して、セシリア様を選んだ。私はそれを受け入れる側でした」
「その話は――」
「今は逆です」
ガイウスの言葉を静かに止める。
「ガイウス様が『戻っていい』と言ったからといって、私が戻るとは限りません」
「俺は戻っていいなんて」
「『戻れ』ですね」
エレナは少しだけ笑った。
「もっと強かったです」
「……」
「給料を上げる。名前を出す。婚約だって――」
そこまで言うと、ガイウスの目が動いた。
エレナは気づく。
「まさか」
嫌な予感がした。
「何だ」
「婚約まで、元に戻すつもりだったんですか?」
ガイウスは少し黙った。
その沈黙が答えだった。
「条件次第では」
やがて彼は言った。
「条件次第?」
「すぐにとは言わない。だが、お前が工房へ戻って、以前のようにやれるなら、婚約をやり直すことだって考えている」
エレナはしばらく何も言えなかった。
怒りではない。
呆れに近かった。
「考えている?」
「ああ」
「ガイウス様が?」
「そうだ」
「私ではなく?」
ガイウスの表情が固まる。
「婚約をやり直すかどうかを、ガイウス様が考えているんですか?」
「何が言いたい」
エレナは息を吐いた。
本当に。
まだなのだ。
ここまで来ても。
「どうして、私がガイウス様との婚約を望んでいると思うんです?」
「……何?」
今度こそ、本気で分からない顔をされた。
「だって、俺たちは長く――」
「長かったです」
「お前は俺を好きだった」
「好きでした」
「だったら」
「昔の話です」
エレナははっきり言った。
「私はもう、ガイウス様と結婚したいとは思っていません」
「そんなこと」
「どうして言い切れないと思うんです?」
「お前は俺以外の男なんて――」
言いかけて止まった。
クロムウェルの存在を思い出したらしい。
ガイウスの顔に、苛立ちと焦りが同時に浮かぶ。
「やっぱり皇帝か」
「今は陛下の話をしていません」
「してるだろう!」
「していません」
エレナは落ち着いていた。
「私がガイウス様と結婚したくないことと、陛下をどう思っているかは別です」
「同じだ!」
「違います」
「違わない。あいつがいなければ、お前は――」
「戻ったと思いますか?」
ガイウスが止まる。
エレナは自分でも考えた。
もし、あの雨の夜にクロムウェルが来なかったら。
帝国へ行かなかったら。
仕事が見つからなかったら。
行く場所がなかったら。
ひょっとすると。
絶望して、ガイウスの手紙へ縋った可能性はある。
でも。
「分かりません」
正直に言った。
「もし陛下に出会わなければ、私はもっと長く迷ったと思います。生活のために戻ることを考えたかもしれません」
ガイウスの目に僅かな期待が浮かぶ。
「なら――」
「でも、それはガイウス様を選んだことにはなりません」
期待が消える。
「他に生きる場所を知らなかったから戻るだけです」
「……」
「今の私は、他の場所を知りました」
正当に仕事を評価される場所。
失敗しても人格まで否定されない場所。
休めと言ってくれる人がいる場所。
自分が黙っていても、誰かが名前を記録してくれる場所。
そして。
何も作れない日でも大切に思うと言ってくれる人がいる場所。
「知ってしまったんです」
エレナは静かに笑った。
「自分を大切にしてくれる場所が、ちゃんとあることを」
ガイウスは返せなかった。
「だからもう、戻れません」
長い沈黙だった。
窓の外から、研究棟の遠い機械音が聞こえてくる。
いつもなら心地よい音だった。
今も、不思議とエレナを落ち着かせた。
ここには自分の仕事がある。
これが終わったら、研究室へ戻ればいい。
「……俺は」
ガイウスがようやく口を開いた。
「本当に何もなかったのか」
「何がです?」
「お前にとって俺は」
その言葉には、今までの傲慢さが少なかった。
エレナの胸に、少しだけ昔の痛みが戻る。
「ありましたよ」
だから、そこは嘘をつかなかった。
「何年も一緒にいました。好きでした。結婚したいと思っていました。工房も一緒に大きくしたかったです」
ガイウスの顔が僅かに緩む。
「でも、それは過去です」
その表情が止まる。
「過去だったからといって、無かったことにはなりません。でも、昔大切だったから、これからも同じ関係でいなければいけないわけではないでしょう?」
「俺はやり直したい」
初めて。
その言葉は命令ではなかった。
エレナは少しだけ目を伏せた。
「私は、やり直したくありません」
声は震えなかった。
「……どうしてもか」
「はい」
「何を言っても?」
「はい」
ガイウスは力が抜けたように椅子へ座り直した。
初めて、彼が本当に拒絶されたのだと理解したように見えた。
けれど、それでもまだ完全には受け入れられないらしい。
「お前は分かってない」
「何をですか」
「帝国での立場がいつまで続くかなんて分からないだろう」
また、少しずついつもの調子が戻る。
「皇帝が今はお前を気に入っていても、国にはもっと優秀な技師がいる。政治だって変わる。いつか必要なくなったらどうする」
エレナは以前なら、その言葉に傷ついただろう。
今は違った。
「そのときは、そのとき考えます」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも」
エレナは少し笑った。
「必要なくなることを怖がって、一生誰かにしがみつくほうが、今の私には怖いです」
「俺なら捨てない」
あまりにも皮肉な言葉だった。
エレナは怒る代わりに、少しだけ悲しそうに笑った。
「一度、捨てましたよ」
ガイウスの顔が固まった。
「だから、約束だけでは戻れないんです」
沈黙が落ちる。
ガイウスは何かを言おうとして、結局言葉を見つけられなかった。
エレナは立ち上がった。
「お話は、これで終わりでよろしいですか?」
「待て」
「まだありますか?」
ガイウスも立ち上がる。
「俺は納得していない」
「それは、ガイウス様の問題です」
以前なら絶対に言えなかった言葉だった。
「私はもう、自分の意思を伝えました」
「エレナ」
「戻りません。婚約もやり直しません」
言葉を区切る。
「これ以上、同じことを繰り返しても答えは変わりません」
ガイウスは唇を噛んだ。
「……随分強くなったな」
その言葉には、嫌味だけではないものが混じっていた。
エレナは少し考えてから答える。
「強くなったというより、言えるようになったんだと思います」
「何を」
「嫌なことを嫌だと。やりたいことをやりたいと」
それだけだった。
昔から、考えていなかったわけではない。
ただ口にできなかった。
「では、私は研究室へ戻ります」
「待て、エレナ」
ガイウスの声が追いかけてくる。
「何ですか」
「せめて……王国へ戻ることだけでも、もう一度考えろ」
「考えません」
「お前は王国の人間だろう」
「生まれた国は王国です。でも今、働いているのは帝国です」
「研究室主任だからって、いつまでもそこにいられる保証はない」
「分かっています」
「だったら――」
「ガイウス様」
エレナは静かに彼を見る。
「私、今の立場について、まだお伝えしていないことがあります」
ガイウスが眉を寄せた。
「何だ」
それは、帝国へ来たばかりの頃なら想像もできなかったことだった。
研究院の特別技術職。
精密魔導核研究室主任。
そこからさらに。
これまで積み上げた成果を正式に評価するため、帝国側で新しい人事が決まっている。
まだ辞令を受けたばかりで、ガイウスは知らない。
エレナは一度だけ息を整えた。
「そのことも含めて、ガイウス様には今の私をきちんと知っていただいたほうがいいのかもしれません」
「何を言っている」
「明日には正式に公示されます」
ガイウスの表情に、不安が浮かぶ。
けれどエレナは、そこであえて続けなかった。
研究院の事務官へ目を向ける。
「今日はもう時間をいただきすぎました。研究へ戻ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「待て!」
ガイウスが声を上げる。
だが今度は、カミラがはっきり一歩前へ出た。
「面会は終了です」
「俺はまだ話が」
「エレナ主任は、すでに意思を明確にされています」
「お前には関係ない!」
「護衛対象への過度な接触を止めるのは私の職務です」
ガイウスは言葉を失った。
エレナは扉の前で一度だけ振り返った。
「ガイウス様」
「……何だ」
「昔の私なら、たぶん今日ここまで言えませんでした」
ガイウスは黙っている。
「でも今は、自分で選べます」
戻る場所も。
仕事も。
隣にいてほしい人も。
「それだけは、分かってください」
扉を開ける。
廊下の向こうには、見慣れた研究棟が続いている。
エレナはもう振り返らなかった。
そして応接室に一人残されたガイウスは、自分が知らないという「今のエレナの立場」が何なのかも分からないまま、初めてはっきりと思い知らされていた。
婚約を破棄したあの日からずっと、自分が選び直せば元へ戻せるのだと思っていた。
けれど今、選ぶ権利を持っているのは、もう自分ではなかった。




