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第22話 ガイウス、帝国へ来る

# 第22話 ガイウス、帝国へ来る


 王国から使節団が帝都へ到着した朝、エレナは治癒魔法保存器の試作十二号を分解していた。


 四十八時間を越えた時点で治癒効力は初期値の六割強まで残っていたものの、三本に分けた循環路のうち一本だけ、他よりわずかに劣化が早い。


 測定値だけを見れば誤差の範囲に収まる程度だった。


 けれど、その小さな差が三日、四日と積み重なれば、無視できなくなる。


「やっぱりここですね」


 エレナは拡大鏡の位置をずらし、内部刻印の一角を細い指示棒で示した。


「第二循環路だけ、合流前の温度が高いです」


 若い測定技師が記録表を確認する。


「でも、十二時間の段階では差がほとんどありませんでした」


「だから見つけにくかったんですね。短時間試験だけなら、このまま合格にしていたかもしれません」


「長期保存用なら、もっと後まで見る必要があるということですか」


「はい。ただ、全部の試作品を四十八時間ずつ試していたら開発速度が落ちますから、短時間でこの差を予測できる指標を探したほうがいいです」


 以前のエレナなら、ここで「では自分が四十八時間見ます」と考えただろう。


 今は違った。


「測定条件を変えてみましょう。通常温度だけでなく、少し温度を上げた加速試験を作れませんか?」


 青年がすぐに頷く。


「できます。実際の二日分を、そのまま再現することは無理ですけど、熱劣化の傾向を見るだけなら」


「お願いします。ただし、治癒魔法そのものが高温で変質しない範囲をアメリアさんに確認してからにしましょう」


「分かりました」


 エレナは次にリナへ向き直った。


「この青晶石、第二循環路の部分だけ結晶の流れが少し曲がっています。素材の切り出し方を変えれば、刻印側を触らなくても改善できるかもしれません」


「十三号はそれで試します?」


「二種類作りたいです。一つは素材方向だけ変更。もう一つは回路も少し修正。それで差を見ます」


「はい」


 話がまとまる。


 自分一人で答えを出さなくても、研究は進む。


 それが最近では心地よかった。


「主任」


 リナが別の紙を差し出した。


「午後の予定です。王国の使節団との技術協議、やっぱり参加するんですよね?」


「はい。王宮結界補助装置の件もありますし、今後の技術交流について現場側の意見を聞きたいそうです」


「帰還要請を断った直後なのに、気まずくないですか?」


「少しは」


 エレナは正直に答えた。


「でも、王国そのものと喧嘩したいわけではありませんから」


 帰国はしない。


 それと、王国の技術者たちと協力しないことは別だ。


 王宮結界補助装置の修理では、王国側の技師たちも細かな測定をきちんと行い、エレナが送った指示に従って原因を絞り込んでくれた。


 正式な組織同士としてなら、十分に仕事はできる。


「それに、向こうの技師さんたちへ聞きたいこともあるんです」


「主任、結局技術の話になれば平気なんですね」


「それが一番分かりやすいので」


「恋愛も魔導核みたいに測定できればよかったですね」


 エレナの手が止まった。


「どうして急にそちらへ行くんです?」


「いえ、最近の主任を見ていたら何となく」


「何となくで人の心を研究対象にしないでください」


「顔、赤いですよ」


「研究室が少し暑いだけです」


「この前もそれ言ってましたね」


 これ以上相手にすると危険だ。


 エレナは十二号へ視線を戻した。


 クロムウェルから「愛おしい」と言われて以来、リナたちは何も知らないはずなのに妙に鋭い。


 自分の態度が変わっているのだろうか。


 確かに、皇室用馬車を見れば気になる。


 研究院へクロムウェルが来たと聞けば、少し嬉しい。


 会えない日が続けば、今日は忙しいのだろうかと考える。


 以前なら技術のことで頭がいっぱいだった時間に、別の人間のことが入り込んでいる。


 面倒だと思う。


 でも、嫌ではない。


 そのあたりが一番困っていた。


 昼食後、エレナは帝国外務部局の会議棟へ向かった。


 護衛はカミラ。


 今日の技術協議にはオルディスとミレイアも同席する。


 クロムウェルは最初の挨拶だけ出席し、その後は外務担当官へ任せる予定だと聞いていた。


「緊張していますか?」


 馬車を降りたところで、カミラが尋ねた。


「少し」


「帰還の話を蒸し返されるかもしれませんから?」


「それもあります。でも、王国の技術者と顔を合わせるのが久しぶりなので」


「知人が来る可能性も?」


「王宮技術部門の方なら、昔納品のときに何人かお会いしています」


 その中には、自分を「ガイウス工房の助手」としか見ていなかった人もいるだろう。


 今度は帝国の研究室主任として会う。


 肩書きが変わったからといって自分自身が急に別人になったわけではない。


 それでも少し身構えるのは仕方がなかった。


 会議棟へ入る。


 受付で身分を確認され、応接室へ案内された。


 王国使節団はすでに到着している。


 代表は外務官。


 王宮技術部門から二名。


 王立魔導技術協会から一名。


 その中に、ベルナールの姿はなかった。


 代わりに来ていた協会の審査官は四十代ほどの男性で、エレナを見るなり深く頭を下げた。


「エレナ・ヴァリエ主任。まず、我々協会としてお詫び申し上げたいことがあります」


 いきなりだった。


 エレナは面食らう。


「お詫び、ですか?」


「過去の登録審査についてです」


 室内の空気が僅かに張る。


 外務官が止めなかったところを見ると、事前に予定されていた発言なのだろう。


「現在も正式調査中ではありますが、過去の審査において、工房主の名義と実際の設計者を十分に確認しなかった事例が複数あったことは、すでに否定できない状態です」


 審査官は続けた。


「あなたが提出された回答書も確認いたしました。最終結論は調査終了後となりますが、協会側の審査体制にも問題があったと考えております」


 エレナはすぐに何と答えるべきか分からなかった。


 謝ってほしかったのだろうか。


 昔は、そう思ったこともあったかもしれない。


 けれど今、実際に頭を下げられると、胸が晴れるというより戸惑いのほうが大きい。


「……ありがとうございます」


 まず、それだけ言った。


「ただ、私も当時、自分の名前をもっと強く求めませんでした。ですから、協会だけの問題だったとは思っていません」


「それでも、審査する側には確認する責任があります」


 男は静かに答えた。


「婚約者だから、工房主だから、という事情で曖昧にしてよいことではなかった」


 エレナは少しだけ胸が軽くなった。


 誰か一人が全部悪かったという話にしたいわけではない。


 だからこそ、協会が自分たちの分の責任を引き受けようとしていることは、ありがたかった。


「調査結果を待ちます」


「はい」


 そこから先は技術協議へ移った。


 王宮結界補助装置は、エレナが遠隔で示した手順を王宮技師団が実行し、現在は安定運用へ戻っている。


 原因は予想通り、複数の分配核で長期使用による偏りが蓄積し、そこへ不適切な再調整が重なったことだった。


 王宮側の技師が資料を開く。


「現在は第三分配槽の核を交換し、第二槽についても予防整備を行っています。ただ、今後同じことが起こらないよう、個体差を事前に分類する仕組みを導入したいと考えています」


「それがいいと思います」


 エレナも帝国側の資料を広げる。


「こちらでは軍用魔導灯の量産化にあたって、結晶方向と魔力抵抗を複数の区分に分けています。王宮設備は規模が違うので、そのまま使えませんが、考え方は応用できます」


「分類基準を共有していただくことは?」


「軍用品そのものの詳細は出せません。ただ、一般化した測定方法なら研究院と相談できます」


 オルディスが頷く。


「そこは共同研究の形にすれば問題ないでしょう」


 会話が続く。


 王国側も、以前のように「エレナを戻せば解決する」という態度ではない。


 どうすれば技術を人から切り離して共有できるのか。


 どう記録し、どう教育するか。


 そこを真剣に聞いてくる。


 エレナにとって、それは少し嬉しかった。


 遅い。


 確かに遅い。


 それでも、遅いから変わる意味がないわけではない。


 協議が一段落したところで、王国外務官が話題を変えた。


「ヴァリエ主任。帰還要請については、ご本人の意思を尊重するよう本国から改めて指示を受けております」


「ありがとうございます」


「ただ、我が国との技術交流について、今後も完全に閉ざすお考えではないと受け取ってよろしいでしょうか」


「はい」


 エレナは迷わず答えた。


「正式な手続きを通じて、双方にとって必要なことなら協力したいと思っています」


 王国に戻らないことと、王国を憎み続けることは違う。


 父と暮らした場所。


 自分が技術を覚えた土地。


 そこにいる人たち全部まで切り捨てる必要はない。


 使節団との会談は、思っていたより穏やかに終わった。


 クロムウェルも最後だけ再び姿を見せ、今後の技術交流について形式的な確認を行った。


 会議室を出たあと、エレナは少し息を吐いた。


「疲れたか?」


 隣に来たクロムウェルが尋ねる。


「研究より疲れます」


「外交官には向かないな」


「最初からなるつもりはありません」


「安心した」


「なぜです?」


「研究院から人材を奪われずに済む」


「陛下までそれを言います?」


「冗談だ」


 クロムウェルが僅かに笑う。


 エレナもつられて笑った。


「でも、思っていたより悪くありませんでした」


「王国側が?」


「はい。技術協会の方から謝罪もありました」


「そうか」


「すぐ全部許したとか、そういうことではないですけど」


「当然だ」


「でも、ちゃんと変わろうとしているなら、それまで否定したくないなと思います」


「君らしいな」


「どういう意味です?」


「壊れたものを、直せるかどうか見ようとする」


 エレナは少し考えた。


「人間関係は魔導具より難しいですよ」


「知っている」


「陛下も最近、苦労していますものね」


 言ってから、自分たちの関係のことを指しているように聞こえた。


 エレナの頬が熱くなる。


 クロムウェルは気づいたのか、気づかなかったのか。


「そうだな」


 それだけ返した。


 ずるい。


 少しくらい困ればいいのに。


 そんなことを思いながら、エレナは護衛のカミラとともに研究院へ戻る馬車へ向かった。


 その頃。


 帝都の西門を、一台の旅客馬車が通過していた。


 王国の使節団が使用した華やかな外交馬車とは違う。


 長距離を走るためだけの、丈夫で飾り気のない車体だった。


 その窓から、ガイウスはアルヴァレス帝国の首都を見ていた。


 広い街路。


 規則正しく並ぶ魔導街灯。


 大きな商会。


 行き交う人々。


 目に入るもののすべてが、今の彼には妙に腹立たしかった。


「ここか」


 低く呟く。


 エレナがいる国。


 自分の工房を捨てた女が、今では研究室を与えられ、軍の魔導灯を作り、医療技術まで扱っているという国。


 ガイウスは膝の上に置いた新聞を握った。


 何度読んだか分からない。


『アルヴァレス帝国国立魔導研究院 精密魔導核研究室主任 エレナ・ヴァリエ』


 主任。


 その肩書きが、何度見ても現実味を持たない。


 エレナは人前で話すのが得意ではなかった。


 商談はガイウスへ任せていた。


 客から褒められても、一歩後ろに下がっていた。


 工房の奥で、小さな部品ばかり触っていた女だ。


 それが外国の国立研究院で主任。


 おかしい。


 そう思おうとするたび、王立魔導技術協会で見せられた資料が頭へ浮かんだ。


 自分が答えられなかった技術質問。


 エレナの筆跡が残る原図。


 元弟子たちの証言。


 そして最近の工房。


 彼女がいなくなってから止まった製品。


 修理できなくなった設備。


 キャンセルされた注文。


 否定すればするほど、事実だけが積み重なっていく。


 それでも。


「だからって、全部あいつ一人のものになるわけじゃない」


 誰もいない馬車の中で言った。


 商売を作ったのは自分だ。


 客を取ってきた。


 工房を維持した。


 材料を用意した。


 エレナへ課題を与えた。


 それがなければ、彼女の技術だって商品にはならなかった。


 その思いだけは、今でも嘘ではない。


 問題は。


 だからといって、エレナの仕事まで自分の名だけで受け取ってよかったのか。


 そこを考えると、胸の奥がひどく不快になる。


 不快だから、まだ考えたくなかった。


 帝都へ来た理由は別にある。


 エレナを連れ戻す。


 そうすれば、全部が元へ戻る。


 工房の故障品も。


 協会の調査も。


 王宮との関係も。


 セシリアの父から向けられる疑いの目も。


 全部。


 少なくとも、ガイウスはそう考えようとしていた。


 馬車が宿へ到着する。


 荷物を降ろしたあと、ガイウスはすぐに受付へ向かった。


「国立魔導研究院へ行きたい」


 宿の主人が顔を上げる。


「研究院ですか?」


「ああ。馬車を用意してくれ」


「面会のお約束は?」


「必要なのか?」


「研究院ですからね。誰でも自由に入れる場所ではありませんよ」


 ガイウスは眉を寄せた。


「エレナ・ヴァリエに会う」


 主人の表情が変わった。


「エレナ主任に?」


 また主任。


 ガイウスの胸がざらつく。


「知っているのか」


「そりゃあ有名ですから。あの長時間魔導灯を作った方でしょう。それに、今は治癒魔法を保存する道具まで研究しているとか」


「……そうか」


「面会なら、研究院へ申請を出したほうがいいでしょうね」


「俺は婚約者だった」


 主人が黙った。


 正確には、元婚約者。


 言ったあとで訂正する気になれなかった。


「なら、なおさら正式に連絡したほうがいいんじゃありませんか?」


「なぜだ」


「いや、私は詳しい事情を知りませんけど」


 主人は明らかに深入りしたくなさそうだった。


「最近は護衛もついているそうですし」


「護衛?」


「外国からも引き抜きの話が来ているくらいですから」


 ガイウスの顔が強張る。


「誰が護衛をつけた」


「そこまでは知りませんよ」


 決まっている。


 皇帝だ。


 銀髪の男。


 工房へ客のふりをして現れたあの男。


 エレナの技術について、細かいことばかり尋ねていた。


 あのとき、自分は答えられなかった。


 エレナは答えた。


 そしてあの男は、それを覚えていた。


 ガイウスは奥歯を噛んだ。


「とにかく馬車を」


「分かりました。ただ、研究院へ着いても会える保証はありませんからね」


「構わない」


 夕方。


 エレナは研究院へ戻ると、まず十二号の測定記録を確認した。


「お帰りなさい。会議どうでした?」


 リナが聞く。


「思っていたより建設的でした」


「帰ってこいって言われませんでした?」


「正式にはもう断ったので、今日は言われませんでした」


「よかったです」


「王国の方たちとも共同研究ができるかもしれません」


「主任、そういうところは本当に引きずりませんね」


「引きずっていないわけではありません」


 エレナは記録帳をめくりながら答えた。


「ただ、嫌だったことを忘れないことと、これからできることまで全部断ることは違うと思うので」


「なるほど」


「それより、十二号は?」


「四十九時間を越えました。第二循環路の落ち方はやっぱり少し早いです」


 エレナの意識がすぐ研究へ向く。


「では十三号は予定通り二種類――」


 言いかけたところで、研究室の扉が開いた。


 受付担当の事務官だった。


「エレナ主任」


「はい?」


 相手の表情が少し困っている。


「面会を求めている方が来ています」


「今日はもう予定はありませんよね?」


「ありません。ただ、その……王国から来られた方で」


 使節団の誰かが追加で話したいことでもあるのだろうか。


「お名前は?」


 事務官は一瞬ためらった。


「ガイウス氏です」


 エレナの手から、ペンが止まった。


 研究室の空気も変わる。


 リナが思わず聞き返した。


「ガイウスって……あの?」


「はい」


 エレナはすぐには動けなかった。


 手紙なら何度も来た。


 文字なら、もうそれほど心を乱されない。


 けれど本人が来た。


 王国から帝国まで。


 その事実には、さすがに心臓が強く反応した。


「使節団と一緒ですか?」


「いいえ。確認しましたが、王国の正式な使節名簿には入っていません」


「では、個人で?」


「そうです」


 どうする。


 会わない選択もある。


 ここは帝国だ。


 研究院の中だ。


 自分に彼と会う義務はない。


「主任」


 リナが心配そうに呼ぶ。


「断ってもいいと思います」


「……はい」


 分かっている。


 それでもエレナは少し考えた。


 ガイウスはここまで来た。


 何を言うつもりなのか。


 怖さがないわけではない。


 けれど以前のように、会えば言いくるめられるとも思わなかった。


 今なら、自分の言葉で話せる気がする。


「会います」


「大丈夫ですか?」


「一人では会いません」


 自分からそう言えた。


 それだけで、少し安心した。


「応接室を使います。研究院の方にも一人、同席していただけますか」


 事務官が頷く。


「もちろんです」


「カミラさんにもお願いします」


 入口にいた護衛がすぐに答えた。


「承知しました」


「リナさん」


「はい」


「大丈夫です」


 今度の「大丈夫」は、無理を隠すためではない。


 少し緊張している。


 少し怖い。


 でも、逃げたいわけではない。


 その全部を分かったうえでの言葉だった。


 研究院の応接室。


 ガイウスは窓際に立っていた。


 扉が開く音に振り返る。


 その瞬間、彼の顔が止まった。


「……エレナ」


 久しぶりに聞く、生の声だった。


 手紙よりずっと記憶に近い。


 胸が少しだけ痛む。


 それでも、足は止まらなかった。


「お久しぶりです、ガイウス様」


 エレナは部屋へ入る。


 その後ろにカミラ。


 さらに研究院の事務官が同席する。


 ガイウスの眉が寄った。


「なんだ、その連中は」


「護衛と、研究院の立会人です」


「俺と話すだけだろう」


「ですから、必要だと判断しました」


「俺を警戒しているのか?」


 エレナは少し考えた。


「はい」


 曖昧にしなかった。


 ガイウスの顔が僅かに引きつる。


「……随分変わったな」


「そうかもしれません」


「昔のお前なら、そんな言い方はしなかった」


「昔は、必要なことまで言わなかったので」


 そこで会話が一度止まる。


 ガイウスはエレナを上から下まで見る。


 豪華な服を着ているわけではない。


 研究院の制服に近い実用的な服装。


 髪も仕事の邪魔にならないようまとめている。


 見た目だけなら、昔と大きくは変わらない。


 それなのに。


「本当に、主任なのか」


 ガイウスが呟いた。


「はい」


「国立研究院の?」


「はい」


「……冗談みたいだな」


 エレナの胸に、昔なら鋭く刺さった言葉だった。


 今は少し違う。


「私も最初は驚きました」


 そう答えられた。


 ガイウスのほうが戸惑う。


「座りましょう」


 エレナが先に椅子へ向かう。


 向かい合って座る。


 以前は何度も同じ机を挟んで仕事をした。


 けれど、こんなふうに対等に話す席へ座った記憶はほとんどない。


「それで」


 エレナは尋ねた。


「帝国まで、何のご用でしょうか」


 ガイウスはすぐには答えなかった。


 用意してきた言葉があるようだった。


「手紙は読んだな」


「読みました」


「返事も受け取った」


「はい」


「王国からの帰還要請も断ったそうだな」


「そうです」


「なぜだ」


 エレナは少し驚いた。


「返書に理由も書きましたけれど」


「そんな建前の話をしているんじゃない」


「建前ではありません」


「帝国で持ち上げられて、気分が良くなっているだけだろう」


 昔と同じ言い方だった。


 何かを決めつける。


 自分が理解できる形へ、エレナの気持ちを押し込める。


 以前なら、そこから「違います」と必死に説明していた。


 今は違う。


「そう思われるなら、それでも構いません」


 ガイウスの顔が僅かに歪んだ。


「構わない?」


「はい。ガイウス様がどう理解するかまで、私には決められませんから」


「お前」


 苛立ちが声に混じる。


「誰にそんな話し方を教わった」


「誰にも」


「皇帝か?」


 エレナの表情が変わった。


「陛下は関係ありません」


「関係あるだろう。あいつが工房へ来てから全部おかしくなった」


「違います」


 今度はすぐ否定した。


「婚約を破棄したのはガイウス様です。私を工房から出したのも、ガイウス様です」


「それは――」


「陛下は、そのあと私へ仕事を紹介してくださっただけです」


「紹介?」


 ガイウスが笑った。


 乾いた笑いだった。


「護衛までつけて、研究室まで用意して、それを紹介と言うのか?」


「研究室は研究院の正式な判断です。護衛は……」


 そこで少しだけ言葉が詰まる。


 クロムウェルが護衛をつけた理由。


 国家技師だからだけではない。


 今は、その意味を知っている。


「何だ」


「ガイウス様に説明する必要はありません」


 言い切った。


 ガイウスの顔が強張る。


 昔のエレナなら、何でも説明した。


 なぜこうしたのか。


 どう思っているのか。


 誤解されないように。


 嫌われないように。


 今のエレナには、彼へ自分の全部を開示する義務はない。


「……随分偉くなったものだな」


「役職の話でしたら、主任にはなりました」


「そういう意味じゃない!」


 声が大きくなった。


 カミラが一歩だけ前へ出る。


 ガイウスはそれに気づき、苛立たしげに口を閉じた。


「大声はお控えください」


 研究院の事務官が静かに言う。


「ここは研究施設です」


 ガイウスは息を吐いた。


「分かった」


 それから、もう一度エレナを見る。


「俺は喧嘩をしに来たんじゃない」


「では、何をしに?」


「お前を迎えに来た」


 予想していた言葉だった。


 それでも、実際に聞くと胸の奥が少し冷える。


「私は戻らないと、すでにお伝えしました」


「だから直接来た」


「直接言われても同じです」


「話を聞け」


「聞いています」


「工房が今、大変なのはお前も知っているだろう」


「一部は」


「協会の調査まで入った。王宮の仕事も止められている。商会からの注文も減った」


 ガイウスは一つずつ言った。


 その声には怒りだけではなく、焦りがある。


 エレナには分かった。


「お前が戻れば、かなりの部分は立て直せる」


「それは、私が戻る理由ではありません」


「工房はお前の居場所でもあっただろう」


 胸の奥に、昔の記憶が触れた。


 確かに。


 長い間、そう思っていた。


 父の家を失ったあと。


 ガイウスと結婚するつもりだった。


 工房を二人で大きくするのだと思っていた。


 そこが自分の未来だと信じていた。


「昔は、そう思っていました」


「なら」


「でも、ガイウス様が終わらせました」


 静かに言った。


 ガイウスが黙る。


「婚約も、仕事も。あの夜、両方終わることを確認しましたよね」


「俺は、あのときは……」


 初めて、言葉が鈍る。


「あのときは何ですか?」


「お前がいなくなって、ここまで問題になるとは思っていなかった」


 正直だった。


 あまりにも。


 エレナは少しだけ悲しくなった。


「そうですか」


「だから、判断を修正する」


 ガイウスは前のめりになった。


「工房へ戻れ。条件は前より良くする。給料も払う。設計者として名前も出す」


 今なら。


 昔の自分が欲しかった言葉を、彼は並べる。


 給料。


 名前。


 正当な待遇。


 それを少し前まで一つも与えなかった人が、今は全部差し出すと言う。


「エレナ」


 ガイウスの声が少し柔らかくなる。


「俺たちは長かっただろう」


「はい」


「全部悪かったわけじゃない」


「それも、そう思います」


 その答えに、ガイウスの顔が少し明るくなる。


「なら分かるだろう。俺だって、お前を本当にどうでもいいと思っていたわけじゃない」


 その言葉には、たぶん嘘がない。


 だから余計に複雑だった。


 大切に思っていた部分もあった。


 頼っていた。


 必要としていた。


 愛情だって、まったくなかったとは思わない。


 でも。


 大切に思うことと、大切に扱うことは同じではない。


「ガイウス様」


「何だ」


「私、昔のことを全部嫌だったとは思っていません」


 ガイウスが静かになる。


「一緒に魔導灯が完成したときは嬉しかったです。初めて王宮から大きな注文が来たときも。弟子の皆さんと食事をした夜も覚えています」


「ああ」


「だから、過去まで全部嘘だったとは思いません」


「なら戻ればいい」


「それと、戻ることは別です」


 ガイウスの顔から、また表情が消えた。


「どうして」


「私には、もう今の生活があります」


「帝国での仕事か」


「仕事だけではありません」


 言った瞬間、クロムウェルの顔が浮かんだ。


 研究室の仲間たち。


 リナ。


 ミレイア。


 ハロルド。


 アメリア。


 オルディス。


 毎日歩く研究院の廊下。


 失敗作棚。


 昼食へ行けと叱られる時間。


 そして、自分の名前で作れる場所。


「私はここにいたいんです」


「皇帝がいるからか?」


 またそこへ戻る。


 エレナは少し疲れた。


「それだけではありません」


「否定しないんだな」


「陛下が大切な方なのは否定しません」


 口にしてから、自分の胸が跳ねた。


 カミラは無表情を保っている。


 研究院の事務官も何も言わない。


 ガイウスだけが、明らかに固まった。


「……大切?」


「はい」


「お前、まさか」


「それ以上は私と陛下の話です」


 エレナは遮った。


「ガイウス様へ説明することではありません」


「俺は元婚約者だぞ」


「元、です」


 その一言が、思っていたよりはっきり響いた。


 ガイウスの口が閉じる。


「だからこそ」


 エレナは続けた。


「過去の話はできます。でも、今の私の私生活へ踏み込む権利はありません」


 昔の自分には言えなかっただろう。


 でも今は言える。


 ガイウスはしばらく黙っていた。


 やがて椅子の背へ身体を預ける。


「……お前は、あいつに騙されている」


「何を根拠に?」


「皇帝だぞ」


「知っています」


「一人の技師へ本気になるわけがない」


 エレナの中で、何かが静かに冷えた。


 怒りはあった。


 でも、それ以上に。


 ああ、この人はまだ同じなのだ。


 自分の価値を、自分の物差しだけで決めようとしている。


「どうして、そう思うんです?」


「身分が違いすぎる」


「それは事実です」


「なら」


「だから陛下は、私へ何も強要しません」


 ガイウスの眉が寄る。


「何?」


「私がどう思うかを、私に決めさせてくれます」


 それこそが。


 ガイウスとの一番大きな違いなのかもしれない。


 婚約破棄も。


 工房を辞めることも。


 戻ることも。


 ガイウスはいつも、自分が選ぶ側だと思っていた。


 クロムウェルは、皇帝なのに。


 一番強い立場にいるのに。


 エレナへ選ぶ権利を返してくれる。


「ガイウス様」


「何だ」


「私はもう、自分で決めています」


 ガイウスの指が膝の上で強く組まれる。


「帝国に残ると?」


「はい」


「工房には戻らない?」


「戻りません」


「俺とのことも?」


 少しだけ声が変わった。


 今までのような命令ではない。


 そこに、ようやく個人的な感情が滲んだ。


 エレナは一瞬だけ迷った。


 嘘はつきたくない。


「婚約をやり直したいとは思っていません」


 ガイウスの顔が固まる。


 それでもエレナは続けた。


「昔好きだった気持ちまで否定するつもりはありません。でも、もう戻りたいとは思わないんです」


「そんな簡単に終わるのか」


「簡単ではありませんでした」


 それだけは違う。


 雨の夜。


 馬車の中。


 初めて自分の技術を覚えていてくれた人。


 名前を刻まれた魔導灯。


 元婚約者からの手紙。


 自分の過去の仕事を一つずつ言葉にした調査。


 倒れるまで働いて。


 休んでも居場所がなくならないと知って。


 時間をかけて。


 少しずつ。


 ここまで来た。


「簡単ではありませんでしたよ」


 エレナはもう一度言った。


「でも、終わりました」


 ガイウスが立ち上がった。


 カミラが即座に身構える。


「座ってください」


「エレナ」


 ガイウスは護衛を無視した。


「意地を張るな」


 エレナの眉が僅かに動く。


「これは意地ではありません」


「いいや、意地だ。俺が婚約を破棄したから傷ついた。それで皇帝に持ち上げられて、今さら戻れない気になっているだけだ」


「違います」


「だったら何で、何年もいた工房を捨てられる!」


「捨てたのは私ではありません」


 声が少し強くなった。


「ガイウス様が私を出したんです」


 それでも彼は止まらない。


「だから、間違いだったと言っている! 俺だって認める。お前がいないと困る。工房にも必要だ。俺にも――」


 そこで、ガイウス自身が言葉を詰まらせた。


 エレナは黙って待った。


 続く言葉を。


 必要だから戻れ。


 役に立つから戻れ。


 それなら、もう何度も聞いてきた。


 ガイウスは拳を握った。


「……とにかく」


 結局、その先を言えなかった。


 代わりに、昔と同じ調子を取り戻そうとするように、強い声で言った。


「意地を張るな、エレナ。俺のところへ戻れ」


 その言葉を聞きながら。


 エレナは、不思議なくらい静かな気持ちで思った。


 ガイウスはまだ。


 自分が選ぶ側だと思っているのだ、と。

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