第21話 王国から正式な帰還要請が届きました
# 第21話 王国から正式な帰還要請が届きました
王国から届いた書状は、これまでのものとは明らかに違っていた。
ガイウスが寄越した私信でもない。
王宮結界補助装置の不具合について送られてきた技術協力要請でもない。
厚手の白い封筒には王国の紋章が金で押され、封蝋には王家の印章まで使われていた。
「……私宛てですか?」
精密魔導核研究室の机でそれを見たエレナは、思わず聞き返した。
書状を運んできたのは普段の事務官ではなく、研究院長のオルディス本人だった。その隣にはミレイアまで立っている。
「正確には、帝国政府宛てに届いた外交文書と、それに添付されたエレナ主任個人への正式文書です」
オルディスが答える。
「外務部局から陛下のもとへ送られ、研究院にも内容確認が回ってきました」
「私個人の話なのに、ずいぶん大きくなっていますね」
「あなた個人を帰国させたいという話を、他国の政府が正式に持ち込んできたのですから、大きくもなります」
ミレイアが肩をすくめる。
「そのへんの商会から『うちへ来ませんか』と誘われるのとは話が違うわよ」
少し前なら、その事実だけでエレナは怖くなっていたかもしれない。
自分のことで国同士が文書を交わす。
そんな状況は、どう考えても二十歳の魔導具職人が気軽に受け止められるものではない。
けれど今のエレナは、まず封筒の紙質を見た。
「……これもかなり良い紙ですね」
ミレイアが吹き出した。
「元婚約者の手紙を部品包みにした人が言うと怖いわね」
「今回はしませんよ。王家の印章がありますから」
「判断基準そこ?」
「公文書を部品包みにしたら怒られるでしょう?」
「そこまで分かっているなら安心したわ」
少し笑ったおかげで、肩の力が抜けた。
オルディスが封筒を差し出す。
「内容はまだ私たちも詳しく読んでいません。あなた自身が先に確認したほうがよいでしょう」
「よろしいんですか?」
「あなたの進退に関する話ですから」
その一言で、エレナは姿勢を正した。
自分の進退。
誰かに決められるのではない。
まず自分が読む。
それだけのことなのに、以前の生活を思い返すと不思議だった。
エレナは封を開いた。
最初に入っていたのは、王国からアルヴァレス帝国へ送られた外交文書の写しだった。
丁寧な挨拶と、王宮結界補助装置への技術協力に対する謝意。
その後に、本題が続いている。
『エレナ・ヴァリエ氏は我が王国に生まれ、長年にわたり国内魔導具産業の発展に寄与してきた優秀な技術者であることが、近時の調査および実績確認により改めて明らかとなった』
エレナの指が止まった。
長年にわたり。
改めて明らかとなった。
「……便利な言い方ですね」
「何が?」
ミレイアが尋ねる。
「間違ってはいません。でも、少し不思議です」
王国にいた頃。
自分は「ガイウス工房の助手」だった。
補助技師。
地味な婚約者。
表へ出すほどでもない女。
そう扱われることに慣れていた。
今になって、王国の産業へ長年寄与した優秀な技術者と書かれている。
嘘ではない。
だからこそ、胸の奥に何とも言えない引っかかりが残る。
続きを読んだ。
『現在、同氏がアルヴァレス帝国において極めて高い評価を得ていることについて、我が王国としてもその才能が正当に認められたことを喜ばしく受け止めている』
「……これは本当でしょうか」
「外交文書に感情の真偽を求めないほうがいいわ」
ミレイアが現実的なことを言った。
「国としては、そう書くしかないもの」
「ですよね」
次の段落で、文章の雰囲気が変わった。
『一方、同氏の技術は我が王国の社会基盤、医療、魔導具産業および王宮設備の維持発展においても極めて重要である。
ついては同氏が王国へ帰還し、王立魔導院ならびに王宮技術部門において、その能力を発揮することを強く希望する』
帰還。
その文字を、エレナはしばらく見つめた。
帰る。
どこへ?
生まれた国ではある。
父と暮らした家もあった。
けれどその家はもう自分のものではない。
父が亡くなり、爵位と家は遠縁へ渡った。
そのあと長く過ごしたガイウスの工房も、もう帰る場所ではない。
なのに書類の上では、それが簡単に「帰還」と表現される。
「まだ続きがあります」
オルディスに言われ、エレナは次の紙へ移った。
そこから先は、自分への待遇案だった。
王立魔導院特別技術顧問。
王宮魔導技術部門における上級技師相当の地位。
専用研究棟。
研究費の優先配分。
助手の選任権。
王国が管理する希少素材への優先利用権。
給与は以前のガイウス工房時代とは比較する意味すらない額だった。
さらに。
「……爵位?」
エレナは思わず声を出した。
「何爵?」
ミレイアが横から覗こうとする。
「功績審査を経たうえで、本人一代限りの男爵位授与も検討する、と」
「本気ね」
「女性でも男爵なんですか?」
「爵位名称はそういうものよ。帝国でも女男爵とは呼ばないでしょう」
「そういうものなんですね」
そこへ気を取られている場合ではない。
さらに読み進めると、住宅まで用意するとある。
王都内の邸宅。
使用人。
専属馬車。
必要なら工房も別に建設する。
「……多すぎませんか?」
「君は前にも同じことを言っていたな」
入口から声がした。
エレナが振り返る。
クロムウェルが立っていた。
「陛下」
「話を聞いて来た」
「早いですね」
「外交文書だからな。私のところを経由している」
当然だった。
クロムウェルは部屋へ入り、オルディスとミレイアに目を向ける。
「少しエレナと話したい」
「承知しました」
オルディスはすぐに頷いた。
ミレイアはエレナへ意味ありげな視線を向けたが、今回は何も言わず退室した。
扉が閉まる。
エレナは手元の文書を見た。
「陛下は内容をご存じなんですよね」
「ああ」
「どう思いました?」
「私が先に言うのか?」
「駄目ですか?」
「駄目ではない。ただ、私の意見を聞いてから君が決める形にはしたくない」
エレナは顔を上げた。
クロムウェルの表情はいつもより硬い。
「これは君の人生だ」
静かに言う。
「王国へ戻るか、帝国に残るか。最初に決める権利があるのは君だ」
「もし私が王国へ戻ると言ったら?」
聞くつもりはなかった。
なのに、口から出た。
クロムウェルの目が僅かに細くなる。
「止めない」
胸が少し痛んだ。
その答えを望んでいたはずなのに。
「……止めないんですね」
「止めてほしいのか?」
「そういうわけでは」
うまく答えられない。
クロムウェルは少しだけ間を置いた。
「止めたいとは思う」
エレナの指が止まった。
「ですが、止めない?」
「ああ」
「どうして?」
「私が皇帝だからだ」
以前なら、それは「命令できるから」という意味に聞こえただろう。
今は逆だった。
「君を帝国へ残せと命じることもできる。国家機密を理由に出国を制限する理屈を作ることも、おそらくできる」
「そんなことを」
「しない」
はっきり遮った。
「君が自分の意思でここにいるのでなければ、意味がない」
エレナは何も言えなかった。
「私は君に残ってほしい」
今度は、皇帝としてではない声だった。
「技術者としても必要だ。研究院にとっても帝国にとっても、君は重要だ」
「はい」
「そして、それとは別に」
クロムウェルが言葉を選ぶ。
「私個人として、君がここにいてくれれば嬉しい」
胸の奥が熱くなる。
前回の話から、まだ日が浅い。
愛おしいと言われたことを、エレナはまだ完全には処理できていない。
それでも彼は、答えを迫らない。
残れとも命令しない。
「だが、それを理由に選ばせるつもりはない」
「……ずるいですね」
「何がだ」
「そんなふうに言われたら、逆に意識します」
「それは困ったな」
まったく困っていない顔で言う。
「少しは困ってください」
「かなり困っている」
「見えません」
「皇帝だからな」
「また便利な立場ですね」
少し笑えた。
その笑いのおかげで、エレナはようやく文書を最後まで読む気になった。
王国側は、帰還した場合の身分保障も明記している。
ガイウス工房との旧契約には拘束されない。
過去の発明者名義については技術協会の調査結果を尊重する。
研究成果の個人名義を認める。
婚姻についても、本人の意思を尊重する。
そこまで書いてある。
「……随分、調べましたね」
「君が何を嫌がるか、王国側も理解し始めたのだろう」
「理解するのが遅いです」
思わず言った。
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
「はい。遅いです」
もう一度言った。
腹が立っているのだと思う。
でも、それだけではない。
悲しさもある。
今なら、これほど条件を並べる。
王立魔導院。
高い給料。
自分の名前。
研究棟。
爵位まで。
では以前の自分は、何だったのだろう。
価値がなかったのか。
違う。
今と同じ技術を持っていた。
今ほど整理されていなかったとしても、あの頃から作っていた。
ただ、誰も見なかった。
「もし」
エレナはぽつりと言った。
「帝国で何も作れていなかったら、こんな手紙は来なかったんでしょうね」
クロムウェルは簡単には否定しなかった。
「おそらくな」
その正直さがありがたかった。
「軍用魔導灯も作らず、治癒魔法保存器も研究していなかったら。私がただ帝国の研究室で普通に働いているだけだったら、王国は私を帰そうなんて思わなかった」
「可能性は高い」
「ですよね」
悔しい。
少しだけ。
今さら価値を認められたことが嬉しくないわけではない。
ずっと見てほしかったのだから。
けれど、本当に欲しかったのは、失ってからの豪華な条件ではなかった。
あの工房にいたとき。
誰にも知られていなかったとき。
それでも作っていた自分を、ちゃんと見てほしかった。
「おかしいですね」
「何が」
「昔の私なら、この条件を見たら嬉しくて泣いたかもしれません」
「今は?」
「嬉しい部分もあります」
それは嘘にしたくない。
「王国全部が私を粗末にしたわけでもありませんし、父と暮らした国でもあります。技術協会の方たちだって、今はきちんと調べてくださっています」
「そうだな」
「だから、ざまあみろ、とだけ思うのも違うんです」
クロムウェルは黙って聞いていた。
「でも」
エレナは書類をそっと机へ置いた。
「戻りたいとは思いません」
口にした瞬間、自分の中で答えが完全に定まった。
「条件をもう少し考えなくていいのか?」
「考えました」
「今だけで?」
「もっと前からです」
王国から最初の技術協力要請が来たとき。
ガイウスから手紙が来たとき。
過去の発明者名義を調査されたとき。
何度も、自分の過去と今を比べてきた。
「私、王国へ戻る理由がないんです」
「爵位も研究棟もある」
「魅力的だと思います」
「給料もかなり高い」
「そこを陛下が言います?」
「客観的な話だ」
「帝国の給与をまた上げようとしないでくださいね」
「検討はする」
「しなくていいです」
思わず笑う。
けれど、答えは変わらない。
「でも、今の研究室を離れたくありません」
リナ。
測定担当の青年。
ミレイア。
オルディス。
ハロルド。
アメリア。
皆の顔が浮かぶ。
「治癒魔法保存器も、家庭用魔導灯も途中です。皆さんと作っているものを、自分だけ条件のいい場所へ移るために置いていきたくない」
「研究ごと移す提案もあるぞ」
「それでも嫌です」
「なぜ」
クロムウェルは答えを知っていて尋ねているようにも見えた。
エレナは少し考えた。
「ここで始めたからです」
それだけではない。
「帝国が特別だから、という意味だけでもありません。私が初めて、自分で選んで来た場所だからだと思います」
婚約者だから工房へ入った。
将来妻になるから支えた。
必要とされたから働いた。
以前は、誰かとの関係の延長に自分の居場所があった。
けれど帝国へ来たときは違う。
あの雨の夜。
条件を聞いた。
考えた。
そして自分で選んだ。
「私はここへ、連れてこられたわけではありません」
「ああ」
「陛下に誘っていただきました。でも最後に来ると決めたのは私です」
「そうだ」
「だから、今度も自分で決めます」
エレナは王国からの文書に手を置いた。
「帰還の要請は、お断りします」
クロムウェルはすぐには返さなかった。
エレナはその表情を見る。
平静に見える。
でも、ほんの少し。
肩の力が抜けたように見えた。
「安心しました?」
「……ああ」
今回は誤魔化さなかった。
「かなり」
それだけで胸が温かくなる。
「陛下でも、そんな顔をするんですね」
「どんな顔だ」
「ほっとした顔です」
「君は最近、人の顔を読みすぎる」
「皆さんに鍛えられました」
エレナは笑った。
「それで、返事はどうすればいいでしょう」
「君自身から一通。それとは別に、帝国政府として回答する」
「私の返事は、普通に断れば?」
「ああ。理由まで詳しく書く義務はない」
「でも少しは書きます」
「なぜ?」
「王国そのものへ喧嘩を売りたいわけではありませんから」
エレナは新しい便箋を取り出した。
しばらく考えてから、ペンを走らせる。
『このたびは、私に対し身に余る評価ならびに待遇をご提示いただき、ありがとうございます。
生まれ育った王国より、技師として正式な評価をいただけたことについては、素直に嬉しく思っております』
ここまでは本心だった。
少し筆を止める。
その先も、飾らずに書く。
『しかし、私は現在、アルヴァレス帝国国立魔導研究院において、自ら選択した職務と研究に携わっております。
共同研究者たちと継続中の研究もあり、この地で技師として歩み続けたいと考えております。
そのため、今回の帰還要請については辞退いたします』
もう一度止まった。
帰還。
やはり、その言葉だけは少し違和感がある。
エレナは最後に、一文だけ加えた。
『王国が私の生まれ故郷であることは変わりませんが、現在の私が帰るべき場所として選んでいるのは、ここです』
書き終える。
読み直す。
クロムウェルは覗き込まなかった。
「できました」
「後悔は?」
エレナは考えた。
爵位。
専用研究棟。
高い給料。
父と暮らした国。
失ったもの。
取り戻せるかもしれないもの。
それらを全部思い浮かべる。
「ありません」
はっきり言えた。
「少なくとも今は」
「それで十分だ」
クロムウェルが答える。
「未来まで決める必要はない。今の君が、自分で選べばいい」
「はい」
返書はその日のうちに、帝国外務部局へ渡された。
帝国政府からも、エレナ本人の意思を尊重し、帰還を強制する考えはないという回答が王国へ送られることになった。
研究室へ戻ると、リナがすぐに顔を上げた。
「どうでした?」
「王国から戻ってこないかと言われました」
室内の空気が止まった。
「……え?」
リナが持っていた部品を危うく落としかける。
「戻るんですか?」
「戻りません」
エレナは即答した。
すると、リナの顔が見るからに緩んだ。
「よかった……」
その反応があまりにも素直で、エレナは少し驚いた。
「そんなに心配していたんですか?」
「しますよ。主任がいなくなったら困ります」
「研究なら、皆さんだけでもかなり進められますよ」
「またそういう話をする」
リナが少しむっとした。
「研究だけじゃありません」
その言葉に、エレナは黙った。
「昼食を忘れる人を注意する仕事は減りますけど、それでも嫌です」
「それは減って喜ぶところでは?」
「それとこれとは別です」
どこかで聞いたような言い方だった。
エレナは小さく笑う。
「ありがとうございます」
「条件、良かったんですか?」
「かなり」
「どのくらい?」
「専用研究棟と、高いお給料と、爵位まで」
リナの口が開いた。
「……主任」
「はい」
「本当に残るんです?」
「今さら確認します?」
「だって爵位ですよ」
「私、爵位をもらって何をしたらいいのか分かりません」
「それは私も分かりませんけど」
「それより、十二号の続きが気になります」
リナが笑った。
「やっぱり主任ですね」
「どういう意味ですか」
「いい意味です」
エレナは自分の作業台へ戻った。
そこには、淡い緑色の光を宿した保存器がある。
測定表。
未完成の図面。
削りかけの青晶石。
失敗作の棚。
いつもの研究室。
王国が用意した豪華な研究棟などない。
貴族の邸宅もない。
けれど、不思議なほど落ち着いた。
ここでいい。
ではなく。
ここがいい。
その違いを、エレナははっきり理解していた。
同じ頃。
王国では、エレナの返書を受け取った外務担当者と王宮技術部門の責任者が、重い沈黙の中で文面を読み返していた。
『今回の帰還要請については辞退いたします』
提示した待遇が足りなかったのか。
そういう話ではないことは、最後の一文を読めば分かる。
『現在の私が帰るべき場所として選んでいるのは、ここです』
金額を上げれば済む話ではない。
爵位を高くすれば済む話でもない。
王国が欲しいのは、今や他国で価値を証明した天才技師だった。
だがエレナが欲しかったのは、価値を証明してから与えられる豪華な椅子ではなかった。
その違いに、王国はようやく気づき始めていた。
そして数日後。
アルヴァレス帝国の外務部局へ、王国から新たな通知が届いた。
帰還要請そのものを撤回するという内容ではない。
今度は、技術協力と今後の人材交流について直接協議したいとして、正式な使節団を帝都へ派遣するという知らせだった。
エレナはまだ知らなかった。
その使節団とは別に。
王国から帝都へ向かう馬車の中に、彼女がもう戻らないという現実を、どうしても受け入れられない男がいることを。




