第20話 君の存在そのものが愛おしい
# 第20話 君の存在そのものが愛おしい
十二号の治癒魔法保存器は、三十六時間を越えても淡い緑色の光を失わなかった。
ただし、今回はエレナ一人が測定器の前に張りついているわけではない。
「次の測定は一時間後です。私が記録しますから、主任は家庭用魔導灯のほうを見ていてください」
若い測定技師に言われ、エレナは素直に場所を譲った。
「分かりました。波形に急な乱れが出たら呼んでください」
「はい。でも、急な乱れがなくても一時間後には報告します」
「そこまで念を押さなくても逃げませんよ」
「前の主任なら、自分で見に来ていましたから」
「……改善中です」
言い返すと、近くで素材を整理していたリナが笑った。
「ちゃんと改善していますよ。昨日なんて、私たちに測定を任せて定時で帰りましたから」
「それだけで褒められるのも複雑です」
「過去の実績を考えれば、大進歩です」
「皆さん、実績という言葉を私への攻撃に使っていませんか?」
「評価です」
言い方までクロムウェルに似てきている。
エレナは苦笑しながら、別の作業台へ移った。
そこには家庭用省魔力灯の試作十三号がある。
こちらも少しずつ進んでいた。
当初は従来品の五分の一を目標にしていたが、現在は六分の一程度まで消費魔力を下げている。まだ十分の一には届かないものの、高価な白輝晶を使わず、一般的な青晶石でここまで落とせたのは大きい。
「この価格なら、普通の家庭でも手が届きそうですね」
リナが原価試算表を覗き込む。
「量産数が増えれば、もう少し下げられると思います。ただ、加工工程を増やしすぎると工房側の負担になります」
「じゃあ、性能を少し落とす?」
「……それも選択肢ですね」
以前なら、その答えを口にするまでにもっと時間がかかっただろう。
性能を落とす。
技師としては、どこか敗北のように感じていたからだ。
今は違う。
使う人にとって必要なのは、研究室で最高記録を出す魔導具ではない。
買えて、直せて、毎日使えるものだ。
「七分の一くらいで量産しやすい構造と、十分の一を目指す高効率型を分けてもいいかもしれません」
「二種類?」
「はい。全部を一つの商品で満たそうとすると、結局どこかが無理をしますから」
言いながら、エレナは自分でも少し可笑しくなった。
魔導具にはそう言える。
全部を一人で満たさなくていい。
用途によって分ければいい。
なのに自分自身には、長い間その考え方ができなかった。
仕事も。
気遣いも。
期待も。
全部に応えられる人間でなければ、価値がないと思っていた。
「どうしました?」
「いえ」
エレナは試作十三号の蓋を閉じた。
「魔導具から教わることもあるんだなと思って」
「ずいぶん今さらですね」
「確かに」
昼休み。
今度は誰にも言われる前に、エレナは工具を置いた。
「食堂へ行ってきます」
リナが顔を上げる。
「主任」
「何です?」
「ちょっと感動しました」
「そこまで言われると逆に腹が立ちます」
研究室に笑い声が広がった。
昼食を終えて戻る途中、研究棟の玄関に黒い皇室用馬車が停まっているのが見えた。
エレナは足を止める。
「陛下でしょうか」
隣を歩いていたカミラが答える。
「本日は研究院長との会談が入っています」
「そうなんですね」
胸の奥が少しだけ弾んだ。
その反応に自分で気づき、エレナは何とも言えない気持ちになった。
以前なら、皇帝が研究院に来ると聞けば緊張した。
最近は違う。
会えるかもしれないと思うと、少し嬉しい。
その「少し」が、日に日に誤魔化しにくくなっている。
「何か?」
カミラに尋ねられた。
「いいえ。研究院長とのお仕事なら、お邪魔しないほうがいいですね」
「呼ばれれば別ですが」
「呼ばれなければ?」
「研究へ戻られるのがよろしいかと」
「そうします」
当然の答えだ。
なのに、ほんの少しだけ残念だった。
自分でも面倒だと思う。
会いたいなら会いたいと言えばいい。
けれど、相手は皇帝である。
用もないのに「来ていると聞いたので顔を見に来ました」などと言えるはずがない。
そもそも、なぜ顔を見たいのか。
そこまで考えると、今度は自分の中で答えが見えそうになり、エレナは考えるのをやめた。
研究室へ戻る。
午後の作業を始めて一時間ほど経った頃。
扉が開いた。
「エレナ主任」
研究院長オルディスだった。
「院長、どうされました?」
「少しよろしいですか。陛下がお呼びです」
エレナの胸が、先ほどよりはっきり弾んだ。
「私を?」
「はい」
「何か問題が?」
「問題がなければ呼ばれてはいけませんか?」
「そういうわけではありませんが」
反射的に悪いほうを考えてしまう癖は、まだ完全には抜けていない。
「すぐ行きます」
工具を置き、手を洗う。
リナが何気なく言った。
「嬉しそうですね」
エレナの手が止まった。
「何がです?」
「いえ、何でも」
「今、明らかに何か言いましたよね」
「院長を待たせますよ」
逃げられた。
最近、周囲が妙に含みのある言い方をする。
エレナは納得できないまま、オルディスについて院長室へ向かった。
部屋へ入ると、クロムウェルは窓際ではなく応接卓に座っていた。
机の上には、研究院の報告書が何冊も積まれている。
「お呼びでしょうか」
「ああ。座れ」
オルディスはエレナを案内したあと、「私は別件がありますので」と妙に早く退出した。
扉が閉まる。
二人きりになった。
「研究院長との会談ではなかったんですか?」
「終わった」
「それで私を?」
「ああ」
「何かございました?」
「特にない」
エレナは瞬いた。
「……では、なぜ?」
クロムウェルが少し黙る。
「君は、用事がなければ呼んではいけないのか?」
今度はエレナが黙った。
先ほどオルディスから同じようなことを言われたばかりだ。
「いけなくはありません」
「なら問題ない」
「陛下、それで押し切るのは少しずるいです」
「そうか」
「そうです」
それでも嫌ではない。
むしろ嬉しい。
そのことを悟られないよう、エレナは机の報告書へ視線を移した。
「では、せっかくなので研究の報告をします」
「聞こう」
「治癒魔法保存器十二号が三十六時間を越えました。残存効力も十一号より良いです」
説明し始めると、自然に言葉が出る。
補正環の配置。
素材方向の変更。
自分が休んでいる間にリナたちが出した案。
「私が思いついたわけではないんです」
「それを嬉しそうに言うようになったな」
クロムウェルに指摘され、エレナは少し驚いた。
「分かります?」
「ああ」
「最初は少し複雑でした」
「聞いた」
「でも、今は本当に嬉しいです。私がいなくても進むことと、私が必要ないことは同じではないと……少しずつ分かってきました」
「そうか」
クロムウェルの表情が柔らかくなる。
「それから家庭用魔導灯も、量産型と高効率型を分けようと思っています。全部を一つで完璧にしなくてもいいかな、と」
「良い判断だと思う」
「私もです」
自然に笑えた。
しばらく研究の話をしたあと、会話が途切れた。
気まずい沈黙ではなかった。
外では木々を揺らす風の音がする。
窓硝子から午後の日差しが差し込み、机の上の紙を明るく照らしていた。
「エレナ」
「はい」
「体調はどうだ」
「もう大丈夫です」
言ってから、クロムウェルの眉が動く。
エレナは慌てて付け足した。
「本当に、です。今週は時間外勤務もしていません。食事も三食取っていますし、昨日は七時間寝ました」
「申告が随分具体的になったな」
「信用を回復するためです」
「それなら少し回復した」
「少しだけですか?」
「倒れた前科がある」
「前科って言わないでください」
エレナが笑う。
クロムウェルも笑った。
以前は珍しかったその表情が、今では少しずつ自然に見える。
けれど、見慣れたから何も感じなくなったわけではなかった。
むしろ反対だ。
笑ってほしいと思う。
疲れていないか気になる。
自分のことを心配してくれるのと同じように、彼のことも気にするようになっている。
「陛下は、きちんと休んでいますか?」
エレナが尋ねる。
「私か?」
「以前、善処するとおっしゃっただけでした」
「覚えていたのか」
「気になることは覚えています」
前にも言った台詞だった。
クロムウェルが少し目を細める。
「最近は以前より眠っている」
「何時間?」
「六時間ほど」
「少ないです」
「君に言われたくない」
「私は七時間です」
「一日だけだろう」
「……三日続いています」
「なら四日続けろ」
「話を逸らしましたね」
エレナが責めると、クロムウェルは珍しく少し困った顔をした。
「皇帝は仕事が多い」
「研究主任も仕事が多いです」
「規模が違う」
「身体は一つでしょう?」
言った瞬間、クロムウェルが黙った。
エレナは首を傾げる。
「どうしました?」
「いや」
「私、何か変なことを?」
「違う」
彼はしばらくエレナを見ていた。
「君は変わったなと思っただけだ」
「どういう意味です?」
「最初に会った頃は、自分がどう扱われるかばかり警戒していた」
胸を突かれた。
「……そうだったかもしれません」
「今は、私の睡眠時間まで気にする」
「それは、陛下が私にあれだけ言うからです。自分だけ例外というのは不公平でしょう?」
「不公平か」
「はい」
言い切ると、クロムウェルがまた少し笑った。
「分かった。できるだけ七時間を目指す」
「約束ですか?」
「努力目標だ」
「私には三日休めと命令したのに」
「私は皇帝だ」
「便利ですね、その立場」
「こういうときくらい使わせろ」
エレナは呆れながらも笑った。
話はそれで終わるはずだった。
けれど、クロムウェルはしばらく黙っていた。
何か考えている。
その顔だった。
「陛下?」
「一つ聞いていいか」
「何でしょう」
「君は、私を怖いと思うことがあるか?」
思いがけない質問だった。
「陛下を?」
「ああ」
エレナは真面目に考える。
「最初は怖かったです」
「今は?」
「仕事で本気で怒らせたら怖いと思います」
「そうではなく」
「では……皇帝だから、という意味ですか?」
「それも含めてだ」
エレナは少し迷った。
「今は、あまり」
「本当に?」
「はい」
クロムウェルは帝国皇帝だ。
命令一つで多くの人間を動かせる。
エレナの役職より遥かに上にいる。
それを忘れたわけではない。
「陛下は、私が嫌だと言ったことを無理にさせませんから」
エレナはそう答えた。
「研究もそうです。護衛をつけるときはかなり強引でしたけれど、研究内容や私生活そのものを命令で変えたことはありません」
「食事は?」
「あれは……かなり命令に近いですね」
「反省はしていない」
「でしょうね」
二人で少し笑う。
「でも、私が帝国へ来るかどうかも、自分で決めさせてくださいました」
「ああ」
「だから怖くないんだと思います」
クロムウェルは静かに聞いている。
「陛下が強い立場にいることより、その力をどう使う人なのかのほうが、今の私には大事です」
言葉にしてから、少し恥ずかしくなった。
かなり踏み込んだことを言っている。
「すみません。偉そうでした」
「謝るな」
「そうでした」
クロムウェルが視線を落とす。
「私は、その力を君へ使いたくない」
「え?」
「少なくとも、君自身の気持ちを決めるためには」
何の話だろう。
エレナはすぐには分からなかった。
「役職や護衛、国家の安全に関わることなら命令することもある。だが、それ以外で君が私の言葉を断れないような状況にはしたくない」
声がいつもより慎重だった。
「どうして急にそんなことを?」
「自分の中で、ようやく分かったことがあるからだ」
クロムウェルはエレナを見る。
その目が、普段よりまっすぐだった。
逃げ場がないほどではない。
むしろ、エレナが嫌ならいつでも話を止められるような距離を、意識して取っているように感じた。
「私は以前、君を守りたい理由をうまく言えなかった」
「……はい」
覚えている。
国家魔導技師だからではない。
でも、それ以上を彼自身が言葉にできなかった。
「今は、分かる」
エレナの鼓動が一つ速くなった。
「それは……聞いても?」
「ああ」
クロムウェルは一度だけ息を整えた。
「君が大切だからだ」
以前にも似た言葉を聞いた。
それなのに、今回は響きが違った。
「技師として?」
「それだけではない」
胸の奥が大きく揺れた。
「君の技術は好きだ。正確で、無駄がなく、それでも使う人間のことを考えている。君の仕事の仕方も尊敬している」
クロムウェルの言葉は、そこで終わらなかった。
「だが、それだけなら、君が三日休んでいる間に何を食べたかまで気になったりはしない」
「……それは護衛報告で聞いたのでは?」
「聞いたあとで気になった」
「そうですか」
何を返しているのだろう。
頭が上手く回らない。
「君が笑うと嬉しい。無理をしていると腹が立つ。誰かに軽んじられれば、それが私自身への侮辱より不快だ。君が帰ると言えば安心するし、会えなければ……気になる」
最後だけ少し言いにくそうだった。
それを見て、エレナの胸がさらに熱くなる。
冷徹皇帝と呼ばれる人が。
国家の重大な決定なら即断する人が。
自分のことになると、こんなふうに言葉を選んでいる。
「それは」
エレナの声が少し震えた。
「どういう意味なのでしょう」
「私も随分考えた」
「はい」
「考えて、他に呼び方が見つからなかった」
クロムウェルは静かに言った。
「私は君を愛おしいと思っている」
エレナの思考が止まった。
完全に。
「……愛おしい?」
「ああ」
「私を?」
「ここには君しかいない」
「そういう返しをするところではないと思います」
反射的に言ってから、自分でも妙なことを言ったと気づく。
クロムウェルの口元が僅かに動いた。
「すまない」
「笑わないでください。私、今かなり困っています」
「見れば分かる」
「分かるなら、少し待ってください」
「分かった」
本当に黙った。
それが余計に困る。
エレナは膝の上で手を組んだ。
愛おしい。
その言葉が頭の中をぐるぐる回る。
好きだと言われたわけではない。
いや、ほとんど同じではないだろうか。
でも、クロムウェルはまだ何かを決めつけようとしていない。
告白して、返事を求めているわけでもない。
ただ、自分の気持ちにようやく名前をつけた。
そういう言い方だった。
「陛下」
「何だ」
「それは……皇帝としての言葉ではないんですよね」
「違う」
「私が断っても、役職が変わったりしません?」
聞いた瞬間、クロムウェルの表情が僅かに険しくなった。
「変えると思うか?」
「思いたくはありません。でも、確認しておきたいんです」
「当然だ」
不機嫌になるのではなく、むしろ真剣に頷いた。
「君が私をどう思おうと、研究者としての評価には一切関係させない。役職も給与も研究費も、すべて職務上の判断で決める」
「はい」
「君が私の気持ちに応える義務もない」
「……はい」
「むしろ、私が皇帝だからこそ、そこは明確にしておきたい」
エレナは胸の奥が少しほどけるのを感じた。
この人らしい。
自分の感情まで、権力で押しつけない。
「では、どうして今、教えてくださったんですか?」
「隠したまま君を過剰に心配するほうが、不誠実だと思った」
「過剰なのは自覚していたんですね」
「最近はな」
「やっとですか」
「君に何度も言われたからだ」
少しだけ空気が軽くなる。
そのおかげで、エレナも息がしやすくなった。
「私……すぐには答えられません」
「答えを求めていない」
「そうなんですか?」
「今はな」
「今は?」
「そこだけ拾うな」
クロムウェルが珍しく困った顔をした。
エレナは思わず笑った。
笑ってから、自分の胸が苦しいほど高鳴っていることに気づく。
「でも」
エレナは慎重に言葉を選んだ。
「嫌ではありません」
クロムウェルの目が僅かに見開かれた。
「むしろ……嬉しいです」
「そうか」
「ただ、自分の気持ちがまだよく分かりません」
「分からなくていい」
「陛下は分かったのに?」
「私にも時間がかかった」
「どのくらい?」
「君が倒れたあたりで、かなり疑った」
「そこなんですか?」
「その前からおかしかったとは思う」
「おかしいって」
「君の食事が気になり始めた頃からだ」
エレナは堪えきれず笑った。
「陛下の恋心って、私の昼食から始まったんですか?」
「もっとましな言い方はないのか」
「だって、そう聞こえます」
「私も今、少し後悔している」
クロムウェルが額へ手を当てた。
そんな仕草をする彼を見るのは初めてだった。
「でも」
エレナは笑いを収めながら言った。
「陛下らしい気がします」
「どういう意味だ」
「華やかな言葉より、私が食べたかどうかのほうを気にするところです」
「褒められているのか?」
「かなり」
今度はクロムウェルが小さく笑った。
その顔を見て、エレナは思う。
ああ。
やっぱり、この人が笑うと嬉しい。
会えれば嬉しい。
自分のことを覚えていてくれると嬉しい。
心配されれば困るのに、どこか安心する。
それが恋なのかどうかは、まだ分からない。
ガイウスへ抱いた感情とは、ずいぶん形が違う。
昔は、好きだから役に立ちたかった。
役に立てば、もっと好きでいてもらえると思っていた。
クロムウェルには、そうしたくない。
何かを作って差し出さなければ、そばにいてはいけない関係にはしたくなかった。
「陛下」
「何だ」
「一つだけお願いがあります」
「聞こう」
「しばらく、今まで通りでいてください」
「今まで通り?」
「急に特別扱いを増やしたり、逆に距離を取ったりしないでほしいです」
クロムウェルは少し考えた。
「努力する」
「努力なんですね」
「護衛を外すつもりはない」
「そこではありません」
「食事についても気にする」
「そこも、もう半分諦めています」
「なら何が変わる?」
「……確かに」
二人で顔を見合わせる。
結局、これまでと大きく変わらないのかもしれない。
でも、一つだけ違う。
クロムウェルが自分をどう見ているのか、エレナは知った。
技術だけではない。
役職でもない。
成果でもない。
エレナ自身を。
「分かった」
クロムウェルは改めて言った。
「君が自分の気持ちを決めるまで、何も強いるつもりはない」
「ありがとうございます」
「ただし」
「まだ何か?」
「好きになってもらう努力まで禁止されるつもりはない」
エレナは固まった。
「陛下」
「何だ」
「それは……かなり困ります」
「嫌か?」
「だから、嫌ではないから困るんです」
今度こそ、顔が熱くなるのを隠せなかった。
クロムウェルは、そんなエレナを見て笑った。
夕方。
研究室へ戻ると、リナがすぐにこちらを見た。
「主任、随分長かったですね」
「話がありまして」
「そうですか」
返事は普通だった。
普通だったのに、その視線が妙に鋭い。
「何です?」
「いえ」
「顔を見ないでください」
「まだ何も言っていませんけど」
「今、絶対に何か考えました」
「主任」
「はい」
「顔、真っ赤ですよ」
エレナは両手で頬を押さえた。
まだ熱い。
「院長室が暑かったんです」
「今日は涼しいですよ」
「陛下と難しい話をしたので」
「どんな?」
「言えません」
「では聞きません」
あっさり引かれた。
そのことに安堵しながら、少しだけ拍子抜けもする。
エレナは自分の作業台へ戻った。
十二号の保存器が淡く光っている。
リナたちが記録した測定表もきれいに揃っていた。
いつも通りの研究室。
何も変わっていない。
けれど、エレナの中では明らかに何かが変わっていた。
クロムウェルの声が、何度も蘇る。
『私は君を愛おしいと思っている』
以前の自分なら、その言葉のあとに条件を探したかもしれない。
何をすればいいのか。
どう役に立てば、その言葉を失わずに済むのか。
今は違う。
何も作らなくても。
何の役にも立たない瞬間でも。
あの人は自分を見ている。
そのことを、すぐ全部信じ切るには、まだ少し時間が必要だ。
それでもエレナは、作業台の上で光る魔導具を眺めながら、小さく笑った。
明日も会いたい。
そんな気持ちが生まれていることだけは、もう誤魔化せそうになかった。




