第18話 君が壊れるくらいなら、発明などいらない
治癒魔法保存器の試作十一号が二十四時間を越えた朝、エレナは研究室で一番大きな欠伸をした。
自分では口元を押さえて誤魔化したつもりだったが、向かいの作業台にいたリナにはしっかり見られていたらしい。
「主任、昨日は何時に寝ました?」
「ちゃんと寝ましたよ」
「何時です?」
「……日付が変わる前には」
「具体的に」
エレナは測定表へ目を落とした。
「十一時五十分くらいです」
「十分前じゃないですか」
「日付は変わっていません」
「そういう問題ではありません」
リナの呆れた声に、近くで記録を取っていた若い助手まで苦笑する。
少し前までなら、エレナはこんな会話そのものを面倒に感じていたかもしれない。
今では心配されていることが分かる。
分かっているからこそ、少し後ろめたい。
「昨日は研究室を早く出たでしょう?」
「七時半ですね」
「ええ。そのあと宿舎で少しだけ資料を整理していたんです」
「それは休んだことになりません」
「でも座っていました」
「座って仕事をしていただけでしょう」
「寝転んで仕事をするほうが難しいと思います」
「言葉尻で逃げないでください」
リナは完全にミレイアの影響を受けている。
エレナは小さく笑ってから、透明な保存器へ視線を戻した。
瓶の中では淡い緑色の光がまだ揺れている。
二十四時間前にアメリアが込めた治癒魔法だ。
残存効力は六十九パーセント。
目標としていた一日保存を初めて達成した。
本来なら、もっと喜んでもいい。
実際、嬉しい。
けれど頭の中では、もう次の問題が始まっていた。
「循環路の損失がまだ多いですね」
「二十四時間保ったんですよ?」
「でも三割以上落ちています。緊急用としては使えても、遠隔地へ運ぶなら不安があります」
「一日で七割残るなら、まず十分じゃないですか?」
「十分かどうかは使う側が決めることです」
エレナは保存器を持ち上げた。
「昨日の夕方に出発して、翌日の夕方に村へ着いたとして、そのとき効力が七割。そこから患者に使うまで時間がかかったら、もっと落ちます」
「なるほど」
「最低でも三日。できれば一週間は欲しいです」
「また目標が伸びましたね」
「技術って、できることが増えると欲が出るんです」
「主任の場合は、最初から欲深い気もしますけど」
「褒め言葉として受け取ります」
そう返したところで、研究室の扉が開いた。
アメリアだった。
今日は治療院の仕事前らしく、白い治療衣の上に外套を羽織っている。
「おはようございます。どうでした?」
「二十四時間、保ちました」
エレナが答えると、アメリアの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」
「残存効力は六十九パーセントです」
「十分すごいですよ」
「でも三割落ちています」
「エレナさん」
アメリアまで、リナと同じような顔をした。
「なんです?」
「治療院では、薬だって時間とともに効果が落ちるものがあります。それでも使えるなら価値はあるんです。最初から百点じゃなければ駄目、という考え方は危険ですよ」
「……百点にしたいわけではないんです」
「では?」
「一番遠い場所へ届くところまで持っていきたいんです」
アメリアは少し黙った。
怒っているわけではない。
むしろ、言葉を選んでいるようだった。
「分かります。私も、そのほうが嬉しい」
それから小瓶を見る。
「でも、今ある七十点を『まだ足りない』だけで終わらせないでください。これでも救える人はいるんです」
エレナは答えられなかった。
そうだ。
自分はすぐ次を見る。
改善点を探す。
欠点を見つける。
それは技師として大切だと思っている。
けれど、完成していないから無価値というわけではない。
自分自身に対して、ずっとやってきた評価と同じことを、発明へまでしているのかもしれない。
「……そうですね」
ようやく頷いた。
「二十四時間保ったことは、ちゃんと喜びます」
「はい。まずそこです」
「そのあとで、三日を目指します」
「そこは止めても無駄そうなので諦めます」
アメリアが笑った。
エレナも笑う。
そのとき、立ち上がろうとして、少しだけ足元が揺れた。
「あれ」
すぐ机へ手をつく。
「主任?」
リナが近づいてきた。
「大丈夫です。急に立ったので」
「顔色、悪くないですか?」
「朝が早かったからでしょう」
「今日何時に起きました?」
「五時半です」
「寝たのは十一時五十分」
「六時間近く寝ています」
「近く、ですか」
リナの目が細くなる。
「朝食は?」
「食べました」
「何を?」
「パンを」
「それだけ?」
「蜂蜜もつけました」
「蜂蜜を一食分に数えないでください」
「でも糖分はあります」
「そういう話ではありません」
また叱られた。
エレナは苦笑しながら椅子へ座り直した。
本当に少し立ちくらみがしただけだ。
以前なら気にもしなかった。
だから大丈夫。
そう思った。
昼前には、保存器十一号の分解検査を始めた。
循環回路の摩耗は少ない。
ただし、波形補正用の刻印に微かな焼けがある。
「ここですね」
エレナは拡大鏡を覗き込みながら、細い針で焼けた箇所を示した。
「二十四時間を越えると、この部分へ負荷が集中するんだと思います」
若い助手が記録する。
「素材を変えますか?」
「変えると価格が上がります。まず刻印の配置を――」
言いながら、視界の端が少しぼやけた。
瞬きをする。
戻った。
エレナはそのまま説明を続けた。
「補助環を一つ外側へ逃がせば、熱の集中を分散できるかもしれません」
「主任」
リナが呼ぶ。
「はい」
「昼食です」
「これが終わったら」
「今です」
「あと十分で図面まで起こせます」
「十分で終わったこと、ありました?」
「今日は終わらせます」
「その顔で?」
エレナは眉を寄せた。
「どんな顔ですか」
「疲れている顔です」
「大丈夫です」
反射的に出た。
言った瞬間、リナが黙った。
その沈黙の意味が分かる。
最近、自分が何度も「大丈夫」と言っているからだ。
「本当に大丈夫です。少し寝不足なだけで」
「少し寝不足な人は、朝から二回もふらつきません」
「二回?」
「さっき今も、机に手をついたでしょう」
見られていた。
「でも倒れてはいません」
口にしてから、自分でもまずいと思った。
リナの表情が変わる。
「主任」
「はい」
「倒れなければ大丈夫、という基準はやめましょう」
穏やかな声だった。
怒られるより、胸へ刺さった。
「……分かりました。昼食へ行きます」
エレナは工具を置いた。
立ち上がる。
今度はゆっくり。
それでも、身体が重かった。
食堂まで歩けば少し目が覚めるだろう。
そう考えて研究室を出ようとしたところで、カミラが前へ出た。
「主任、腕を」
「そこまででは」
「念のためです」
「本当に大げさです」
「三ミリの傷で医師を呼んだ方の護衛ですから」
「それは陛下でしょう」
「私も怒られたくありませんので」
最後の一言があまりにも現実的で、エレナは笑った。
「分かりました」
腕を借りるほどではないと思いながら、一歩踏み出した。
その瞬間。
床が傾いた。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
視界が白く滲んで、耳の奥で遠く音がする。
身体から急に力が抜けた。
「エレナ主任!」
誰かの声。
腕を掴まれる。
床へ落ちる前に、カミラに支えられたのだけは分かった。
「……すみません」
「謝らなくていいです。座ってください」
「大丈夫です」
「今倒れかけた人が言う台詞ではありません!」
リナの声が、今まで聞いたことがないほど強かった。
エレナは反論しようとした。
けれど言葉がうまく出ない。
冷や汗が背中を流れている。
「横にします」
「でも、試作が」
「誰か試作器を止めて!」
「止めなくても、自動で――」
「主任は黙っていてください!」
そこまで言われて、ようやく諦めた。
長椅子へ寝かされる。
天井が見える。
いつも作業台から見上げる天井と同じなのに、妙に遠く感じた。
「……格好悪いですね」
「今それを気にするんですか?」
「主任になってから倒れるなんて」
「だから格好の話ではないです」
リナの声が少し震えていた。
それを聞いた瞬間、エレナはようやく、自分が周囲をかなり驚かせたのだと理解した。
「ごめんなさい」
「それもあとです」
医務室へ運ばれた。
診断は、過労と睡眠不足、それから軽い栄養不足だった。
大病ではない。
休めば回復する。
その言葉を聞いて、エレナ自身は安心した。
周囲はあまり安心していないようだった。
「二日、完全休養です」
医師がはっきり言った。
「二日?」
「最低でも」
「そんなに?」
「そんなに、ではありません」
「研究室には行っても――」
「駄目です」
「見るだけでも?」
「駄目です」
「資料を読むくらいなら」
「駄目です」
三連続で拒否され、エレナはさすがに黙った。
「では宿舎で――」
「仕事をしないでください」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあります」
最近、本当に何でも顔に出るようになったらしい。
医師が退出すると、カミラが入口へ残り、リナは研究室へ戻っていった。
自分がいなくても、研究室は動く。
それは良いことのはずだ。
なのに、少し落ち着かない。
エレナは寝台の上で指を動かした。
十一号の補正回路。
外側へ一段ずらせば、たぶん熱は分散できる。
でも循環距離が伸びる。
なら――。
「考えるな」
低い声がした。
エレナは驚いて顔を上げた。
入口にクロムウェルが立っていた。
「陛下?」
「寝ていろ」
「寝ています」
「頭の中で研究していただろう」
「なぜ分かるんですか」
「顔を見れば分かる」
まただ。
クロムウェルは寝台の横まで来た。
普段より表情が硬い。
「医師から聞いた」
「大したことではありません」
「過労で倒れた」
「倒れかけただけです」
「言い換えて軽くするな」
声が冷たい。
けれど、それが自分へ怒っている冷たさなのか、それとも別のものなのか、エレナには分からなかった。
「二日休めと言われました」
「四日にする」
「増やさないでください」
「一週間でもいい」
「陛下」
「冗談ではない」
エレナは口を閉じた。
本気だ。
「……ご心配をおかけしました」
「それはいい」
「よくはないでしょう」
「謝って終わる問題ではないという意味だ」
クロムウェルは椅子へ座った。
手を伸ばすわけでもなく、ただエレナの顔を見ている。
「なぜここまでやった」
「ここまで?」
「睡眠を削り、食事を適当に済ませ、倒れるまで研究した理由だ」
「倒れるつもりではありませんでした」
「結果の話ではない」
逃がしてくれない。
エレナは少し考えた。
「十一号が、もう少しだったんです」
「何が」
「二十四時間保存です」
「それは達成したと聞いた」
「はい。でも、効力が三割落ちました。そこを直したくて」
「今日でなければならない理由は?」
答えられなかった。
「明日では駄目だったのか」
「……明日でも、たぶん」
「ではなぜ今日やった」
問い詰める声ではない。
むしろ静かだった。
だから誤魔化せなかった。
「止まるのが、少し怖いんです」
口にしたあと、自分でも驚いた。
クロムウェルは黙っている。
「研究が?」
「それもあります。でも……私が止まることが」
言葉を探す。
昔からそうだった。
何か作っている間は、自分が必要とされている。
仕事をしていれば、役に立てる。
役に立っている限り、そこにいていい。
「私は、今の場所が好きです」
研究室。
リナたち。
ハロルドやミレイア。
アメリア。
そして、クロムウェル。
「だから、ちゃんと成果を出したいんです。期待してもらったぶん、返したいというか……」
「返す?」
「研究費もいただいていますし、給料も高いですし、専用の研究室まで」
「対価なら、君はすでに働いている」
「でも、もっとできるならやったほうが――」
「誰のために?」
また答えが止まる。
「国のためです」
「本当にそれだけか」
エレナは黙った。
本当は。
役に立たなくなることが怖い。
何も作れない日が続いたら。
失敗ばかりしたら。
この場所でもいつか、「思っていたほどではなかった」と言われるのではないか。
そんな不安が、まだどこかに残っている。
「……以前は」
エレナは天井を見たまま言った。
「納品前になると、二日くらい寝ないこともありました」
クロムウェルの空気が変わった。
「二日?」
「毎回ではありません」
「何時間寝ずにいた」
「四十時間くらいなら、何度か」
「食事は」
「作業しながらパンを食べたり……忙しいときは、終わってから」
「誰が止めた」
「誰も」
「ガイウスは?」
エレナは少し迷った。
事実だけを言う。
「納期を守ることを優先していました。私もそうでしたから」
「君が倒れたことは?」
「一度だけ、工房で寝てしまって」
「寝た?」
「たぶん気を失ったんだと思います。でも朝には起きました」
クロムウェルが動かなくなった。
エレナは、ようやくまずいことを言ったと気づく。
「本当に昔の話です」
「そのとき、誰か医師を呼んだか」
「いいえ。朝には動けたので」
「仕事は?」
「しました」
沈黙が落ちた。
怒鳴られたほうが、まだ楽だったかもしれない。
クロムウェルは声を荒らげなかった。
ただ、低く息を吐いた。
「君は、それを普通だと思っていたのか」
「当時は」
「今は?」
エレナは少し考えた。
「……普通ではなかったと、思います」
「思う、では困る」
初めて、声に怒りが滲んだ。
ただし、その矛先がエレナへ向いているわけではないことは分かった。
「君が壊れるくらいなら、発明などいらない」
エレナは息を止めた。
「でも」
「いらない」
クロムウェルはもう一度言った。
「軍用魔導灯も、治癒魔法保存器も、これから君が作るかもしれない何もかもだ。君が自分を削り切らなければ完成しないものなら、私は要らない」
「……陛下」
「技術は重要だ。国にも必要だ。君の成果が多くの人間を救うことも分かっている」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、そのために君自身が壊れていい理由にはならない」
胸の奥が痛んだ。
傷ついたのではない。
何か固いものが、ゆっくり溶けるような痛みだった。
「私が休んでいる間に、研究が遅れても?」
「遅れればいい」
「助かるはずだった人に届くのが遅くなっても?」
その問いは、少し卑怯だと思った。
それでも聞いてしまった。
クロムウェルはすぐに答えなかった。
「救える可能性のある人間を考えるのは大事だ」
静かな声だった。
「だが、そのために目の前の一人を犠牲にすることを当然にしたら、何のための技術か分からなくなる」
エレナは何も言えない。
「君も、救われる側に入っている」
その一言が、強く胸へ入った。
自分は作る側。
支える側。
役に立つ側。
そう考える癖がある。
守られる側や、休む側へ自分を入れたことがほとんどなかった。
「……難しいですね」
「何が」
「自分を、その中に入れるのが」
「なら練習しろ」
「そんな簡単に」
「研究と同じだ」
少しだけ、クロムウェルらしい言い方へ戻った。
「最初から完璧にできる必要はない。失敗したら修正しろ」
エレナは小さく笑った。
「私、失敗作棚に置かれますか?」
「君を棚に置くつもりはない」
「例えです」
「分かっている」
「陛下、時々わざと真面目に返しますね」
「君が笑うからな」
その言葉に、また少し胸が揺れた。
「陛下」
「何だ」
「怒っていますか?」
「ああ」
「私に?」
クロムウェルは少し考えた。
「半分は」
「半分?」
「自分を雑に扱った君に腹が立っている」
「……はい」
「残り半分は、そう扱うことを当然にさせた環境にだ」
エレナは目を伏せた。
「ガイウス様だけのせいではありません」
「分かっている」
「私も断らなかったので」
「それも分かっている」
クロムウェルは責めるようには言わなかった。
「誰か一人を悪人にして終わる話ではない。だから今から変えろと言っている」
そのほうが、エレナには受け入れやすかった。
「四日は長いです」
「まだ交渉するのか」
「二日なら医師も」
「三日」
「増えています」
「最初は四日だった」
「では二日半」
「半日をどう数える」
「三日目の昼から研究室へ」
「却下」
「陛下」
「三日」
譲らない。
エレナはため息をついた。
「分かりました。三日休みます」
「仕事はしない」
「はい」
「資料も読まない」
「はい」
「頭の中で設計するのは?」
「それは禁止できますか?」
「できないな」
「ではそこだけは自由です」
「仕方ない」
ようやく折り合った。
クロムウェルは立ち上がる。
「今日はこのまま寝ろ」
「まだ夕方です」
「眠いだろう」
言われた途端、身体の重さを思い出した。
確かに眠い。
「……少しだけ」
「朝まででも構わない」
「それは寝すぎです」
「今の君に限っては、足りないよりいい」
また過保護だ。
そう言おうとして、やめた。
今日くらいは受け取ってもいい気がした。
「陛下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何に対してだ」
「止めてくださったことに」
クロムウェルは少し黙り、それから頷いた。
「ああ」
エレナは寝台へ身体を沈めた。
まぶたが重い。
クロムウェルが帰る気配がしないので、薄く目を開ける。
「まだいらっしゃるんですか?」
「君が寝るまでいる」
「お忙しいでしょう」
「少しくらい遅れても帝国は滅びない」
「私に言ったことと同じですね」
「そうだ」
「陛下も、自分を大事にしてくださいね」
言うと、クロムウェルが一瞬言葉に詰まった。
珍しい。
「……善処する」
「私には命令するのに?」
「眠れ」
「逃げましたね」
「眠れ」
少し笑った。
そのまま目を閉じる。
意識が落ちる寸前、エレナは不思議なことを思った。
三日間、何も作らなくても。
きっと明日も、自分の居場所はなくならない。
それを信じてみてもいいのかもしれない。
そしてエレナは、工具を握らないまま眠りについた。
研究院へ来てから初めて、自分が何も生み出していない時間さえ、無駄ではないと思いながら。




