第17話 皇帝陛下は過保護です
護衛がついて三日目、エレナは早くも一つの問題に気づいていた。
自分の生活が、以前より格段に周囲へ筒抜けになっている。
「エレナ主任。今日はこれで研究を終えてください」
夕刻をとうに過ぎた精密魔導核研究室で、護衛のカミラが遠慮のない声をかけてきた。
エレナは治癒魔法保存器の試作九号から目を離さず、壁時計だけを確認した。
「まだ七時ですよ」
「『まだ』ではなく『もう』です」
「九号があと三十分で十二時間保存に到達するんです。ここまで見たのですから、最後まで確認したいでしょう?」
「測定担当の方が残っています」
「でも設計したのは私です」
「ですから?」
即座に返され、エレナはようやく顔を上げた。
カミラは鎧こそ脱いでいるものの、研究室の壁際で腕を組み、まったく譲る気のない顔をしている。
「……護衛というのは、研究員を帰宅させる仕事まで含まれるのですか?」
「通常は含まれません」
「では」
「陛下から、『夜遅くなった場合は一人で帰すな。必要なら切り上げさせろ』と指示されています」
エレナは静かに額へ手を当てた。
「また陛下ですか」
「また陛下です」
隣で記録をつけていたリナが笑う。
「主任、もう諦めたほうが早いと思います」
「私はただ、研究したいだけなんです」
「その『ただ』が普通の人と違うんですよ」
「今日は夕食も食べました」
「それを誇る時点でだいぶ危ないです」
ぐうの音も出ない。
最近は確かに食事を抜いていない。
ただしそれは、本人の生活習慣が改善したというより、研究院の食堂から確認が入るようになったからだった。
最初は偶然だと思っていた。
昼食時間を一時間ほど過ぎたころ、料理長の部下が研究室まで来て、「主任、本日の昼食はお済みですか」と聞く。
次の日も。
その次の日も。
おかしいと思って尋ねたところ、食堂側には「エレナ・ヴァリエ主任が昼食を取っていない場合は研究室へ確認を入れること」という指示が出ていた。
誰が出したかを聞く必要すらなかった。
「カミラさん」
「はい」
「陛下は、私の食事まで護衛報告で把握しているんでしょうか」
「毎食ごとに報告しているわけではありません」
「毎食ごとに、という言い方が怖いんですけれど」
「二食続けて抜いた場合などは、研究院側から連絡が入るようです」
「なぜそんな仕組みが存在するんですか?」
「私は決めておりません」
「誰が決めたかは聞いていません」
「分かっています」
カミラの口元が少しだけ動いた。
どうやら面白がられている。
「とにかく、あと三十分です」
エレナは試作九号を指した。
「ここまで来たのに、自分だけ帰るほうが気になって眠れません」
カミラはしばらく考えた。
「では十二時間に到達したら、必ず帰るということで」
「約束します」
「リナさん、聞きましたね」
「聞きました」
「どうして証人まで必要なんです?」
「主任の『あと少し』は、法的拘束力がないと信用できません」
「酷い扱いです」
「実績です」
最近、その言葉を聞くたびにクロムウェルの顔が浮かぶようになった。
それも少し悔しい。
結局、九号は十二時間を越えてなお治癒魔法の波形を保った。
初期効力との比較では七十八パーセント。
七号より改善している。
「……いけますね」
エレナは測定値を書き込みながら、思わず笑った。
「次は二十四時間を――」
「主任」
リナとカミラの声が重なった。
エレナはペンを止めた。
「分かっています。帰ります」
「よろしい」
「明日の朝、最初に十号を組みます」
「それは明日になってから考えてください」
工具を片づける。
研究室の灯りを落とす頃には、研究院の廊下も随分静かになっていた。
外へ出ると、夜気は思っていたより冷たい。
昼間は暖かくても、春の帝都は日が落ちるとまだ肌寒い。
エレナは外套の前を閉じた。
「馬車を回しています」
カミラが言う。
「歩いて帰れますよ。宿舎までそれほど遠くありませんし」
「本日は馬車です」
「どうして?」
「夜道だからです」
「帝都の中央ですよ?」
「中央でも夜は夜です」
護衛がつく前は普通に歩いて帰っていた。
そう言おうとして、エレナはやめた。
過去の自分の基準を持ち出すと、たいてい周囲から「それが普通ではない」と返されるからだ。
正門近くで待っていた馬車へ近づく。
だが、その前に見覚えのある黒い車体が停まっていた。
「……あれ」
扉が開く。
クロムウェルが降りてきた。
「陛下?」
「まだいたのか」
「今帰るところです」
「そうか」
それだけ答えると、彼は研究院の建物を見上げた。
「会議で近くまで来た。研究院長から、君がまだ残っていると聞いた」
「わざわざ確認しに来たんですか?」
「帰路が同じ方向だっただけだ」
「皇宮と私の宿舎は方向が違った気がしますけれど」
一瞬、沈黙が落ちた。
カミラが妙に遠くを見始める。
エレナは首を傾げた。
「違いましたか?」
「……細かいな」
「道の話ですから、かなり具体的です」
クロムウェルは答えず、馬車の扉を開いた。
「乗れ」
「私の馬車が」
「こちらで送る」
「陛下がお乗りになる馬車に?」
「以前も乗っただろう」
婚約破棄の夜。
雨の中で拾われたときのことを思い出す。
あのときは、自分が皇帝の馬車へ乗っていると知っただけで頭が真っ白になった。
今では言い返している。
随分変わったものだ。
「では、お言葉に甘えます」
カミラも護衛として同乗するかと思ったが、彼女は別の馬車へ回った。
エレナはクロムウェルの向かいへ座る。
車輪が動き出した。
「今日の成果は?」
聞かれた瞬間、エレナの疲れが少し飛んだ。
「九号が十二時間を越えました。残存効力も七十八パーセントです。循環路を三系統に分けたのが効いています。ただ、まだ一系統ごとの負荷に差があるので、十号では――」
「楽しそうだな」
途中で言われた。
「はい?」
「研究の話をしているときは、随分顔が違う」
エレナは自分の頬へ触れた。
「また顔の話ですか」
「分かりやすくなった」
「最近、皆さん同じことを言います」
「悪いことではない」
「以前はそんなに無表情でした?」
「無表情ではない。隠すのが上手かった」
思っていなかった答えだった。
エレナは少し黙った。
嬉しいときも。
傷ついたときも。
平気なふりをすることが多かった。
特にガイウスの工房では、感情的だと思われたくなかった。
技術の話をするときに女性だから扱いにくいなどと言われるのが嫌で、余計に冷静であろうとしていた部分もある。
「今は、隠せていないということですね」
「隠す必要があるのか?」
「……そう聞かれると、あまりないですね」
「ならいい」
簡単に言われた。
けれど、その簡単さが心地よかった。
「ところで陛下」
「何だ」
「過保護ではありませんか?」
「誰が」
「陛下がです」
クロムウェルは僅かに眉を寄せた。
「何を根拠に?」
「護衛をつけました」
「必要だ」
「夜になると馬車です」
「必要だ」
「食堂に、私が食事を抜いたら確認するよう指示を出しました」
「必要だ」
「必要しか言っていません」
「必要だからな」
まるで話が進まない。
「私は二十歳です。自分で食事くらいできます」
「実績が伴っていない」
「最近は食べています」
「周囲が見張っているからだろう」
「……そこは否定しませんけれど」
「なら問題ない」
「問題があります。私の生活が研究院中に共有され始めています」
「それは困るな」
「でしょう?」
「共有範囲は絞らせよう」
「そういう解決ではありません」
クロムウェルの目元が少しだけ緩んだ。
「笑っていますね」
「少し面白かった」
「私の困り事ですよ」
「自分で食事を取れば、半分は解決する」
「陛下の言うことが正しいのが一番困ります」
馬車の中に、穏やかな沈黙が落ちた。
エレナは窓の外を見る。
帝都の街灯が規則正しく並んでいる。
ここへ来た初日、その構造ばかり見ていたことを思い出した。
今でも気になる。
けれど今日は、窓硝子にうっすら映るクロムウェルの姿のほうへ意識が向いている。
自分でも少し妙だった。
「陛下」
「何だ」
「昨日おっしゃったことですけれど」
「何の話だ」
「護衛をつける理由です」
クロムウェルの視線がこちらへ向く。
「国家魔導技師だからではない、と言いましたよね」
「ああ」
「続きをまだ聞いていません」
「覚えていたのか」
「気になることは覚えています」
「技術以外でも?」
「失礼ですね」
エレナは少しむっとした。
クロムウェルはまた僅かに笑う。
「では、答えてください」
促すと、今度は彼が窓の外へ目を向けた。
すぐ答える人が、また答えない。
それだけで、ますます気になる。
「陛下?」
「今はまだ、うまく言えない」
「陛下にもそういうことがあるんですね」
「私を何だと思っている」
「何でも即決できる方です」
「国家のことなら、迷っている時間がない場合も多い」
「では、これは国家の話ではない?」
クロムウェルがエレナを見る。
その目が思っていたより真剣で、今度はエレナのほうが言葉を失った。
「そうだ」
短い返事だった。
胸の奥が妙に落ち着かない。
これ以上聞くのが、少し怖くなった。
何を怖がっているのか、自分でも分からない。
だからエレナは、珍しくそこで話を変えた。
「……九号、本当に良い結果だったんですよ」
「ああ。続きを聞こう」
クロムウェルも追及しなかった。
その優しさに、なぜか余計に胸が騒いだ。
翌日。
過保護という言葉が冗談では済まない出来事が起きた。
治癒魔法保存器の十号を組み立てている途中、エレナが加工用の薄板で左手の人差し指を切ったのである。
「あ」
ほんの小さな傷だった。
血も一滴か二滴。
エレナは近くの布を取ろうとした。
「主任!」
リナの声が飛ぶ。
「大丈夫です。このくらい――」
「カミラさん!」
「呼ばなくていいです!」
遅かった。
入口付近にいたカミラがすぐ近づいてくる。
「怪我ですか?」
「紙で指を切るようなものです」
「金属板でしょう」
「薄いですから、似たようなものです」
「傷を見せてください」
「本当に大丈夫です」
だが二人とも聞かない。
水で洗われ、消毒され、小さな布を巻かれた。
「これで終わりですね」
エレナが言う。
「はい。ただ念のため、治療院へ――」
「行きません」
今度は即答した。
「この傷で治療院へ行ったら、治癒魔導師の方に怒られます。もっと重い患者さんがいるんですから」
カミラもそこまでは強く言わなかった。
「では、今日は細かな加工を助手へ任せてください」
「それはできます」
ようやく折り合った。
ところが。
一時間ほど経った頃、研究室に白衣の男性が現れた。
「エレナ・ヴァリエ主任はこちらですか」
エレナは嫌な予感を覚えた。
「……はい」
「皇宮医務局の医師です。手を負傷されたと伺いました」
研究室が静まり返った。
エレナはゆっくりカミラを見る。
カミラが少しだけ目を逸らす。
「報告しました?」
「規定ですので」
「この程度で?」
「出血を伴う負傷は報告対象です」
「誰がそんな規定を」
全員が黙った。
答えを聞くまでもない。
「陛下ですね」
「陛下です」
リナが代わりに答えた。
エレナは額を押さえた。
「診察します」
医師が真顔で言う。
「もう消毒しました」
「念のためです」
「傷、三ミリくらいですよ」
「三ミリでも傷は傷です」
「皇宮医務局の方を呼ぶほどではありません」
「私もそう思います」
医師があっさり答えた。
エレナは目を瞬いた。
「では、なぜ?」
「陛下から連絡が来ましたので」
「……申し訳ありません」
「私に謝らないでください。近くに来る用がありましたから。それに、陛下が気にされている以上、診て問題なしと報告したほうが全員早く仕事へ戻れます」
妙に現実的だった。
仕方なく手を差し出す。
医師は布を外し、本当に三ミリほどの傷を確認した。
「浅いですね。感染の心配もほとんどありません。今日は薬を塗っておけば十分です」
「ほら」
「ただし、今日は同じ指で細かな工具を使わないように」
「……はい」
結局、それだけだった。
医師が去ったあと。
研究室には何ともいえない空気が残った。
「主任」
リナが口を開く。
「何も言わないでください」
「まだ何も言っていません」
「顔が言っています」
「最近、主任も人の顔を読むようになりましたね」
「鍛えられました」
エレナは傷のある指を眺めた。
腹立たしいというほどではない。
恥ずかしい。
大げさだとも思う。
でも。
以前の工房で同じ怪我をしたら、どうしていただろう。
おそらく布を巻いて、そのまま作業を続けた。
少し深く切ったこともある。
そのときも、納品が近いからと休まなかった。
『そのくらいなら作業できるだろう』
ガイウスにそう言われたことがあった。
当時は何も思わなかった。
自分も同じことを考えていたからだ。
傷より納期。
体調より仕事。
できるなら、やる。
それが当然だった。
「……三ミリなんですけどね」
エレナが呟く。
「何がです?」
「いえ。本当に大げさだなと思って」
「陛下のことですか?」
「はい」
そこで言葉が一度止まった。
「でも、嫌ではないです」
自分から出た言葉に、少し驚く。
リナは何も茶化さなかった。
「そうですか」
「困りますけれどね。三ミリで皇宮の先生が来るのは」
「それは私もそう思います」
「ですよね」
二人で笑った。
その日の夕方。
クロムウェルが研究室へ現れた。
もう驚かなかった。
「手を見せろ」
挨拶より先だった。
「陛下、医師から報告を受けたでしょう?」
「受けた」
「浅い傷だと」
「ああ」
「では、見る必要はありません」
「私が確認する」
「なぜ?」
「確認したいからだ」
理屈になっていない。
それなのに妙に真っ直ぐ言われ、エレナは負けた。
「どうぞ」
左手を差し出す。
クロムウェルは布を巻かれた指を見る。
触れない。
ただ、少し眉を寄せた。
「痛むか?」
「ほとんど」
「今日は加工をしていないな」
「していません。リナさんたちに止められました」
「そうか」
明らかに安心した顔をする。
それを見た瞬間、胸の内側が小さく揺れた。
「陛下」
「何だ」
「やっぱり、過保護です」
「三ミリでも怪我は怪我だ」
「お医者様まで同じことを言っていました」
「正しいからだ」
「私、壊れ物ではありませんよ」
冗談半分で言った。
けれどクロムウェルは笑わなかった。
「知っている」
静かな声だった。
「君が丈夫かどうかの話ではない」
エレナは彼を見る。
「では?」
クロムウェルは少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「怪我をすれば心配する。それだけだ」
あまりにも単純だった。
役に立つから。
国家の技術者だから。
研究が止まると困るから。
そういう説明を、エレナは無意識に待っていた。
けれど何一つ出てこなかった。
「……私が研究できなくなると困るから、ではなく?」
「それも困る」
「やっぱり」
「だが、それだけではない」
そこでクロムウェルは言葉を切った。
エレナの胸が、少しだけ速くなる。
「前にも言っただろう。国家魔導技師だから護衛をつけたわけではない」
「はい」
「君が怪我をしたと聞けば、私は気になる。食事を抜いたと聞けば腹が立つ。夜遅くまで一人でいると聞けば心配になる」
「……はい」
「今は、それで納得しておけ」
「理由になっていない気がします」
「私自身が整理できていない」
クロムウェルがそんなことを認めるのは珍しかった。
エレナは何も言えなくなった。
役に立つから大事にされる。
ずっと、そう思っていた。
だから役に立てなくなれば、いらなくなる。
その考えが身体のどこかへ染みついている。
けれど、三ミリの傷を心配することに、技術的な価値など関係あるのだろうか。
食事をしたかどうか。
夜道を一人で歩くかどうか。
そんなものは、発明の性能とは何の関係もない。
「陛下」
「何だ」
「こういうの、慣れていないんです」
ようやく言えた。
「何に?」
「大事にされることに」
言葉にすると、急に恥ずかしくなった。
けれど今回は取り消さなかった。
「技術を評価されることには、少しずつ慣れました。名前を出してもらうことにも、お給料を受け取ることにも。でも……仕事と関係のないところまで心配されるのは、まだよく分かりません」
クロムウェルはエレナの言葉を遮らず聞いていた。
「だから、過保護だと思うんです」
「そうか」
「否定しないんですね」
「君から見れば、そうなのだろう」
「陛下から見れば?」
「まだ足りない」
エレナは呆然とした。
「これ以上、何をするつもりなんですか?」
「まずは君が自分で食事を取るようになるまでだな」
「そこへ戻るんですか」
「重要だ」
「怪我より食事の話が長いです」
「怪我は三ミリだからな」
「さっきまで三ミリでも怪我だと言っていたでしょう」
エレナが思わず笑うと、クロムウェルも笑った。
少しずつ。
この人が笑うことにも慣れてきた。
それでも、その笑顔を見られると嬉しい。
「分かりました」
エレナは傷を庇いながら工具箱を閉じた。
「今日はもう帰ります」
「珍しいな」
「失礼ですね」
「いつもなら、あと一つと言う」
「今日は言いません」
「なら送る」
「護衛がいます」
「私も帰るところだ」
「皇宮と方向が――」
「今日は同じだ」
「昨日は違いましたよね?」
「細かいな」
「またそれですか」
結局、その日もクロムウェルの馬車で帰ることになった。
以前なら、皇帝にそこまで手間をかけさせてはいけないと思っただろう。
今も少しは思う。
けれど、それ以上に。
誰かが自分の無事を気にしてくれることを、素直に嬉しいと思う気持ちが生まれていた。
役に立つからではなく。
成果を出すからでもなく。
ただ自分が怪我をしたから心配する。
そんな単純な扱いを、エレナはこれまでほとんど知らなかった。
だからまだ、うまく受け取り方が分からない。
それでも。
馬車の窓から流れる帝都の灯りを眺めながら、エレナは小さく笑った。
「陛下」
「何だ」
「過保護なのは、まだ納得していませんからね」
「構わない」
「でも……ありがとうございます」
クロムウェルが僅かに目を見開く。
それから、静かに答えた。
「ああ」
たったそれだけだった。
けれど今のエレナには、それで十分だった。




