第16話 君には護衛をつける
治癒魔法保存器の研究が始まってから、エレナの周囲には少しずつ知らない顔が増えていた。
最初のうちは、中央治療院から出入りする医師や治癒魔導師が増えただけだった。
次に、帝国内の商会。
その次は、地方領主の使者。
軍用魔導灯の量産計画と重なったこともあり、精密魔導核研究室の入口には、以前にはなかった来訪者名簿まで置かれるようになった。
もっとも、エレナ本人はその変化をあまり気にしていなかった。
「主任、こちらの面会申請はどうします?」
朝一番、リナが三通の書類を抱えてきた。
「何の面会ですか?」
「一件目は北部の魔導具商会。家庭用省魔力灯の共同販売について相談したいそうです」
「まだ完成していません」
「そう返しておきます。二件目は南方の治療院連合。治癒魔法保存器が実用化した場合、優先供給契約を結びたいと」
「まだ人体への実用試験も始まっていません」
「ですよね。三件目は、西のエルグラン王国から来た商人です」
「商人?」
「精密魔導核について、個人的に話を聞きたいそうです」
エレナは設計図から顔を上げた。
「研究院を通さずに?」
「面会申請自体は受付を通しています。ただ、『個人的に』と書いてあります」
「では断ってください。研究の話なら研究院を通してもらいます」
「分かりました」
リナは迷いなく三枚を仕分けした。
以前のエレナなら、せっかく訪ねてきた相手を断ることに少し罪悪感を覚えただろう。
今は違う。
断ることも仕事のうちだと分かってきた。
時間は有限だ。
全部の依頼へ応じていたら、自分の研究が進まない。
「最近、多いですね」
エレナが呟く。
「主任が有名になりましたから」
「そこまでではないでしょう」
「軍用魔導灯の設計者で、治癒魔法保存器の主任研究者で、王国では過去の発明者名義まで再調査されている人ですよ」
「最後の一つは別に有名になりたくありません」
「それでも名前は広がります」
リナが苦笑した。
王国で技術協会の調査が始まったことは、帝国にも伝わっていた。
エレナ自身は求められた質問へ答えただけで、その後の判断へ口を挟むつもりはない。
けれど周囲はそう単純には見ないらしい。
王国の有名工房を支えていた技術者が、隣国へ移った途端に軍用魔導灯と医療技術を生み出した。
その分かりやすい物語だけが、一人歩きを始めている。
「私は急に賢くなったわけではないんですけどね」
「誰もそんなことは思っていませんよ」
「でも帝国へ来てから何でも作れるようになったみたいに言われると、少し違う気がします」
エレナは机の上の失敗作を指した。
「これだけ失敗していますし」
「主任の場合、その棚まで含めて評価されているんだと思います」
「失敗の数を?」
「何を試して、なぜ駄目だったか残しているところです」
そう言われると、悪い気はしなかった。
成果だけではなく、そこまでの過程も仕事だと見てもらえる。
以前との違いは、そういうところにもあるのかもしれない。
午前中は治癒魔法保存器の改良に使った。
七号は十二時間保存できたものの、効果は初期値の七割ほどまで落ちる。
循環速度を下げれば持続時間は伸びるが、波形が崩れる。
速度を上げれば波形は保てるが、魔力そのものを消耗する。
「ちょうどいいところが狭すぎます」
測定値を見ながらエレナが言う。
「製造誤差に弱いですね」
若い測定技師が答えた。
「はい。このままだと私たちが作った一台だけ動いて、量産したら失敗します」
「軍用灯の最初と似ていますね」
「そうですね。ただ今回は中身が治癒魔法ですから、もっと厳しく見たいです」
エレナは図面へ修正を書き込む。
「循環路を三本に分けます。一つが多少ずれても、残り二つで平均化できるように」
「核が大きくなりませんか?」
「そこを何とかするのが次の問題です」
「問題が減りませんね」
「研究って、そういうものでは?」
言うと、周囲から笑いが起きた。
昼前。
研究室の入口へ、見覚えのない男が現れた。
身なりは良い。
三十代半ばほどで、濃紺の上着に金糸の縁取りがある。
研究員には見えない。
「失礼。エレナ・ヴァリエ殿はいらっしゃいますか」
リナが対応へ出る。
「ご用件を伺います」
「私は西方のエルグラン王国で魔導具商会を営んでおります、ラザールと申します。先ほど受付を通したのですが、どうしても一度直接ご挨拶したくて」
エレナは手を止めた。
今朝、断った相手だ。
「面会はお断りしたはずですが」
リナの声が少し硬くなる。
「ええ。ですが、話を聞けばきっと興味を持っていただけると思いまして」
ラザールはにこやかだった。
押しが強い。
けれど無礼には見えない程度の線を、よく知っている人間の笑顔だった。
「エレナ主任、どうします?」
リナが振り返る。
断って構わない。
そう思ったのに、エレナは一瞬だけ迷った。
外国の商人がわざわざ来るほど、自分の研究へ何を求めているのか。
技術者としては興味がある。
「五分だけなら」
「ありがとうございます」
男は嬉しそうに中へ入った。
応接用の机へ移る。
ラザールは座るなり、細長い革箱を取り出した。
「まずはご挨拶の品です」
「受け取れません」
エレナは箱へ触れもしなかった。
「研究院の規則で、取引の可能性がある相手から個人的な贈り物は受け取れません」
「これは単なる土産ですよ」
「土産でもです」
即答すると、男は一瞬だけ目を細めたが、すぐ箱をしまった。
「噂以上に堅実な方だ」
「よく言われます」
「では本題へ」
ラザールは声を少し落とした。
「我が国は今、魔導具産業へ大規模な投資を始めています。あなたほどの技術者なら、帝国の研究院にいるより自由に研究できる環境を用意できます」
エレナは少し首を傾げた。
「こちらでも十分自由です」
「ですが国家機関でしょう。予算にも規則にも縛られる」
「予算と規則がない研究機関のほうが怖いと思います」
ラザールが笑う。
「なるほど。それでは、もっと分かりやすく言いましょう。今の三倍の報酬を出します」
「三倍?」
「研究所もあなた専用で建てる。助手は好きな人数を選べる。研究成果の権利も、大半をあなた個人に帰属させる」
リナが黙ってエレナを見る。
条件だけなら破格だ。
エレナも、それは分かった。
「ずいぶん高く評価してくださるんですね」
「当然です。軍用魔導灯、精密核、治癒魔法保存。これから十年の魔導具産業を変える人物だと思っています」
真正面からそこまで言われると、さすがに戸惑う。
「ありがとうございます。でも、移るつもりはありません」
ラザールの笑みが少し薄くなった。
「即答ですか」
「はい」
「条件を聞いてからでも遅くないでしょう」
「聞きました」
「まだ細かな話があります。住居、爵位、研究費、それから――」
「必要ありません」
今度は少しはっきり言った。
「今の研究を途中で投げ出したくありませんし、研究室の皆さんとも続けたい仕事があります」
ラザールの視線が、エレナの背後へ向く。
助手たちが作業を続けている。
「人なら連れていけばいい」
その一言で、エレナの気持ちが冷めた。
「その言い方は好きではありません」
「失礼。ですが、人材は条件次第で動くものです」
「私も人材なのでしょう?」
「もちろん」
「では、条件だけでは動かない人間もいると覚えておいてください」
少し空気が張った。
ラザールは数秒黙り、それから肩をすくめた。
「これは手強い」
「五分経ちましたか?」
リナが壁の時計を見る。
「あと一分ほどです」
「では、その一分でお帰りください」
ラザールは苦笑しながら立ち上がった。
「今日は引きます。ただ、気が変わったらいつでもご連絡を」
「変わる予定はありません」
「予定は変わるものです」
最後まで商人らしい。
男が出ていったあと、リナが大きく息を吐いた。
「主任」
「何でしょう」
「断るの、上手くなりましたね」
「褒められている気がしません」
「褒めています」
エレナは少し笑った。
「でも、条件だけならすごかったですね」
「三倍ですよ?」
「そうですね」
「専用研究所まで」
「今も専用研究室があります」
「そうでした」
二人で顔を見合わせて笑う。
以前なら、三倍の報酬と言われただけで目を回したかもしれない。
今は、それだけで決めるものではないと思える。
環境。
仲間。
研究の自由。
そして、自分がどう扱われるか。
全部を含めて考えるものだ。
その日の午後、今度は別の来訪者が来た。
外国商人ではない。
帝国内の貴族家に仕える執事だった。
「我が伯爵家で、治癒魔法保存器を優先的に利用できる契約を結びたいとのことです」
「まだ実用化していません」
「承知しております。だからこそ、今のうちに」
「研究段階で特定の家に優先権を渡すつもりはありません」
「では資金援助という形では?」
「研究院を通してください」
「ですが、個人研究としてなら――」
「研究院を通してください」
二度目は強く言った。
執事はそれ以上粘らなかった。
ただ、帰り際に小さく言う。
「あなたほどの方なら、もっと自分の利益を考えてもよろしいかと」
エレナは少し考えた。
「利益は考えています」
「ほう」
「研究が続けられて、成果が正当に記録されて、必要な人に使ってもらえることも、私にとっては利益です」
執事は何も言わず、丁寧に一礼して去った。
夕方になる頃には、さすがにエレナも疲れていた。
「研究より人と話していた時間のほうが長い気がします」
「有名人は大変ですね」
「有名になりたくて作っているわけではないんですけど」
「でも名前を出すようになった以上、避けられない部分もあると思います」
「難しいですね」
エレナは椅子にもたれた。
そのとき、研究室の扉が再び開く。
「今日はもう面会は――」
言いかけて止まる。
クロムウェルだった。
「私も断られるのか?」
「陛下は先に名乗ってください」
「ここで名乗る必要があるか?」
「今、知らない方が何人も来ていたので、つい」
クロムウェルは研究室へ入ると、机の上の来訪者記録へ目を落とした。
「三件?」
「今日は四件です。朝の一件はお断りしたのに直接来ました」
「直接?」
声の温度が少し下がった。
「エルグラン王国の商人です。研究院を辞めて来ないかと言われました」
「何と答えた」
「断りました」
返事が早かったせいか、クロムウェルの表情がほんの少し緩む。
「そうか」
「三倍のお給料だそうです」
クロムウェルが止まった。
「三倍?」
「はい」
「……そうか」
今度の「そうか」は、少し違った。
「陛下?」
「研究院の給与体系を確認する必要があるな」
「張り合わないでください」
「張り合ってはいない」
「今の顔は張り合っています」
「どんな顔だ」
「少し悔しそうです」
クロムウェルは否定しなかった。
「相場より安く雇っていると思われるのは不本意だ」
「十分いただいています。増やされたら、また桁を数えるところから始めなければいけません」
「慣れたのではなかったか?」
「限度があります」
リナが少し離れたところで笑っている。
クロムウェルは来訪者記録を最後まで読んだ。
「他には?」
「帝国内の伯爵家から、治癒魔法保存器の優先契約を求められました。研究院を通してくださいと返しました」
「正しい」
「それから、朝に断った商人は専用研究所と爵位も出すと言っていました」
クロムウェルの眉がわずかに動く。
「爵位まで?」
「かなり欲しがられているみたいです」
「その自覚が薄すぎる」
「最近は少しあります」
「少しでは足りない」
声が真面目になった。
エレナは首を傾げる。
「どういうことです?」
「君は今、単なる研究員ではない。軍用魔導灯の基礎技術を作り、治癒魔法保存技術を進め、複数国の技術者が注目する精密核の専門家だ」
「はい」
「国外へ連れ出す価値があると判断する者が出る」
「今日みたいな勧誘ですか?」
「穏当な相手ならな」
その言葉で、研究室の空気が少し変わった。
エレナはクロムウェルを見る。
「穏当ではない場合もある、と?」
「ああ」
「でも、研究院の中ですし」
「研究院から一歩も出ないつもりか?」
「帰宅はします」
「買い物は?」
「します」
「治療院にも行く。皇宮にも来る。今後、地方施設へ視察に出る可能性もある」
言われてみれば、その通りだ。
「君には護衛をつける」
クロムウェルは決定事項のように言った。
エレナは目を瞬く。
「護衛?」
「ああ」
「私に?」
「他に誰がいる」
「そこまで必要でしょうか」
「必要だ」
「でも、私は皇族でも貴族の高官でもありません」
「関係ない」
「研究者に護衛って、少し大げさでは?」
「君は今日、外国から三倍の報酬と爵位を提示されたばかりだろう」
「勧誘されただけです」
「次も言葉だけだと保証できるのか?」
できない。
エレナは黙った。
クロムウェルはさらに続ける。
「君が保有する技術だけでなく、未公開の研究内容も狙われる可能性がある。治癒魔法保存器が実用化すれば、軍にも医療にも影響する。本人にその気がなくても、政治的価値は勝手に増える」
「本人の都合とは関係なく?」
「ああ。残念ながらな」
エレナは机に置かれた小瓶を見る。
ただ、遠くの村へ治癒魔法を届けられたらいいと思った。
軍用魔導灯だって、長く光れば便利だと思った。
作る側にとってはそれだけでも、使う国や商会にとっては違う意味を持つ。
「分かりました」
しばらく考えてから、エレナは頷いた。
「でも、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ」
「護衛をつけるのは、私が国家魔導技師だからですか?」
クロムウェルはすぐに答えなかった。
ほんの短い間だった。
それでも、エレナには分かった。
いつもなら、この人はもっと早く答える。
「違う」
静かな声だった。
エレナは目を瞬く。
「では、どうして――」
「……」
クロムウェルはそこで言葉を止めた。
続きを言わない。
それが余計に気になる。
「陛下?」
「必要だからだ」
「今、理由を途中で変えませんでした?」
「変えていない」
「国家技師だからではないのに?」
「そうだ」
「では何だからです?」
「君は時々、妙なところだけ鋭いな」
「普段は鈍いみたいに言わないでください」
「否定はしない」
「陛下」
エレナが睨むと、クロムウェルはわずかに口元を緩めた。
「とにかく、明日から護衛をつける。研究院内では距離を取らせる。外出時だけ近くにいればいい」
「研究の邪魔には?」
「させない」
「工具箱を持とうとしたら?」
「止めればいい」
「私、自分の道具は自分で持ちたいです」
「そこまで細かく規定するつもりはない」
「それなら」
エレナはまだ少し納得しきれなかった。
けれど、クロムウェルの表情を見る。
冗談でも。
皇帝として形式的に命じているだけでもない。
何かを本気で心配している顔だった。
「……分かりました」
「素直だな」
「最近、必要なことなら従うようにしています」
「進歩だ」
「褒められている気がしません」
「褒めている」
また、そのやり取りになった。
エレナは少し笑う。
クロムウェルもほんの僅かに表情を緩めた。
「護衛は二名を交代でつける。明日紹介する」
「女性もいますか?」
「ああ。一人は女性騎士だ」
「それなら少し安心です」
「何が?」
「着替えや買い物のとき、男性だけだと気を遣います」
「……そこまで考えていなかった」
クロムウェルが珍しく少し困った顔をした。
「陛下でも考え落とすことがあるんですね」
「ある」
「安心しました」
「なぜ安心する」
「全部分かっている人だと、こちらが疲れるので」
「君は私を何だと思っている」
「冷徹皇帝です」
「またそれか」
今度はリナまで笑った。
翌朝。
エレナの前へ二人の護衛が紹介された。
一人は三十歳前後の女性騎士、カミラ。
短く切った赤褐色の髪に、動きやすい軽装の鎧を着ている。
もう一人は二十代後半の男性騎士、ユリウス。
どちらも皇宮警備隊から選ばれたらしい。
「エレナ・ヴァリエ主任の外出時警護を担当します。研究院内では必要以上に近づきませんので、ご安心ください」
カミラが実務的に説明した。
「よろしくお願いします。あの、一つだけ」
「何でしょう」
「工具箱は自分で持ちます」
カミラは一瞬きょとんとしたあと、隣のユリウスを見る。
「陛下からも、そこは本人の希望を尊重するように言われています」
「そこまで伝わっているんですか?」
「かなり強く」
エレナは少し恥ずかしくなった。
「……陛下、余計なところまで覚えていますね」
カミラの口元がわずかに上がる。
「かなり細かく指示を受けました」
「どんな?」
「研究中に不用意に話しかけない。道具へ勝手に触れない。食事を抜いていそうなら研究室の方へ知らせる」
「最後は護衛の仕事でしょうか」
「私も疑問でした」
エレナは額を押さえた。
どこまで自分の生活管理へ介入するつもりなのだろう。
けれど、嫌ではなかった。
少し困る。
かなり恥ずかしい。
それでも、胸の奥には別の温かさがある。
国家魔導技師だからではない。
クロムウェルはそう言った。
なら、何だからなのか。
その答えはまだ分からない。
そして自分がなぜ、その続きをあれほど気にしているのかも、エレナにはまだ説明できなかった。
ただ一つだけ確かなのは、以前なら「価値があるから守られる」としか考えられなかった自分が、今は少しだけ別の可能性を考え始めているということだった。




