第12話 皇帝陛下が笑いました
家庭用魔導灯の試作八号は、点灯してから十四分で煙を上げた。
「止めてください!」
エレナが声を上げるより早く、測定担当の青年が供給魔力を切った。
白い光が消え、作業台の上に置かれた小型魔導核から、細い煙がゆらゆらと立ち上る。焦げた青晶石特有の、少し鉄臭いような匂いが研究室へ広がった。
「……また合流部分ですね」
エレナは耐熱手袋を着け、熱の残る核を慎重に取り外した。
「七号よりは長く保ちましたよ」
リナが励ますように言う。
「七号は十一分でしたからね」
「三分伸びました」
「喜んでいい数字でしょうか」
「三分を笑う人に、十分の一は作れません」
言いながら、エレナは失敗作棚の空いている場所へ八号を置いた。
紙片に日付と試験条件を書き、原因欄には『合流部で局所発熱。流路分岐後の位相差が想定以上』と記す。
棚にはすでに十五個の小型核が並んでいた。
研究室を作ったとき、失敗作のために一段だけ空けてもらったはずなのに、いつの間にか二段目へ進出している。
「主任」
リナが棚を眺めながら言った。
「そろそろ三段目を空けます?」
「まだ大丈夫です。少し詰めれば入ります」
「失敗作を詰め込む研究室って、珍しいですよね」
「捨てるほうがもったいないです。この八号だって、次の設計では反面教師として役立ちます」
「物に対しては本当に面倒見がいいですね」
「人に対して悪いみたいに言わないでください」
「そういう意味ではありません。ただ、主任は壊れた魔導具には『どうしてこうなったんでしょう』って優しく話しかけるのに、ご自分が疲れているときは『まだ動けます』で済ませるでしょう」
図星だった。
エレナは聞こえなかったふりをして設計図へ戻った。
「次は合流位置を少し下げます。分岐した魔力が落ち着く距離をもっと取ったほうが――」
「話を逸らしましたね」
「技術の話です」
「主任の健康管理も、研究室の運用上は技術の話です」
「ミレイア様みたいなことを言うようになりましたね」
「主任が聞かないから、皆が同じことを言うようになるんです」
返す言葉がない。
エレナはペン先で設計図を軽く叩きながら、合流部分の形を描き直した。
軍用魔導灯が正式採用され、研究室の立ち上げもひとまず落ち着いた。それと並行して始めた家庭用魔導灯の省力化は、思った以上に難航している。
白輝晶などの高価な素材を使えば、もっと簡単に魔力消費を下げられる。
けれど、それでは意味がない。
一般家庭でも買える価格。
専門技師が一つずつ調整しなくても量産できること。
壊れたときに町の修理工でも扱えること。
軍用品とは違う制約がいくつもある。
その難しさが、エレナには面白かった。
「主任、昼食どうします?」
「後で行きます」
「何時に?」
「この図面が終わったら」
「具体的な時刻を聞いたんです」
「図面は時刻で終わるものではありませんから」
「分かりました。では一時間後にもう一度聞きます」
リナは諦めたように席を離れた。
エレナはすぐ設計へ戻った。
分岐位置を〇・四下げる。
合流直前の回路を細くする。
いや、それでは抵抗が上がりすぎる。むしろ一度広げてから絞るほうがいいかもしれない。
紙へ線を重ねる。
ひとつ考えると、次が出てくる。
次を考えると、その先にまた問題が見える。
その感覚が好きだった。
気づけば、窓から差し込む光の角度が変わっていた。
「主任」
「はい?」
「一時間経ちました」
リナが腕を組んで立っている。
「そんなに?」
「経ちました」
「では、あと少しだけ」
「その『少し』を信用したことは一度もありません」
「ひどいですね」
「昨日も同じことを言って、夕食の時間まで作業した人が何を言うんですか」
「昨日は途中で良い数値が出たので」
「そうやって毎回理由があるから困るんです」
エレナは設計図とリナを交互に見た。
あと一本。
本当にあと一本、回路を書けば一区切りつく。
「では、これだけ――」
「駄目です」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあります」
最近、周囲から顔を読まれることが増えた気がする。
以前は分かりにくいと言われていたのに。
「分かりました。行きます」
そう答えた直後、研究室の扉が開いた。
「何に行くんだ?」
聞き慣れた声に、エレナは顔を上げた。
クロムウェルが立っていた。
今日は視察というより、仕事の途中で寄ったらしい。黒い外套の下には皇帝としての正装を着ており、護衛と秘書官が廊下に控えている。
「昼食です」
リナがエレナより早く答えた。
「これからですか?」
クロムウェルが尋ねる。
「その予定です」
エレナが答えると、リナがすぐ訂正した。
「正確には、私が一時間前から行くように言っています」
「リナさん」
「事実です」
クロムウェルの視線がエレナへ向く。
責められているわけではない。
なのに、なぜか居心地が悪い。
「今から行こうと思っていました」
「昼食時間はとっくに過ぎているが」
「研究者は少しくらいずれるものです」
「少し、とはどの程度だ?」
「……人によります」
「君の場合は?」
「陛下、今日は何の御用でしょう」
「話を逸らしたな」
リナが笑いを噛み殺している。
味方だと思っていたのに、最近は完全にクロムウェル側へ回っている気がした。
「軍用魔導灯の実地運用報告が来た。後で見せようと思って寄った」
「もう届いたんですか?」
エレナの表情が一気に変わった。
「どうでした? 低温地域での点灯は? 持ち運び中の破損はありませんでしたか? 交換部品の数は――」
「エレナ」
「はい」
「食事」
話を戻された。
「報告のほうが気になります」
「だから食べたあとに見せる」
「今、要点だけでも」
「駄目だ」
「陛下」
「駄目だ」
以前にも似たやり取りをした気がする。
エレナは少し不満だったが、クロムウェルに譲る気がないことも分かってきた。
「分かりました。食堂へ行ってきます」
「必要ない」
「え?」
クロムウェルが廊下の秘書官へ合図した。
すぐに大きめの籠が運び込まれる。
蓋を開けると、パン、野菜と肉を煮込んだ温かいスープ、薄く切った燻製肉、それに果物まで入っていた。
エレナは黙った。
「……これは?」
「昼食だ」
「見れば分かります」
「なら聞くな」
「どうして陛下が持ってくるんですか?」
「正確には侍従に用意させた。私が作ったわけではない」
「そこは分かっています」
皇帝が厨房で鍋を振っている姿は、さすがに想像していない。
「視察の途中で食堂へ行く時間がないと聞いたので、ついでだ」
「誰から聞いたんです?」
エレナがリナを見る。
リナは作業台の工具を整えながら、わざとらしく目を逸らした。
「報告です」
「またですか」
「主任がちゃんと食べれば、報告する必要もなくなりますよ」
正論なので腹が立たないのが余計に悔しい。
クロムウェルは研究室の小さな休憩机へ籠を置いた。
「食べろ」
「陛下は?」
「私は済ませた」
「いつですか」
「会議の合間に」
「きちんと?」
「君に心配されるとは思わなかったな」
「私だって人の食事くらい心配します」
「自分の分も同じように心配しろ」
また言い返せなくなった。
エレナは椅子へ座る。
スープの蓋を開けると、湯気と一緒に香草の匂いが上がった。
思っていた以上に空腹だったらしい。
匂いを感じた途端、胃が自己主張を始める。
「……お腹が空いていました」
「今気づいたのか?」
「集中していると、よく分からなくなるんです」
「それを問題だと言っている」
「はい」
パンを一口食べる。
柔らかい。
温かいスープも身体に染みた。
朝から魔導核とにらみ合っていたせいで、自分が冷えていたことにも今さら気づく。
「おいしいです」
「そうか」
クロムウェルはそれだけ答えた。
エレナはもう一口食べてから、ふと顔を上げる。
「陛下」
「何だ」
「まさか、私が食べ終わるまで見張っているんですか?」
「そのつもりだ」
「お忙しいのでは?」
「忙しい」
「でしたら、お仕事へ戻られたほうが」
「君が食べ始めるまで待ったのだから、ここで戻れば途中で工具を持つだろう」
否定しようとした。
できなかった。
「……持たないかもしれません」
「可能性の話か」
「はい」
「信用できない」
「ひどいですね」
「実績に基づく評価だ」
最近、この言葉を都合よく使われている気がする。
リナたちは気を利かせたのか、少し離れた作業台へ戻っていた。
研究室の端では、小さな測定器が規則的な音を立てている。
クロムウェルは向かいの椅子へ腰を下ろし、持ってきた書類を読み始めた。
本当に、エレナが食べ終わるまでここで仕事をするらしい。
「皇帝陛下が技師の昼食を監督する国って、どうなのでしょう」
「少なくとも皇帝の手を煩わせる技師が一人いる国だな」
「私のせいですか?」
「違うと思うのか?」
「……少しは」
クロムウェルは書類から顔を上げず、「そうか」とだけ答えた。
その言い方が妙に可笑しくて、エレナは小さく笑った。
それからしばらく、静かな時間が流れた。
エレナは食べ、クロムウェルは書類を読む。
時折ページをめくる音と、スプーンが器へ触れる音だけがする。
不思議な時間だった。
皇帝と二人で食卓を囲むという状況だけを切り取れば、緊張して当然のはずなのに、今はあまり落ち着かなさを感じない。
むしろ、誰かが近くで自分の仕事をしている状態が心地よかった。
「陛下」
「何だ」
「こういうこと、よくなさるんですか?」
「何を?」
「研究員へ食事を持ってくることです」
クロムウェルがようやく書類から顔を上げた。
「すると思うか?」
「思いません」
「なら、なぜ聞いた」
「確認です」
「しない」
「では、どうして私には?」
聞いてから、少しだけ胸がざわついた。
別に深い意味を期待しているわけではない。
けれど、答えが気になった。
クロムウェルはすぐには言わなかった。
「君が放っておくと食べないからだ」
「それだけですか?」
「それ以外に何が必要だ?」
あまりにも真顔で返されて、エレナは自分のほうが変な質問をしたような気がしてきた。
「いえ……そうですね」
少しだけ、拍子抜けした。
その感情に気づいて、さらに困る。
何を期待したのだろう。
自分でも分からない。
スープを口へ運びながら、その疑問ごと飲み込もうとした。
「ただ」
クロムウェルが続けた。
エレナは顔を上げる。
「国家魔導技師を餓死させるつもりはない」
「……主任ですけれど」
「細かいな」
「役職は大事です」
「では、精密魔導核研究室主任を餓死させるつもりはない」
「急に長くなりましたね」
「君が訂正したからだ」
エレナは堪えきれず吹き出した。
ちょうどスープを飲んでいなかったのは幸いだった。
「陛下」
「何だ」
「それ、本気で言っているんですよね」
「もちろんだ」
「だから面白いんです」
「どこが?」
クロムウェルは本当に分かっていない顔をしている。
それがさらに可笑しくて、エレナは声を立てて笑った。
婚約破棄の夜から、何度か笑うことはあった。
けれど、こんなふうに何も考えず声が出たのは久しぶりだった。
笑いすぎて目尻に涙が滲む。
「すみません」
「何がそんなに面白い」
「だって……陛下が真面目な顔で、私を餓死させないって」
「笑うところではないだろう」
「分かっています。でも、なんだか……」
言葉にしようとして、また笑ってしまう。
クロムウェルは困ったようにエレナを見ていた。
そのうち、口元が僅かに緩む。
エレナの笑いが止まった。
「……今、笑いました?」
「何が」
「陛下が」
「私も笑うことくらいある」
「初めて見ました」
「前にも笑っただろう」
「ほんの少し口元が動いただけです。今のはちゃんと笑いました」
クロムウェルは否定しなかった。
「珍しいです」
「珍獣を見るような顔をするな」
「だって、冷徹皇帝が笑ったんですよ」
「本人の前で何度その呼び名を使うつもりだ」
「事実として有名ですから」
「その評判を訂正する気はない」
「では、今日のことは秘密にしておきます」
「助かる」
そこで、二人はまた少し笑った。
離れた作業台では、リナが測定器へ顔を向けたまま、明らかにこちらを気にしている。
エレナは見なかったことにした。
食事を終えると、クロムウェルは約束通り軍用魔導灯の実地運用報告を机へ置いた。
「読んでいいんですか?」
「そのために持ってきた」
エレナはすぐ手を伸ばしかけ、クロムウェルに止められた。
「その前に」
「何でしょう」
「果物も食べろ」
「まだあるんですか?」
「籠に入っているだろう」
「もう十分です」
「残すのか?」
「陛下、急に母親みたいになっています」
研究室の空気が止まった。
リナが思いきり咳き込んだ。
エレナ自身も、言った直後にまずかったと思った。
帝国皇帝へ向かって何を言っているのだろう。
「申し訳――」
謝りかけて止めた。
必要以上に謝るな。
クロムウェル自身に言われたばかりだ。
「……言い方が悪かったです」
「そうだな」
クロムウェルは真顔だった。
やはり怒らせたかと思った次の瞬間。
「少なくとも、君の母親になった覚えはない」
エレナは数秒固まった。
それから、また吹き出した。
「そこですか?」
「他にどこがある」
「陛下、今日はどうしたんです?」
「何もしていない」
「普段より面白いです」
「褒められている気がしない」
「褒めています。たぶん」
「たぶん、か」
どこかで聞いたやり取りだった。
エレナは果物を一切れ食べた。
甘い。
食事を終え、ようやく報告書を開く。
前線で七十六時間以上の連続点灯。
移動中の破損なし。
予備魔石の携行量は従来比で大幅に削減。
夜間救護所からは、交換回数が減ったことで治療を中断する必要がなくなったという報告もある。
読み進めるうちに、エレナの表情が自然と真剣になった。
「……使ってもらえたんですね」
「ああ」
「本当に、誰かの役に立ったんですね」
「そうだ」
エレナは報告書の一文を指でなぞった。
夜間の負傷者処置。
あのとき兵站局長から聞いた話を思い出す。
自分が作ったものが、知らない場所で誰かの手元を照らしている。
その実感は、商品が何台売れたという数字よりもずっと重かった。
「嬉しいです」
「今度は顔に出ているな」
「最近、皆さん私の顔を読みすぎではありませんか?」
「分かりやすくなっただけだろう」
そうかもしれない。
以前は感情を出すと、仕事の邪魔になると思っていた。
傷ついても平気な顔をしていた。
嬉しくても「当然の仕事だから」と飲み込んだ。
今は少し違う。
嬉しいなら、嬉しいと言っていい。
腹が立てば、怒ってもいい。
断りたいことは断れる。
そして、誰かと笑ってもいい。
「陛下」
「何だ」
「この報告書、研究室のみんなにも見せていいですか?」
「機密部分を除いた写しを作らせる」
「ありがとうございます」
「彼らの成果でもあるからな」
「はい」
エレナは素直に頷いた。
クロムウェルは立ち上がる。
「では、私は戻る」
「お仕事の途中でしたものね」
「ああ」
「わざわざありがとうございました。食事も、報告書も」
「次からは食事を持ってこさせるなよ」
「努力します」
「努力ではなく食べろ」
「はい」
「返事が軽いな」
「ちゃんと食べます」
今度は少し真面目に答える。
クロムウェルはそれで納得したのか、扉へ向かった。
その背中を見送りながら、エレナはふと声をかけた。
「陛下」
クロムウェルが振り返る。
「また、笑ってくださいね」
言ったあとで、自分でも随分大胆なことを言ったと思った。
けれど取り消したくはなかった。
クロムウェルはほんの一瞬、意外そうな顔をした。
「命令か?」
「お願いです」
「皇帝へ珍しい頼み事をするな」
「難しいですか?」
「どうだろうな」
そう答えながら、彼の口元がまた少しだけ緩んだ。
今度はエレナも、すぐに笑った。
クロムウェルが去ったあと。
数秒の沈黙を挟み、リナがゆっくりこちらを向いた。
「主任」
「何でしょう」
「今の、何ですか?」
「何がです?」
「何が、じゃありません」
「陛下が軍用魔導灯の報告書を――」
「そこではありません」
強く遮られた。
エレナは首を傾げる。
「では、昼食の話ですか?」
「……もういいです」
「どうして呆れるんです?」
「主任は魔導核の〇・一の差には気づくのに、別のことには驚くほど鈍いですね」
「何の話でしょう」
「今はそのままでいてください」
また教えてもらえなかった。
エレナは納得できなかったものの、すぐ報告書へ意識を戻した。
研究室のみんなへ見せたい。
この成果は、自分一人のものではないからだ。
その日の午後。
家庭用魔導灯の試作九号は、八号の倍以上となる三十一分間、安定して点灯した。
まだ完成には遠い。
それでもエレナは以前より少しだけ、失敗も成功も楽しめるようになっていた。
そして皇宮へ戻ったクロムウェルが、執務中にふと口元を緩めたのを見て、古参の侍従が書類を取り落としかけたことを、エレナが知るのはもう少し先のことだった。




