第7話 死の扉で、赤い糸がノックする
突然、空を轟かせるような雷鳴が響き渡った。
「きゃああっ!」
栞はまたしてもスマートフォンを落とし、悲鳴を上げた。
完全に不意を突かれ、よろめきながら後ずさった栞は、そのまま地面に倒れ込んだ。
「お、落ち着いて、栞。雷だよ。雷だから……」
栞は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしながら、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。
そして、ゆっくりと立ち上がると、スマートフォンへ向かって歩き始めた。
「兄さん、ま、まだ電話つながってるの?」
だが、近づこうとしたその瞬間、スマートフォンが突然激しく振動し始めた。まるで中にいる何かが、外へ出ようともがいているかのように、左右へ激しく揺れ動いている。
栞はその場で凍りついた。
「な、何これ……? 何が起きてるの……?」
目の前で起きていることが、どうしても信じられなかった。
栞は目をこすり、今見ているものが現実ではないことを必死に願った。
もう一度見てみると、スマートフォンは地面に落ちたまま、完全に動かなくなっていた。
これ……私、幻覚でも見てるの? いや、もう雨も風もどうでもいい。今すぐここから逃げないと。
栞は逃げるために振り返った。
だが、その直後――
ほんの少し前まで完全に開いていた道が、今では分厚い壁によって塞がれていた。
「えっ!? 何が起きたの!? こんなの、どうして……!?」
反対側へ振り向くと、そこも同じように塞がれていた。周囲は次第に暗くなっていき、外の世界の音さえも徐々に遠ざかっていく。そして最後には、静寂だけが残った。
栞はその場に立ち尽くし、目の前で起きていることを理解できずにいた。
再びスマートフォンが振動し始める。そこから黒いエネルギーが放出され、突然、声が聞こえてきた。
「しおおおりぃ……」
それは以前に聞いた、あの歪んだ不気味な声だった。だが、今回はどこか違っていた。もっと現実味があり、もっと近い。まるで声がスマートフォンから聞こえているのではなく、そのすぐ外側にいる何かが発しているかのようだった。
ゆっくりと、黒いエネルギーがスマートフォンから漏れ出し、空中へと立ち昇っていく。
それは頭部と顔を形作った。そこには五つの目が現れたが、どの目も一点に留まっていない。瞳はあり得ない角度へ動き、人間の目では追うことのできない方向へと次々に視線を走らせていた。
そして、手が現れた。それらは地面を押しながら、怪物がスマートフォンの中からさらに身体を引きずり出していき、その全身を露わにしていく。
それは全長四メートル近くもある、漆黒の巨大な存在だった。その身体を取り巻く黒いエネルギーはあまりにも濃く、栞の周囲の空気さえ息苦しく感じられるほどだった。
栞は恐怖に目を見開いた。両脚が激しく震え始めたかと思うと、突然力が抜け、そのまま地面へと倒れ込んだ。
栞は恐怖のあまり口元を手で覆い、必死に息をしようとした。
突然、怪物のいくつもある目の一つが栞へ向き、彼女の視線を捉えた。
一つ、また一つと、他の目も栞へ向けられていく。
何もない顔の下半分が裂けるように開き、巨大でおぞましい笑みを形作った。
そして、まるで歌うように、再び不気味な声を発した。
「しおおおりぃぃぃ……しおおおりぃ……こっち……きてぇ……」
栞は動こうとした。逃げようとした。だが、もう脚が自分のものではないように感じられた。全身が震えているのに、脚は一歩どころか、ほんの少しも動いてくれない。
私の……脚……! 動いて……! 動いてよ……!
怪物はゆっくりと栞へ近づき始めた。その指先から鋭く黒い爪が伸び、一歩進むたびに地面を擦る音が響いた。
栞は必死に両手で身体を後ろへ押し下げたが、あまりにも遅かった。
「こ、こっちに来ないで……お願い……」
栞は鞄を開き、中に入っていた本やペンを無我夢中で怪物へ投げつけ始めた。
「ひ、一人にして! お願いだから、一人にして!」
投げつけた物は怪物に当たっても、ただ跳ね返され、そのまま何の役にも立たず地面へ落ちていった。
怪物の笑みがさらに大きくなる。
突然、その背中から不安定に揺らめく黒い腕が何本も生え、そのまま栞へ飛びかかった。
「い、いやああっ!」
その手が栞の両腕と両脚を掴み、彼女を壁へ激しく叩きつけた。栞は痛みに息を詰まらせ、口から血が流れた。
怪物がさらに近づいてくる。
栞を壁に押さえつけたまま、まるで彼女の恐怖を味わうかのように、その名前を歌い続ける。
「しおりぃ……しおりぃ……死ぬ……」
怪物の手の一つが栞の首へ巻きつき、ゆっくりと締め上げていく。
栞は必死に息をしようとした。意識が徐々に薄れていき、周囲の景色も次第にぼやけていく。
「お、お願い……だ、誰か……助けて……」
栞の頭の中を、いくつもの思いが駆け巡った。
このまま、私……死ぬの? まだ何も経験してないのに。今朝、兄さんにあんなにきつく当たったことだって、まだ謝れてない。お母さんの本当の笑顔だって、まだ見られてないのに。
涙が栞の頬を伝って流れ落ちた。あんな恐ろしい場所で、一人きりで死ぬ――そのことを考えるだけで、身体の奥をナイフで突き刺されているような痛みを感じた。
そして最後に、たった一つの思いが頭をよぎった。
まだ……死にたくない。
その瞬間――
ドォン!
その場を塞いでいた壁が突然砕け散り、粉々になって消えていった。外の世界の音――雷と雨の音が、一気にその場へと戻ってくる。
すると、煙の中から一本の太く赤く輝く糸が現れた。それは凄まじい速度で飛び出し、別の方向から怪物の身体を一直線に貫き、その動きを完全に封じ込めた。
煙の中から、一人の少女が姿を現した。
彼女は、独特なデザインの制服のような服を身にまとっていた。指先からは、赤く輝く糸が伸びている。
長い黒髪は衝撃の勢いで激しくなびき、赤い瞳には、隠しきれないほどの真剣さと怒りが宿っていた。
「ここからアノマリーのエネルギーを感じた。やっぱり、ここだったんだ」
彼女はさらに別の糸を操り、栞を壁に押さえつけていた怪物の腕を切り裂いた。
栞の身体が落下する。だが、地面に落ちるより先に、別の糸が飛び出して彼女の身体へ巻きついた。
少女はその糸を使って栞を自分のもとへ引き寄せ、怪物から安全な距離まで離した。そして栞の隣にしゃがみ込み、彼女の状態を確認する。
栞は何が起きたのか、ほとんど理解できていなかった。意識を取り戻し始めたばかりの彼女は、少女の顔を見上げた。
「私……生きてるの? あなた……誰……?」
少女は優しく微笑んだ。
「私、黒羽紬。シグナ使いだよ。もう大丈夫。今は安全だからね」
栞は動こうとしたが、疲れ切った身体は言うことを聞かなかった。
紬は栞の肩にそっと手を置いた。
「動かないで。少し休んでて。あとは私がやるから」
紬は立ち上がり、動きを封じられた怪物へ視線を向けた。
先ほどまで浮かんでいた優しさは、もう消えていた。そこに残っていたのは、はるかに鋭く真剣な表情だった。
怪物の目が紬を捉える。
怪物は再び栞の名前を歌い始めた。だが今度の声は、まるで怒りを露わにしているかのように、さらに歪んでいた。
「し……おり……しお……り……!」
紬の目が、初めてわずかに見開かれた。
「話せるの? 栞? あなたの名前なの?」
「は、はい……。どうして私の名前を知ってるのか、本当に分かりません……」
紬は一歩前へ踏み出した。
あれはおかしい。この個体は間違いなくアノマリー……それなのに、言葉を話す。こういうタイプは危険。すぐに排除しないと。
怪物は動きを封じられているにもかかわらず、身体を動かそうとした。身体そのものは糸によって拘束されたままだったが、それでも身体を貫いている糸に逆らうように、わずかに動かすことができていた。
紬はさらに何本もの糸を生み出した。そこからエネルギーが放たれ、糸の長さに沿って鋭い棘のような形状が作り出されていく。
麻痺させているのに、それでも動く……。やっぱり、このまま生かしておくのは危険すぎる。
紬は手を上げ、糸を怪物へ向かって一気に放った。
一本、また一本と糸が怪物の身体を貫き、その一撃一撃が深い穴を穿っていく。
紬は手を強く握りしめ、すべての糸を怪物の核の一点へと集めていった。
「断ち切る……」
その言葉を発した瞬間、怪物の内部に入り込んでいた糸が一斉に外側へ向かって伸び、内側から身体を切り裂いていく。そして、怪物は何百もの欠片へと切り刻まれた。
その欠片はゆっくりと黒いエネルギーへと溶けていき、完全に消滅した。
栞は目の前で見た力に驚き、目を大きく見開いた。あまりの出来事に、完全に呆然としていた。
こ、この子……あんなふうに、殺したの……?
紬は、怪物が消えた場所をしばらく見つめ続けていた。
怪物を倒したからといって、完全に満足しているようには見えなかった。アノマリーが言葉を話せたという事実が、明らかに彼女を不安にさせていた。だが、なぜそう感じているのかについては、何も口にしなかった。
これは……絶対に良くない兆候だ。このタイプのアノマリーが、この街に一体だけならいいけど。
紬は振り返り、いつもの表情に戻ろうとしながら栞のもとへ歩いていった。
「栞ちゃん。少しは楽になった?」
栞は明らかに緊張した様子で、うつむいた。
「は、はい……。助けていただいて、本当にありがとうございます」
「ふふ、そんなにかしこまらなくていいよ。間に合って、本当によかった」
すると突然、外から一人の男が息を切らしながら駆け込んできた。彼は紬と同じような制服を身につけているようだった。
「黒羽さん! 俺、ついていけないって言ったじゃないですか!」




