第28話 最悪なのは、つまらない役者
新しい凪紗は、暁継から少し距離を取った。
「ほら、暁継くん。もう自由に動けるんだから、今の暁継くんがどこまでできるのか、見せてよ」
彼女は横目で海斗を見た。海斗はもう、かろうじて意識を保っているだけだった。容体は急速に悪化している。
「それに、早くしたほうがいいよぉ。私が治してあげる前に、誰か死んじゃうかもしれないから」
暁継は顎に力を込めながら海斗を見つめ、考えられる可能性と、自分に残された選択肢を必死に探した。
どうすればいい? 早く何とかしないと、海斗が……。
暁継は再び新しい凪紗へ視線を戻した。
俺に何ができる?……何もない。どう考えても、俺に勝ち目なんてない。きっと、こいつだって分かってるはずだ。それなのに、どうしてこんなことをする? 何か別の目的があるのか? それとも、本当に……ただ「楽しい」からやってるのか? でも……川瀬さんも海斗も、絶対に見捨てられない。二人を失ったら、俺は一生、自分を許せない。
暁継は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせようとした。そして、より真剣な表情を浮かべる。
「どうしてこんなことをするんだ? 本当に、俺が君に勝てると思ってるのか?」
「ううん」
新しい凪紗は一切の迷いもなく答え、その可能性を即座に否定した。
暁継は不意を突かれた。
「じゃあ、どうして俺に戦えって言ったんだ? 俺には君を倒せないって分かってるだろ。こんなの、俺に一方的に不公平な条件を押しつけてるだけじゃないか。せめて海斗を治して、凪紗の身体を解放してくれ。俺に何をしてもいいから……お願いだ。二人を巻き込まないでくれ」
暁継はためらいながら、一歩だけ前へ踏み出した。
「俺が目的なのか? そういうことなら、俺に何をしてもいい。だから、二人を解放してくれ。頼む……」
新しい凪紗はしばらく暁継を見つめ、表情のわずかな変化も、身体の些細な動きも注意深く観察していた。
珍しく、彼女は笑っていなかった。片手を顎に添える。
「うーん……」
暁継は固唾を飲み、彼女の答えを待った。
本当に考えてるように見える。もしかしたら……今度こそ、二人を助けられるかもしれない。
凪紗は、暁継の表情から緊張が少しずつ抜け、瞳にかすかな希望が戻っていくのを見逃さなかった。その瞬間、彼女の口元に大きな笑みが戻った。
「それは無理だよ、暁継くん。私に勝たないと、海斗くんも、暁継くんのお気に入りの女の子も死んじゃうから」
暁継の目が見開かれた。最初からずっと、彼女が嘘をつき、暁継を操ろうとしている可能性は分かっていた。それでも、こんな絶望的な状況では、どれだけ偽物に見えても、ほんのわずかな希望にすがらずにはいられなかった。
「どうして? 二人はこんなことに何も関係ないだろ! 俺が君に勝てないからって、どうして二人が死ななきゃいけないんだ?」
新しい凪紗は、暁継から目を離さないまま、楽しそうにその周りを歩き始めた。
「だって、そんなの楽しくないじゃん! 暁継くんの望みをそのまま叶えちゃったら、つまらないでしょ? だから二人を助けたいなら、まず私を楽しませてよ。これって、ちゃんと公平な取引じゃない?」
「公平? これのどこが公平なんだよ? 怪物を呼び出して、俺が今まで見たこともないような力まで使ってる。それで、どうして公平だなんて言えるんだ? 本気でそんなこと――」
その瞬間、新しい凪紗が足を止めた。笑みが消え、冷たいほど真剣な表情へと変わる。そして、暁継の言葉を遮った。
「そんなこと、私には関係ないよ……」
暁継は言葉を失った。彼女が突然、ここまで真剣な声を出すとは思っていなかった。彼女から放たれる息苦しいほどの気配に、身体が震える。
新しい凪紗は、暁継を指し示すように手を動かしながら続けた。
「公平じゃないのは、暁継くんが弱いからだよ。それは私の問題じゃない。公平にしてほしいなら、もっと強くなればいいじゃん。答えなんて、それだけのことでしょ?」
暁継には、彼女が何をしようとしているのか理解できなかった。
何もないところから強くなれって……? こんな状況で、そんな選択がどうして合理的なんだ?
暁継が瞬きをすると――
新しい凪紗の姿が消えていた。
「え? どこ……行った?」
その直後、耳元から楽しそうな囁き声が聞こえた。
「暁継くん……その顔、大好き」
暁継は不意を突かれ、すぐさまよろめくように反対方向へ下がった。いつの間にか、新しい凪紗が背後に立っていた。
そして、もう一度瞬きをした瞬間、彼女の姿が消える。慌てて振り返ると、今度は海斗のすぐそばにいた。海斗はまだ地面に押さえつけられたままだった。彼女はその場にしゃがみ込み、両手を伸ばす。指先に青いエネルギーが集まり始め、それがゆっくりと形を成していく。やがて、小さな青いハサミがもう一組、姿を現した。彼女はそれを海斗の首へ向ける。
そして、わざと海斗の首筋に刃を軽く擦りつけ、傷つけることなく楽しそうに弄んだ。
「ほら、暁継くん。本当に私に勝とうとしなくていいの?」
ハサミが海斗の首をゆっくりと擦るたびに、暁継の神経が張り詰めていく。話し合いで何とかしようとすること自体、最初から間違いだったのではないかと考え始めた。
海斗の状態がさらに悪化しているのを見て、暁継の思考もまた変わっていく。
まずい……海斗……もう、長くはもたない……。
またしても、新しい凪紗は暁継の考えていることを正確に読み取ったようだった。彼女はようやく立ち上がり、海斗から少し離れる。
そして暁継へ手を伸ばし、こちらへ来いと手招きした。
「もう一度は言わないよ、暁継くん。私を楽しませて。そうしないと……二人は暁継くんのせいで死んじゃうよ」
「暁継くんのせいで」という言葉が、すでに傷ついていた暁継の心へ最後の刃のように突き刺さった。それだけは、何よりも聞きたくない言葉だった。これまでの失敗が次々と脳裏によみがえり、陽菜と健太の助けを求める叫びまで鮮明に蘇る。
暁継は顎を強く引き締め、ついに彼女を真正面から見据えた。その目には、揺るぎない真剣さが宿っていた。
もし……もしそういうことなら、俺には戦うしかない……。
新しい凪紗は、暁継の表情が変わった瞬間、さらに笑みを深くした。
「そう、それだよ! その顔をずっと待ってたの! ほら、始めようよ。このショーを!」
暁継は最初、ためらいながら数歩を進んだ。だが次の瞬間、一気に駆け出し、二人の距離を詰める。
腕を振り上げ、何度も彼女へ拳を繰り出した。新しい凪紗は、そのすべてをいとも簡単にかわす。軽く身体を横へずらすだけで攻撃を避け、まるで子供が必死に拳を振り回しているかのように暁継をあしらった。
ようやく暁継が戦う姿を見られたことが、新しい凪紗にはたまらなく嬉しかった。
「その調子! 戦って! 動いて! 殴って! その憎しみを全部ぶつけて、私を倒してみてよ!」
暁継は激しい雨の中で、持てる力をすべて使って動き続けた。それでも、凪紗は圧倒的に速かった。暁継の目には彼女の動きが捉えられている。それなのに、拳が届く寸前には、彼女はもう射程の外へ抜けていた。
左右から攻撃を続けるうちに、新しい凪紗はあることに気づいた。暁継の拳は遅く、ためらいがあり、本気で彼女を傷つけようとしていない。まるで、心のどこかで必死に彼女を殴ることを拒んでいるかのようだった。
新しい凪紗の目が細くなる。
彼女から楽しげな雰囲気が消えた。笑みも消え、真剣な表情へ変わる。そして後ろへ跳び、二人の間にわずかな距離を作った。
暁継はすぐに追いかけ、さらに拳を繰り出した。あと少しで当たるところまで迫ったが、その瞬間、奇妙なことに気づいた。
新しい凪紗は動こうとしていなかった。
まるで、暁継の拳をそのまま受け入れるつもりでいるかのように、彼女はその場に立っていた。
その瞬間、暁継は反射的に拳を止めた。彼女の顔からわずか数センチのところで、拳が震えながら宙に浮いている。
そして、彼は再び彼女の真剣な表情を見た。それは、海斗を地面に押さえつけていたときと同じ表情だった。その視線から放たれる圧倒的な存在感に、暁継の全身が強張る。
暁継はゆっくりと拳を下ろし、ためらいながら彼女から後ずさった。
新しい凪紗はしばらく暁継を見つめ続け、それから真剣な声で口を開いた。
「やっぱり。暁継くん、本気で私と戦ってなかったんだね。この子の身体を殴るのが怖いんでしょ?」
暁継の目が見開かれた。完全に見抜かれていた。暁継自身も分かっていた。どれだけ彼女の動きを正確に捉えられていたとしても、心のどこかでは、この身体を本気で殴ることを拒み続けていた。
拳を繰り出すたびに、友達である凪紗の姿と、その声が脳裏に浮かんでいた。
凪紗は海斗へ視線を向け、片手を上げた。赤いエネルギーがその手に集まっていく。海斗の身体にまだ突き刺さっていたハサミが持ち上がり始め、ゆっくりと肩から抜けていく。そしてついに身体から引き抜かれ、海斗は歯を食いしばりながら苦痛の呻き声を漏らした。
新しい凪紗はハサミを海斗のもう一方の肩へ向けた。そして、ためらうことなく勢いよく突き刺す。
海斗が苦痛に叫び声を上げた。
すでに腹部の痛みだけでも耐え難いものだった。それに加えて、今度は両肩まで想像を絶する激痛に襲われる。それでもここまで意識を保ち、生きていられたこと自体が奇跡だった。
暁継の目がすぐに見開かれる。
「海斗!」
暁継は海斗へ駆け寄ろうとした。しかし、一歩踏み出した瞬間、首元に何かが押し当てられ、動きを止められた。
新しい凪紗が手にしていた、もう一組の巨大な青いハサミだった。
「何をするつもり? まだショーは終わってないよ」
「どうしてだよ? これは俺たちの戦いだろ! どうして、これ以上海斗を傷つける必要があるんだ?」
新しい凪紗の目が、さらに鋭くなる。
「言ったでしょ? 私を楽しませてって。暁継くんは私を殴るのをためらった。それがつまらなかったから、罰を与えなきゃって思ったの」
彼女はハサミをさらに暁継の首へ近づけてから、続けた。
「次にためらったら、今度は海斗くんの首を一瞬で切り落とすからね。だって、私が一番嫌いなのは……つまらない役者なんだから」
暁継は固唾を飲んだ。彼女の脅しによって、これから取る一つ一つの行動がさらに怖くなり、これまで考えていたことも、これからしようとしていたことも、すべて見直さなければならないような気持ちにさせられた。
新しい凪紗は後ろへ跳び、再び暁継との距離を取る。そして、また楽しそうな笑みを浮かべた。
「さあ、もう一回やってみようよ、暁継くん! 今度は全力でね!」
暁継は身体も精神も、すでに限界に近づいていた。顎を強く引き締め、苛立ちを押し殺す。まるで狂った子供に玩具のように弄ばれている――そんな感覚だった。
暁継は海斗へ視線を向けた。瞳から生気が少しずつ失われ始めている。それを見て、もう迷っている時間は残されていないと悟った。
ここで止まるわけにはいかない。二人のために、俺にできることを全部やらないと。
そして再び、目の前に立つ新しい凪紗へ視線を戻す。その目には、まだためらいが残っていた。それでも同時に、揺るがない決意が宿っていた。
今度こそ……二人を、絶対に失敗させない。




