第26話 暁継くんの絶望
暁継の叫び声を聞いた凪紗は、まるで予想していなかった反応を目の当たりにしたかのように、目を見開いた。
そして、これ以上ないほど満足げな笑みを浮かべた。
「は……ははははは!」
凪紗は再び笑い声を上げた。ハサミで海斗の身体を持ち上げたまま、まるで何も気にしていない様子だった。その一方で、暁継は完全に凍りつき、信じられないものを見るように彼女を見つめ続けていた。
「川瀬さん……? 何……があったの? 頼むから……嘘だって言ってくれ……」
凪紗は笑うのをやめ、すぐに暁継へ視線を向けた。
「あっ! そういえば、すっかり忘れてた。暁継くんの反応が面白すぎて、つい笑っちゃった」
そう言うと、凪紗は海斗を地面へ下ろし、腹からハサミを引き抜いた。傷口から血が一気に流れ出し、床を赤く染めていく。海斗は激痛に悲鳴を上げ、腹部の傷を必死に押さえた。
暁継は、海斗が地面に崩れ落ちるのを見て目を見開いた。
「海斗!」
動こうとした。しかし、脚は完全に動きを封じられたままだった。
凪紗は暁継のほうへ向き直ると、わざとらしいほど心配そうで無邪気な表情を浮かべ、彼を嘲るように微笑んだ。
「全部、暁継くんのためにやったんだよ。だって、私は暁継くんの一番近くにいる友達でしょ? 暁継くんに危害を加えるわけないじゃない?」
暁継は顎を強く引き締めた。どう反応すればいいのか、何を言えばいいのかさえ分からない。ただ目の前にいる凪紗が、こんな話し方をしながら、こんな不気味な表情を浮かべている。その事実だけで、これが本当に自分の知っている彼女なのだと信じることができなかった。
「川瀬さん! 何が起きてるのか、ちゃんと説明してくれ! どうして……そんなふうになってるんだ? その目も……話し方も……俺の知ってる川瀬さんじゃない! 頼む……これがただの幻覚だって言ってくれ……!」
凪紗は笑った。その表情には、隠しきれないほどの喜びが浮かんでいた。
「違うよ、違う、違う、暁継くん。これのどこが幻覚なの? 今、暁継くんの目の前にあるのは、紛れもない現実だよ。でも、すごく面白いと思わない? ほら! あの鬱陶しい友達も、私がちゃんと片づけてあげた。それに、暁継くんの邪魔をしていた人たちも、みんな片づけてあげた。これでもう、暁継くんは一人。そうすれば……完璧になれるよ。私たちが必要としている『例外』になれるんだから!」
暁継は何かを言おうと口を開いたが、声にならなかった。目の前の凪紗が何を言っているのか、それすら理解できない。思考は完全に混乱し、周囲の光景も、今置かれている状況も、これまで自分が信じていた現実そのものさえ、理解することができなくなっていた。
何を……言ってるんだ……? 何も分からない。これが本当に川瀬さんなのか……? 何が起きてるんだ……?
凪紗は笑い続けていた。その一方で、意識を保つことすら難しくなっていた海斗までもが、恐怖と困惑に満ちた目で彼女を見つめていた。
そして、ついに凪紗は両手を高く掲げた。
「二人とも……特別に、面白い秘密を見せてあげる」
凪紗は、下層階で密かに使っていたものと同じ手印を結んだ。
その瞬間、二人の頭上に黒いエネルギーが集まり始めた。それは渦を巻きながら巨大な球体を形作り、その表面では無数の影が蠢いていた。
やがて、その球体の中から影の手が次々と伸びてきた。一つ、二つ、三つ……そして、さらに数百もの手が現れ、暗闇の中で不規則に蠢き始める。巨大な姿全体が、ゆっくりとその輪郭を明らかにしていった。
その瞬間、暁継と海斗の目が同時に見開かれた。そこにあったものを理解した恐怖が、二人の顔を覆う。
空に浮かんでいたのは、事件が始まったあの時に二人が見た怪物とまったく同じものだった。その巨大な手も、二人の教室を次々と襲い、陽菜と健太を引き裂いた、あの手そのものだった。
身体の中央に浮かぶ巨大な白い目が、冷たい無関心を宿したまま二人を見下ろしていた。それでも怪物は何もしない。ただ、その場に浮かび続けているだけだった。
凪紗は怪物を見上げながら、手を向けた。
「私のお気に入りのアノマリー・モンスターを紹介しまーす! あっ……そういえば、まだ名前をつけてなかった。まあいいや。今ここで考えてあげる」
凪紗は数秒ほど考え込んだ。そして、突然ぱっと表情を輝かせた。
「あっ! いいの思いついた。『暁継くんの絶望』って名前にしよう! ね? すっごくぴったりな名前だと思わない?」
暁継はようやく口を開いた。ゆっくりと視線を凪紗へ向ける。その顔には、ただ純粋な衝撃が浮かんでいた。
「……どういうことなんだ?」
「もぉぉ、そんなに馬鹿じゃないでしょ? 簡単に分かるじゃん。私がこの怪物を暁継くんの目の前に呼び出した。それがどういう意味なのか……分からない?」
暁継の目がさらに大きく見開かれた。ようやく何かに気づき始めたその反応を、凪紗はすぐに見逃さなかった。
「そう! それ、それだよ! その反応が見たかったの。やっと分かったみたいだね」
凪紗は数歩前へ進んだ。ハサミの刃が床を擦り、耳障りな音を響かせる。そして暁継から数歩ほど離れたところで足を止め、両手を頬に当てながら、心から楽しそうに微笑んだ。
「ずっとあの怪物を操ってたのは、私だったんだよ! 暁継くんたちをここに閉じ込めたのも私。そして、私の可愛いペットを使って、みんなを殺したの! あははっ……すっごく気持ちよかったぁ! みんなの顔に浮かぶ恐怖も、混乱も……それに、私が与えた偽りの希望も。安心したと思った次の瞬間に、それを全部壊してあげるの……最高だったよ。あの瞬間、全部が大好きだった!」
暁継は顎を強く引き締め、身体を前へ倒すようにして、必死に動こうとした。
「川瀬さん! これは……どういうことなんだよ!? どうしてこんなことをするんだ!? それに……一体、何があったんだよ!? 俺たちは生き残るために必死だった! できることは全部やった! それなのに、川瀬さんはずっと俺たちを助けてくれて……慰めてくれてたじゃないか! どうして!? なんでこんなことをするんだよ!? 何のためなんだよ!?」
暁継は息を切らしながら、視線を地面へ落とした。目の前で起きているあまりにも凄惨な現実に、完全に圧倒されていた。
「……こんなの、信じたくない……信じたくないよ……」
凪紗は手を伸ばし、暁継の顎をそっと持ち上げて、自分と目を合わせさせた。
「あ〜あ、暁継くん……そんな顔しないでよ。そんな顔されたら、私まで可哀想に思えてきちゃうじゃん」
だが、その言葉を言い終えた直後、凪紗の目が突然大きく見開かれた。激しい頭痛に襲われたかのように、彼女は両手で頭を強く抱え込んだ。
痛みに耐えきれないように、頬を涙がゆっくりと伝っていく。
「暁継くん……ごめんなさい……ごめんなさい! 私、こんなことしたくなかったの! アノマリーに……操られてるの! お願い、お願いだから! 許して! 助けて! ああああああっ!」
凪紗は頭を抱えたまま、苦痛に耐えるように叫び続けた。
その必死な訴えを聞いた瞬間、暁継の目が大きく見開かれた。
「川瀬さん……?」
そこで暁継は、これまで学園で遭遇した数々の異常な出来事を思い出した。もしかしたら、本当に凪紗の身体の中にアノマリーが入り込み、彼女を操っているのかもしれない。そう考えた瞬間、暁継は全身に力を込め、彼女のもとへ向かおうと必死に身体を前へ伸ばした。
「川瀬さん! 負けるな! 自分を失うな! 俺が行くから!」
しかし、無駄だった。脚は一歩たりとも動かなかった。
「動け……動けぇぇ! 川瀬さん! 自分を失うな! 負けるんじゃない!」
すると突然、凪紗の動きが止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、暁継を見つめた。そこには、もう苦痛の色はなかった。頬に流れた涙だけは残っていたが、その口元には今まで以上に大きな笑みが浮かんでいた。
「引っかかったぁぁ! ぜーんぶ嘘でした!」
暁継は、彼女を見たまま動きを止めた。
「……え?」
完全に騙されていたことを理解しながらも、暁継はただ呆然と凪紗を見つめ続けた。あまりにも現実離れしたその光景を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
凪紗は腹を抱え、吹き出しそうになる笑いを必死に堪えていた。
「ぷっ……あははははは! そう、そう! その顔、最高に気持ちいい! お願いだから、その表情やめないでよ。すっごく楽しいんだから!」
凪紗が暁継の目の前で笑い続けている間、海斗は怒りに歯を食いしばった。血が流れ続ける身体をどうにか少しだけ起こそうとし、激痛に耐えながら、弱々しい声を絞り出す。何度も激しく咳き込み、その口から血がこぼれた。
「お前……川瀬じゃない……。川瀬じゃ……ない……。ただのイカれた奴だ……くだらない芝居、やめろ……」
凪紗の笑い声が止まった。
彼女はゆっくりと海斗へ振り向いた。今度は笑っていなかった。その表情からは一切の冗談めいた雰囲気が消え、瞳には明確な殺意が宿っていた。
凪紗は床に落ちていたハサミを拾い上げ、信じられないほどの速度で海斗へ投げつけた。
ヒュッ!
ハサミは海斗の右肩を貫いた。そして凪紗は間髪入れずにそれを床へ押しつけ、海斗の身体を再び床へ完全に縫い止めた。
「ぐあっ!」
海斗は苦痛に叫び声を上げ、どうにか凪紗の武器から逃れようともがいた。
凪紗は今度こそ、感情のない冷たい声で言った。
「黙って」
友人が床に横たわったまま動かなくなるのを見て、暁継は叫んだ。
「海斗!!」
凪紗は失望したように首を横に振った。
「もう……次の展開、台無しじゃん。ここは物語の中でもすごく大事で緊張感のある場面だったのに、観客に先のことをネタバレしちゃったじゃない」
凪紗は再び笑顔を浮かべ、いつものようなふざけた調子を取り戻した。そして海斗と目を合わせる。
「まあ、台無しにされちゃったけど……特別に教えてあげる。ビンゴ! 正解! よく分かったね、海斗くん。思ってたより賢いじゃん。もしかして、ただの暁継くんの相棒ってわけでもなかったんだね。ねえ、もっといいこと思いついた! こっちのほうが、ずっと面白くなりそう!」
暁継は彼女を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。ただ、今聞いた言葉を必死に頭の中で整理していた。
「……川瀬さんじゃ、ないのか?」
「そうだよ。私は暁継くんの友達じゃない……あれ? あの子のフルネーム、なんだっけ? えーっと……ああ、そうだ。川瀬凪紗」
「じゃあ……お前は誰なんだ? 川瀬さんはどこにいる?」
その問いを聞いた瞬間、凪紗はまるでその言葉を待ち続けていたかのように、嬉しそうに微笑んだ。いたずらっぽい光を宿した瞳を暁継へ向けると、指一本で自分の頭を軽く叩き、舌を出して子供のようにからかう仕草を見せた。
「私があの子を乗っ取って、この身体を奪ったの」




