第25話 剥がれた仮面
海斗は屋上へ続く扉へ向かって駆け戻った。さっきの朗報によって、彼の中にも再び希望が芽生えていた。人形のことを凪紗に伝えれば、きっと彼女も安心する。そう思うと、少しでも早く知らせたかった。
暁継もそのすぐ後ろを追いながら、周囲への警戒を解かなかった。
「海斗、少しゆっくり。まだ気をつけた方がいい」
海斗は振り返りながらも足を止めず、激しく降り続ける雨の中を扉へ向かって急いだ。前方を確認することさえ忘れたように、ただひたすら進んでいく。
「はいはい、分かってるって。でも、川瀬だって絶対これを聞きたいだろ。ようやく……俺たちだって、もうここに閉じ込められたままなんて耐えられないんだから」
暁継は、永遠にも思えるほど続いていたこの状況が、ようやく終わるのかもしれない。そんなかすかな安堵を、初めて感じていた。
その直後だった。突然、あの白髪の少女の声が、再び暁継の頭の中に響いた。相変わらず弱々しい声だった。だが、今度は明らかな切迫感があった――まるで、必死に彼へ訴えかけているかのように。
「違う……! そこへ行っちゃだめ。危ない……。今すぐ……ボタンを押して……」
暁継の目が瞬時に見開かれた。少女の警告を聞いた瞬間、初めて彼女の声を頭の中で聞いたときと同じ、あの不気味な感覚が身体を這い上がってきた。
暁継は海斗の方へ視線を向けた。屋上の方向から、何か黒いエネルギーのようなものが、激しい雨の向こうにかすかに浮かんでいる。だが、それがどこから生じているのかまでは分からない。暁継には、その感覚が何を意味するのか判断できなかった。ただ一つだけ、確かなことがあった。これは、決して良い兆候ではない。
「海斗! そこへ行くな! 今すぐ止まって!」
海斗はすでに数メートル先まで進んでいた。そこでようやく足を止め、疲労の滲んだ顔を暁継へ向ける。
「え? どうしたんだ?」
海斗の背後に、暁継は何かを捉えた。暗闇の中で浮かび上がる、二つの光る目――赤と青の瞳だった。その光景に胸騒ぎが一気に強まり、暁継は再び声を張り上げる。
「戻ってこい! 今すぐ!」
「でも、川瀬はどうするんだよ? ここまで連れてきて、一緒に出よう」
暁継はすぐさま海斗のもとへ駆け寄り、その腕を掴んで引き戻そうとした。
「また警告を受けたんだ! あそこには近づくな!」
「マジかよ!? くそっ、でも川瀬を一人で残していけないだろ! 俺がすぐ連れてくる! お前はそこで待ってろ。絶対に動くな!」
海斗は再び身体の向きを変え、屋上へ続く扉へ向かって走り出した。
暁継も慌ててその後を追った。焦燥に駆られたまま、暁継は人形を放り投げた。だが、それまで強く握りしめていたせいで、無意識のうちにボタンを押してしまっていた。
「海斗、やめろ!」
人形が地面に落ちた。次の瞬間、その身体が白いエネルギーへと溶けるように変わり始めた。その光は空へ向かって上昇していき、ある高さまで達すると、跡形もなく消えていった。
暁継は走り続けていた。だが、その途中で突然、何かがおかしいことに気づいた。両脚が、完全に言うことを聞かなくなったのだ。
「え……何だ、これ!? 足が……動け! 動けよ!」
どれだけ力を込めても、脚は一向に動かなかった。暁継は再び海斗へ視線を向け、必死に声を絞り出す。
「海斗! 頼む、戻ってこい! あそこはおかしい! 見えないのか!? 海斗ォ!」
海斗がさらに近づいた、その瞬間だった。暗闇の中に浮かぶ、赤と青の二つの光る瞳が見えた。完全に不意を突かれた海斗は、その場で凍りつき、目の前に何があるのかも、どうすればいいのかも理解できなかった。
そして――
ザクッ!
暁継は途中で動きを止めた。目の前の光景に、恐怖で目を見開く。
海斗には何が起きたのか分からなかった。何かが自分を刺したようにも見えない。それなのに、突然、腹部を引き裂くような激痛が走った。視線を下へ落とすと、そこには巨大な赤いハサミがあった。閉じた刃が、そのまま腹を貫いている。
何が起きたのか、まだ理解できないまま、海斗はかすれた声を漏らした。
「え……? 何……が……?」
咳き込んだ瞬間、口元から血が溢れ、地面へと飛び散った。
腹部を襲う激痛が増していく中、絶え間なく降り続ける雨音に混じって、海斗の前方から足音が近づいてきた。海斗はゆっくりと、まるで身体が勝手に動いているかのように顔を上げ、誰がそこにいるのかを確かめようとした。そして、その姿を目にした瞬間、恐怖に目を見開いた。
そこに立っていたのは、川瀬だった。
彼女は目の前の光景を心から楽しんでいるかのような、ぞっとするほど大きな笑みを浮かべていた。両目は暗闇の中で強烈な光を放ち、その視線は真っ直ぐに海斗へ向けられている。
目の前の光景を理解できず、海斗はただ呆然と立ち尽くした。
「か……わせ……? どうして……? なんで……?」
凪紗の口元が、さらに大きく吊り上がった。
そして――
「あははははははははは!」
突然、彼女は声を上げて笑い始めた。抑える気など一切ない、甲高く無邪気な笑い声だった。まるで、今まで見たこともないほど面白いものを目の前にした子供のように。
海斗と暁継は、ただ呆然と彼女を見つめていた。目の前にいるのが現実なのか、それとも悪夢なのか、二人には判断できなかった。これまでずっと一緒にいたはずの少女が、今、海斗を刺した直後に、まるで狂った人間のように笑っている。
やがて彼女はゆっくりと笑いを止め、目尻に浮かんだ歓喜の涙を指先で拭った。それでも、その顔には楽しげな笑みが残っていた。
「やっぱり! 愚かな友達は、真っ先に彼女のところへ戻ってくるんだね」
彼女は海斗へ歩み寄り、その顔を覗き込むように身を屈めた。そして、そのまま彼の目をじっと見つめる。口から出た声には、二人が知っている凪紗の温かさなど、欠片もなかった。
「よく頑張ったね、海斗くん。すごく役に立つ駒だったよ。……ちょっと鬱陶しかったけど。もう、休んでいいよ」
彼女はハサミの持ち手を強く握り直し、そのまま海斗の身体を持ち上げた。腹部から流れ出る血が滴り落ち、地面へと赤い跡を残していく。海斗は激痛に叫び声を上げながら、必死に身体を引き離そうともがいた。
歯を食いしばり、顔に苦痛と悲しみを滲ませながら、海斗はもう一度、凪紗を見つめた。それが本当に現実なのか、最後まで確かめずにはいられなかった。
「川瀬……ゴホッ……! これは……どういうことなんだ……?」
凪紗は、その問いをまるでどうでもいい雑音のように無視した。そして代わりに、暁継へ視線を向ける。口元には、狂気を思わせる笑みが浮かんでいた。
暁継はその場から動けず、ただ信じられないものを見るように彼女を見つめていた。顔から血の気がほとんど失われている。何を言えばいいのかも、どう反応すればいいのかも分からない。頭の中は完全に真っ白だった。それでも、ようやく震える声が唇から漏れた。
「何……が起きてるんだ……? これは……どういうことなんだ……? 川瀬……さん……?」
「ふふふ……! いい顔してるね、暁継くん! 目の前の光景を見て、どう思った? こんな展開になるなんて、思わなかったでしょ? でも、こっちを見て」
彼女は赤いハサミを伝って流れ落ちる海斗の血を指先ですくい、そのまま舌で舐め取った。
「ほら。あなたの友達から出てくる色……すごく綺麗だと思わない? 私、赤が一番好きなの」
暁継は、今にも消え入りそうな声で呟いた。目の前にあるものを、どうしても現実だと認めることができなかった。まるで、自分の目そのものが何かを騙しているようだった。
「何……なんだよ、これ……?」
凪紗は首を傾げ、わざと分からないふりをするような表情を浮かべた。その仕草には、無邪気さを装った悪意が滲んでいる。
「ん? 暁継くん、そんな小さな声じゃ聞こえないよ? ほらぁ、もっと大きな声で話してよ。暁継くんがどう思ってるのか、ちゃんと聞かせて?」
暁継の目が大きく見開かれた。両手を強く握りしめ、動かない身体を必死に動かそうとする。
「だから……これがどういうことなのかって聞いてるんだよ!! 川瀬さん!? 本当に……本当にお前は川瀬さんなのか!? 何が起きてるんだ!? どうしてこんなことをするんだよ!?」




