第20話 慰めの言葉、毒の手
一行はしばらくその場に立ち尽くしていた。静寂が辺りを包み込んでいる。聞こえてくるのは、必死に嗚咽を押し殺そうとしている陽菜の泣き声だけだった。
海斗は陽菜を見ようともしなかった。誰の顔を見ることもなく、ただその場に立ったまま、考えに沈んでいた。
暁継も変わらず怒りの滲んだ表情で、地面を見つめ続けていた。健太の叫び声が何度も何度も頭の中で蘇り、どうにか整理しようとしている思考をかき乱していた。
やがて、海斗が暁継へと振り向いた。今、暁継がどんな気持ちなのか、もう分かっていた。
「みんな……先に進んだほうがいいと思う。あの手が次にいつ来るか分からないし、ここまでは追ってきてないみたいだ。今が動くチャンスかもしれない」
陽菜は床から起き上がらないまま口を開いた。涙がさらに頬を伝い、震える身体で必死に泣き声を抑えていた。
「チ、チャンスって……何のための……? 私たち……今、健太さんが死ぬところを聞いたんだよ……? それなのに、何事もなかったみたいに先に進むの……?」
「俺は……」
海斗は口を開いたものの、その先の言葉が出てこなかった。陽菜の言葉に返せる言葉など、見つからなかった。
凪紗は再び一行へ目を向けた。先ほどまで浮かべていた笑みを消し、心配そうな、無垢な表情を作る。
そして陽菜のもとへ近づくと、ゆっくりとしゃがみ込み、その身体を優しく抱き寄せた。
「陽菜さん……辛いよね。私たちだって辛いよ。でも……私たちには何もできない。今の私たちは無力なんだよ。だから、進み続けて、生き残るしかないの」
「分かってる……でも……健太さんが……。私、すごく辛いし、もう一歩だって動くのが怖いよ……。お願い……どうして誰も助けに来てくれなかったの……? どうして私たちだけが、こんな目に遭わなきゃいけないの……?」
「私にも答えは分からないよ。でも、諦めちゃダメ。私たちは、生きてここから出よう」
海斗は怒りを滲ませながら拳を握り締めた。
「くそっ……俺はずっと、シグナ使いはヒーローなんだって思って、信じてついてきたのに……。それなのに、今はこんなふうに置いていかれるのかよ」
凪紗は陽菜をさらに強く抱きしめた。表情には、心の底から悲しんでいるような様子を浮かべている。
「もう少しだけ、耐えてね、陽菜さん。……いい?」
陽菜の背中に回した凪紗の手が、再び淡く輝き始める。凪紗はそのエネルギーを操り、静かに陽菜の身体へと送り込んだ。今回も、誰一人気づくことはなかった。
「それに、暁継くんが私たちを導いてくれるから」
凪紗は暁継へと振り向いた。
「そうだよね、暁継くん?」
暁継はしばらく呆然としたままだった。返事をすることもなく、ただ地面を見つめている。
「暁継くん?」
陽菜も暁継へ目を向けた。最初から皆を導いてきたのは暁継だった。その彼までもが考え込んでいる姿を見て、陽菜はさらに不安になり、胸が締め付けられるような思いになった。
「暁継ですら、どうしたらいいのか分からないんだ……。最初から状況がひどいことは分かってた。でも、それでも……誰かが助けに来てくれるって、ずっと思ってた。ここで死にたくない……でも、ここから出られなかったら、私たち……」
凪紗は立ち上がると、ゆっくりと暁継のもとへ歩いていった。そして隣まで来ると、そっと彼の肩に手を置いた。
「暁継くん」
暁継は凪紗へ振り向いた。その顔には、悲しみと苦しみしか浮かんでいなかった。
そして彼の目に映ったのは、自分が知っている凪紗だった。いつもと変わらない、安心させるような温かい笑顔。
「川瀬さん……俺、どうしたらいいのか分からない。俺のせいだ。……ごめん」
凪紗は首を横に振った。
「違うよ。暁継くんのせいじゃない。こんな状況で、私たちにできることなんて何もなかったんだから。逃げることを選んだからって、誰も暁継くんを責められないよ。健太さんを連れ戻すことはできない。それが辛いのも分かる。私はずっと知ってるよ。暁継くんは、いつも一人で全部抱え込むから。自分の責任じゃないことまで、自分が背負おうとするんだよね」
凪紗はさらに身体を寄せ、暁継を抱きしめた。
「でも、私はそういうところも好きだよ。私は暁継くんを、ただの友達以上に思ってる。だから……私たちにはどうすることもできなかったことまで、自分のせいにしないで」
凪紗の言葉を聞いた暁継は、目を見開いた。責任を感じる気持ちも、健太を失った悲しみも消えたわけではない。それでもその瞬間だけは、ほんの少しだけ心が救われたような気がした。
何より、凪紗は昔からこうして自分を安心させてくれていた。未来への不安や、悪化していく家族の状況に押し潰されそうになったときも、凪紗が家に来てくれれば、いつだって張り詰めていた空気が少しだけ軽くなった。
ほんの僅かに、暁継の口元が緩んだ。
「ありがとう、川瀬さん」
凪紗は少しだけ身体を離し、暁継の目をまっすぐ見つめた。
「じゃあ、先に進もう」
暁継は頷いた。
「そうだね。……また川瀬さんに面倒を見てもらって、ごめん」
今度は、暁継が少しだけ表情を引き締めて陽菜のもとへ歩いていった。
「俺たちは、ここでは死なない。今度こそ、全員が無事にここから出られるように、俺にできることは全部やる。だから……陽菜さん、俺を信じてほしい」
暁継は苛立ちを押し殺すように顎を強く引き、胸元に手を当てる。その手はシャツを強く握り締めていた。
「健太さん……あんなことになって……俺がもっと気をつけていれば……。何もなかったみたいに先に進みたいわけじゃない。でも……ここで立ち止まるわけにもいかない。自分たちの命まで、投げ出すわけにはいかないから」
その言葉を聞いた凪紗は、再び誰にも見えない笑みを浮かべた。だがすぐにそれを優しい笑顔へと隠し、暁継へ近づいていく。
「私は暁継くんについていくよ。暁継くんを信じる」
海斗は壁から身体を起こした。今度の表情は、これまで以上に真剣だった。
「俺も賛成だ。あんな汚い化け物なんかに殺されてたまるか。あんな死に方、絶対に受け入れられない」
陽菜はまだ迷っていた。
「で、でも……これから、どうするの……?」
暁継は天井を見上げた。
「屋上へ行く」
「屋上……? でも、どうして?」
「信じてほしい。俺にも、どうしてなのかは分からない。でも、これだけは分かってる。俺にしか見えない女の子がいて、その子が言ったことは、全部本当になってる。だから、上に行かなきゃいけないって分かったんだ」
暁継は拳を握り締め、目を細めた。
「それに……下に行ってたらどうなってたか、もう見ただろ……」
海斗が一歩前へ出た。
「俺も証人だ。俺にはその子は見えなかったけど、前に暁継と一緒にいたとき、その子は本当に起きる前のことを知ってた。それに、学園がこんなふうになる前から、このアノマリーについて暁継に警告してたんだ」
暁継と海斗の説明を聞いた凪紗は、わずかに目を見開いた。まるで何かに気づいたかのようだったが、何も口にはしなかった。
二人の話を聞いた陽菜は、どう答えればいいのか分からなかった。俯いたまましばらく考え、それから口を開いた。
「まだ怖い……本当に怖いよ。でも……」
陽菜は暁継をまっすぐ見つめた。その瞳には、ただ必死な思いだけが浮かんでいる。
「信じる……。お願いだから、みんなでここから出よう」
暁継は頷いた。
「約束する。俺にできることは全部やる。だから、行こう。もうこれ以上、時間を無駄にできない」
一行が動き始めると、海斗がふと口を開いた。
「そういえば……よく考えたら、変だよな。ここに来た途端、あの化け物は俺たちを追うのをやめて、消えたんだろ? もう何がどうなってるのか分からなくなってきた。まるで……誰かが俺たちを使って、別のゲームをやってるみたいだ」
「分かる。もう何を信じればいいのかも、何をどう解釈すればいいのかも分からない。あの子の言葉に従うのも、何度も正しかったからっていう、それだけだよ」
「そうだな。じゃあ、行こう」
暁継は振り返ると、再び歩き始めた。階段を上り続ける彼の隣を海斗が歩き、その後ろを凪紗がついていく。
二人の会話を聞きながら、凪紗は密かに笑った。だが今回は、いつもとは違って、前を歩く暁継と海斗の二人へと意識を向けていた。二人が並んで歩く姿を、じっと観察している。
海斗……暁継くんの友達が、今の状況について鋭いところに気づいた。それに、二人はかなり親しいみたい……。最後の舞台を見せるための駒として、使えるかもしれない。
その後ろを陽菜がついていく。だが、一歩目を踏み出した瞬間、スカートのポケットから微かな振動を感じた。
「ん?」
陽菜はスマートフォンを取り出した。ロックを解除した瞬間、その目が驚きに見開かれる。
大量の通知が、一気に押し寄せていた。数え切れないほどのSNSやニュースサイトから届いた通知。そのどれもが、電波の届かない孤立した学園に長時間閉じ込められていた間に蓄積されていたものだった。
陽菜はニュースの通知をタップした。SNSには、街の至るところでアノマリーや怪物が現れている映像が次々と表示されていた。
そして、それらと戦うシグナ使いたちの姿も。
「……何、これ……?」
背後から足音が聞こえてこないことに気づいた凪紗が、足を止めて振り返った。
「陽菜さん? どうしたの?」
海斗と暁継も振り返り、何が起きたのかを確認する。
「陽菜さん? どうして止まったの? さっきも言ったけど、先に進まないと」
陽菜は数秒間、その場に立ち尽くした。目の前に表示されたものを理解しようと、ただ黙って画面を見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……電波が戻った」




