第11話 命を繋ぐ静寂
海斗は暁継の前に立ち、半ば死ぬほど怯えながらも、それでも頷いた。
暁継はゆっくりと海斗のほうへ歩いていき、少し離れたところで足を止めた。
「聞いてくれ。あの怪物、音を立てなければ俺たちには気づかないんじゃないかと思う」
「そ、それでどうするんだ? 俺……今見てるものが本当に現実なのかすら、信じられない。もう、立ってるのもやっとだ」
「怖いのは分かってる。俺だって怖い。でも、早く動いて安全な場所を探さないと」
二人は廊下をゆっくりと歩き始めた。一歩一歩、足を慎重に床へ置きながら、ほんの少しの音も立てないように進んでいく。
「暁継、すぐに学園を出たほうがいい」
「駄目だ。外で何が待ってるか分からない。まずは、俺たちが見たものを他のみんなに知らせる方法を探さないと」
「暁継、本気で言ってるのか? 俺たち、クラスのみんなが殺されるのを見たんだぞ。俺たちだって生きてここから出られるか分からないのに、それでも学園全体のことを考えてるのか? 俺はただ、無事に家に帰りたいんだ。もう、あいつらは置いていこう」
暁継は足を止め、真剣な表情でゆっくりと海斗のほうを振り返った。
「海斗、正直に言う。俺は英雄になりたいからこんなことをしてるんじゃない。誰かが音を立てたら、あの怪物が何をするか分からない。俺たちだって危険に巻き込まれるかもしれないんだ」
「俺……それは分かってる。でも、みんな俺たちの話なんて信じないだろ。暁継が言ったじゃないか。もし笑われて、それであの怪物を呼び寄せることになったら? 頼む……もう、置いていこう」
暁継は答えを返さないまま、ゆっくりと再び歩き始めた。
海斗はしばらくその背中を見つめ、顎に力を入れたが、やがて暁継の後を追った。
「あの少女の警告、正しかったんだ。俺たち、本当に逃げるべきだった」
「海斗、今はそんなことどうでもいい。もう遅いんだ。だから、話すのをやめて動いて」
海斗が突然足を止めた。片手で口を押さえ、表情を変える。
「海斗? どうした?」
「俺……分からない。吐きそうだ……」
「吐く? 駄目だ。すぐに怪物に気づかれる」
「そんなの、自分でどうにかできるわけないだろ……」
海斗は限界に達していた。胃がねじれるような感覚に耐えながら、必死に吐き出さないようこらえている。
暁継の目が見開かれた。
「待て――」
暁継が言い終える前に、海斗は両手で口を押さえ、天井へ顔を向けた。そのまま数秒間、必死に吐き気をこらえ、最後の瞬間でなんとか抑え込んで、音を立てずに済んだ。
海斗はゆっくりとしゃがみ込み、顔を青ざめさせた。
「最悪だった……なんか、目が回る」
暁継は一瞬だけ緊張を緩め、額の汗を拭った。
「……よく耐えたな」
暁継は海斗が立ち上がれるよう、手を差し出した。
「行こう」
「ありがとう」
暁継が海斗を立ち上がらせると、階段近くの廊下の奥に、誰かが現れた。
教師の一人だった。
「おい! 二人とも、こんなところで何をしてるんだ?」
暁継と海斗はすぐに教師のほうを振り向き、目を見開いた。
暁継は素早く人差し指を唇に当て、音を立てるなと無言で伝えた。
教師は困惑したように眉を上げた。
「何を言ってるんだ? ここから物音が聞こえたぞ。お前たち、まさか――」
その言葉が終わる前に――
ドンッ!
教師の横の壁を巨大な手が突き破り、一瞬でその身体を握り潰した。
血が廊下中に飛び散り、暁継と海斗の顔や制服にまで降りかかった。
二人は一切声を上げなかった。ただ、あまりの衝撃にその場で凍りついていた。
巨大な手はゆっくりと壊れた壁の向こうへ引き戻され、床から階段へと血の跡を残していった。
手のひらに並んだ鋭い歯には、教師の服の切れ端がいくつも引っかかっていた。
やがて、その手は外へと消えていった。
暁継は、血で完全に覆われた自分の手を見下ろした。その手は震えていた。
その後ろで、海斗はゆっくりとしゃがみ込み、壁にもたれかかって身体を支えながら、かろうじて息をしていた。
そのとき、学園のあちこちから声が聞こえてきた。特に上の階からは、いくつもの声が響いていた。
生徒たちがパニックになって走り回り、廊下に足音が響き渡る。
男子生徒たちが叫んでいた。
「窓から離れろ――!」
「走れ! 走れ――!」
一人の女子生徒が叫んだ。
「いやあああっ! 嫌、嫌あああっ! 誰か、誰か助けて――!」
しかし、どの声も最後まで続くことはなかった。
残ったのは、激しい衝撃音と割れるガラスの音、そして身体が押し潰されるおぞましい音だけだった。
その瞬間、暁継と海斗は、本当にいつ死んでもおかしくないのだと理解した。
暁継は、地面に座り込んでいる海斗のほうを振り返った。彼のそばまで歩いていき、静かに隣へ座る。二人はただ、床を見つめていた。
今にも心が折れそうになっていた海斗は、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「あ、暁継……俺たち、本当に死ぬのか?」
暁継は海斗を見つめ、その目に浮かんだ純粋な恐怖を見た。
ゆっくりと深く息を吸って気持ちを落ち着かせると、海斗の肩に手を置いた。
「いや。俺はまだ死ねない。帰らないといけない家族がいる。それに、お前にもこれからがある。諦めるな」
暁継はゆっくりと立ち上がり、階段のほうへ振り返った。
「安全な場所を探そう。これ以上、音を立てる危険は避けないと」
海斗は答えなかった。腕に顔を伏せた。
「海斗……ほら。動かないと」
「俺……嫌だ。あの怪物が戻ってきたらどうするんだ?」
「ここにいるのも危ない。もっと静かな場所まで下りよう。そこで誰かが助けに来るのを待てるかもしれない。外が安全なら、そこから出ることだってできる」
暁継は再び海斗のそばまで歩いていき、手を差し出した。
「行こう、海斗。こんなところで死んじゃ駄目だ。俺たちは、死ねない」
海斗はようやく暁継を見上げた。こんな状況なのに、どうして暁継がまだ笑うことができるのか、理解できなかった。
「お前……頭おかしいだろ」
海斗はその手を取り、立ち上がった。
「でも……お前の言う通りだ。こんなところで死ぬわけにはいかない」
暁継は納得したように頷いた。
「じゃあ、行こう」
二人は再び歩き始め、やがて階段の近くまでやって来た。
「外に出ても、あの怪物には見つからないと思うか?」
「確かなことは言えない。だから、先に確かめたいんだ」
二人は下へ続く階段まで辿り着いたが、そこで足を止めた。
階段は、割れた窓から飛び散ったガラスの破片で完全に覆われていた。一歩でも踏み外せば、二人を殺すには十分な音を立ててしまう。
「そんな……これじゃ、外にも出られない」
「まずいな……」
暁継は上の階へ続く階段へと視線を向けた。
「だったら、俺たちは――」
そう言いかけたところで、暁継は突然言葉を止めた。あることに気づき、目を見開く。
「暁継? どうした?」
暁継は両手を強く握りしめ、深い心配を浮かべた表情で答えた。
「俺……自分たちのことで頭がいっぱいになってた。川瀬さんが上の階にいることを忘れてた……」
海斗の表情がすぐに大きな衝撃へと変わった。
「そんな……そうだ。まさか……」
「海斗、言うな……。まず確認しよう」
「そ、そうだな……ごめん……」
暁継は頷き、二人は一緒にゆっくりと上の階へ続く階段を上り始めた。
川瀬さん……どうか無事でいてくれ。




