第10話 最後の平穏な時間
凪紗がようやく二人のところまでやって来た。
暁継は彼女のほうを振り向いた。
「それで、川瀬さん。教室の外で何してたの?」
「ん? 私? 先生に電気の状態を確認してきてって頼まれたの。でも、先生たちも何が起きてるのか分からないみたい。急に電気が落ちちゃったんだって」
「そうなんだ? 俺たちも聞きに行こうとしてたんだけど、これならもう必要なさそうだね」
「うん。電気が戻るまで、授業は中止にするって言ってたよ」
すると突然、彼女の目が暁継の目をまっすぐ捉えた。凪紗は何も言わなかった。笑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、ほとんど無表情に近い顔で暁継を見つめていた。
「川瀬さん、俺の顔に何かついてる?」
凪紗は手を伸ばし、そっと暁継の頬に手を添えた。そして優しく頬を撫でると、両手の親指で暁継の目の下にある薄い隈をそっと撫でた。
海斗は完全に不意を突かれた。
え? な、なんだこれ? 暁継のやつ……! 川瀬さんとこんなに仲がいいなんて聞いてないぞ!
暁継は平静を保っていたが、少しだけ恥ずかしそうになっていた。
「川瀬さん?」
凪紗がようやく口を開いた。
「暁継くん、すごく疲れてるね。ちゃんと眠れてないでしょう? それに、あまりちゃんと食べてないみたい。何か心配なこともあるんじゃない? 大丈夫?」
「ああ、うん。もうすぐ試験だから、あまりちゃんと眠れてなくて、それに食事をする時間もあまり取れなかったんだ。それだけでそこまで分かるなんて、正直びっくりしたよ」
凪紗はようやく手を下ろし、柔らかく微笑んだ。
「私たち、昔からずっと一緒だからね。それに、暁継くんも覚えてるでしょう? 暁継くんと栞ちゃんが具合を悪くしたとき、何度もお見舞いに行ったから。だから、暁継くんが疲れてるときは、だいたい分かるよ」
「うん、それなら納得だね。ありがとう。でも、俺は大丈夫だよ」
「栞ちゃんは? 元気にしてる?」
暁継はすぐには答えなかった。さっきの電話と――栞の悲鳴を思い出していた。
「まあ……うん。元気だよ」
俺……本当にそうだといいんだけど。
「本当? それならよかった。じゃあ、明日お家に遊びに行こうかな? 新しく作ったケーキ、一緒に食べようよ。すごくおいしいんだよ。お父さんと双子の弟妹にも作ったんだけど、もうすっかりハマっちゃって」
「ああ、もちろん。いつでも来てよ。家族にも伝えておくから」
凪紗は温かく微笑んだ。
「じゃあ、約束だね。楽しみにしてるよ」
「俺も」
凪紗はようやく振り返り、上の階へ向かって歩き始めた。
「海斗くんも、ちゃんと気をつけてね」
「え? 俺? お、もちろん!」
暁継と海斗はその場に立ったまま、上の階へ向かっていく彼女の後ろ姿を見つめていた。
海斗は満面の笑みを浮かべながら手を振っていた。凪紗が自分のことまで気にかけてくれたのが、よほど嬉しかったらしい。
暁継は何か言いたげな目で海斗のほうを振り向いた。
「何その顔。すごく嬉しそうだけど」
「そりゃ嬉しいだろ! 凪紗ちゃんに気をつけてって言われたんだぞ。へへへ」
暁継はため息をついた。
「浮かれるなって。川瀬さんはそういう意味で言ったんじゃないよ」
「え? なんで分かるんだよ? もしかして嫉妬してるのか? さっきのお前ら、めちゃくちゃ距離近かったじゃん。奥さんみたいに世話焼いてもらってたし。次は何だ? 部屋に連れて行って――」
しかし、暁継が手を上げて止めるより先に、彼は凪紗が消えていった階段のほうへ目を向けた。その表情が真剣なものに変わる。
「海斗、そういうこと言うなよ。凪紗は……ただ、本当に優しいだけだ」
海斗はからかうのをやめ、素の表情に戻った。
「はぁ……まあ、お前、今のは本気で言ってたもんな」
海斗が一歩前に出る。
「そういえば、新しいケーキのレシピを作ってるって言ってたよな。お父さんと双子の弟妹の話はしてたけど、お母さんは?」
暁継はその場に立ったまま、しばらく何も言わなかった。どう答えればいいのか考えていた。
そして、ようやく口を開いた。
「もう、一緒にはいないよ」
海斗は完全に不意を突かれた。興味本位だった表情が一瞬で別のものに変わり、聞いてしまったことを申し訳なく感じた。
「それは……予想してなかった。くそ……なんか悪いこと聞いちゃったな。本人に直接聞かなくてよかった」
「凪紗から聞いたんだけど、お父さんはいつも仕事で帰りも遅いらしいんだ。それで、凪紗が弟や妹たちの母親代わりになってる。すごく優しくて責任感も強いから、俺は本当に尊敬してるよ」
海斗は暁継の表情を見つめた。今度は冗談を言わなかった。ただ数歩前に出ると、暁継の首に片腕を回した。
「はは、もうこの冗談は言いたくないんだけど、正直、お前らって本当にお似合いだと思うぞ。性格も結構似てるし」
「海斗……くだらないこと言うなよ」
「何だよ。俺は本当のこと言ってるだけだろ」
暁継は海斗の腕を押しのけ、そのまま歩き始めた。
「とにかく、教室に戻ろう。電気について、職員室が何て言ってたのか先生に伝えないと」
「まあ、それはそうだけど、これからどうするかも話さないとな。まさか、あの謎の少女のこと、もう忘れたわけじゃないだろ?」
「もちろん忘れてないよ。ただ、川瀬さんを心配させたくなかったから、あの子の話をしなかっただけだ」
海斗もようやく歩き始めた。
「はいはい……さすが紳士様。ほら、言っただろ――」
しかし、海斗が言い終えるより先に、窓から差し込んでいたかすかな光を影が覆ったように見えた。海斗はすぐにそちらを振り向いた。
そして、その瞬間、海斗は息を呑んだ。目が恐怖で大きく見開かれ、脚が震え始める。
海斗はためらうように、数歩後ろへ下がった。
窓の向こうにあったのは、外からこちらを覗き込む巨大な異形の目だった。真っ白な眼球が、雨の向こうにはっきりと見えていた。
海斗は声を出そうとした。叫ぼうともした。だが、声が完全に出なかった。そして突然、一度だけ瞬きをした――その瞬間、巨大な目は消えていた。
廊下を歩いていた暁継は、後ろから海斗の足音が聞こえなくなったことに気づいた。
「海斗?」
振り返ると、海斗がその場で完全に動きを止めて立っていた。暁継は彼のほうへ戻っていく。
「海斗、どうしたんだ? 戻らないと」
突然、海斗が暁継のほうを振り向き、両手で彼の肩を掴んだ。
「き、聞いてくれ。今見たもの、絶対信じられないと思う。お、俺、何か見たんだ。それ、それが……」
暁継の表情がさらに心配そうになる。
「海斗、落ち着け。何を言ってるのか全然分からない。何を見たんだ?」
海斗は、ほとんど聞こえないほどの声で囁いた。
「あの少女が言ってたこと、正しかったのかもしれない。この場所は危ない! 今すぐここから出ないと!」
すると突然――
二人は遠くでガラスが割れる音を聞いた。その直後、椅子や机が倒れる音が続いた。音がしたのは、廊下の突き当たりにある二人の教室の方向だった。
「今の、聞いたか?」
「だから言っただろ、暁継。窓の外に巨大な目があったんだ。やばい……」
暁継はそれ以上聞くのを待たず、すぐに教室へ向かって廊下を走り始めた。
「暁継、待て! 話を聞け!」
海斗も仕方なく後を追った。
やがて、二人は教室にたどり着いた。
二人は扉の前に立ったまま、互いに視線を交わした。そして、ゆっくりと扉を開けた。
暁継が先に中へ入った。
「先生、職員室に確認してきました。どうやら――」
しかし、言葉を最後まで続けることはできなかった。暁継はその場で凍りつき、目を大きく見開いた。目の前にある光景をようやく理解したのだ。
海斗も後ろから中を覗き込んだが、すぐに後ずさった。呼吸が次第に荒くなっていく。
目の前にあった、さっきまで生徒でいっぱいだった教室は、もはや教室とは呼べないものになっていた。部屋全体が赤く染まり、中にいた生徒たちは一人残らず、変形した肉体の一部と化して床に散らばっていた。しばらくの間、暁継は目の前の光景を見つめたまま、ただ静寂だけがそこに残っていた。
聞こえるのは、壊れた壁から教室へ吹き込んでくる風と雨の音だけだった。
そのとき、暁継は靴の先に何かが触れたのを感じた。ほとんど機械的に、ゆっくりと視線を下げる。
そこにあったのは、足元に転がっている教師の首だった。それを見た瞬間、今まで目にしたものすべてが一気に頭の中へ流れ込んできた。暁継は数歩後ずさり、何かを言おうと唇を開いたが、声は出なかった。
暁継は再び顔を上げ、動こうとした。その瞬間、半ば壊れかけた机の端に置かれていた通学鞄が、まるで自らの意思を持っているかのように不自然に動き、そのまま床へと落ちた。
そして、その瞬間――
外にいた巨大な目の異形が戻ってきた。教室のすぐ目の前に姿を現した。
海斗と暁継はその場で凍りつき、異形が教室の中を見回すのを見つめていた。その身体には何百本もの長くねじれた腕が生えており、その手のひら一つ一つの中央には、鋭い歯が並んだ口が開いていた。身体全体が、さっきまで生徒だった者たちの血で覆われていた。
暁継と海斗が教室のすぐ目の前に立っているにもかかわらず、異形は二人に気づかなかった。ほんの短い間だけ教室の中を探し、それからその場を離れていった。
暁継の頭の中は混乱していた。目の前で死んでいる人たちのことか、謎の少女からの警告か、それとも今見たばかりの化け物か――何から反応すればいいのかさえ分からなかった。
暁継はすぐに海斗のほうを振り向き、人差し指を唇に当てて静かにするよう伝えた。そして、囁いた――
「……音を……立てるな」




