五日目:白銀の終焉
昨日から降り続いていた冷たい雨は、いつの間にか音のない雪へと変わっていた。
屋敷の中は、夜明け前からひどく殺気立っていた。
お父様やお母様、そして使用人たちが、青ざめた顔で荷物をまとめ、逃げるように旅の支度を急いでいる。
「レナ、すぐに出発だ。この町はもう危ない」
お父様の鋭い声が響く。
なぜ、あんなに怯えているのか。
昨夜、屋敷の周りで何が起きていたのか、私には何も知らされていない。
ただ、暗闇の中で誰かが刃を交えるような、冷たい鉄の音が聞こえた気がしただけだ。
「……お父様、私は行きません」
「何を言っている!命が惜しくないのか!」
お母様が私の肩を強く掴む。
その手は小刻みに震えていた。
けれど、私の心は不思議なほど静かだった。
脳裏に浮かぶのは、昨日の夕暮れ、あの図書室で見たシオンさんの絶望に満ちた瞳。
『明日は、ここに来てはいけない』
彼はそう言った。
まるで、自分を殺すような悲しい声で。
でも、私は彼に明日も、明後日も、待っていると誓った。
もし、今日私が行かなければ、彼は本当に独りきりで、この物語を終わらせてしまう。
「約束したんです。……大切な人と。私は、あの日だまりの中で、あの人を待たなければならないの」
「馬鹿なことを……っ!」
父様の制止を振り切り、私は羽織を掴んで表へ飛び出した。背後で私を呼ぶ家族の悲鳴のような声が、遠ざかっていく。
冷たい風が頬を刺し、雪が髪に舞い落ちる。
町全体が不気味に静まり返り、どこからか死の気配が忍び寄っているのは、私にだって分かっていた。
それでも、私の足は止まらなかった。
図書室の空気は、昨日よりも一層冷え切り、私の吐く息さえも白く濁っていた。
私はただ、静かにその時を待った。
いつもの時間は、とうに過ぎている。
けれど、私は動かなかった。
解いたままの髪を、冷たい指先で弄りながら、ただ一点。彼がいつも現れる、図書館の入り口だけを気にしていた。
(信じて、待つから。……例えあなたが、私を見捨てても)
机の上の詩集は、もうあと数行で終わる。
私は最後の一行に指を這わせた。
そこには、かつての国の言葉でこう記されていた。
『――物語が閉じられる時、君の流した涙は、いつか誰かの栞になるだろう』
その一節を胸に刻み、パタン、と乾いた音を立てて本を閉じた。
その直後だった。
図書室の静寂を、不気味な衣擦れの音が切り裂いた。
一瞬の間に、私の周りに数人の黒い影が現れた。
煤けたような黒装束。感情の一切を排した鉄の面。
彼らが放つのは、この場所には不釣り合いな、研ぎ澄まされた暗殺者の死の気配だった。
「……っ!」
恐怖で喉が引き攣れる。
立ち上がろうとした拍子に、手元から滑り落ちた詩集が、床に虚しい音を立てて転がった。
囲まれている。逃げ場はない。
死神の鎌が首筋に当てられたような戦慄に、私は声も出せずに立ち尽くした。
その時。
黒装束の男たちの間を割って、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。
「……来てはいけないと言ったのに。本当に、どうしようもない人だ」
聞き慣れた、けれど、かつてないほど冷たく澄んだ声。
私の目の前に現れたのは、シオンさんだった。
けれど、それは私の知っている彼ではなかった。
男たちと同じ漆黒の装束に身を包み、腰には鈍い光を放つ長短の刃を帯びている。
その瞳は、降り積もる雪よりも冷酷に、標的である私を射抜いていた。
「シオン……さん……?」
震える声でその名を呼んでも、彼は眉ひとつ動かさない。
黒装束を纏った彼の身体は、たった一日で何があったのか、見るも無残に痛めつけられていた。
装束のあちこちが鋭く引き裂かれ、左肩には深く抉られたような傷があり、そこから滲み出す鮮血が、図書館の床を汚していく。
ただ、彼の左手首には、不似合いなほど鮮やかな青いリボンが、御守りのように固く巻き付けられている。
あまりに衝撃的な彼の姿に、私は悲鳴を上げることさえ忘れていた。
「……っ、シオン……さん……!その怪我……っ」
私が駆け寄ろうとすると、周囲の男たちが一斉に抜剣した。鋭い金属音が静寂を切り裂く。
シオンさんは、荒い呼吸を整えることさえままならない様子で、ひどく熱を帯びた瞳を私に向けた。
「……動かないで。……彼らは、僕があなたを処分するのを…見届けるために、ここにいるんです」
冷徹に装おうとしているその声は、激痛に耐えるために細く、震えていた。
シオンさんはよろりと足を震わせながら、床に転がっていた詩集へと手を伸ばした。
彼はゆっくりと腰を落とし、震える指先でその本を拾い上げる。
その動作ひとつひとつが、命を削り取るような重みを持っているように見えた。
彼は本に付いた埃を愛おしげに、けれど自分の血で汚さぬよう細心の注意を払って、袖で拭った。
「……読み、終わったのでしょう。……最後の一行まで」
彼は私に歩み寄り、震える両手でその本を差し出した。
差し出された本を受け取る時、私たちの指先が触れ合う。
――熱い。
あの日よりもずっと、狂おしいほどに。
けれど、その熱は、命の灯火が最後に放つ、激しくもはかない閃光のようだった。
「……レナ。……この物語は、ここで終わらせなければならない」
彼は静かに、けれど迷いのない動作で、腰の短剣へと手をかけた。
そして、私の耳元で、風に消えそうなほど小さな声で囁いた。
「……僕を、信じると……言ってくれましたね。……なら、もう少しだけ、僕の『嘘』を……信じてください」
それは暗殺者としての宣告ではなく、たった一人の女性を守り抜こうとする、男の最期の決意だった。
「――さようなら、レナ」
シオンさんの冷徹な声が図書室に響くと同時に、私は抱き寄せられ、冷たい刃の感触が首筋にぴたりと押し当てられる。
死の予感に全身の血が引いていく。
けれど、間近で私を見つめるシオンさんの瞳は、狂気に染まるどころか、氷のような冷静さと、破滅的な決意を湛えていた。
その光景を見た黒装束の男たちが、獲物の死を確信し、わずかに剣先を下ろした。
――その、一瞬の隙だった。
「……っ!!」
シオンさんの身体が、驚異的な速度で駆ける。
私の首筋にあったはずの短剣が、目にも止まらぬ速さで空を切り、次の瞬間。
図書室の静寂は、喉を掻き切る生々しい音と、男たちのくぐもった断末魔に塗り替えられた。
シオンさんは満身創痍の身体とは思えない、凄まじい動きで男たちの懐へ飛び込み、その喉元を一気に、深く、一閃した。
図書館の床に、鮮やかな紅い花が飛び散る。
圧倒的な力。
それは、彼がこれまで歩んできた呪われた日々の結晶そのものだった。
「走れ……っ、レナ!!」
驚く暇もないまま、返り血を浴びたシオンさんが、私の腕を強く掴んだ。
彼の掌は、今や汗と血で滑りそうになりながらも、焼けるような熱を持って私を引きずる。
私たちは、静まり返った図書館の廊下を駆け抜け、降り積もる雪の中へと飛び出した。
冷たい空気が肺を突き刺す。
背後からは追手の足音が聞こえてくるが、シオンさんは一度も振り返らなかった。
「……あ、あそこに……!」
雪に煙る大通りの影に、一台の馬車が停まっていた。
御者台に座る人影、そして窓から不安げに外を覗き込む顔……それは、紛れもなく私の家族のものだった。
「……お父様!お母様……っ!」
「……レナ、急いで!」
シオンさんは馬車の扉を開けると、力任せに私の身体を押し込んだ。
家族が私の名を呼び、温かな腕で私を受け止める。その安心感とは裏腹に、私は馬車に乗ろうとしないシオンさんの手を、必死に掴み返した。
「シオンさんも!一緒に…!お願い……!」
シオンさんは、雪の中に立ち尽くしたまま、悲しげに首を振った。
彼の足元の雪は、絶え間なく滴る血で、みるみるうちに赤く染まっていく。
「レナ。……初めから、あなたの物語に、僕が登場するべきではなかったんです。僕のような影に触れずに、この美しい図書室の中で、綺麗な詩だけを読んで、完結するべきだった……」
シオンさんの声は、吐息に混じって白く消えていく。
その瞳には、自分の存在が純粋な世界を汚してしまったことへの、癒えることのない悔恨が滲んでいた。
「……そんなこと言わないで!私は、あなたに出会えて良かったって、心から……!」
私は叫んだ。
溢れ出した涙が頬を伝い、極寒の空気の中で熱を失っていく。
彼の掌を、指を、離したくない一心で、爪が食い込むほどに握りしめる。
「シオンさん、お願い……行かないで。あなたがいない物語なんて、どんなに美しくても、私には物足りない。この物語を、ここで終わらせないで!」
私の必死の訴えに、シオンさんは一瞬、ひどく苦痛に歪んだ顔をした。
彼は私の手を握り返し、その額を、私の額へと預けた。
額を通じて、彼の熱が伝わる。
「……いいえ、レナ。終わらせるんじゃない。……この物語は、ここからまた、新しい世界へと続いていくんです」
シオンさんは、血の気の引いた唇で、静かに微笑んだ。
それは、図書室で見せたどの笑顔よりも穏やかで、そして悲しい光を宿していた。
「僕という影を栞にして、どうか次のページをめくってください。……あの、アネモネの詩の最後を覚えていますか?……あなたのこれからの日々が、その通りになることを、僕は地獄の底から願っています」
「シオンさん……っ!」
彼はそう言って、血に汚れた手で、私の頬をそっと撫でた。
その指先は、雪よりも冷たくなり始めていた。
「……レナ。あなたに名前を呼んでもらえて、僕は……生まれて初めて、自分を許せたような気がしました。……本当に、ありがとう」
彼は強引に私の指を解き、そのまま馬車の扉を外から力任せに閉めた。
「行けっ!!」
彼の鋭い怒号が響き、馬車が跳ねるように走り出す。
「シオンさん!シオン……っ!!」
私は窓にへばりつき、遠ざかっていくシオンさんの背中に向かって、喉が張り裂けるほどに呼び続けた。
雪の中に一人、立ち尽くす黒い影。
追手たちの剣戟が聞こえ始めた刹那、彼は昨日私が渡した青いリボンに、愛おしげに一度だけ口づけしたように見えた。
そして、彼は一度も振り返ることなく、雪の降り積もる道の中央に立ち、迫り来る追手たちの方を向いて、静かに剣を構え直した。
私は遠ざかっていく彼の背中を必死に追いかけた。
次第に窓から見える彼の姿が小さくなり、やがて、角を曲がった馬車の視界から、彼の姿は消えた。
聞こえていた剣戟の音も、雪の静寂に吸い込まれ、何も聞こえなくなる。
私の手元には、彼が最期に手渡してくれた、血の跡ひとつない綺麗な詩集だけが残されていた。




