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いつかの栞  作者: 鳳月
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四日目:めくられた頁

図書室の外は、朝から冷たい雨が降りしきっていた。叩きつけるような雨音は、石造りの建物を冷たく湿らせていく。


けれど、図書室へ向かう私の足取りは、昨日までの余韻で浮き立っていた。


昨日、彼の手から伝わってきた熱が、今も胸の奥で火を灯し続けている。


(今日は、どんな話をしよう。また素敵な景色の話を聞けるかな)


しかし、約束の時間。

図書室の入り口に現れたシオンさんを見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。

 

いつもの穏やかな、どこか浮世離れした余裕のある笑みはどこにもない。


彼の顔は目に見えて蒼白で、その瞳の奥には、底知れない焦燥と、喉元までせり上がった絶望の色が浮かんでいた。


「……シオン、さん?」


彼はふらつく足取りで私の隣に座ったが、一言も発しない。ただ、組んだ両手が、隠しようもなく小刻みに震えている。

 

「顔色が、ひどく悪いです。どこかお体が……」


心配でたまらなくなり、私は彼の震える手に、そっと自分の手を重ねようとした。

その瞬間だった。

 

「――っ、触るな!」


鋭い拒絶の声。

シオンさんは弾かれたように椅子を引き、私の手を強く振り払った。


その力は、これまでの彼からは想像もできないほどに荒々しく、私の指先は机の角に当たって小さく痺れた。

 

「……あ……」


呆然とする私を、シオンさんはまるで恐ろしいものでも見るような眼差しで見つめていた。

けれど、その瞳の端には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。

 

「……すみません。……違うんです、レナ。僕は……」


彼は掠れた声でそう呟くと、顔を覆うようにして深く俯いた。


図書室の静寂が、牙を剥いて私たちに襲いかかる。


私はショックで固まりながらも、今にも壊れてしまいそうな彼を繋ぎ止めたい一心で、震える声で切り出した。


「……あ、あの。この本、もうすぐ読み終わりそうなんです。あと最後の章と、少しだけで」


シオンさんは絶望に歪んだ顔を伏せて、押し黙った。


「……読んで、くれませんか」


長い沈黙の後、彼は顔を上げないまま、絞り出すような声でそう言った。


「……一節だけでいい。その本の、最後の一節を。……あなたの声を聞かなければ、僕は、壊れてしまう」


その声のあまりの痛々しさに、私は震える手で詩集を広げた。


この本の最後に記されていたのは、かつての帝国で、ある大罪人が処刑台の上で最期に口にしたという、後悔と懺悔の詩だった。


『――この手で汚した光を、私は二度と抱くことはできない。愛した人の名を呼ぶ資格さえ、私は血の海に沈めてしまった。願わくば、この命が尽きる刹那、君の記憶から、私という影が消え去らんことを』


私の声が、図書室の冷たい空気に溶けていく。


シオンさんはそれを聴きながら、両手で顔を覆い、音もなく肩を震わせていた。


そしてその詩を読み終えた瞬間、彼はひどく短く、嗚咽のような息を吐いた。


「……消え去らんことを、か。……皮肉ですね。本当に、……救いがない」


彼は力なく笑った。その微笑みは、もう昨日までの彼のものではなかった。

何かに追い詰められ、逃れられない呪いに縛られた男の顔だった。


「……どうして、そんなに悲しい顔をするんですか?」


私は、振り払われた手の痛みを忘れて、震える彼の膝にそっと触れた。


今度は拒絶されなかった。けれど、雨に濡れた彼のズボン越しに伝わる体温は、昨日までの熱が嘘のように氷のように冷え切っていた。


「シオンさん、教えてください。この罪人は、どうして最期に『忘れてほしい』なんて願ったのでしょうか。愛した人の記憶に残ることこそ、唯一の救いのはずなのに」


シオンさんは泣きはらしたような充血した瞳で私を見た。その視線は、鋭い刃物で私を切り刻んでいるかのようで、同時に、自分自身を深く刺しているようだった。


「……救い、ですか。レナ、君は優しすぎる。……愛した人の清らかな記憶の中に、血塗られた自分の影を刻みつけることこそが、最大の罪だとは思いませんか」

「……もし私がその愛された人なら、どんなに深い影でも、その人が生きた証を抱えて生きていきたいと思います。……それが、愛だと思うから」


彼は私の顔を、まるでこの世で最後に見る光景であるかのように、痛いほどの凝視で見つめる。


「……愛。……あなたは、その言葉をそんなに簡単に口にする。」


消え入りそうなほどの微かな声で、彼はそう呟くと、立ち上がった。


去ろうとする彼の背中、そのあまりの孤独さと拒絶の深さに、私はたまらず叫んでいた。


「……もう、ここには来てくれないのですか?」


シオンさんは足を止めた。

雨音に混じって、彼が低く、震える吐息を漏らしたのが分かった。


降りしきる雨の音が、私たちの間の沈黙を重く、冷たく埋めていく。


彼は振り返らなかった。ただ、図書室の闇に溶け込むような、ひどく虚無的な声で言った。


「……レナ。あなたにとって、僕との出会いは、本の読み終えた一ページに過ぎない。……読み進めてしまったら、もう二度と戻ることはできないんです」

「戻れなくていい……!私は、続きが知りたいんです。シオンさんと、もっと……」

「――いいえ、レナ」


彼は私の言葉を、重い鉄の扉を閉ざすような非情さで遮った。


「明日は、ここに来てはいけない。……もし、ここでまた僕と会えたなら。その時は……」


彼は一度言葉を切り、低く、重苦しい声で続けた。


「……その時は、この物語の終焉だ」


それだけを残して、彼は今度こそ図書室を去ろうと一歩踏み出した。


「待って、シオンさん!」


私は、自分でも驚くほどの力で彼のコートの袖を掴んだ。


彼は振り返ろうとしなかったけれど、その背中がひどく強張ったのが分かった。


私は震える手で、自分の髪を束ねていた細いリボンを解いた。

さらりと肩に落ちた髪の感触も気にせず、私はそのリボンを強引に彼の掌に押し付けた。


それは、あのアネモネの詩に出てきた花と同じ、深く、透き通るような青色のリボン。


「明日も、明後日も……私はずっと、ここであなたを待っています」


私の指先が、彼の熱い掌に触れる。

シオンさんは弾かれたように私を振り返った。


その瞳には、私の言葉を拒絶しようとする鋭い光と、今すぐ逃げ出したいという怯えで揺れていた。


「……レナ。あなたは、何を言って……」


彼は何かを言い返そうと、その薄い唇を震わせた。


『来るな』と。

彼の冷徹な拒絶の言葉が、その喉元まで出かかっていた。


けれど、彼は言葉を失った。

私の瞳を、まっすぐに見つめたまま、彼は石像のように動かなくなった。


涙を溜めながらも、一点の曇りもなく彼を信じ抜こうとする私の眼差しが、彼の胸の奥にある感情を無慈悲に、けれど優しく打ち砕いてしまったのだ。


青いリボンを握りしめた彼の指が、痛々しいほどに震えている。


彼は結局、何も言い返すことができなかった。


ただ、絶望に満ちた表情を浮かべたまま、よろりと一歩後ろに下がった。


「…………っ」


音にならない吐息を漏らし、彼は逃げるように冷たい雨の向こうへと消えていった。


バタン、と扉が閉まる音が、まるで罪人の首にギロチンの刃が落ちたような衝撃となって私の鼓動を止める。


外では雨が、すべてを洗い流そうとするかのように激しさを増していた。


私は一人、彼が去った後の冷え切った椅子で、読み終えようとしていた詩集を抱きしめた。


(物語の、終焉……)


もし、明日の図書室で彼に会ってしまったら、何かが、取り返しのつかない形で壊れてしまう。


本能がそう警告していた。


けれど、私の心は、その結末がどれほど残酷なものであっても、彼という一筋の光を追いかけずにはいられなかった。



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