三日目:綴られぬ景色
この日は、世界がひどく鮮やかに見えた。
書架に差し込む光の筋も、古い革表紙の質感も、すべてが彼を待つための舞台装置のように思えてしまう。
私の頬は、昨日からずっと微かな熱を帯びたままだった。
彼の名前を心の中で呼ぶたびに、胸の奥が甘く、疼くように震える。
「……今日は、昨日よりも落ち着いているようですね」
ふいに耳元で囁かれた声。
驚いて顔を上げると、そこにはいつものように、影から音もなく現れたシオンさんがいた。
彼は少しだけ悪戯っぽく目を細め、私の隣に静かに腰を下ろした。
「……シオンさん。今日も、来てくださって嬉しいです」
「約束は苦手だと言いましたが……。どうやら僕は、あなたがページをめくる音を聴かないと、一日を終えられなくなってしまったようです」
彼が吐き出した言葉は、熱を孕んで私の耳を掠めた。昨日よりもずっと、彼との距離が縮まっている。
触れ合わなくても分かる、彼の高い体温。
「シオンさん!あの……今日は、素敵な詩を見つけたんです。ぜひ聴いてほしくて」
私は、高鳴る鼓動を隠すように、広げていた詩集のページを彼に向けた。
彼は私の言葉に静かに耳を傾けている。
それは、かつての帝国で愛でられていたという、幻の絶景を綴った一節だった。
『――銀の月が、鏡のような湖面に砕け散る夜。波紋は真珠の首飾りのように、静かに岸辺を縁取っていく。名もなき旅人は、その輝きを杯に汲み、永遠の安らぎを飲み干すだろう』
「月が砕け散る……とは、一体どのような情景なのでしょうか」
私が夢見るように呟くと、シオンさんは懐かしげに目を細めた。その瞳は、ページに書かれた文字を追っているのではなく、記憶の奥底にある実景を投影しているようだった。
「……その湖は、実際に存在する場所ですね。月が砕けるのではなく、湖面が夜明けの光を反射して、宝石のように輝くんですよ。岸辺には白い石英が敷き詰められていて、それらも月や星の光を跳ね返して、真珠のように煌めくんです」
シオンさんの解説があまりに細部まで鮮明だったので、私は思わず本を閉じ、彼を見つめた。
「素敵……本当にあるのですね。ですが、シオンさんはなぜ、そんなに詳しいのですか?」
この町の外をほとんど知らない私の問いに、彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
やがて、彼は困ったような、それでいてどこか諦めたような微笑を浮かべて答える。
「……旅をしていただけです。言葉が通じない場所や、名前さえ持たない人々が住む荒野を。」
「名前さえ持たない人……。そんな場所が、本当にあるのですか?」
「……ええ。自分に名前があることさえ忘れてしまうほど、過酷な場所です。」
彼の言葉の端々に、昨日感じたあの不穏な気配が混じっている気がして、私は彼が離れて行かないように、そのコートの袖を無意識にぎゅっと握りしめていた。
「……そんな道を行くしか、僕には術がなかった。あまりに孤独な夜が続く時、僕はただ、目の前の美しい景色に縋るしかなかった。……そうしないと、心がどこか遠くへ、バラバラに散らばってしまいそうだったから」
「……そんなに、辛い旅だったのですか?」
私が不安げに尋ねると、シオンさんは、はっとしたように顔を上げて微笑んだ。
「……レナ。素敵な詩を教えてくれたお礼に、僕が歩いてきた世界の色彩を、少しだけあなたにお話しましょう。僕が独りで抱えていたこれまでの景色を、あなたに預けてもいいですか?」
シオンさんはそう言うと、窓の外、地平線の向こうを見据えるような目をした。
「僕が見てきた海は、この図書室のインク瓶よりも深い青でした。南の果てには、雪のように白い砂浜があり、夜になると星が降るような静寂が訪れる。」
彼が語る言葉のひとつひとつが、私の脳裏に鮮やかな絵画を描き出していく。
「そして……西の火山が連なる山脈では、燃えるような紅蓮の夕日が、すべての罪を焼き払うかのように世界を染め上げるんです」
その美しい景色を語る彼の声は、どこかひどく悲しかった。
語り続けるシオンさんの横顔を見つめながら、私は彼の孤独な旅の終着点が、この小さな図書室であってほしいと、強く、強く願わずにはいられなかった。
「……シオンさんは、孤独な旅路の中で、そんなにたくさんの美しいものを見てきたのですね」
私の呟きは、西日に溶けて消えそうなほど小さかった。
すると、シオンさんは愛おしげに、壊れ物を扱うような手つきで、そっと私の手に自分の手を重ねた。
昨日よりもずっと、彼の掌の熱がダイレクトに伝わってくる。
「でも、今は違います」
シオンさんの声は、微かに震えていた。
彼は私の手を握り込み、吸い込まれそうなほど深い瞳で私を射抜いた。
その視線に、底知れない闇を感じる。
けれど、それ以上に、その闇の中で彼が必死に私という光を求めている事を強く悟った。
「この三日間、僕は生まれて初めて、景色ではなく、あなたという人を見ていた。……レナ。あなたが本を読む横顔や、言葉を慈しむ声……。僕にとって、あなたが語る詩の一節は、どんな異国の絶景よりも眩しい」
心臓の音が、図書室中に響き渡るのではないかと思うほど激しく打ち鳴らされる。
彼の熱い体温が、私の指先から心臓へと流れ込んでくる。
「……シオンさん。」
私は、自分でも驚くほどの熱量で、彼の大きな手を握り返した。
「……私、……私も、あなたが隣にいてくれるだけで、この図書室が今まで知らなかったくらい、明るく見えるんです。ずっと、こうしていたい」
シオンさんは一瞬、肩を揺らしたが、やがて諦めたように、私の肩にその額を預けてきた。
「……困りましたね。こんなにも、この場所を離れたくないと思ってしまうなんて。……まるで、魔法にかけられたみたいだ」
彼の吐息が、私の首筋を掠める。
沈丁花の香りが、私たちの境界線を完全に消し去っていく。
「いつか……私を、その湖に連れて行ってください。二人で、月が溶けるような白銀の景色を、見に行きたいです」
私の言葉に、シオンさんは息を呑んだ。
図書室の空気が、一瞬で重く沈み込む。
彼は何も答えなかった。
ただ、痛いほどの力で私の手を握り締め、それから、絶望を噛み殺すような顔で目を伏せた。
「……そう、ですね」
長い沈黙の後、彼は消え入りそうな声で繰り返した。
「……ええ。いつか、もし……許されるのなら」
そう答えた彼の表情から、私は確信していた。
私たちは、運命という名の、抗えない大きな流れの中にいるのだと。
その「いつか」が永遠に訪れないことを、彼はこの時すでに知っていたのかもしれない。




