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いつかの栞  作者: 鳳月
3/7

二日目:アネモネの詩

翌日。

図書室の時計の音がやけに大きく聞こえる。


カチ、カチ、と規則正しく刻まれる秒針が、私の心臓の鼓動と重なっていく。


机の上に広げた『いつかの国へ』の文節は、一文字も頭に入ってこない。


視線は活字の上を滑り、気づけば入口の重い扉や、書架の合間から差し込む光の影ばかりを追いかけていた。


(本当に、来てくれるのかな)


「約束は得意ではない」と言った彼の、少し困ったような、けれど拒絶しきれていない横顔を思い出す。


もし昨日の出会いがただの気まぐれだったら。

考えれば考えるほど、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


私は無意識に、昨日彼が触れた方の手のひらを、もう片方の手で包み込んでいた。


そして、時計の針が昨日と同じ時刻を指し示そうとした、その時だった。


「――よほど、そのページの一節が難解なのですね」


心臓が跳ねた。


振り返ると、すぐ後ろに彼が立っていた。

昨日と同じ、音も、風さえも纏わない鮮やかな登場。


彼は私の肩越しに本を覗き込み、ほんの少しだけ目を細めた。


「……あ、あの、びっくりしました。いつの間に……」

「たった今です。あなたが、熱心に同じページばかりを見つめていたので」


悪戯っぽく、それでいて優しい微笑み。

その瞳の奥には、昨日よりも少しだけ柔らかい色が灯っているように見えた。


私は慌てて立ち上がる。

椅子が床を鳴らす音が、静かな図書室にやけに派手に響いた。


「来てくださって、嬉しいです。」

「……気になったものですから。その本にどのような詩が記されているのか」


西日に透ける淡い髪が、昨日よりも少しだけ柔らかく輝く。


彼は私の手にある詩集を一瞥し、それから少しだけ唇を綻ばせた。


私は勇気を出して、昨日聞けなかった問いを口にする。


「あの……。良ければ、あなたのお名前を」


私の問いに、彼は一瞬だけ視線を泳がせた。

窓の外、流れる雲を見るような、ひどく遠い目。


やがて、彼はゆっくりと私に向き直り、その唇を微かに震わせた。


「……シオン。そう呼んでください」


短く、けれど大切に紡がれた響き。

その名前が彼の唇から溢れた瞬間、図書室の空気が、まるで魔法にかかったように温かく色づいた気がした。


「シオン、さん。……素敵なお名前ですね」


私がその名前を反芻するように呼ぶと、彼はひどく眩しいものを見たかのように、わずかに目を伏せた。


「……そうでしょうか。僕には、少し荷が重すぎる響きだとずっと思っていました。ですが、あなたが呼ぶと、悪くないように聞こえるから不思議だ」


シオンさんはそう言って、どこか悲しげに、けれど慈しむように微かに目を細めた。


その表情があまりに綺麗で、胸の奥を直接指先でなぞられたような感覚に襲われる。

私の鼓動は、昨日よりもずっと激しく、耳の奥までその音を響かせていた。


「……私のことは、レナと呼んでください」


精一杯の勇気を振り絞って伝えると、彼は一瞬、驚いたように瞬きをした。


やがて、彼は「レナ」という響きを噛み締めるように、音もなく唇を動かす。


「レナ。……いい名前だ。春の陽だまりのような、温かな響きですね」


私は熱くなる顔を隠すように、空いている隣の席を指差した。


彼がそこに腰を下ろすと、椅子がわずかに軋む。途端に、昨日も感じたあの沈丁花の香りがふわりと私の周りを包み込んだ。


シオンさんは迷いのない動作で私の手元にある本に顔を近づけ、覗き込んできた。


近すぎる。

彼の髪の先が私の肩に触れそうなほど近く、彼の静かな呼吸が、私の頬を微かに撫でる。


(だめだ、文字が……全然、頭に入らない)


心臓の音がうるさすぎて、目の前の活字はただの黒い染みにしか見えなかった。


そんな私の動揺を見透かしたのか、シオンさんは穏やかな声で促した。


「レナ。良ければその一節を……声に出して読んでもらえませんか。」


私は震える指先でページを押さえ、喉の奥を湿らせてから、ゆっくりと詩の一節を紡ぎ始めた。


『――いつか訪れる朝に、君の影を栞にして。風に揺れる青いアネモネの傍らで、失われた物語の続きを、光の中で書き留めるだろう』


図書室の静寂の中に、私の拙い声だけが溶けていく。


読み終えた後、隣にいるシオンさんは何も言わなかった。ただ、じっと目を閉じ、まるでその言葉たちが空気に溶け、消えていくのを惜しむかのように聴き入っている。


その横顔があまりに静謐で、私は彼が今、この場所ではないどこか遠い、悲しい記憶の中にいるような気がしてならなかった。


彼はゆっくりと目を開き、長い睫毛を揺らして私を振り返る。


「この詩の舞台になった国では、青いアネモネには特別な意味があったことを知っていますか?」


「ええっと……。古い本には、精霊の涙から生まれた花だと書いてありましたけど。……それ以外にも、何かあるのですか?」


私が問い返すと、シオンさんは少しだけ視線を落とし、自分の掌を見つめた。まるで、そこにある見えない汚れを数えるような、静かな仕草。


「……『あなたを信じて待つ』。それが、この花に込められた約束です」


シオンさんの声は、夜の湖に投げ込まれた小石のように、私の胸に波紋を広げた。


「けれど、もう一つ……。あのアネモネの青には、残酷な意味も含まれている。『はかない恋』、そして『見捨てられた』という、救いのない結末の象徴でもあるんです」


彼はそう言って、儚げに微笑んだ。

その微笑みは、触れれば指先が切れてしまいそうなほど鋭く、そして悲しい。


「……信じて待つのに、見捨てられてしまうなんて。そんなの、悲しすぎます」


私が思わず呟くと、シオンさんはふっと息を吐き、机の上に置かれた私の手に視線を落とした。


「そうですね。……でも、だからこそ、この詩の最後の一行は『光の中で書き留める』と結ばれているのかもしれません。……たとえ報われなくても、その一瞬の光だけは本物だったと。肯定するために。」


触れそうで触れない距離にある彼の指先が、微かに震えているように見えたのは気のせいだろうか。


シオンさんは言葉を選び直すように一度間を置き、それから私をまっすぐに見つめた。


「レナ。……もし、この詩の作者のように……あなたの大切な人が、あなたを置いて消えてしまったとしたら。」


そう呟く瞳の奥には、深い夜の底から手を伸ばすような、切実な響きが宿っている。


「……あなたは、その人を信じて待ちますか?」


唐突な問いに、図書室の空気が一瞬で凍りついたような気がした。


窓の外を流れる雲も、光の中で舞い踊る埃も、すべてが止まってしまったかのような静寂。


(どうして、そんな悲しいことを聞くの?)


そう問い返したかったけれど、彼の瞳があまりに孤独で、私の答えに縋っているようにも見えて、私は迷わず言葉を紡いだ。


「……はい。待ちます。その人がどこへ行ってしまったとしても、私がその人を信じている限り、物語は終わらないと思うから」


私の拙い、けれど精一杯の言葉に、シオンさんは一瞬、弾かれたように目を見開いた。


そして、すぐにいつもの穏やかな、けれどどこか遠い表情へと戻る。


「……そうですか。待っていて、くれるんですね」


彼は独り言のようにそう溢すと、私の手の上にある本のページを、優しく指先でなぞった。


熱い。

彼の指が触れた紙の上が、まるで焦げてしまいそうなほど熱を帯びている。


沈黙さえも心地よい、けれどひどく脆いひととき。


この時間が、永遠に続けばいいのに。

時計の針を止めて、この沈丁花の香りと、彼の低い声だけが満ちる世界に閉じ込められてしまいたい。


そんな子供じみた願いが、喉の奥まで出かかっていた。


その時だった。

図書室の重い扉が軋んだ音を立て、一人の司書が資料を抱えて入り口を横切った。


ほんの一瞬の、ありふれた光景。

けれど、隣に座るシオンさんの身体が微かに強張るのを私は肌で感じた。


穏やかだった彼の瞳から温度が消え、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿る。


「シオン……さん?」


思わず呼びかけると、彼は弾かれたように視線を私に戻した。


一瞬前まで彼を支配していた殺気は、霧が晴れるように霧散し、そこにはまた、どこか寂しげな一人の青年が座っていた。


「……失礼。少し、外の風に当たりすぎたようです」


シオンさんは小さく息を吐き、強張った肩の力を抜いた。


先ほどまでの鋭さが嘘のように、彼は困ったように眉を下げ、少しだけはにかんでみせた。


「……レナ、あなたの声は、本をめくる音によく似ている。聞いていて、落ち着くんだ」


不意に、心臓が大きく跳ねる。


その笑顔はあまりに無防備で、そして優しかった。


直前の違和感さえも、私の見間違いだったのではないかと思わせるほどに。


自分の顔が林檎のように赤くなっていくのを感じ、慌てて視線を詩集へと落とした。


「……そうですか? 私の声なんて、普通ですよ」

「いいえ。僕にとっては、どんな音楽よりも心地いい。」


シオンさんの言葉は、まるで自分を繋ぎ止めるための鎖を探しているかのようにも聞こえた。


「あの……シオンさん。明日も、会えますか?」


縋るような思いで、私は彼のコートの袖を、指先で微かに掴んだ。


シオンさんは私の手元と、それからオレンジ色に燃え始めた窓の外の空を交互に見つめた。


「……明日の空が、今日と同じくらい穏やかであれば、きっと。」


彼は肯定も否定もしなかった。

ただ、私の指先を優しく解くようにして立ち上がると、そのまま夕闇に溶け込むように図書室を後にした。


一人残された椅子の上で、私は彼が座っていた場所の残り香――沈丁花の香りと、かすかな鉄の匂いを、いつまでも追いかけていた。

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