一日目:開かれた本
町の外れの図書館の三階。
北側の書架には、めったに人が訪れない。
古い紙の匂いと、インクの香りが混ざり合う雨上がりの午後。窓から差し込む西日は、舞い踊る埃の粒を金色に照らしていた。
私は、踏み台に登っても届かない一冊を、ただじっと見上げていた。
『いつかの国へ』。
それは今は亡き帝国の、祈りのような詩を集めた本だ。
亡くなった母がよく口ずさんでいたフレーズを確かめたくて、何日も探していたものだった。
爪先立ちになり、指先を精一杯伸ばしてみる。
けれど、あと数センチというところで、その本の背表紙には触れる事が出来なかった。
途方に暮れていたその時、突然、背後に影が落ちた。
気配は全くなかった。
その人は、まるで最初から図書室の影の一部であったかのように、音もなく私の隣に立っていた。
驚いて息を止めた瞬間、私の頭上から、しなやかで長い腕が伸びた。
「――これですか」
頭上から降ってきたのは、低く落ち着いた声。
抜き取られた本の背表紙が、私の鼻先をかすめる。
振り返ると、そこには一人の青年がいた。
彼は、この町では見かけない風貌をしていた。
仕立ての良い、けれど旅慣れた汚れのある深い紺色のコート。
西日に透けるほど淡い白銀の髪と、感情の読めない、けれどどこか寂しげな灰色の瞳。
彼は手にした詩集を愛おしそうに見つめる。
「随分と、古風な本を好むのですね。この国の言葉は、もう話せる者も少ないはずです」
私はその言葉に、驚いて顔を上げると、彼は手に持っていた詩集の一ページを、穏やかな表情で眺めていた。
「……母が、好きだったんです。この詩集に書かれた詩の一節を、よく口ずさんでいました。……あなたは、この本をご存じなのですか?」
私が恐る恐る尋ねると、彼は少しだけ視線を逸らし、答える。
「……昔、少し耳にしたことがあるだけです。いつかの、遠い場所で」
そう言った彼の瞳には、ひどく悲しげな光が浮かんでいる。
「……ある場所では、言葉は祈りのためではなく、誰かを呪うためか、あるいは静かに息を引き取るための合図として、使われています」
「呪うための、言葉……?」
その言い回しがあまりに詩的で、けれどひどく物悲しい雰囲気だったため、私は思わず言葉を失った。
「ええ。例えば、『愛している』という言葉さえ、そこでは鋭い刃になり得る。……ですが、この本にある言葉は、それとは正反対ですね。触れれば壊れてしまいそうなほど脆くて、純粋だ」
彼はそう言って、長い指先で表紙の擦り切れた角をなぞった。
その仕草はどこか「自分には触れる資格がない」と自戒しているようにも見えた。
「あなたは、学者様なのですか?それとも、遠くから来た旅の方?」
私の問いに、彼は一瞬だけ沈黙する。
「……どちらでもありません。ただの、影のようなものです。光を追いかけて、図らずもこんな場違いな場所に迷い込んでしまっただけの」
彼は「どうぞ」と言いながら、本を私の胸元へ預けるように差し出した。
手渡された本の重みと一緒に、彼の指先が私の手のひらに一瞬だけ触れる。
その体温は、なぜかひどく熱を持っていた。
それと同時に、私は彼の掌に硬いタコがあることに気づく。
ペンを握る学者のものにしては位置が低く、重い荷物を運ぶ労働者のものにしては、彼の立ち姿はあまりに洗練されすぎている。
(この人は、一体何を見て、生きてきた人なのだろう)
彼が手を引いた後も、触れた場所がじりじりと熱い。
彼は私の視線に気づいたのか、それとも自分の痕跡を消すためか、一歩後ろに下がった。
「……お邪魔をしました。この静寂を、荒らすつもりはなかったのですが」
「あ、待ってください!」
立ち去ろうとする彼の背中に、私は思わず声をかけていた。
彼は足を止め、肩越しにこちらを振り返る。
その視線は、射抜くような鋭さを持ちながら、どこか助けを求める迷子のような寂しさを湛えていた。
「明日も……もしよかったら、この時間に。この本、まだ半分も読めそうにないので」
沈黙が流れる。
図書室の大きな時計が、カチリと音を立てた。
彼は少しの間、私の顔をじっと見つめていたが、やがて短く答えた。
「……約束は、あまり得意ではありませんが。気が向けば」
そう言い残して、彼は影の中に溶けるように去っていった。
その夜、私は借りた詩集を胸に抱きながら、窓の外の月を見上げた。
明日、もし彼に会えたら。
その時は、彼の名前を聞いてみよう。
――その出会いが、死の香りを孕んでいることなど、露ほども知らずに。
それが、私たちの「五日」の始まりだった。
彼が去った後の通路には、この町では香ることのない沈丁花の香りが、かすかに残されていた。




