表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつかの栞  作者: 鳳月
2/7

一日目:開かれた本

町の外れの図書館の三階。

北側の書架には、めったに人が訪れない。


古い紙の匂いと、インクの香りが混ざり合う雨上がりの午後。窓から差し込む西日は、舞い踊る埃の粒を金色に照らしていた。


私は、踏み台に登っても届かない一冊を、ただじっと見上げていた。


『いつかの国へ』。

それは今は亡き帝国の、祈りのような詩を集めた本だ。


亡くなった母がよく口ずさんでいたフレーズを確かめたくて、何日も探していたものだった。


爪先立ちになり、指先を精一杯伸ばしてみる。

けれど、あと数センチというところで、その本の背表紙には触れる事が出来なかった。


途方に暮れていたその時、突然、背後に影が落ちた。


気配は全くなかった。

その人は、まるで最初から図書室の影の一部であったかのように、音もなく私の隣に立っていた。


驚いて息を止めた瞬間、私の頭上から、しなやかで長い腕が伸びた。


「――これですか」


頭上から降ってきたのは、低く落ち着いた声。

抜き取られた本の背表紙が、私の鼻先をかすめる。


振り返ると、そこには一人の青年がいた。


彼は、この町では見かけない風貌をしていた。

仕立ての良い、けれど旅慣れた汚れのある深い紺色のコート。

西日に透けるほど淡い白銀の髪と、感情の読めない、けれどどこか寂しげな灰色の瞳。


彼は手にした詩集を愛おしそうに見つめる。


「随分と、古風な本を好むのですね。この国の言葉は、もう話せる者も少ないはずです」


私はその言葉に、驚いて顔を上げると、彼は手に持っていた詩集の一ページを、穏やかな表情で眺めていた。


「……母が、好きだったんです。この詩集に書かれた詩の一節を、よく口ずさんでいました。……あなたは、この本をご存じなのですか?」


私が恐る恐る尋ねると、彼は少しだけ視線を逸らし、答える。


「……昔、少し耳にしたことがあるだけです。いつかの、遠い場所で」


そう言った彼の瞳には、ひどく悲しげな光が浮かんでいる。


「……ある場所では、言葉は祈りのためではなく、誰かを呪うためか、あるいは静かに息を引き取るための合図として、使われています」

「呪うための、言葉……?」


その言い回しがあまりに詩的で、けれどひどく物悲しい雰囲気だったため、私は思わず言葉を失った。


「ええ。例えば、『愛している』という言葉さえ、そこでは鋭い刃になり得る。……ですが、この本にある言葉は、それとは正反対ですね。触れれば壊れてしまいそうなほど脆くて、純粋だ」


彼はそう言って、長い指先で表紙の擦り切れた角をなぞった。


その仕草はどこか「自分には触れる資格がない」と自戒しているようにも見えた。


「あなたは、学者様なのですか?それとも、遠くから来た旅の方?」


私の問いに、彼は一瞬だけ沈黙する。


「……どちらでもありません。ただの、影のようなものです。光を追いかけて、図らずもこんな場違いな場所に迷い込んでしまっただけの」


彼は「どうぞ」と言いながら、本を私の胸元へ預けるように差し出した。


手渡された本の重みと一緒に、彼の指先が私の手のひらに一瞬だけ触れる。


その体温は、なぜかひどく熱を持っていた。


それと同時に、私は彼の掌に硬いタコがあることに気づく。

ペンを握る学者のものにしては位置が低く、重い荷物を運ぶ労働者のものにしては、彼の立ち姿はあまりに洗練されすぎている。


(この人は、一体何を見て、生きてきた人なのだろう)


彼が手を引いた後も、触れた場所がじりじりと熱い。


彼は私の視線に気づいたのか、それとも自分の痕跡を消すためか、一歩後ろに下がった。


「……お邪魔をしました。この静寂を、荒らすつもりはなかったのですが」

「あ、待ってください!」


立ち去ろうとする彼の背中に、私は思わず声をかけていた。


彼は足を止め、肩越しにこちらを振り返る。

その視線は、射抜くような鋭さを持ちながら、どこか助けを求める迷子のような寂しさを湛えていた。


「明日も……もしよかったら、この時間に。この本、まだ半分も読めそうにないので」


沈黙が流れる。

図書室の大きな時計が、カチリと音を立てた。


彼は少しの間、私の顔をじっと見つめていたが、やがて短く答えた。


「……約束は、あまり得意ではありませんが。気が向けば」


そう言い残して、彼は影の中に溶けるように去っていった。


その夜、私は借りた詩集を胸に抱きながら、窓の外の月を見上げた。


明日、もし彼に会えたら。

その時は、彼の名前を聞いてみよう。

 

――その出会いが、死の香りを孕んでいることなど、露ほども知らずに。


それが、私たちの「五日」の始まりだった。

彼が去った後の通路には、この町では香ることのない沈丁花の香りが、かすかに残されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ