【エピローグ】いつかの栞
あれから、数年の月日が流れた。
かつて雪に閉ざされたあの町も、今は柔らかな春の気配に包まれている。
私は久々にこの地を訪れ、あの日以来、ずっと手元に置き去りにされていた一冊の詩集を返しに、懐かしい図書館の門を潜った。
石造りの館内には、穏やかな春の日差しが降り注いでいる。
静かな午後の光に満たされた通路を歩くと、どこからか微かに沈丁花の香りが漂ってきた。
それは、記憶の奥底に眠っていた彼の香りと重なり、胸の奥をちりりと焦がす。
私は吸い寄せられるように、かつて彼と並んで座った、あの窓際の席に腰を下ろした。
使い込まれた木の椅子の感触。
光の筋の中で舞い踊る埃の粒。
何もかもが変わっていない。
ただ、隣にあったはずの熱だけが、そこにはなかった。
(……シオンさん。あなたは、今もどこかの国で、美しい景色を見ているのでしょうか)
あの日、馬車の窓から遠ざかっていった黒い背中。
彼が生き延びて、再びどこかを旅しているのか。それとも、あの雪の中で静かに深い眠りについたのか――。
それを知る術は、もうどこにも残されていない。
けれど、私は彼との約束通り、光の中で物語を書き進めている。
ふと、まだ読み返していなかった巻末のページに指をかける。
ゆっくりとページをめくると、はらりと何かが膝の上に零れ落ちた。
それは、見覚えのない銀色の栞だった。
窓からの陽光を浴びて、それは眩いほどに白く輝いている。
表面には、繊細に紫苑の花のイラストが彫り込まれていた。
かつて、彼が「荷が重すぎる」と言ったその名の花。
花言葉は――『追憶』、そして『あなたを忘れない』。
それは、彼が最期に残した、言葉のない唯一の手紙だった。
私は銀色の栞をそっと胸に抱きしめ、溢れ出しそうな涙を堪えて、窓の外に広がる真っ青な春の空を見上げた。
物語は、ここで一度幕を閉じる。
けれど、栞の挟まれたその先には、まだ誰も知らない、光に満ちた新しいページが続いている。




