8話 逃げ道を塞ぐもの
東側出口までは、あと二十メートルほどだった。
ガラス扉の向こうには、いつもと変わらない街並みが広がっている。歩道を行き交う人々の姿が、こんな状況では妙に遠く感じられた。
もう少しで外に出られる。
そう思ったところで、背後から怒鳴り声が響いた。
「どけっつってんだろうが!」
思わず振り返る。
管理通路の奥にいた大柄な男が、関係者用の扉を何度も蹴りつけていた。
近くにいた警備員が無線機へ向かって何かを叫んでいる。
「管理通路から不審者が出ようとしています! 東側の誘導を急いでください!」
……やっぱり、あいつが原因なのか?
詳しい事情はわからない。だが、あの男がまともな状態ではないことくらい、遠目でもわかった。
「朝倉、前!」
「……っ!」
陽菜に腕を引かれ、慌てて前を向く。
危ない。よそ見をしている間に、前の人へぶつかるところだった。
「悪い!」
「もう、ちゃんと前見てよ!」
「わかってるって!」
俺たちは周囲の人たちに合わせ、出口へ向かって進んだ。
そのときだった。
――バンッ!
背後で、何かが勢いよく開く音がした。
続いて、女性の悲鳴。
「きゃあっ!」
反射的に振り返った俺は、思わず足を止めた。
さっきまで閉まっていた管理通路の扉が、壁にぶつかるほど大きく開いていた。
その前に立っているのは、例の男だ。
背が高く、肩幅も広い。黒い上着の袖をまくり上げ、周囲を睨みつけている。
「……ふざけやがって」
男が低い声で何かを呟いた。
すぐ近くの警備員が、両手を広げて制止する。
「お客様、そこから先へは――」
「邪魔だ!」
男が警備員へ詰め寄った。
警備員は慌てて距離を取り、無線で応援を呼ぶ。もう一人が避難中の客を男から遠ざけようとした。
「皆さん、立ち止まらずに出口へ!」
その声が響いた直後、男が壁際の金属製の柵へ手を伸ばした。
――ガンッ!
触れられた部分を中心に、柵がひしゃげた。
「うわっ!」
近くにいた男性客が飛びのく。
俺も思わず息を呑んだ。
……何だよ、あれ。
金属があんな簡単に変形するなんて、普通じゃない。
異能力だ。
それも、かなり危険なやつ。
「朝倉!」
陽菜の声に我に返る。
「ああ、行こう!」
俺は彼女と一緒に出口へ向き直った。
だが、すでに周囲の人々も男の存在に気づいていた。
「何、あの人!?」
「能力者だ! 逃げろ!」
「早く出して!」
一斉に声が上がり、それまでゆっくり進んでいた人の流れが急に速くなった。
「ちょっ、押すなって!」
俺は背中を押され、思わずよろめいた。
隣にいた陽菜も人の流れに巻き込まれそうになる。
「陽菜、大丈夫か!?」
「う、うん!」
何とか彼女の腕をつかみ直す。
出口はもう目の前だ。
しかし、そこへ向かう人の数が一気に増えたせいで、かえって進みにくくなっていた。
「押さないでください! 順番に――」
警備員の呼びかけも、周囲の騒ぎにかき消されてしまう。
そのとき、右手の方から子どもの泣き声が聞こえた。
見ると、ベビーカーを押した女性が、人混みの端で立ち往生していた。
前輪が床の継ぎ目に引っかかったらしく、何度押しても動かないようだ。
「すみません! ちょっと、通して……!」
女性が周囲に声をかけている。
だが、誰も足を止める余裕がない。
後ろから来た人がベビーカーにぶつかり、女性が悲鳴を上げた。
「危ない!」
俺は思わずそちらへ足を向けた。
「朝倉!?」
陽菜が驚いた声を上げる。
「ごめん、ちょっとあそこ!」
「待って、私も――」
「お前は出口の方にいてくれ!」
そう言い残し、俺は人混みを抜けて女性のところへ駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「す、すみません! 車輪が引っかかって……!」
「ちょっと見せてください!」
しゃがみ込んで確認すると、前輪が床の継ぎ目に斜めにはまり込んでいた。
無理に押し続けたせいか、車輪の向きもおかしくなっている。
「……これか」
俺はベビーカーの前側を持ち上げた。
車輪が床から離れ、引っかかりが外れる。
「よし!」
「ありがとうございます!」
女性が安堵した声を上げた。
「いえ、早く出口へ――」
そこまで言いかけて、背後から大きな衝撃音が響いた。
――ドンッ!!
「うわっ!」
反射的に身体が縮こまる。
振り返ると、例の男が近くにあった設備へ拳を押しつけていた。
分厚い金属製の覆いが大きくへこみ、固定されていた部品が床へ落ちる。
警備員たちも距離を取りながら、何とか男を制止しようとしていた。
……まずい。
思っていたより近い。
ここに長居するのは危険だ。
「すみません、先に行ってください!」
俺は女性に声をかけ、出口へ続く方向を指さした。
「ありがとうございます!」
女性は何度も頭を下げながら、ベビーカーを押していった。
よかった。
これで一つ片づいた。
……さて、俺も早く逃げないと。
そう思って振り返ったところで、陽菜の姿を探す。
「あれ……?」
さっきまでいた場所に、彼女がいなかった。
いや、正確には見えなくなっていた。
買い物客が次々と出口へ向かっており、その間に何人もの人が入り込んでいる。
「……陽菜?」
俺は背伸びをして周囲を見渡した。
栗色の髪。
うちの高校の制服。
さっきまで隣を歩いていた、見慣れた姿。
……いない。
「陽菜!」
声を上げる。
返事は聞こえなかった。
代わりに、背後から誰かの怒鳴り声が響く。
「だから、どけっつってんだよ!」
――ガァンッ!
「ひっ……!」
近くの女性が悲鳴を上げ、俺の脇を駆け抜けていく。
俺は咄嗟に壁際へ寄った。
陽菜はどこだ?
さっき、出口の方にいてくれと言った。
だったら、もう外へ出たのかもしれない。
そうだ。それなら問題ない。
俺もさっさと外へ出ればいい。
……なのに。
「……くそっ」
足が動かなかった。
あいつが無事に外へ出たという保証は、どこにもない。
スマートフォンを取り出し、陽菜へ電話をかける。
呼び出し音が続く。
一回、二回、三回。
……出ない。
「何やってんだよ……!」
焦るな。
今はとにかく落ち着け。
電話に出られないだけかもしれない。
そう考えていたところで、通話がつながった。
『朝倉!?』
「陽菜! お前、今どこにいる!?」
『えっと、出口の近く! 朝倉こそどこ!?』
「俺も一階だ! さっきベビーカーのところに――」
『知ってる! でも、人が急に増えて……!』
電話越しにも、周囲の騒がしさが伝わってくる。
どうやら陽菜も、まだ建物の中にいるらしい。
「とりあえず、出口から外へ出ろ! 俺もすぐ行く!」
『でも、朝倉は!?』
「大丈夫だって! あとで合流すればいいだろ!」
『……わかった! 朝倉も早く来てね!』
「ああ!」
通話を切る。
とにかく、陽菜が無事なのはわかった。
少しだけ安心する。
だが、問題はここからだった。
俺は出口へ向かおうとして、足を止めた。
先ほどまで通っていた通路に、人が集まり始めていたのだ。
男のいる方から逃げてきた客と、出口へ向かおうとする客がぶつかり合い、通路の途中で流れが滞っている。
そのうえ、俺のすぐ近くで設備が壊れたせいか、何人かが反対側へ逃げようとしていた。
……何だよ、これ。
せっかく出口が目の前なのに、まともに進めそうにない。
「すみません! こっちから外へ出られますか!?」
俺は近くにいた警備員へ声をかけた。
「東側出口へ向かってください! ただ、通路が混雑していますので、押さずにゆっくり――」
そのとき、警備員の無線機から切迫した声が響いた。
『東側通路、入口付近で混雑が発生! 後続の誘導を一時的に抑えてください!』
警備員が顔を上げた。
「了解! こちらでも確認します!」
……やっぱり、詰まってるのか。
俺は周囲を見回した。
目の前には大勢の人。
背後には、危険な異能力者。
どちらへ進むべきか、すぐには判断できない。
そのとき、少し離れた場所にある案内板が目に入った。
『南側出口』
矢印は、今いる通路とは別の方向を指している。
……あっちにも出口があるのか。
確か、四階から避難してきたとき、南側の階段を使ったはずだ。
ただ、その先の管理通路は封鎖されていた。
なら、一般用の南側出口まで通れなくなっているとは限らない。
もしかすると、あっちの方が空いているんじゃないか?
そう考えた俺は、近くの警備員へ声をかけようとした。
だが、その瞬間。
「どけぇぇっ!」
男の怒鳴り声が響き、周囲の人々が一斉に身をすくめた。
俺も思わず振り返る。
男はすでに、こちらへ向かって歩き始めていた。
「……っ!」
まずい。
ここで立ち止まっていたら、本当に巻き込まれる。
俺はもう一度、南側出口の案内板を見た。
人の流れは、そちらの方が明らかに少ない。
……行けるか?
迷っている時間はなかった。
「すみません、こっちも出口ですよね!」
近くにいた客へ声をかけると、男性が案内板を見上げた。
「あ、本当だ! こっちからも出られるんじゃないか?」
「たぶん……!」
その言葉を聞いた周囲の人たちが、案内板へ視線を向ける。
「南側にも出口あるの?」
「じゃあ、そっちへ行こう!」
何人かが進路を変え始めた。
俺もその流れに加わろうとした。
――そのときだった。
「待ってください! そちらは通らないで!」
背後から、警備員の鋭い声が飛んできた。
「南側は現在、通行を制限しています! 勝手に進まないでください!」
「……え?」
思わず足が止まる。
だが、すでに数人の客が南側へ向かって歩き始めていた。
その先には、通路を塞ぐために設置された簡易的な柵が見える。
……嘘だろ。
使えないのか、あっち。
だったら、なんで案内板に出口って書いてあるんだよ。
いや、違う。
館内放送でも言っていたじゃないか。
案内表示だけで判断するなって。
「……しまった」
自分のしたことに気づいたときには、もう遅かった。
俺が声をかけたせいで、何人かの客が進路を変えてしまっている。
そして、その人たちは警備員に止められ、元の通路へ戻ろうとしていた。
結果として、ただでさえ混雑していた場所に、新たな人の流れが生まれてしまったのだ。
「ちょっと! どっちへ行けばいいのよ!」
「南側は使えないんですか!?」
「早く案内してくれ!」
周囲から不満の声が上がる。
俺はその場に立ち尽くした。
……やっちまった。
少しでも早く外へ出ようと思っただけだった。
人が少ない通路を見つければ、ほかの人たちも助かるかもしれない。
そう考えた。
なのに、結果はこれだ。
「すみません! そっちは通れないみたいです!」
慌てて声を上げる。
「さっき俺が言ったの、間違いでした! 警備員さんの案内に従ってください!」
何人かがこちらを振り返った。
中には、露骨に嫌そうな顔をしている人もいた。
当然だ。俺が余計なことを言わなければ、こんな混乱は起きなかったかもしれないのだから。
「……くそっ!」
俺は歯を食いしばった。
何やってんだ、俺。
助けようとして、逆に迷惑をかけてどうする。
そのとき、背後からまた衝撃音が響いた。
――ドンッ!!
今度は、すぐ近くだった。
俺は反射的に振り返る。
大柄な男が、通路の金属製の支柱へ手を押しつけていた。
支柱の表面がへこみ、取り付けられていた案内板が大きく揺れる。
その光景を見た周囲の人々が、一斉に悲鳴を上げた。
「うわああっ!」
「逃げろ!」
人の流れが、再び大きく乱れる。
俺は咄嗟に壁へ手をついた。
……まずい。
さっきよりも、ずっと状況が悪くなっている。
しかも、その原因の一つは俺だ。
どうすればいい。
何をすれば、この場を少しでも落ち着かせられる。
頭の中で必死に考える。
だが、何も思いつかなかった。
俺には異能力がない。
警備員のように、避難経路を把握しているわけでもない。
ただの高校生だ。
それなのに、勝手に判断して、周囲の人たちを巻き込んでしまった。
……ふざけんなよ。
何が、誰かを助けたい、だ。
まずは自分が足を引っ張らないようにしろよ。
そんな情けないことを考えた、その瞬間。
「――そこ、動かないで!」
突然、よく通る声が響いた。
男のいる方向とは反対側。
人混みの向こうから、一人の少女が姿を現した。
俺たちと同じくらいの年齢だろうか。
長い黒髪を揺らしながら、周囲の状況を素早く確認している。
少女は近くの警備員へ短く何かを伝えると、大柄な男へ視線を向けた。
その表情は、驚くほど落ち着いていた。
……誰だ、あいつ。
次の瞬間、少女がこちらを振り返る。
「あなた!」
「……えっ、俺!?」
「そう! そこにいたら危ないから、壁際へ下がって!」
「わ、わかった!」
慌てて言われたとおりにする。
少女はそれを確認すると、再び男へ向き直った。
その右手には、いつの間にか細長い光のようなものが浮かんでいた。
……何だ、あれ。
俺が目を凝らした直後、少女は一歩前へ踏み出した。
そして、
「これ以上、誰も傷つけさせない」
静かな声が、騒がしい通路の中ではっきりと聞こえた。




