7話 最弱の俺にできること
「こちらです! 南側階段から順番にご案内します!」
警備員の声に従い、俺たちは四階の通路を進んでいた。
先ほどまで一斉に出口へ向かおうとしていた買い物客たちも、係員の誘導が始まってからは少しずつ落ち着きを取り戻している。それでも、下の階から物が壊れるような音が聞こえるたびに、周囲の人々は不安そうに顔を見合わせていた。
俺は隣を歩く陽菜へ目を向ける。
「……大丈夫か?」
「うん。朝倉は?」
「正直、あんまり大丈夫じゃねえな」
「……そっか」
陽菜は少しだけ笑った。
無理もない。俺だって、さっきから心臓が落ち着かない。
一階で見た大柄な男。あいつが触れた直後、金属製の設備がへこんだ光景が頭から離れなかった。
あれが本当に異能力だとしたら、相当危険な力だろう。しかも、男は周囲の人間を威嚇していたように見えた。
できることなら、二度と顔を合わせたくない。
「朝倉、手……」
「え?」
陽菜に言われて、ようやく気づいた。
俺はさっきから、ずっと陽菜の手を握ったままだった。
「……あっ、悪い!」
慌てて手を離す。
何だか急に恥ずかしくなった。
「いや、さっきからずっと握ってたから……」
「う、うん。別に嫌だったわけじゃないんだけど」
陽菜は自分の手を見下ろしてから、少しだけ顔を逸らした。
俺も何となく視線の置き場に困る。
……いや、今はそんなこと気にしてる場合じゃないだろ。
俺たちは警備員の案内に従い、南側階段の入口へ向かった。
***
階段の前には、すでに大勢の買い物客が並んでいた。
警備員が二人がかりで誘導しているものの、なかなか列が進まない。どうやら、下の階でも多くの人が避難しているらしい。
「……結構混んでるな」
「うん。でも、ちゃんと案内してくれてるし、大丈夫だよね」
「ああ。今は指示に従った方がよさそうだ」
俺たちは列の最後尾へ並んだ。
少しずつ進みながら、ようやく階段の中へ入る。
南側階段は、四階から一階まで続く非常階段だった。踊り場ごとに各階へ出られる扉があり、壁には避難経路を示す案内図が掲示されている。
俺たちの目的地は、一階の東側出口だ。
階段を下りたあと、係員に案内されて東側の通路を進めば、建物の外へ出られるらしい。
ただ、階段は狭く、大勢の人が一度に移動できるほどの余裕はなかった。
「押さないでください! 手すりを持って、ゆっくり進んでください!」
警備員の声が階段に響く。
俺たちも前の人との間隔を空けながら、一段ずつ下りていった。
三階が近づいたところで、突然、下の方から大きな音がした。
――ガァンッ!
「きゃあっ!」
誰かの悲鳴と同時に、列の動きが止まった。
俺も反射的に手すりをつかむ。
「……何だ、今の」
さっきよりも近くから聞こえた気がする。
前方の警備員が無線機を取り出した。
『一階、管理通路付近で新たな設備破損を確認! 付近の避難誘導を一時停止してください!』
「こちら南側階段です。四階から一般客を誘導していますが、継続して問題ありませんか?」
少しの間を置いて、無線機から返答があった。
『南側階段の一階出口付近を確認中です。安全が確認できるまで、三階付近で待機してください!』
「了解しました!」
警備員はすぐに列の方へ向き直った。
「皆さん、申し訳ありません! 一階の安全確認を行っていますので、こちらで一度お待ちください! 階段を下りず、その場で待機をお願いします!」
周囲がざわついた。
「何で止まるんだよ!」
「下で何かあったの?」
「ここにいて大丈夫なの?」
不安そうな声が次々と上がる。
俺も思わず階段の下へ視線を向けた。
ただ、折り返し階段になっているため、一階の様子までは見えない。
……どうなってんだよ、一体。
「朝倉……」
隣の陽菜が小さく声をかけてきた。
「……怖いね」
「ああ」
俺は無理に笑わず、素直に頷いた。
「でも、階段自体が壊れたってわけじゃなさそうだ。下の安全を確認してるんだろ」
「……うん」
そう答える陽菜の声は、いつもより少し小さかった。
俺は周囲を見回す。
警備員たちは無線機で連絡を取り合いながら、列が乱れないように声をかけている。
少なくとも、何もわからないまま立ち尽くしているわけではない。
今は余計なことをせず、指示に従うべきだろう。
そう考えていたときだった。
「おい! いつまで待たせるんだよ!」
列の前方から、突然大きな声が響いた。
見ると、中年の男性が警備員へ詰め寄っていた。
「下が危ないんだったら、さっさと別の場所へ案内しろよ!」
「申し訳ありません。現在、安全な経路を確認しておりますので――」
「確認、確認って! こっちはいつまで待てばいいんだ!」
男性の声が階段に響き渡る。
周囲の人々も落ち着かない様子で顔を見合わせ始めた。
「別の階段へ行った方がいいんじゃない?」
「でも、そっちも安全かわからないし……」
「ここにいても危ないんじゃないの?」
まずいな。
このまま誰かが勝手に動き出したら、ほかの人もつられてしまうかもしれない。
俺は前方の男性を見つめた。
何か言った方がいいだろうか。
いや、俺が口を挟んだところで、余計に揉めるだけかもしれない。
そう迷っているうちに、男性が警備員の脇をすり抜けようとした。
「お客様! お待ちください!」
「うるせえ! 俺は勝手に行く!」
警備員が慌てて呼び止める。
その直後、男性のすぐ後ろにいた女性が一歩踏み出し、足元をふらつかせた。
「きゃっ!」
「あっ、危ない!」
俺は反射的に腕を伸ばした。
女性の肩を支えようとしたものの、距離が少し足りない。
――まずい!
そう思った瞬間、隣にいた陽菜が女性の腕をつかんだ。
俺も慌てて身体を寄せ、反対側から支える。
「だ、大丈夫ですか!?」
「え、ええ……ありがとう」
女性は何とか踏みとどまった。
危なかった。
あと少し遅れていたら、階段を転げ落ちていたかもしれない。
「すみません、皆さん! その場でお待ちください!」
警備員が声を張り上げる。
先ほどの男性も、目の前で起きたことを見て動きを止めていた。
俺は女性が手すりをつかんだのを確認し、ようやく腕を離した。
「……陽菜、助かった」
「ううん。朝倉も支えてくれたから」
陽菜はそう答えたが、少し顔色が悪かった。
たぶん、俺と同じくらい驚いていたのだろう。
俺は男性の方へ目を向けた。
さっきまで怒鳴っていた男性は、気まずそうに口を閉じている。
警備員が改めて説明すると、今度は大人しく列へ戻っていった。
……よかった。
正直、あの人がそのまま階段を下り始めたら、俺にはどうしようもなかった。
「朝倉」
「ん?」
「さっき、飛び出さなかったね」
陽菜が小声で言った。
「……飛び出しても、どうにもならなかっただろ」
「うん」
「それに、お前まで危ない目に遭わせたくないし」
そう答えると、陽菜は少しだけ驚いたような顔をした。
「……そっか」
「……何だよ」
「ううん。何でもない」
陽菜は小さく笑った。
俺は何となく気恥ずかしくなり、視線を前へ戻した。
***
数分後、警備員の無線機から連絡が入った。
『南側階段、一階までの通行を再開してください。管理通路側は封鎖しました。一般客は東側出口へ誘導をお願いします』
「了解しました!」
警備員が顔を上げる。
「皆さん、お待たせしました! 一階までの安全が確認できましたので、避難を再開します! 階段を下りたあとは、係員の案内に従って東側出口へお進みください!」
ようやく列が動き始めた。
俺たちも周囲に合わせて階段を下りる。
三階から二階へ。そして、二階から一階へ。
途中で何度か足が止まったものの、今度は大きな混乱もなく進むことができた。
「……あと少しだな」
俺が呟くと、陽菜が頷いた。
「うん。早く外に出たいね」
「俺もだよ。もうしばらく鳴瀬スクエアには来たくねえな」
「……それは困るなあ」
「お前、まだ買い物する気なのか!?」
「今日じゃないよ!」
陽菜は小さく笑った。
こんな状況でも、少しだけいつもの調子が戻ってきたようで安心する。
やがて、俺たちは階段を下り切った。
一階の出口付近では、警備員が買い物客を東側の通路へ誘導している。
南側の管理通路へ続く扉は封鎖され、一般客が近づかないようになっていた。
俺たちも案内に従い、東側出口へ向かう。
通路の先には、外へ続くガラス扉が見えていた。
……よし。
あそこまで行けば、とりあえず外には出られる。
俺は少しだけ歩く速度を上げた。
しかし、そのときだった。
――ドンッ!!
建物の奥から、鈍い衝撃音が響いた。
床がわずかに震え、近くの買い物客が悲鳴を上げる。
「うわっ!」
俺は反射的に壁へ手をついた。
同時に、金属がきしむような音が聞こえてくる。
「……何だよ、今度は!」
警備員たちが一斉に無線機を確認し始めた。
そのうちの一人が、封鎖された管理通路の方へ目を向けて顔色を変える。
「……まずい!」
俺もつられてそちらを見た。
管理通路へ続く扉の向こう。
その奥で、黒っぽい服を着た大柄な男が動いているのが、扉のガラス越しに見えた。
さっき、四階から見下ろしたときと同じ男だ。
男は何かを怒鳴りながら、近くの金属製の設備へ手を伸ばしていた。
次の瞬間。
――ガァンッ!
金属の板が、男の手元を中心に大きくへこんだ。
「……っ!」
背筋が冷たくなる。
間違いない。
あいつだ。
さっきから設備を壊しているのは、あの男なのかもしれない。
「朝倉!」
陽菜が俺の袖をつかんだ。
「早く行こう!」
「あ、ああ……!」
俺は慌てて視線を戻した。
管理通路の扉は閉じられている。警備員たちもこちらへ向かってくるよう指示を出していた。
今なら、まだ逃げられる。
そう思った矢先、男がこちらの方向へ顔を向けた。
距離があるため表情まではわからない。
だが、次に男が向かったのは、管理通路の出口につながる扉だった。
「……嘘だろ」
俺は足を止めかけた。
あいつがこっちへ出てきたら、どうなる?
周囲にはまだ大勢の買い物客がいる。小さな子どもを連れた人も、年配の人もいた。
あんな力を使う男がここへ来たら、誰かが怪我をするかもしれない。
「朝倉、行くよ!」
陽菜が俺の腕を引いた。
「……おう!」
俺は考えるのをやめ、彼女と一緒に東側出口へ向かって歩き出した。
今の俺に、あの男をどうにかする力なんてない。
警備員でもなければ、異能力者でもない。
ただの高校生だ。
だったら、まずは自分たちが無事に外へ出ること。
少なくとも、今はそれが一番大切なはずだった。
背後から、再び警備員の声が響いた。
「皆さん、急いでください! 東側出口はこちらです!」
俺たちは人の流れに従い、ガラス扉へ向かって進んだ。




