6話 逃げるだけじゃ、助けられない
「ママ……! ママぁ!」
男の子の泣き声が、人々のざわめきに混じって聞こえてくる。
四階の通路は、さっきまでとはまるで違う場所になっていた。何が起きたのかわからないまま出口を探す人たちが行き交い、誰かが大きな声を出すたびに、その周囲の足取りまで速くなる。
その真ん中で、男の子は立ち尽くしていた。
「ちょっと、すみません! 通してください!」
買い物袋を抱えた女性の脇を抜け、俺は男の子のところへ駆け寄った。近くで見ると、小学校に上がる前くらいだろうか。両手で目をこすり、しゃくり上げながら母親を呼んでいる。
「おい、大丈夫か?」
しゃがんで声をかけると、男の子が涙で濡れた顔を上げた。
「ママが……いなくなっちゃった……」
「そっか。はぐれたんだな」
男の子がこくこくと頷く。
「名前、言えるか?」
「……そうた」
「そうた君か。俺は朝倉。えっと、お兄ちゃんでいいや。お母さんはどこにいた?」
「おみせ……」
「何のお店?」
「おようふくの……」
そこまで言ったところで、男の子は再び泣き始めてしまった。
……まずいな。
何とか話を聞こうと思ったが、これでは場所を特定できそうにない。そもそも、今は母親を捜して歩き回れる状況でもなかった。
「朝倉!」
振り返ると、陽菜が人混みを避けながらこちらへ向かってきていた。
「お前、なんで……」
「一人で行かないでよ! びっくりしたんだから!」
「……悪い」
少し怒った声だった。
言われてみれば、俺は何も考えずに飛び出してしまった。さっきまで一緒に逃げようとしていた陽菜を、その場に残したままだ。
陽菜は俺の隣へしゃがみ、男の子に目線を合わせた。
「そうた君っていうの?」
「……うん」
「そっか。私、陽菜っていうんだ。お母さんとはぐれちゃったんだね」
男の子が鼻をすすりながら頷く。
「怖かったね。でも、もう一人じゃないよ」
陽菜は鞄からハンカチを取り出し、男の子へ差し出した。
「これ、使っていいよ」
「……ありがと」
そうた君は小さな声で礼を言うと、ハンカチで目元を拭った。
さっきまで泣き続けていたのに、少しだけ落ち着いたようだった。
……やっぱり、こういうのは陽菜の方がうまいな。
「朝倉、どうしよう?」
「とりあえず、店員か警備員を探した方がいいと思う。迷子だって伝えれば、母親も捜してくれるだろうし」
「うん。私もそう思う」
近くには衣料品店があったが、入口の前には避難しようとする客が集まっていた。奥に店員らしい人影は見えるものの、こちらへ来てもらうのは難しそうだ。
少し離れた場所では、警備員が買い物客へ何かを説明している。
あそこなら、話を聞いてもらえるかもしれない。
「そうた君、歩ける?」
陽菜が尋ねる。
「……うん」
「じゃあ、あそこにいる警備員さんのところまで一緒に行こうか」
男の子が立ち上がると、陽菜はその手を取った。
俺は二人の前に立ち、人の流れを確認する。
……よし。あっちからなら行けそうだ。
「こっち、少し空いてる。ゆっくり行こう」
俺たちは通路の端へ寄り、警備員のいる場所へ向かった。
そのときだった。
――ガンッ!
下の階から、また大きな音が響いた。
「うわっ!」
「何!?」
周囲の人々が一斉に足を止める。
直後、誰かが叫んだ。
「下で何か壊れたぞ!」
「早く逃げろ!」
その声をきっかけに、通路の空気が変わった。
歩いていた人たちが急に走り始め、後ろから押された客がよろめく。俺たちの横を、大きな買い物袋を抱えた男性が駆け抜けていった。
「危なっ……!」
とっさに陽菜たちの前へ出る。
「朝倉!」
「大丈夫。二人とも、壁の方へ!」
陽菜がそうた君を抱き寄せ、通路の端へ移動した。
俺も続こうとしたところで、背中に何かがぶつかった。
「ぐっ……!」
前につんのめり、危うく転びそうになる。
振り返ると、年配の男性が慌てた様子でこちらを見ていた。
「す、すまん!」
「いえ、大丈夫です!」
俺は何とか体勢を立て直した。
……危なかった。
今のは結構痛かったぞ。
人が増えてきたせいで、さっきまで通れた場所も混雑し始めている。
このまま警備員のところへ向かうのは難しそうだった。
「朝倉、どうする?」
陽菜が不安そうに尋ねる。
俺は周囲を見回した。
警備員は十数メートル先にいるが、間には大勢の人がいる。呼びかけても声が届くかどうかわからない。
だったら、近くの店に入った方がいいかもしれない。
そう考えたところで、すぐ横の衣料品店から店員が出てきた。
「皆さん、走らずに移動してください! 押さないでください!」
「あの、すみません!」
俺は声を張り上げた。
店員がこちらを向く。
「この子、親とはぐれたみたいなんです!」
「迷子ですか?」
「はい! 四階の服屋にいたってことしかわからなくて……」
「わかりました。こちらで確認します!」
店員はすぐに無線機へ手を伸ばした。
『四階中央通路、迷子のお子様を一名保護しています。男の子で――』
手際よく情報を伝えていく姿を見て、少しだけ安心する。
やっぱり、こういうことは施設の人に任せた方がいい。
「お名前は?」
「そうた君です」
「そうた君ですね。お母さんのお名前はわかるかな?」
店員がしゃがんで尋ねると、男の子は小さく頷いた。
陽菜が隣で声をかけながら、少しずつ話を聞いていく。
俺はその様子を見て、ようやく肩の力を抜いた。
……何とかなりそうだな。
そう思ったのも束の間だった。
『お客様にお知らせいたします。現在、一階管理通路付近で設備の破損が確認されています。安全確保のため、係員の指示に従い――』
館内放送が流れ始める。
周囲の人々が天井のスピーカーを見上げた。
『なお、一部の通路は通行できません。案内表示だけで判断せず、係員の誘導に従ってください』
放送が終わると、ざわめきがさらに大きくなった。
「一階が通れないってこと?」
「じゃあ、どこから出ればいいの?」
「さっきの階段、使えるんじゃないか?」
不安そうな声があちこちから聞こえる。
俺も思わず案内板を見上げた。
そこには、南側の非常階段を示す矢印があった。
ただ、放送では一部の通路が通れないと言っていた。あの階段が使えるのかどうかもわからない。
……勝手に判断するのはまずいか。
「お兄さん」
店員が俺へ声をかけてきた。
「お子様は、こちらでお預かりします。館内の安全な場所へ案内して、保護者の方を確認しますので」
「あ、はい。お願いします」
陽菜も頷き、そうた君へ話しかけた。
「そうた君、今からこのお店の人と一緒に行ける?」
「……おねえちゃんは?」
「私たちも近くにいるよ。お店の人が、お母さんを捜してくれるって」
男の子は不安そうに陽菜の手を握ったままだった。
店員は少し考えると、俺たちへ向き直った。
「申し訳ありませんが、こちらの店舗内で少し待っていただけますか? 周囲の安全を確認してから、ご案内します」
「わかりました」
俺たちは店員に従い、いったん店舗の中へ入った。
***
衣料品店の奥には、小さな試着室が並んでいた。
店員はその近くの比較的人が少ない場所へ俺たちを案内すると、ほかの従業員にも状況を伝えた。
そうた君は陽菜の隣に座り、まだ時々鼻をすすっている。
陽菜はその背中をさすりながら、ゆっくり話しかけていた。
「そうた君、お母さんと何を買いに来たの?」
「……おようふく」
「そっか。自分のお洋服?」
「ううん。ママの」
「へえ。じゃあ、お母さんのお買い物に付き合ってたんだね」
男の子が小さく頷く。
少しずつ会話ができるようになってきたらしい。
俺は入口の方へ目を向けた。
店の外では、警備員が客を誘導している。何人かの人は指示に従って移動していたが、別の方向へ向かおうとする人もいた。
どうやら、まだ混乱は収まっていないようだ。
「……なあ、陽菜」
「ん?」
「怖くないか?」
陽菜は一瞬だけ俺を見た。
それから、少し困ったように笑う。
「……怖いよ。正直、何が起きてるのかもわからないし」
「……だよな」
「でも、そうた君もいるから」
陽菜は隣の男の子へ目を向けた。
「私まで慌てたら、もっと怖がらせちゃうでしょ?」
「……そうか」
こいつ、やっぱりすごいな。
俺なんて、さっきから心臓が落ち着かないというのに。
陽菜は怖くないわけじゃない。それでも、目の前の男の子のことを考えて動いている。
俺も、少しは見習わないとな。
「……朝倉は?」
「え?」
「怖くないの?」
不意に聞き返され、俺は言葉に詰まった。
怖いか、怖くないか。
そんなの、決まっている。
「……めちゃくちゃ怖い」
正直に答えると、陽菜は少し驚いたあと、小さく笑った。
「そっか」
「ああ。何が起きてるのかもわからねえし、下から変な音はするし……。できることなら、今すぐ帰りたい」
「……うん」
「でも、まあ……」
俺はそうた君へ視線を向けた。
男の子は陽菜の袖を握ったまま、こちらを見ている。
「こいつを放っておくのも、後味悪いしな」
陽菜は何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情を和らげた。
そのとき、店舗の入口から警備員が入ってきた。
「お待たせしました。こちらに迷子のお子様がいらっしゃると聞いたのですが」
「あ、はい!」
店員がすぐに応じる。
警備員は無線機で何かを確認すると、そうた君へしゃがみ込んだ。
「そうた君だね。お母さんを捜しているんだよね?」
「……うん」
「大丈夫。今、別の係員が確認してくれているからね」
男の子は小さく頷いた。
警備員は立ち上がると、俺たちにも頭を下げた。
「ご協力ありがとうございます。お子様はこちらで保護しますので、皆さんは係員の誘導に従って避難してください」
「わかりました」
ようやく、俺たちもここを離れられそうだ。
そうた君は陽菜の手を離すのを少しためらっていたが、警備員が優しく声をかけると、ゆっくり立ち上がった。
「……おにいちゃん」
突然呼ばれ、俺は少し驚いた。
「ん?」
「ありがと」
小さな声だった。
けれど、はっきりと聞こえた。
「……おう。お母さん、早く見つかるといいな」
そう言って頭を軽く撫でると、男の子は少しだけ笑った。
警備員に連れられて奥へ向かう姿を見送り、俺は小さく息を吐く。
……よかった。
ひとまず、あの子は大丈夫そうだ。
「朝倉」
陽菜が隣へ来た。
「よかったね」
「ああ」
「ちゃんと助けられたね」
「……いや、俺は大したことしてねえよ」
実際、俺がやったのは男の子に声をかけて、店員を呼んだくらいだ。
落ち着かせてくれたのは陽菜だし、その後の対応は施設の人たちが引き受けてくれた。
俺一人だったら、もっと時間がかかっていたかもしれない。
「でも、最初に気づいたのは朝倉でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「だったら、それでいいと思うよ」
陽菜はそれだけ言って、入口の方へ歩き出した。
俺も後に続く。
さっきまで感じていた恐怖が、少しだけ和らいだ気がした。
何もできないと思っていたけど、少なくとも一人は助けられた。
……いや、まだ安心するには早いか。
俺たち自身も、ここから無事に出なければならない。
***
店舗の外へ出ると、通路の混雑は少し落ち着いていた。
警備員たちが何か所かに分かれ、買い物客を順番に誘導している。
俺たちも指示された方向へ歩き始めた。
「こちらの通路を進んでください! 階段付近では立ち止まらないようお願いします!」
案内に従い、人の流れへ加わる。
その途中、俺はふと一階の方へ目を向けた。
吹き抜けの下では、警備員たちが通路の一部を封鎖していた。
その奥から、白い埃のようなものが立ち上っている。
そして。
――ガァンッ!
再び、何かが壊れる音が響いた。
今度は先ほどよりも近く感じられた。
「……っ!」
周囲の人々が一斉に足を止める。
警備員が大きな声で呼びかけた。
「立ち止まらないでください! こちらへ!」
俺は陽菜の手を取り、歩き出そうとした。
そのときだった。
吹き抜けの向こう、下の階にある管理通路の入口付近で、何かが動いた。
人影だ。
黒っぽい服を着た、大柄な男。
遠目なので顔まではわからないが、周囲の作業員たちとは明らかに様子が違っていた。
男は何かを怒鳴りながら、近くの金属製の設備へ手を伸ばしている。
次の瞬間。
――ドンッ!!
鈍い衝撃音とともに、設備の一部が大きくへこんだ。
「……は?」
何が起きたのかわからなかった。
男が触れたように見えた直後、分厚い金属の板が内側へ押し潰されたのだ。
周囲にいた作業員たちが慌てて後ずさる。
俺は息を呑んだ。
……まさか。
あれも、異能力なのか?
「朝倉!」
陽菜の声で我に返る。
「早く行こう!」
「あ、ああ……!」
俺は慌てて視線を戻し、陽菜と一緒に歩き出した。
だが、頭の中には、さっき見た光景が焼きついていた。
触れただけで、金属をへこませる力。
そんなものを持った人間が、今、この建物の中にいる。
しかも、あの様子では、まともに話が通じそうには見えなかった。
……冗談じゃない。
俺たちは、ただ買い物に来ただけなのに。
なんでこんなことに巻き込まれなきゃならないんだ。
背後から、再び警備員の声が響いた。
「急いでください! こちらです!」
俺は陽菜の手を握り直し、足を速めた。
今は逃げるしかない。
俺には、あんな男と戦える力なんてないのだから。




