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最弱の俺だけが、英雄たちの涙を覚えている  作者: 黒子丸
1章

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5話 嫌な予感ほどよく当たる

「……なあ、陽菜」


「ん?」


「俺たち、さっきお菓子屋にいなかったか?」


「いたよ?」


「だよな。じゃあ、なんでまたケーキ見てるんだ?」


「だって、お店が違うもん!」


なるほど。そういうことか。


……いや、全然納得できないんだが。


鳴瀬スクエアの四階にあるカフェで、俺はメニューを開いたままため息をついた。


目の前の陽菜は、先ほどからデザートの写真を熱心に眺めている。どうやら一階の洋菓子店を見ただけでは満足できなかったらしい。


「ねえ、朝倉。このチーズケーキとガトーショコラ、どっちがいいと思う?」


「どっちも美味そうだけど」


「そうじゃなくて、どっちを食べてみたい?」


「……俺が?」


「うん」


嫌な予感がした。


「もしかして、俺にも注文させるつもりか?」


「だって、二つ頼めば両方の味がわかるでしょ?」


「お前、最初からそのつもりだったな?」


「えへへ」


笑って誤魔化すな。


とはいえ、甘いものを食べられるのは俺としてもありがたい。問題は、少々値段が高いことくらいだ。


「……まあ、いいか。俺はガトーショコラにする」


「ほんと? じゃあ、私はチーズケーキ!」


陽菜は嬉しそうに店員を呼んだ。


注文を済ませると、ようやくメニューを閉じる。


俺たちが座っているのは、吹き抜けに面した窓際の席だった。ガラス越しに下の階を見下ろせる造りになっており、行き交う買い物客の姿がよく見える。


平日の夕方ということもあって、制服姿の学生もちらほらいた。


「それにしても、今日は随分買ったな」


俺は足元に置いた紙袋へ目を向けた。


製菓材料に包装用の袋、それから陽菜が気になって購入した小さな焼き菓子。


決して持てない重さではないが、ちょっと付き合うだけのつもりだった俺からすれば、なかなかの収穫である。


「ごめんね。荷物持ってもらっちゃって」


「別にいいって。昼間の段ボールに比べりゃ軽いし」


「あはは。あれは大変そうだったもんね」


「思い出させるなよ……」


結局、最後は台車に頼ることになったのだから、あまり格好のいい話ではない。


陽菜はそんな俺を見て笑っていたが、ふと何かを思い出したように口を開いた。


「でも、朝倉が手伝ってくれて助かったって、学級委員の人も言ってたよ」


「……もう聞いたって、それ」


「だって本当のことだもん」


「はいはい」


俺は適当に返事をして、窓の外へ目を向けた。


すると、陽菜が少し不満そうな声を出した。


「もう、ちゃんと聞いてよ」


「聞いてるって。ほら、ケーキ来たぞ」


「あっ、ほんとだ!」


切り替えが早い。


運ばれてきた皿を前に、陽菜の表情がぱっと明るくなった。


俺の前にはガトーショコラ。陽菜の前には、表面に薄く焼き色のついたチーズケーキが置かれる。


「いただきます!」


陽菜は早速フォークを手に取り、小さく切り分けたチーズケーキを口へ運んだ。


「……んー!」


何とも幸せそうな顔である。


「そんなに美味いのか?」


「うん! すごくなめらか。甘さもちょうどいいし、下の生地がサクサクしてて……」


そこまで言って、陽菜は俺の皿へ目を向けた。


「朝倉のも、一口もらっていい?」


「別にいいぞ」


「ありがと!」


俺は自分のケーキを少し切り分け、陽菜の皿へ移した。


陽菜もチーズケーキを一口分くれたので、代わりに食べてみる。


「……おお、美味いな」


「でしょ?」


「ああ。甘すぎないし、結構食べやすい」


「そうなの! こういうの、いつか作れるようになりたいなあ」


陽菜はフォークを置き、もう一度ケーキを眺めた。


「でも、家で同じように作るのは難しそう」


「お前でも難しいのか?」


「うん。材料の割合もそうだけど、焼き加減が大事だから。前に似たようなのを作ったとき、真ん中だけ柔らかくなりすぎちゃって」


「へえ。そんな失敗もするんだな」


「するよ。いっぱい」


陽菜は少し笑った。


「それでね、何が悪かったのか考えて、また作ってみるの。上手くできたら嬉しいし、失敗しても次はこうしようって思えるから」


「……よく飽きねえな」


「朝倉だって、好きな小説なら何時間も読めるでしょ?」


「……まあ、そうだな」


言われてみれば、そのとおりだった。


こいつにとっては、料理もお菓子作りも、俺が小説を読むのと似たようなものなのかもしれない。


もっとも、俺の場合は読んでいるだけで何かが上達するわけじゃないけど。


「今度作るやつも、味見してね?」


「おう。ただ、失敗作だったらちゃんと言うぞ」


「もちろん!」


陽菜は迷わず答えた。


「朝倉、そういうところは信用してるから」


「……そういうところって何だよ」


「ふふっ。内緒」


どうにも引っかかる言い方だったが、本人は教えてくれるつもりがないらしい。


俺は諦めて、残っていたガトーショコラを口へ運んだ。


***


カフェを出た頃には、時計の針が五時を少し回っていた。


「そろそろ帰るか?」


俺が尋ねると、陽菜はスマートフォンで時間を確認した。


「うん。今日はありがとう、朝倉」


「おう。……次からは、もう少し軽いものにしてくれよ」


「あはは、考えとく!」


「それ、絶対考えてねえだろ」


陽菜は笑いながら、俺の少し前を歩き始めた。


俺たちは四階の吹き抜けに沿った通路を進み、下りのエスカレーターへ向かう。


夕方の買い物客が増え始めたのか、店内は先ほどより賑やかになっていた。


小さな子どもを連れた親子や、買い物袋を抱えた夫婦。制服姿の学生たちも、あちこちで友達と話している。


そのときだった。


――ガンッ!


突然、下の階から鈍い音が響いた。


「……ん?」


思わず足を止める。


陽菜も驚いたように振り返った。


「今の、何?」


「さあ……。何か落としたのか?」


吹き抜けの手すりへ近づき、下を覗き込む。


一階の奥、店舗の並ぶ通路の先で、何人かの人が同じ方向を見ていた。


距離があるせいで詳しくはわからない。


ただ、先ほどよりも人の動きが慌ただしくなっている気がした。


「何かあったのかな」


「……どうだろうな」


大きな荷物でも落としたのだろうか。


そう考えた直後だった。


――ガァンッ!!


今度は、さっきとは比べものにならないほど大きな音が響いた。


足元がわずかに震える。


「きゃっ!」


陽菜が驚いて俺の腕をつかんだ。


俺も反射的に手すりへ手を伸ばす。


「な、なんだ今の!?」


周囲の買い物客が一斉に足を止めた。


下の階から、誰かの叫び声が聞こえる。


「危ない! 離れて!」


「何だよ、あれ!」


ざわめきが一気に広がっていく。


俺は身を乗り出し、吹き抜けの下を見た。


一階の奥にある通路から、白っぽい埃が立ち上っていた。


その手前では、数人の客が慌てて走り出している。


「……おいおい、何が起きてんだよ」


胸の奥がざわついた。


さっきまで普通に買い物をしていた人たちが、何かから逃げるように走っている。


どう見ても、ただ物を落としただけの騒ぎじゃない。


「朝倉……」


隣から、陽菜の声がした。


振り返ると、彼女は俺の腕をつかんだまま、下の階を見つめていた。


その表情から、さっきまでの笑顔が消えている。


「……とりあえず、ここから離れよう」


俺がそう言いかけたときだった。


館内放送のチャイムが鳴った。


『お客様にお知らせいたします。ただいま、館内の一部設備に不具合が発生しております。安全確認を行っておりますので、係員の案内に従い――』


放送はそこで一瞬途切れた。


そして、耳障りな雑音が混じった直後、別の声が響いた。


『一階、管理通路付近のお客様は、速やかにその場から離れてください! 繰り返します――』


放送の途中で、また何かが壊れるような音がした。


今度はかなり遠くからだったが、それでも十分に聞こえた。


「……嘘だろ」


俺は思わず呟いた。


一階では、警備員らしい男性が買い物客を誘導し始めていた。


しかし、何が起きているのかわからない客たちは足を止めたり、逆方向へ歩き始めたりしている。


そのせいで、通路の一部に人が集まり始めていた。


「朝倉、どうしよう……」


陽菜の声が少し震えていた。


俺だって、どうすればいいのかわからない。


下へ降りるべきなのか。それとも、この階で待っていた方がいいのか。


考えようとしても、状況がつかめない。


ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


ここにいたら危ないかもしれない。


「……陽菜、こっち」


俺は彼女の手を取り、手すりから離れた。


「人の少ない方へ行こう。とりあえず、店員さんに聞けば……」


そこまで言ったところで、後ろから悲鳴が上がった。


「きゃああっ!」


振り返る。


少し離れた場所で、買い物客の一人が転びかけていた。


その人を避けようとした別の客が足を止め、後ろから歩いてきた人とぶつかる。


小さな混乱が、あっという間に周囲へ広がっていく。


「押さないでください!」


「何があったんですか!?」


「誰か説明してよ!」


いくつもの声が飛び交う。


俺は陽菜の手を握り直した。


「……とにかく、落ち着いて動こう」


「う、うん」


そう言ってみたものの、一番落ち着いていないのは俺かもしれない。


心臓が嫌な音を立てている。


足も、さっきから妙に重い。


ほんの数分前まで、陽菜とケーキを食べながらくだらない話をしていたのに。


それが、どうしてこんなことになっているんだ。


「朝倉……!」


陽菜が俺の袖を引いた。


「……あそこ」


彼女が指さした先を見る。


四階の通路の奥で、小さな男の子が泣いていた。


周囲の大人たちは避難しようとしているのか、誰もその子のそばにはいない。


男の子は何度も辺りを見回しながら、声を張り上げていた。


「ママ……! ママぁ!」


俺は思わず足を止めた。


……まさか。


こんなときに、親とはぐれたのか?


周囲では相変わらずざわめきが続いている。


誰かが男の子の横を通り過ぎていく。


その小さな身体が、人の流れに押されそうになった。


「……っ!」


気づけば、俺は一歩踏み出していた。


「朝倉!?」


陽菜の声が背後から聞こえる。


俺は振り返った。


「ごめん、陽菜。ちょっとだけ……!」


言い終わるより先に、俺は男の子の方へ駆け出していた。

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