9話 初めて出会った英雄
少女の右手に浮かんでいたのは、細長い光のようなものだった。
剣に似ている。だが、俺の知っている剣とは明らかに違う。柄も鍔もなく、ただ刃のような輪郭だけが右手の先から伸びていた。白く淡い光を帯びたそれは、少女が腕を動かすたびに、まるで手の一部であるかのようについてくる。
「……何だよ、あれ」
思わず呟いた俺の前で、少女が一歩踏み出した。
黒っぽい服を着た大柄な男は、彼女の姿を認めると、露骨に顔をしかめた。
「ああ? 何だ、お前」
「その設備から離れて。これ以上壊すなら、止める」
「……ガキが、何言ってやがる」
男が鼻で笑う。
少女は言い返さなかった。周囲へ素早く視線を走らせ、男との距離を測るように立ち位置を変える。
その間にも、警備員たちは買い物客を出口へ誘導していた。
「皆さん、立ち止まらないでください! 東側出口へ進んでください!」
俺も慌てて動こうとしたが、すぐ横から声をかけられた。
「君、大丈夫か?」
振り返ると、警備員がこちらを見ていた。
「あ、はい。怪我はしてません」
「なら、ここから離れて。あの男には近づかないでくれ」
「わかりました」
俺は指示に従い、出口へ向かった。
正直、少女のことは気になる。あんな能力は初めて見たし、あの男をどうやって止めるつもりなのかも知りたかった。
けれど、だからといって見物していい状況じゃない。
そう思った直後だった。
「邪魔なんだよ!」
男の怒鳴り声が響く。
反射的に振り返ると、男が近くの金属製の柵をつかんでいた。
次の瞬間、柵が嫌な音を立ててへこむ。
「――下がって!」
少女の声が飛んだ。
男が柵を押し倒そうとしたのと、少女が右手を振ったのは、ほとんど同時だった。
白い線が、一瞬だけ空間を走る。
ガキンッ!
金属の上部が斜めに切り離され、床へ落ちた。
「……は?」
思わず足が止まった。
あの光、まさか刃なのか?
しかも、金属をあんなに簡単に切断できるなんて。
「てめえ……能力者か!」
男が怒鳴る。
「だったら何?」
少女は平然と答えた。
「ここには関係ない人たちがいる。これ以上暴れないで」
「俺に指図すんじゃねえ!」
男が床を蹴った。
大柄な身体が少女へ迫り、その右腕が振り下ろされる。
まずい。
そう思った瞬間、少女は横へ身を引いた。
男の拳が空を切り、背後の金属製の柱を叩く。
ドンッ!
鈍い音とともに、柱の表面が大きくへこんだ。
「うわっ……!」
思わず声が漏れた。
あんなものをまともに食らったら、ただでは済まない。
しかし、少女は慌てなかった。
男から距離を取り、右手の光を構え直す。
「……触れたものに圧力をかける能力?」
「知るかよ!」
男は再び拳を振り上げた。
少女が半歩下がる。
拳は届かず、男がさらに踏み込もうとした瞬間、今度は少女の右手が動いた。
白い光が男の足元を走る。
ガンッ!
床に固定されていた金属製の部材が切断され、男は思わず足を止めた。
「ちっ……!」
男が舌打ちする。
少女はすぐに距離を取った。
……なるほど。
男の攻撃を避けながら、周囲のものを切って動きを妨げているのか。
ただ、相手も簡単には止まらない。
男が近くの設備へ手を伸ばすと、少女は即座に位置を変えた。設備が壊れて、避難中の客へ倒れ込まないように警戒しているらしい。
少女の背後には、まだ逃げ遅れた人たちがいる。
あいつ、自分が攻撃されることより、周りの方を気にしてるのか。
「君! 早く!」
警備員の声で我に返った。
「す、すみません!」
いけない。
完全に見入っていた。
俺は慌てて出口へ向かった。
スマートフォンを確認すると、陽菜からメッセージが届いていた。
『外に出られたよ!』
『朝倉は!?』
その文字を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
よかった。無事に外へ出られたんだな。
『俺も今向かってる』
返信すると、すぐに既読がついた。
『気をつけて!』
『おう』
短く返して、スマートフォンをしまう。
東側出口は、もう目の前だった。
***
「きゃあっ!」
突然、背後から悲鳴が聞こえた。
振り返ると、金属製の備品が床を滑っていた。男が蹴り飛ばしたのか、それとも能力で壊したものが飛んできたのか、そこまではわからない。
ただ、その進行方向に年配の女性がいた。
女性は出口へ向かおうとしていたが、足元の備品には気づいていない。
「危ない!」
俺は声を上げた。
女性がこちらを向く。
同時に、少女も気づいたらしい。
白い光が走り、備品が途中で二つに切り離された。
しかし、切断された破片はそのまま床を滑っていく。
「っ!」
少女が何かを叫ぶより先に、俺は女性の方へ駆け出していた。
破片の一つが女性の足元をかすめる。
驚いた女性がよろめいたところで、俺は何とかその腕を支えた。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ……ありがとう」
女性は青ざめた顔で頷いた。
すぐに警備員が駆け寄ってくる。
「こちらへ! 出口までご案内します!」
「お願いします!」
女性を引き渡すと、俺はようやく息を吐いた。
……危なかった。
助けられたのはよかったが、破片がこっちへ飛んできていたらと思うと、今さら背筋が寒くなる。
「あなた!」
少女の声がした。
振り返ると、彼女がこちらを睨んでいた。
「早く逃げてって言ったでしょ!」
「わ、わかってる!」
「だったら、もう戻ってこないで!」
「……悪い!」
言い返す余地もなかった。
俺は警備員の後を追い、東側出口へ向かった。
今度こそ、もう振り返らないつもりだった。
しかし、出口の手前で、後ろから男の怒鳴り声が響く。
「いい加減にしろよ、このガキが!」
続いて、金属がきしむ音がした。
俺は思わず肩をすくめる。
直後、少女の声が聞こえた。
「だから、触らせないって言ってるでしょ!」
白い光が視界の端を走った。
振り返った先では、少女が男の手元にあった金属製の設備を切り離していた。
男が体勢を崩す。
少女はその隙を逃さず、床に固定された部材を切断した。男の足元にあった金属の枠が外れ、踏み込もうとしていた男は足を取られる。
「ぐっ……!」
片膝をついた男が、床へ手を伸ばした。
その瞬間、少女が叫ぶ。
「床に触らせないで!」
近くの警備員が慌てて後退する。
少女は男の伸ばした手の先へ光の刃を振り下ろし、床の表面を浅く切り裂いた。
男の指が寸前で止まる。
「……てめえ!」
男が顔を上げた。
だが、次の攻撃が繰り出されることはなかった。
「そこまでです!」
鋭い女性の声が通路に響いた。
見ると、建物の奥から数人の大人が駆けつけていた。
先頭に立つ女性は、首から身分証を下げている。
「異常現象対策庁です! 一般の方は避難を続けてください!」
その言葉を聞いた瞬間、近くの警備員たちが動き出した。
少女も男から距離を取り、駆けつけた女性へ何かを伝えている。
その後のことまでは、俺にはわからなかった。
警備員に促され、俺はようやくガラス扉をくぐったからだ。
***
外へ出ると、夕方の空気が頬に触れた。
建物の中にいたときは気づかなかったが、シャツが汗で背中に張りついている。
「……はぁ」
思わず大きく息を吐く。
周囲には、鳴瀬スクエアから避難してきた人たちが集まっていた。少し離れた道路には警察車両が停まり、警察官が買い物客を建物から遠ざけている。
俺は人混みの中を見回した。
陽菜はどこだ?
さっき、外へ出たとは連絡があったけど……。
「朝倉!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、陽菜がこちらへ駆け寄ってくる。
「陽菜!」
「もう! 遅いから心配したんだよ!」
「悪い。ちょっと中で……」
そこまで言いかけたところで、陽菜が俺の両腕をつかんだ。
「怪我してない?」
「え?」
「どこか痛いところとかない? さっきも大きな音がしてたし……」
いつになく真剣な顔だった。
「……大丈夫だって。ほら、ちゃんと立ってるし」
「そういう問題じゃないよ」
陽菜は少しだけ眉を寄せた。
俺は口を閉じる。
確かに、さっき電話で早く外へ出ると言ったのは俺だ。
それなのに、俺自身はなかなか出てこなかった。心配するなという方が無理だろう。
「……ごめん」
「……うん」
陽菜はようやく手を離した。
「でも、本当に無事でよかった」
その声を聞いて、胸の奥にあった緊張が少しだけほどけた。
「……俺も、お前が無事でよかったよ」
そう答えると、陽菜は一瞬だけ目を丸くした。
それから、安心したように笑った。
「……うん」
俺たちは警察官の案内に従い、建物から少し離れた広場へ移動した。
途中で、俺は中で起きたことを簡単に話した。
異能力を使って設備を壊していた男のこと。
その男を止めようとしていた、黒髪の少女のこと。
「女の子が?」
陽菜が驚いたように聞き返す。
「ああ。たぶん俺たちと同じくらいの年だと思う」
「……その子、大丈夫なの?」
「俺が出るときには、対策庁の人たちが来てた。たぶん、あとは任せられると思う」
「そっか……」
陽菜は心配そうに建物を振り返った。
俺も同じ方向を見る。
あの少女は、どうなっただろう。
男の攻撃を何度も避けていたし、見た限りでは怪我をしている様子はなかった。
とはいえ、あんな危険な相手と戦っていたのだ。
無事でいてくれればいいんだけどな。
***
それからしばらくして、鳴瀬スクエアの入口から数人の職員が出てきた。
その中に、見覚えのある黒髪の少女がいた。
「あっ」
思わず声が漏れる。
間違いない。さっきの少女だ。
彼女は年上の女性と何かを話していた。
相手は、さっき対策庁を名乗っていた女性らしい。周囲の職員へ指示を出しながら、時折少女へも声をかけている。
やがて話が終わったのか、少女がこちらへ視線を向けた。
目が合う。
「…………」
一瞬、気まずくなった。
さっきは何度も逃げろと言われたのに、結局、最後まで迷惑をかけてしまった気がする。
向こうも俺に気づいたらしく、少しだけ眉を寄せた。
そして、こちらへ歩いてくる。
「あなた」
「……は、はい」
思わず背筋が伸びた。
少女は俺の目の前で足を止めると、呆れたように息を吐いた。
「無事に出られたのね」
「……おかげさまで」
「怪我は?」
「ない、と思う」
「思うって……」
少女は再びため息をついた。
「さっきも言ったけど、危ないときは無理しないで。あの女性を助けようとしたのはわかるけど、あなたまで怪我をしたら意味がないでしょ」
「……ごもっともです」
反論できない。
俺がそう答えると、少女は少しだけ表情を緩めた。
「……まあ、無事ならいいけど」
そこで俺は、ようやく落ち着いて彼女の姿を見た。
年齢は、やはり俺たちと同じくらいだろうか。
長い黒髪に、整った顔立ち。どこか近寄りがたい雰囲気はあるものの、こうして目の前で話していると、普通の女の子にも見える。
ただ、よく見ると右手の甲に小さな擦り傷があった。
「あれ、お前……」
「何?」
「手、怪我してないか?」
少女が自分の右手を見下ろす。
「ああ、これ? ちょっと擦っただけよ」
「いや、血が出てるぞ」
「大したことないから」
あっさりと言われる。
いや、そういう問題なのか?
俺が何か言おうとしたところで、隣にいた陽菜が口を開いた。
「あの、よかったらこれ使ってください」
陽菜は鞄から小さなポーチを取り出した。
中には絆創膏や個包装のウェットシートが入っている。
「傷、汚れちゃってるみたいなので。あちらに救護の方もいらっしゃいますし、一度見てもらった方がいいと思います」
「……え?」
少女は少し驚いたようだった。
「でも、このくらいなら……」
「小さな傷でも、ちゃんと手当てした方がいいですよ」
陽菜は穏やかに言った。
少女はしばらくポーチを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとう」
「いえ!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
少女は差し出されたウェットシートを受け取り、手の甲についた汚れをそっと拭う。
その仕草を見て、何となく不思議な気分になった。
さっきまであんなにすごい力を使っていたのに、擦り傷を気にする姿は俺たちと変わらない。
まあ、当たり前といえば当たり前なんだけど。
「あのさ」
俺は思い切って声をかけた。
「まだちゃんと言ってなかったけど、さっきはありがとう。あの人を助けてくれて」
少女は顔を上げた。
「……別に。私ができることをしただけだから」
「いや、それでもさ」
俺は頭をかいた。
「俺一人だったら、どうにもできなかったと思うし」
「……そう」
少女は少しだけ視線を逸らした。
褒められるのが苦手なのだろうか。
それとも、こういうやり取りに慣れているのか。
どちらにしても、あまり大げさに礼を言われるのは好きではなさそうだった。
「……そういえば、名前聞いてもいいか?」
俺が尋ねると、少女は少しだけ目を瞬かせた。
「名前?」
「ああ。俺、朝倉悠真。こっちは小日向陽菜」
「こんにちは!」
陽菜が軽く頭を下げる。
少女は俺たちを順番に見たあと、口を開いた。
「……神崎凛」
「神崎……凛?」
聞き覚えのない名前だった。
けれど、隣にいた陽菜は違ったらしい。
「えっ、神崎凛さん?」
驚いたように声を上げた。
少女――神崎が、陽菜へ目を向ける。
「……そうだけど」
「もしかして、鳴瀬高校の?」
「ええ。そうよ」
「やっぱり!」
陽菜は目を丸くした。
俺は二人の顔を交互に見る。
「……ちょっと待て。陽菜、知り合いなのか?」
「知り合いってわけじゃないけど……神崎さん、同じ学校の二年生だよ」
「……マジで?」
思わず神崎を見る。
彼女も少し驚いたようだった。
「あなたたちも鳴瀬高校なの?」
「ああ。二年A組」
「私はC組よ」
「……へえ」
同じ学校だったのか。
いや、世間って狭いな。
それにしても、うちの学校にこんなすごい能力者がいたなんて、全然知らなかったぞ。
「朝倉、本当に知らなかったの?」
陽菜が呆れたように聞いてきた。
「いや、知らねえよ。他クラスの生徒なんて、そうそう覚えないだろ」
「神崎さん、結構有名だよ。能力のこともあるし」
「……そうなのか?」
俺が聞き返すと、神崎は少し困ったような顔をした。
「有名っていうほどじゃないと思うけど」
「いや、今の戦い見たら、十分すごいと思うぞ」
「……あなたね」
神崎が呆れたように息を吐く。
「能力が使えるからって、何でもできるわけじゃないんだから」
「……そうなのか?」
「そうよ」
彼女は短く答えると、右手へ視線を落とした。
そこには、先ほどまで浮かんでいた光の刃はない。
代わりに、小さな擦り傷が残っている。
「……まあ、それはそうか」
異能力者だって、怪我はする。
能力を持っているからといって、何もかも特別なわけじゃない。
そんな当たり前のことを、今さらながら実感した。
「あ、そうだ」
陽菜が声を上げた。
「神崎さん、よかったら絆創膏も使ってください。傷を拭いたままだと、服に擦れちゃうかもしれませんし」
「……ありがとう」
神崎は差し出された絆創膏を受け取ると、右手の甲に貼った。
それから、少しだけ照れくさそうに言った。
「……助かったわ」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「いえ! お役に立ててよかったです」
そのやり取りを見て、俺は何となく笑ってしまった。
「……何?」
神崎がこちらを見る。
「いや、何でもない」
「……変なの」
そう言いながらも、彼女はそれ以上追及してこなかった。
そのとき、少し離れた場所から声がした。
「神崎さん!」
先ほどの対策庁の女性だった。
神崎が振り返る。
「……はい!」
「少し確認したいことがあるので、こちらへお願いできますか?」
「わかりました!」
返事をしてから、神崎は俺たちへ向き直った。
「ごめんなさい。そろそろ戻らないと」
「ああ。引き止めて悪かったな」
「別に。……二人とも、気をつけて帰ってね」
「神崎さんも、お大事にしてください!」
陽菜がそう言うと、神崎は小さく頷いた。
「……ありがとう」
それだけ言い残し、彼女は対策庁の女性の方へ戻っていった。
俺はその後ろ姿を見送る。
神崎凛。
同じ学校に通う、有名な能力者。
今日まで名前も知らなかった相手なのに、あんな事件に巻き込まれたおかげで、こうして言葉を交わすことになった。
……本当に、何があるかわからねえな。
「……すごい人だったね」
隣で陽菜が呟く。
「ああ」
「実際に話したの、初めてだったけど……思ってたより普通の女の子だったかも」
「……そうだな」
俺も同じことを考えていた。
危険な男を相手にしていたときは、まるで別世界の人間みたいに見えた。
でも、こうして話してみると、無愛想なところもあるし、怪我をしても大丈夫だと言い張るところもある。
少なくとも、俺が想像していたような、何でもできる完璧な英雄というわけではなさそうだった。
「……朝倉?」
「ん?」
「何考えてるの?」
「いや、同じ学校にあんなやつがいるんだなって」
陽菜は少し笑った。
「朝倉、能力者のことは好きなのに、身近な人のことは本当に知らないよね」
「……返す言葉もございません」
「ふふっ」
陽菜が楽しそうに笑う。
その笑顔を見て、俺もようやく気が抜けた。
***
その後、俺たちは警察官から簡単な事情を聞かれた。
事件が起きたときにどこにいたのか、何を見たのか。覚えている範囲で答え、必要な連絡先を伝える。
俺は避難中に南側出口を使おうとして、周囲の人たちを混乱させてしまったことも話した。
警察官は状況を確認すると、今後同じような場面では係員の指示に従うよう注意してくれた。
「……はい。気をつけます」
返事をしながら、俺は少しだけ肩を落とした。
昨日までの俺なら、案内板を見て別の道を探すこと自体は悪くないと思っていただろう。
けれど、あの場では通路が使えるかどうかも確認できていなかった。
正しい情報を持っていないのに、周囲を巻き込むべきじゃなかったのだ。
今後は気をつけよう。
……できれば、同じような事件には二度と巻き込まれたくないけど。
事情聴取が終わる頃には、外もすっかり暗くなり始めていた。
「……やっと帰れるな」
俺が呟くと、陽菜が隣で頷いた。
「うん。今日はもう疲れちゃった」
「俺もだよ。腹も減ったし」
「あはは。朝倉、さっきケーキ食べたでしょ?」
「それ何時間前だと思ってんだよ」
「確かにね」
陽菜は小さく笑った。
俺たちは警察官の案内に従って広場を離れ、家路についた。
鳴瀬スクエアの周辺では、まだ何台もの警察車両が停まっている。事件の調査はこれからも続くのだろう。
ただ、俺たちにできることはもうなさそうだった。
少なくとも、今は。
***
帰り道、陽菜はいつもより少し静かだった。
俺も無理に話しかける気にはなれず、しばらく二人で歩いていた。
やがて、住宅街に入ったところで陽菜が口を開いた。
「……ねえ、朝倉」
「ん?」
「今日は、本当に怖かったね」
「……ああ」
俺は素直に頷いた。
「正直、途中で何回も終わったと思った」
「もう、縁起でもないこと言わないでよ」
「いや、だってさ。あんな男が近くで暴れてるんだぞ? 怖くない方がおかしいだろ」
「……それはそうだけど」
陽菜は少しだけ口を尖らせた。
それから、小さく息を吐く。
「でも、こうして一緒に帰れてよかった」
「……そうだな」
俺も同じことを思っていた。
ほんの数時間前まで、俺たちは普通に買い物をしていた。
陽菜はお菓子の材料を選び、俺は荷物持ちをしながら、早く帰ってゲームでもしたいと考えていた。
それが、まさかこんなことになるとは。
「……陽菜」
「ん?」
「今日は悪かったな。途中で何回も心配かけて」
陽菜は少しだけこちらを見た。
それから、首を横に振る。
「……ううん。朝倉が無事だったから、もういいよ」
「……そっか」
「でも、次からは一人で無茶しないでね」
「……わかってる」
俺が答えると、陽菜はようやく少しだけ笑った。
「約束だからね」
「ああ」
それ以上、陽菜は何も言わなかった。
俺たちはいつもの道を歩き、やがて住んでいるアパートへ到着した。
二階へ上がり、それぞれの部屋の前で足を止める。
「……じゃあ、また明日な」
「うん。おやすみ、朝倉」
「おやすみ」
俺は鍵を取り出し、扉を開けた。
部屋に入ると、いつもと変わらない光景が広がっていた。
脱ぎっぱなしの上着。
机の上に積まれた教科書。
途中まで遊んでいたゲーム機。
朝、慌てて出ていったときのままだ。
「……ただいま」
誰もいない部屋に、思わず呟く。
返事はない。
当たり前だ。一人暮らしなんだから。
俺は鞄を床へ置き、ベッドに腰を下ろした。
途端に、どっと疲れが押し寄せてきた。
「……マジで疲れた」
今日はもう、何もしたくない。
風呂に入って、適当に飯を食って、さっさと寝よう。
そう思いながら、スマートフォンを取り出す。
画面には、陽菜からのメッセージが届いていた。
『ちゃんとご飯食べてね!』
「……わかってるって」
思わず笑ってしまった。
あいつも疲れているはずなのに、よく人の心配までできるものだ。
『お前もな。今日はゆっくり休めよ』
そう返信すると、すぐに既読がついた。
『うん! おやすみ!』
『おやすみ』
スマートフォンを置き、天井を見上げる。
瞼を閉じると、今日見た光景が浮かんできた。
ひしゃげた金属。
逃げ惑う人々。
そして、白い光の刃を振るう少女の姿。
神崎凛。
同じ高校に通う、俺と同い年の能力者。
あいつは、あの危険な男を相手にしながら、最後まで周りの人間を守ろうとしていた。
……すごいやつだったな。
俺は小さく息を吐いた。
今日のことは、たぶん簡単には忘れられないだろう。
怖かったし、失敗もした。
けれど、それだけじゃなかった。
少なくとも、今まで名前すら知らなかった一人の少女のことを、俺は知ることができたのだから。
「……さて」
俺は身体を起こした。
いつまでも感傷に浸っていても、腹は膨れない。
まずは夕飯だ。
それから風呂に入って、今日はさっさと寝よう。
明日も学校がある。
そして、きっとまた陽菜に起こされることになるのだろう。
……いや、明日くらいは自分で起きたいところだけどな。
そんなことを考えながら、俺は台所へ向かった。




