10話 事件の翌日
翌朝、俺は目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ました。
枕元に置いていたスマートフォンを手に取ると、画面には午前六時四十二分と表示されている。いつもなら、あと一時間は寝ていてもおかしくない時間だ。
「……早すぎだろ」
昨日はあれだけ疲れていたのに、夜中に何度も目が覚めた。ようやく眠れたと思ったら、今度は妙に早起きしてしまったらしい。
まあ、原因はわかっている。
鳴瀬スクエアでの事件だ。
大勢の買い物客が逃げ惑う姿。金属がひしゃげる音。すぐ近くで聞こえた男の怒鳴り声。思い出そうとしなくても、昨日の光景が勝手に頭に浮かんでくる。
「……勘弁してくれよ」
俺は枕に顔を埋めた。
せっかく事件が終わって、家に帰ってこられたというのに、寝ている間まで付き合わされるとは思わなかった。
もっとも、あれだけのことがあった翌日に、何事もなかったように眠れる方がおかしいのかもしれない。
しばらく布団の中でごろごろしていたが、どうにも眠れそうにない。仕方なく身体を起こし、スマートフォンを確認する。
ニュースアプリから、いくつか通知が届いていた。
その中に、見覚えのある施設の名前を見つける。
『鳴瀬スクエアで異能力者が暴走 容疑者は現在も逃走中』
「……は?」
思わず声が出た。
俺は慌てて記事を開く。
昨日、鳴瀬スクエアで設備を破壊していた男は、駆けつけた異常現象対策庁の職員によって追い詰められたものの、施設内の混乱に乗じて逃走したらしい。
幸い、命に関わる怪我をした人はいなかったようだが、避難中に転倒するなどして、複数の負傷者が出ているという。
「……逃げたのかよ、あいつ」
てっきり捕まったものだと思っていた。
昨日、俺が建物を出る直前には対策庁の人たちが駆けつけていたし、その後に神崎が外へ出てきたときも、それほど慌てている様子はなかった。
だから、もう事件は終わったものだと勝手に思い込んでいたのだ。
「……マジかぁ」
思わず天井を仰ぐ。
昨日あれだけ暴れていた男が、今もどこかをうろついているらしい。
それはさすがに怖い。
とはいえ、だからといって俺に何かできるわけでもない。警察と対策庁が捜しているというのだから、あとは専門家に任せるしかないだろう。
俺は記事を閉じ、ベッドから降りた。
「……とりあえず、朝飯だな」
腹が減っては何とやら、である。
冷蔵庫を開けると、卵と食パン、それから飲みかけの牛乳が目に入った。
……うん。いつもどおりだ。
俺はフライパンを取り出し、コンロに火をつけた。
***
午前七時半。
トーストと目玉焼きという、我ながら無難な朝食を食べ終えたところで、スマートフォンが震えた。
『おはよう! 今日は起きてる?』
陽菜からだった。
『起きてるぞ。しかも朝飯も食った』
『えっ、本当に!?』
『そんなに驚くことか?』
『だって朝倉だし』
……ひどい言われようである。
俺だって、やろうと思えば朝飯くらい作れるのだ。普段はその気になる前に二度寝してしまうだけで。
『今日は七時五十分くらいに出ようと思ってるけど、一緒に行く?』
時計を見ると、まだ二十分ほど余裕があった。
『おう。玄関前で待ってる』
『了解!』
俺はスマートフォンをしまい、食器を片づけ始めた。
それにしても、朝から自分で飯を作ったなんて、なかなか珍しいことをした気がする。
もしかして、今日はいい日になるんじゃないだろうか。
……いや、昨日の今日でそれはないか。
***
「おはよう、朝倉!」
約束の時間に部屋を出ると、隣の扉から陽菜が顔を出した。
「おう。おはよう」
「今日は本当に早いね。いつもこうだったらいいのに」
「たまに早起きしたくらいで、そんな無茶言うなよ」
「無茶なんだ……」
陽菜は呆れたように笑ったが、すぐに少しだけ表情を変えた。
「……昨日、ちゃんと眠れた?」
「まあ、途中で何回か起きたけどな。お前は?」
「私も、ちょっと寝つけなかった」
「……そっか」
陽菜は小さく頷いた。
いつもならもう少し軽口を叩くところだが、昨日のことを考えると、さすがに何も言えなかった。
俺たちは並んで階段を下り、学校へ向かう。
住宅街には、いつもどおりの朝が広がっていた。犬の散歩をする人や、駅へ急ぐ会社員。制服姿の学生たちも、特に変わった様子はない。
「……あ、そうだ。陽菜、ニュース見たか?」
「昨日の事件?」
「ああ。あの男、逃げたらしいぞ」
「……えっ?」
陽菜が足を止めた。
「捕まったんじゃなかったの?」
「俺もそう思ってた。でも、ニュースには逃走中って書いてあった」
スマートフォンを取り出し、記事の画面を見せる。
陽菜はしばらく黙って読んでいたが、やがて不安そうに眉を寄せた。
「……まだ捕まってないんだ」
「みたいだな」
「また誰かが怪我したりしないかな……」
「……どうだろうな」
適当なことを言って安心させるのも違う気がした。
昨日のあいつを見た限り、簡単に大人しくなるとは思えない。かといって、再び事件を起こすかどうかなんて俺にはわからない。
「まあ、警察も対策庁も捜してるんだろ。俺たちができるのは、変なところに近づかないことくらいじゃね?」
「……うん。そうだね」
陽菜は頷いたものの、まだ少し心配そうだった。
俺はスマートフォンをしまい、再び歩き出す。
「それに、昨日は神崎もいたしな」
「神崎さん?」
「ああ。あいつ、めちゃくちゃ強かっただろ」
「そうだね。……でも、神崎さんも怪我してたよ?」
「……あー、確かに」
昨日、陽菜が絆創膏を渡したときのことを思い出す。
右手の甲にできた、小さな擦り傷。
あれだけの能力を持っていても、怪我をしないわけじゃないらしい。
「……そういえば、神崎さんって結構有名なんだよ」
陽菜が言った。
「学校で?」
「うん。同じ二年生だし、能力のこともあるから」
「へえ。俺、全然知らなかったわ」
「昨日もびっくりしたよ。朝倉、本当に知らなかったんだね」
「他クラスの生徒なんて、そんなに覚えてないだろ」
「まあ、朝倉は休み時間に寝てること多いもんね」
「……それは関係なくないか?」
「あると思うよ?」
陽菜が楽しそうに笑う。
俺は返す言葉もなく、肩をすくめた。
そんな話をしているうちに、学校が見えてきた。
***
教室へ入ると、予想どおり昨日の事件が話題になっていた。
「なあ、犯人まだ逃げてるらしいぞ」
「マジで? 近くにいたらやばくね?」
「昨日あそこに買い物行こうと思ってたんだけど、行かなくてよかったわ」
あちこちから聞こえてくる会話に、俺は小さくため息をついた。
……まあ、そりゃそうだよな。
学校からそう遠くない場所で、あれだけの事件が起きたのだ。しかも、犯人はまだ捕まっていない。
俺だって当事者じゃなかったら、同じように話していただろう。
自分の席に座ると、近くにいた男子が声をかけてきた。
「おい、朝倉。お前、昨日鳴瀬スクエアにいたんだって?」
「……ああ」
「マジかよ! 大丈夫だったのか?」
「見てのとおり、ピンピンしてる」
「いや、そうじゃなくてさ。犯人とか見た?」
「……見たぞ」
「マジで!?」
男子が身を乗り出してくる。
「どんなやつだった?」
「でかくて、怖そうな男」
「……それだけ?」
「それだけって言われてもな。俺だって逃げるので精いっぱいだったんだぞ」
「そりゃそうか……」
男子は少し残念そうにしながらも、それ以上は聞いてこなかった。
俺は鞄から教科書を取り出し、机の上へ置く。
そのとき、教室の後ろから声が聞こえてきた。
「そういえば、昨日の事件に神崎がいたらしいぞ」
「神崎って、二年C組の?」
「そうそう。能力使って犯人と戦ったんだって」
「え、あいつそんなに強いの?」
「前からすごいって噂だったじゃん」
どうやら、神崎のことも話題になっているらしい。
俺は何となく窓の外へ目を向けた。
昨日、あんな危険な男と戦っていたことを考えると、すごい能力者だと噂されるのもわかる気がする。
ただ、本人はどう思っているのだろう。
……まあ、会ったら聞いてみるか。
そんなことを考えていると、担任が教室へ入ってきた。
「ほら、席につけー。ホームルーム始めるぞ」
俺たちは慌てて自分の席へ戻った。
***
午前中の授業が終わり、昼休みになった。
弁当を食べ終えた俺は、自動販売機で飲み物を買おうと教室を出た。
昨日の事件のせいで学校全体が落ち着かないのかと思っていたが、そんなことはなかった。昼休みになれば、みんな普段どおりに騒いでいる。
俺もその一人だ。
一階の自動販売機で缶コーヒーを買い、教室へ戻ろうとしたところで、廊下の向こうから見覚えのある少女が歩いてきた。
長い黒髪に、整った顔立ち。
神崎凛だった。
「あっ」
思わず声が漏れる。
神崎もこちらに気づいたらしく、足を止めた。
「……朝倉、だったわよね?」
「おう。昨日ぶり」
「ええ。昨日ぶりね」
神崎は小さく頷いた。
「……無事に学校に来られたのね」
「そりゃ来るだろ。別に怪我してないし」
「そう。ならよかった」
短い返事だったが、昨日のように険しい表情ではなかった。
「神崎は何してたんだ?」
「図書室に本を返しに行ってたの」
「へえ。真面目だな」
「……本を返しただけで?」
「俺なんて借りた本、返却日の前日に慌てて読むタイプだから」
「それ、最初から読む気がないんじゃない?」
「あるわ! 借りたときは!」
「……借りたときは、ね」
神崎は呆れたように首を振った。
その口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……お前、意外と遠慮なく言うんだな」
「何が?」
「いや、昨日はもっと近寄りがたい感じだったからさ」
「……今も十分失礼なんだけど」
「悪い悪い」
「本当にそう思ってる?」
「半分くらい」
「……正直ね」
神崎はため息をついたが、怒っている様子ではなかった。
昨日は危険な男と戦っていたから、ずっと真剣な顔をしていた。こうして普通に話してみると、案外冗談も通じるらしい。
「そういえば、手は大丈夫なのか?」
俺が尋ねると、神崎は少し不思議そうな顔をした。
「手?」
「ほら、昨日怪我してただろ」
「ああ、これね」
神崎は右手を持ち上げた。
手の甲には、小さな絆創膏が貼られている。
「大丈夫よ。朝、貼り替えたから」
「ちゃんと手当てしたんだな」
「……あなた、私を何だと思ってるの?」
「いや、昨日あれだけ大したことないって言ってたから」
「大したことないのと、放っておくのは別でしょ。悪化したら面倒だもの」
「……意外と現実的だな」
「普通だと思うけど」
神崎はそう言って、絆創膏の端を軽く押さえた。
「そういえば、昨日一緒にいた子……小日向さん、だったかしら」
「ん? 陽菜がどうかしたか?」
「あの子にも、お礼を伝えておいてくれる? 絆創膏、助かったから」
「ああ、わかった」
「それと……心配してくれたことも」
最後の言葉は、少しだけ声が小さかった。
俺は思わず神崎の顔を見る。
「……何?」
「いや、ちゃんと礼言うんだなと思って」
「……失礼ね。私だってお礼くらい言うわよ」
「悪い悪い」
「……本当に一言多いわね、あなた」
呆れたように言いながらも、神崎は少し笑っていた。
「……そういや、ニュース見たぞ」
俺が話題を変えると、神崎の表情がわずかに引き締まった。
「昨日の事件?」
「ああ。あの男、逃げたんだってな」
「……ええ」
「てっきり捕まったもんだと思ってた」
「私たちも追い詰めたんだけど、最後に逃げられたの」
神崎は少し悔しそうに答えた。
「対策庁の人たちが追跡してるから、いずれ捕まるとは思うけど……」
「……そっか」
昨日、あれだけの戦いをした神崎でも、逃げられてしまったらしい。
まあ、相手も能力者だし、そう簡単にはいかないか。
「でも、神崎が無事でよかったよ」
何となくそう言うと、神崎が目を瞬かせた。
「……え?」
「いや、あいつの攻撃、めちゃくちゃ危なかっただろ。ニュース見て、もしかして怪我でもしたのかと思ってさ」
「……ああ」
神崎は一瞬だけ視線を逸らした。
「……ありがとう。でも、私は大丈夫よ」
「そっか。ならよかった」
俺が頷くと、神崎は少しだけ困ったような顔をした。
「……あなたって、変わってるわね」
「は?」
「いや、普通はもっと能力のことを聞いてくるから」
「……あー」
そういえば、朝から神崎の能力について話している連中もいた。
「『本当にあの男と戦ったの?』とか、『能力見せて』とか。今日だけでも何回か聞かれたわ」
「うわ、面倒くさそう」
「面倒くさいわよ。特に、能力を見せろって言われても、学校で勝手に使えるわけないでしょ」
「そりゃそうだな。うっかり校舎切ったら大惨事だし」
「……あなた、私がそんなことすると思ってる?」
「いや、しないだろうけど」
「だったら言わないで」
神崎が半眼でこちらを見る。
俺は思わず笑ってしまった。
「でも、能力のことは気にならないの?」
「気になるぞ。めちゃくちゃ」
「……そうなの?」
「ああ。昨日のあれ、すごかったしな。どうやって光の刃なんか出してんのか、正直聞きたいことは山ほどある」
「……じゃあ、どうして聞かないの?」
「いや、今は昼休みだし。それに、聞いたところで俺が使えるようになるわけでもないだろ?」
俺がそう答えると、神崎は少しだけ目を丸くした。
「……それは、そうだけど」
「まあ、そのうち教えてくれよ。嫌じゃなかったら」
「……ええ。機会があればね」
神崎は小さく頷いた。
その表情が、さっきより少しだけ柔らかくなった気がした。
「……それと、朝倉」
「ん?」
「昨日は、あの女性を助けてくれてありがとう」
思いがけない言葉に、俺は目を瞬かせた。
「……え?」
「年配の女性よ。私が備品を切ったあと、あなたが支えてくれたでしょ」
「ああ、あれか」
「私、あの人が転ぶところまでは防げなかったから」
神崎は自分の右手へ視線を落とした。
「切れば止められると思ったけど、破片の動きまでは抑えられなかった。……あれは私の判断ミスだったわ」
昨日のことを思い出す。
あのとき、神崎は男と戦いながら、周囲の人々まで守ろうとしていた。
正直、俺からすれば十分すごかったと思う。
それなのに、本人は助けきれなかった部分を気にしているらしい。
「……いや、お前が切ってくれなかったら、もっと危なかったと思うぞ」
「それでも、危険だったことに変わりはないでしょ」
「……まあな」
「だから、そこは反省してる」
神崎はそう言ってから、俺を見た。
「でも、あなたが支えてくれたおかげで、あの人は転ばずに済んだ。それは本当だから」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
まさか、あの神崎凛からそんなことを言われるとは思っていなかった。
「……そっか」
「ええ」
「じゃあ、お互い様ってことにしとくか。俺だってお前に助けられたし」
そう答えると、神崎は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、小さく笑った。
「……そうね。それでいいと思う」
そのとき、廊下に予鈴が鳴り響いた。
「あっ、やべ」
俺は壁の時計を見る。
昼休みが終わるまで、あと五分もない。
「……俺、そろそろ戻るわ」
「ええ。私も戻るところ」
「じゃあ、またな」
「……朝倉」
「ん?」
神崎は少しだけ迷うような顔をしたあと、口を開いた。
「……昨日のこと、あまり気にしすぎないでね」
「……え?」
「あなた、避難してるときに何度も謝ってたでしょ」
「ああ……まあ」
確かに、昨日はいろいろと失敗した。
あのときは必死だったとはいえ、もう少し落ち着いていれば、余計な混乱を招かずに済んだかもしれない。
「……次は気をつけるよ」
そう答えると、神崎は頷いた。
「ええ。それでいいと思う」
「……じゃあな」
「またね」
神崎は軽く手を上げ、廊下の向こうへ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、缶コーヒーを開ける。
一口飲むと、少し苦かった。
「……やっぱ砂糖入りにすればよかったな」
今さら後悔しても遅い。
俺は残りのコーヒーを片手に、教室へ向かった。
***
放課後。
帰りのホームルームが終わり、俺が鞄に教科書を詰め込んでいると、陽菜が声をかけてきた。
「朝倉、今日一緒に帰れる?」
「おう。特に予定ないぞ」
「よかった!」
俺たちは昇降口で靴を履き替え、校門へ向かった。
「そういえばさ、陽菜」
「ん?」
「今日、神崎に会ったぞ」
「えっ、神崎さんに?」
「ああ。昼休みに偶然な」
「へえ。元気そうだった?」
「おう。手の怪我もちゃんと手当てしてた」
「そっか。よかった」
陽菜は安心したように笑った。
「あと、お前にお礼言っといてくれってさ。昨日の絆創膏と、心配してくれたこと」
「えっ、そんなことまで?」
「ああ」
「……そっか」
陽菜は少し嬉しそうに頷いた。
「神崎さん、優しい人なんだね」
「優しい……かどうかは微妙だな」
「え?」
「いや、結構ズバズバ言ってくるぞ。俺、昼休みだけで何回失礼って言われたかわからん」
「……それ、朝倉が変なこと言ったんじゃないの?」
「なぜわかる」
「だって朝倉だし」
……何だよ、その絶対的な信頼は。
陽菜は楽しそうに笑った。
「でも、よかったね。少し仲良くなれたみたいで」
「まあな。思ってたより話しやすかった」
「……そっか」
陽菜は小さく頷いた。
「私も今度会ったら、ちゃんと挨拶したいな」
「いいんじゃねえの? 同じ学校なんだし」
「うん!」
そんな話をしながら、俺たちはいつもの通学路を歩いていった。
夕方の住宅街には、学校帰りの生徒たちの声が響いている。
昨日の事件が嘘だったみたいに、普段と変わらない光景だった。
……ただ、一つだけ違うことがある。
昨日、あれだけ暴れていた男は、まだ捕まっていない。
俺は何となく周囲を見回した。
もちろん、こんな住宅街にあの男がいるわけじゃないだろう。
……たぶん。
「朝倉?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
俺は首を振った。
考えても仕方がない。
犯人を捕まえるのは、警察と対策庁の仕事だ。俺は普通に学校へ行って、飯を食って、陽菜とくだらない話をしていればいい。
そのはずだった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えたのは、そのときだった。
「……ん?」
取り出してみると、見知らぬ番号からの着信だった。
普段なら無視するところだが、昨日、警察に連絡先を伝えている。もしかすると、その関係かもしれない。
「陽菜、ちょっと待って」
「どうしたの?」
「知らない番号から電話。昨日の件かもしれない」
「そっか。じゃあ、ここで待ってるね」
俺は頷き、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『朝倉悠真さんのお電話でお間違いないでしょうか』
聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。
「あ、はい。そうですけど」
『突然のお電話、失礼いたします。私、異常現象対策庁・鳴瀬支部の橘玲奈と申します』
「……対策庁?」
思わず聞き返す。
昨日、神崎と一緒に現場で動いていた人たちが所属する組織だ。
ニュースでは何度も聞いたことがあるが、まさか直接連絡が来るとは思わなかった。
『昨日、鳴瀬スクエアで発生した事件について、確認したいことがありまして。今、お時間はよろしいでしょうか』
「……あ、はい。大丈夫です」
『ありがとうございます。実は、昨日の避難状況について調査を進めているのですが――』
俺はスマートフォンを握り直した。
昨日の事件。
逃げた男。
そして、対策庁からの突然の電話。
……何だか、面倒なことになりそうだな。
俺は小さく息を吐き、電話の続きを聞いた。




