11話 英雄の素顔
『昨日の避難状況について調査を進めているのですが、朝倉さんに一つ確認したいことがありまして』
電話の向こうから聞こえてきた橘玲奈という女性の声に、俺は思わず背筋を伸ばした。
異常現象対策庁。昨日、あの大男を追い詰めた組織だ。もっとも、ニュースによれば犯人には逃げられてしまったらしいが。
「……あ、はい。俺にわかることなら」
『ありがとうございます。朝倉さんは昨日、南側出口へ向かおうとして、警備員に制止されたそうですね』
「……はい」
うっ。そこを聞かれるのか。
案内板だけを頼りに通路へ向かおうとして、ほかの人まで巻き込んでしまった。あのときの混乱を思い出すと、今でも顔が熱くなる。
「すみません。あのときは出口があると思って……」
『いえ、そのことを責めるためにお電話したわけではありません。管理区域付近の様子について、お話を伺いたいんです』
「管理区域、ですか?」
『はい。事件の前後に、従業員用の通路へ出入りする人などを見かけませんでしたか?』
俺は少し考えた。
昨日の鳴瀬スクエア。大きな音が聞こえてきたあとは、陽菜と逃げるので精いっぱいだった。
誰がどこを歩いていたかなんて、ほとんど覚えていない。
「……すみません。騒ぎになってからは、周りまで見てなくて」
『では、事件が起きる前のことでも構いません。何か気になったことはありませんでしたか?』
「事件が起きる前……」
言われて、ふと思い出した。
陽菜の買い物に付き合っていたとき、関係者専用の表示が出た通路を見た。奥で何かを運んでいる人がいて、そのうちの一人が慌てて駆け込んでいったはずだ。
「……あの、一階の従業員用通路に、急いで入っていく人なら見た気がします」
『一階の通路ですね。どの辺りだったか、覚えていますか?』
「陽菜と店を回ってたときに見たんですけど……すみません、店の名前までは。関係者専用って書いてあって、その奥で作業してる人がいました」
『その人物も、作業員のような服装でしたか?』
「たぶん、そうだったと思います。ただ、遠くから見ただけなんで、はっきりとは」
答えながら、少し不安になった。
あのときは仕事中なのだろうと思い、そのまま通り過ぎている。今になって聞かれても、細かいところまで思い出せるわけではなかった。
『大丈夫です。覚えている範囲で構いません。急いで入っていったのは、お一人でしたか?』
「俺が見たのは一人です。そのあと別の人が来て、扉を閉めてました」
『なるほど。ありがとうございます』
電話の向こうで、何かを書き留めるような音がした。
俺は隣で待っている陽菜へ目を向けてから、少し声を落とした。
「……あの、今のって、事件と何か関係あるんですか?」
『現段階では何とも言えません。通常の業務だった可能性もありますので』
「……ですよね」
従業員用通路に作業員が入っていく。
当たり前といえば、当たり前の光景だ。あの人が急いでいた理由だって、俺にはわからない。
『ただ、当時の状況を確認するうえでは参考になります。ご協力ありがとうございます』
「いえ。曖昧な話ですみません」
『それから、もう一つお伝えしたいことがあります』
「はい?」
『昨日、朝倉さんたちが保護した男の子ですが、無事にお母様と合流できたそうです』
「……本当ですか?」
思わず声が大きくなった。
隣で陽菜がこちらを見る。
『はい。施設側から報告を受けています』
「……よかった」
あの子は、母親の居場所を聞こうとしても泣いてしまっていた。最後は警備員に任せたものの、その後どうなったのか気になっていたのだ。
無事に会えたなら、それが何よりだった。
『本日はありがとうございました。追加で確認したいことがあれば、改めてご連絡する場合があります』
「あ、はい。わかりました」
『それと、犯人は現在も逃走中です。警察と対策庁で捜索を続けていますが、くれぐれもご自身で調べたり、近づいたりしないでくださいね』
「……それはもう、絶対に」
あんな男に、自分から会いに行きたいわけがない。
即答すると、橘さんの声が少しだけ和らいだ。
『お願いしますね。では、失礼いたします』
「失礼します」
通話が切れた。
俺はスマートフォンを耳から離し、大きく息を吐いた。
「……はぁ。緊張した」
「朝倉、大丈夫?」
隣で待っていた陽菜が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ。昨日のことで、ちょっと話聞かれただけだよ」
「そっか……」
「それより、そうた君、お母さんと会えたらしいぞ」
「えっ、本当!?」
陽菜の表情がぱっと明るくなった。
「よかったぁ……! ずっと気になってたんだよね」
「ああ。俺もだ」
陽菜は胸の前で手を合わせ、ほっとしたように笑った。
その顔を見て、俺もようやく肩の力が抜ける。
電話の最初は何を聞かれるのかと身構えたが、こうして無事を知れただけでもありがたい。
「……さて、帰るか」
「うん!」
俺たちは再び歩き始めた。
***
「それにしても、朝倉って変なところでよく覚えてるよね」
帰り道、陽菜がそんなことを言い出した。
「……何が?」
「さっきの電話。従業員用通路に入っていく人を見たって話してたでしょ?」
「ああ、あれか」
「私、そんな人いたの全然覚えてないよ」
「俺も、聞かれるまで忘れてたぞ。お前が先にエスカレーターの方へ行ってたときだったと思うし」
「そうだったんだ。でも、ちゃんと思い出せたんだね」
陽菜は感心したように言った。
俺としては、たまたま目に入ったものを覚えていただけだ。服装すらろくに答えられなかったのだから、そこまで褒められると少々落ち着かない。
「俺がそんなに物覚えよかったら、小テストでも苦労してねえよ」
「……それは確かに」
「おい。そこは否定しろよ」
陽菜が楽しそうに笑う。
俺は肩をすくめてから、彼女の手元へ目を向けた。昨日あれだけ抱えていた買い物袋は、今日はない。
「そういや、昨日買った材料、大丈夫だったか?」
「うん。帰ってから確認したけど、特に問題なかったよ」
「そっか。結構走り回ったから、中身ぐちゃぐちゃになってるかと思った」
「ちゃんと持ってたから大丈夫。割れちゃいそうなものも買ってなかったし」
陽菜はそう言って、少しだけ声を弾ませた。
「週末には、買ったチョコレートを使ってみようと思ってるんだ。二種類で味がどう違うか試したくて」
「へえ。じゃあ、できたら俺にも食わせてくれよ」
「もちろん! 朝倉には試食係をお願いしようと思ってたし」
「任せろ。食うだけなら得意だ」
「もう、それ自慢すること?」
そんなやり取りをしながら、いつもの道を歩く。
昨日は、周りに人がいるだけでぶつかられそうな気がしていたのに、今日はすれ違う自転車を避ける余裕もある。
陽菜が隣で菓子の話をしている。
それが、何となくありがたかった。
***
翌日の昼休み。
弁当を食べ終えた俺は、空になった弁当箱を片づけ、そのまま机に突っ伏した。
眠い。
とにかく眠い。
昨夜も事件のことが気になって何度か目が覚めたうえ、今日は朝から小テストまであった。昼飯で腹が満たされた今、起きている理由は何もない。
「……朝倉」
「……んー?」
「寝るの?」
「……見ればわかるだろ」
「今日はちょっと付き合ってほしかったんだけど」
「……何に?」
「神崎さんのところ」
その名前を聞いて、俺は片目を開けた。
陽菜は弁当袋を鞄へしまうと、俺の机に手をついた。
「昨日、朝倉からお礼を伝えてもらったでしょ? 私も直接話したいなって思って」
「ああ。絆創膏のことか」
「うん。それで、一緒に行ってくれない?」
「……俺も?」
「だって、事件のあとに少し話しただけだし。一人でC組に行くの、ちょっと緊張するんだもん」
「俺も似たようなもんだけどな……」
とはいえ、知っている相手が一緒なら、少しは気が楽なのだろう。
時計を見ると、昼休みはまだ十分に残っていた。
今から寝直したところで、また起きるのがつらくなるだけかもしれない。
「……わかったよ」
「本当!?」
「ただし、帰ってきたら寝るからな」
「ふふっ。はいはい」
俺は身体を起こし、大きく伸びをした。
***
二年C組の教室は、俺たちのA組から廊下を少し歩いたところにある。
入口から中を覗くと、机を寄せて弁当を食べている生徒や、教室の後ろで話している生徒が見えた。
よそのクラスというだけで、妙に入りづらい。
「……で、神崎はどこだ?」
「朝倉、見つからない?」
「いや、入口からだと奥が見えねえんだよ」
そんなことを話していると、近くにいた女子生徒がこちらに気づいた。
「誰か捜してる?」
「あ、すみません。神崎さん、いますか?」
陽菜が尋ねると、女子生徒は窓際を指さした。
「凛なら、あそこにいるよ」
「ありがとうございます!」
神崎は窓際の席に座り、片手に文庫本を持っていた。もう片方の手にはパンがある。
……器用なやつだな。
俺なら本を読むか、飯を食うか、どちらかに集中したいところだが、本人は慣れているらしい。
近づくと、神崎が本から顔を上げた。
「……朝倉?」
「よう。邪魔して悪いな」
「別にいいけど……」
その視線が、隣の陽菜へ移る。
「あら、小日向さん」
「こんにちは、神崎さん!」
「こんにちは。どうしたの、二人揃って」
「昨日、朝倉から聞いたんです。絆創膏のお礼を言ってくれたって」
「ああ……わざわざ来てくれたの?」
神崎は右手を見下ろした。
昨日貼っていた絆創膏は、今日はもうなくなっている。手の甲にはまだ薄く傷が残っていたが、赤みは引いているようだった。
「もう、ほとんど治ったから。ありがとう」
「よかったです!」
「でも、次にああいうことがあったら、私の怪我より先に自分の確認をしてね」
「え?」
「小日向さんも、あの中を逃げてきたんでしょう? そのときは気づかなくても、あとから痛くなることもあるから」
陽菜は少し驚いたあと、頷いた。
「はい。でも、私は本当に大丈夫でした。朝倉も、怪我はなかったんですよ」
「……そう。それならよかったわ」
神崎は俺にも目を向けた。
何となく、もう一度どこも痛くないか確認されている気がして、俺は両手を軽く上げてみせる。
「ほら、問題なし」
「そんなに動かさなくてもわかるわよ」
「いや、疑われてるのかと思って」
「あなた、聞かれたら何でも大丈夫って答えそうだから」
「……会って間もない相手に、結構な評価だな」
陽菜が隣で吹き出した。
神崎も少しだけ口元を緩め、持っていたパンを机に置く。
「それで、お礼を伝えに来てくれたのね」
「ああ。……あとは、少し話せたらと思って」
自分でも、口にしてから少々意外だった。
陽菜に付き合って来ただけのつもりだったが、顔を見たら、そのまま帰るのも惜しくなったのだ。
「神崎、このあと時間あるか? よかったら中庭でも行かないか」
「中庭?」
「ここで立ったまま話すのも何だし。……あ、もちろん飯食い終わってからでいいぞ」
神崎は俺たちを見比べたあと、開いていた本へ栞を挟んだ。
「構わないわよ。少し待ってくれる?」
「もちろんです!」
陽菜が即答する。
俺たちは神崎が食べ終わるまで、近くの空いている席を借りることにした。
***
数分後。
俺たちは三人で中庭へ向かっていた。
「それにしても、朝倉」
「ん?」
「あなた、結構思いつきで行動するタイプなのね」
「……そうか?」
「昨日は自動販売機の前で話していたと思ったら、今日は教室まで来て中庭に誘うんだもの」
「昨日のは偶然会っただけだろ。今日だって、最初は陽菜に付き合って来ただけだし」
「じゃあ、中庭は?」
「……今、思いついた」
「ほら」
言い返せなかった。
隣で陽菜が楽しそうに笑っている。
「朝倉って、そういうところあるんですよ。普段は面倒くさがるのに、急に思いついたことを始めたりして」
「おい。人を落ち着きのないやつみたいに言うなよ」
「違うの?」
「……もう少し言い方あるだろ」
神崎まで笑う。
二人に挟まれて歩いていると、どうにも分が悪かった。
中庭には空いているベンチがあり、俺たちは並んで腰を下ろした。陽菜と神崎が隣り合い、俺はその端だ。
陽菜は最初こそ少し緊張していたが、C組の小テストの話が出る頃には、身を乗り出して神崎の話を聞いていた。
「そっちも難しかったんですか?」
「最後の問題が少しね。時間が足りなくなりそうだったわ」
「私もです! 途中まで解けたんですけど、見直す時間がなくて」
「……お前ら、最後まで手をつけてたのか」
思わず口を挟むと、二人が同時にこちらを向いた。
「朝倉は?」
「……聞くな」
「でも、朝から頑張ってたじゃない。教科書も開いてたし」
「開いたからって、頭に入るとは限らねえんだよ」
「それは、もっと前から勉強しておけばよかったんじゃない?」
神崎の指摘が、まっすぐ胸に刺さった。
反論できずに黙ると、陽菜が気の毒そうな顔をする。
「朝倉、次はもう少し早く準備しようね」
「……善処します」
「その返事だと、しなさそうね」
「何でそこまで見抜くんだよ」
今度は二人に笑われた。
まったく、俺の話になると妙に息が合う。
そのうち、話題は陽菜の菓子作りへ移った。
週末に二種類のチョコレートを使ってみるつもりだと説明すると、神崎は興味があるらしく、どんな菓子を作るのかと尋ねていた。
俺にも聞かれたが、残念ながら詳しくは知らない。食わせてもらう約束しかしていなかった。
「……朝倉、本当に食べることしか聞いてないんだね」
「得意分野だからな」
「それ、さっきも言ってなかった?」
「何度でも言うぞ」
陽菜が呆れたように笑う。
その向こうで、神崎も肩を揺らしていた。
一昨日の彼女は、周りを確認しながら白い刃を構えていた。俺が余計なことをすれば、すぐに厳しい声が飛んできた。
それなのに今は、俺のくだらない返事を聞いて笑っている。
「……何?」
視線に気づいた神崎が、こちらを向いた。
「いや。こうしてると、一昨日のことがちょっと信じられなくてさ」
神崎の笑みが薄くなる。
俺は慌てて言葉を足した。
「ああ、悪い。思い出したくないよな」
「そういうわけじゃないけど……」
「お前には助けてもらったし、能力のことも聞いてみたいとは思うんだけどな。ただ、今また事件の話にするのも違う気がして」
神崎は少し黙ったあと、俺を見た。
「……気になるの?」
「そりゃな。あんなの、目の前で見たの初めてだったし」
「そう」
彼女は自分の右手へ一度目を落としてから、顔を上げた。
「じゃあ、その話はまた今度ね」
「おう。答えられることだけでいいから」
「……まだ何も聞かれてないんだけど」
「先に言っといた方がいいかと思って」
神崎は小さく息を漏らした。
呆れられたのかと思ったが、その口元には笑みが戻っている。
そのとき、校舎から予鈴が聞こえた。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。俺はベンチから腰を上げ、制服の裾を軽く払う。
「もうこんな時間か」
「朝倉、帰ってから寝るんじゃなかったの?」
「……今から寝たら、次の授業終わるまで起きねえな」
「それは起きなよ!」
陽菜の声に、神崎がまた笑った。
三人で校舎へ戻り、C組の前で足を止める。
「じゃあ、またな。昼休み、付き合ってくれてありがと」
「こちらこそ。誘ってくれてありがとう」
「神崎さん、またお話ししましょう!」
「ええ。ぜひ」
神崎が教室へ入るのを見送り、俺たちもA組へ戻った。
席に着いた途端に眠気が戻ってきたが、さっきまでのように机へ突っ伏す気にはならなかった。
***
放課後。
陽菜と並んで教室を出ると、廊下には部活へ向かう生徒たちがいた。俺たちの横を、少し急いだ足取りで通り過ぎていく。
「今日、神崎さんと話せてよかったね」
「ああ。結構長居しちまったな」
「うん。最初は緊張したけど、途中から忘れてた」
「お前ら、菓子の話してるとき、俺のこと忘れてなかったか?」
「忘れてないよ。朝倉が知らない話だっただけでしょ」
「……それはそう」
陽菜が笑う。
階段を下りながら、俺は昼休みのことを思い返していた。
神崎は本を読みながらパンを食べる。小テストでは時間が足りなくなりそうになるし、陽菜の菓子作りにも興味を持つ。
事件の現場で会っただけでは、知らないままだったことだ。
「また誘ってもいいかな」
陽菜がぽつりと言った。
「いいんじゃね。本人も、また話そうって言ってたし」
「そうだね」
「次はもう少し早く誘えよ。今日は俺ら、飯食い終わってから行ったからな」
「ふふっ。中庭に誘ったのは朝倉でしょ?」
「……そうでした」
陽菜の笑い声を聞きながら、昇降口へ向かう。
靴を履き替えて外へ出ると、校庭から部活動の掛け声が聞こえてきた。
神崎と昼休みを過ごしたからといって、急に何かが変わったわけではない。
ただ、廊下で会えば、今度は迷わず声をかけられそうだった。




