12話 神崎凛の能力
「……あと五分」
「朝倉、それさっきも言ってたよ」
「じゃあ、あと三分」
「短くなってるけど?」
「譲歩ってやつだ」
「もう……」
呆れたような声が頭の上から降ってくる。
机に突っ伏したまま片目を開けると、陽菜が腰に手を当てて立っていた。
時刻は昼休み終了の五分前。昨日は神崎と話していて昼寝ができなかったので、今日は少しでも眠っておきたかった。
もっとも、残り五分で何が変わるのかと聞かれれば、俺にもわからない。
「朝倉、昨日は何時に寝たの?」
「十二時前には寝たぞ」
「……それで?」
「俺にしては早い方だろ」
「もう少し早く寝た方がいいと思う」
まったくもって正論である。
陽菜はため息をつくと、俺の机を指先で軽く叩いた。
「次、移動教室だからね。置いていかれても知らないよ?」
「……え?」
俺は顔を上げた。
「移動教室?」
「うん。能力社会学の授業、今日は第二講義室だって」
「……マジか」
慌てて時間割を確認する。
確かに、連絡欄に小さく書いてあった。
危ない。危うく一人だけ教室に取り残されるところだった。
「助かったわ、陽菜」
「どういたしまして。じゃあ、早く準備してね」
「おう。……ところで、ノートって何使うんだっけ?」
「朝倉!」
怒られた。
***
能力社会学。
名前だけ聞くと難しそうだが、簡単に言えば異能力と社会の関わりについて学ぶ授業だ。
能力者が公共の場で守るべき規則や、能力によって起きた事故への対応。能力使用に伴う身体的・精神的な負担についても扱う。
俺のような無能力者にも関係のある内容なのだが、正直、普段はそこまで真面目に聞いていない。
……いや、聞いてはいるぞ。
ただ、たまに意識が飛ぶだけで。
「それでは、前回の続きから始めます」
教壇に立った教師がスクリーンを操作すると、『異能力者による緊急時の対応』という文字が映し出された。
「異能力は、災害や事故の現場で大きな力を発揮します。しかし、能力者であるという理由だけで、あらゆる状況に対応できるわけではありません」
教師が画面を切り替える。
そこには、能力者が災害現場で救助活動を行っている写真が映っていた。
「大切なのは、自分の能力で何ができるかだけではなく、何ができないかも理解することです。能力を過信した行動は、かえって被害を拡大させる場合があります」
俺は写真の中の救助隊員を見つめた。
三日前の鳴瀬スクエアでも、神崎は男の攻撃を防ぐだけでなく、周りにいる人たちへ何度も声をかけていた。
あの白い刃さえあれば、何でもどうにかなる。
俺には、そう見えていたけれど。
実際に使う側からすれば、そう単純な話でもないのだろう。
「では、ここで一つ問題です」
教師が新しいスライドを表示した。
『商業施設で事故が発生し、複数の出口に避難者が集中しています。施設職員の案内と、非常口の表示が異なる方向を示している場合、どのように行動するべきでしょうか』
「…………」
何となく嫌な予感がした。
というか、これ。
あのときの俺じゃねえか。
「朝倉君」
「……はい?」
突然名前を呼ばれ、思わず背筋が伸びた。
教師がこちらを見ていた。
「君ならどうしますか?」
……何でよりによって俺なんだよ。
クラスの何人かがこちらを振り返る。
隣に座っていた陽菜まで、少し驚いたような顔をしていた。
俺は頭をかきながら、言葉を選んだ。
「……えっと、まずは職員の人に確認します」
「なぜですか?」
「案内板があっても、実際にその出口が使えるとは限らないからです。火事とかだったら、通路が塞がってるかもしれないし……」
口に出してから、少し妙な気分になった。
三日前の俺は、まさにそれを確認しなかったのだ。
「そのとおりです。表示だけでは、現在の通路の安全性まで判断できません。現場の状況を把握している職員の指示を優先し、不明な点は確認することが重要です」
教師は頷き、次の説明へ移った。
俺は椅子に座り直す。
答えがわかったところで、あのとき進路を変えてしまった人たちへの申し訳なさが消えるわけではなかった。
隣から、小さな声がした。
「……朝倉」
「ん?」
「今の、ちゃんと答えられたね」
「……あれだけ失敗すりゃ、さすがに覚えるって」
「うん。でも、覚えてるのはいいことだと思うよ」
「……褒められてんのか、これ」
「褒めてるよ?」
「何か微妙だな……」
陽菜が口元を押さえて笑う。
俺は再びスクリーンへ目を向けた。
まあ、同じ失敗を繰り返さないに越したことはない。
できれば、次に生かす機会なんて来ないでほしいけどな。
***
放課後。
俺が帰り支度をしていると、教室の入口から声が聞こえた。
「朝倉、いる?」
顔を上げると、神崎が立っていた。
「……おう。どうした?」
「少し時間ある?」
「ああ。別にいいけど」
俺は鞄を肩に掛け、入口へ向かった。
近くにいた男子が、面白そうにこちらを見る。
「おい朝倉。また神崎じゃん」
「……またって何だよ」
「いや、最近よく話してるなと思って」
「用事があるんだろ」
「へえ?」
何だ、その顔。
俺が眉を寄せると、男子は楽しそうに笑いながら手を振った。
「頑張れよー」
「何をだよ!」
思わず言い返したが、すでに相手は別の友人のところへ行ってしまっていた。
……ったく。
教室の外へ出ると、神崎が待っていた。
「……あなた、クラスでもあんな感じなの?」
「まあ、大体な」
「そう。大変そうね」
「他人事だな、おい」
「私が何か言ったら、余計にからかわれるんじゃない?」
「……それもそうだな」
神崎は小さく笑った。
「それで、どうしたんだ?」
俺が尋ねると、神崎は少しだけ表情を改めた。
「昨日の昼休みに、私の能力のことを聞いてみたいって言ってたでしょう?」
「ああ、言ったな」
「今日は少し時間があるから。話すくらいなら、いいかなと思って」
「……マジで?」
思わず聞き返す。
神崎は少しだけ眉を寄せた。
「都合が悪かった?」
「いや、そうじゃなくて。覚えててくれたんだなって」
「昨日のことだもの」
「それはそうだけどさ」
俺が頭をかくと、神崎は少しだけ視線を逸らした。
「ただし、実際に能力を見せたりはしないからね。校内で勝手に使うわけにはいかないし」
「わかってるって」
「本当に?」
「……俺、そんなに信用ない?」
「知り合って、まだ三日でしょう。もう少し様子を見させて」
「……ごもっともです」
肩を落とすと、神崎が小さく笑った。
「じゃあ、どこか座れるところに行きましょうか」
「おう」
俺は教室へ顔を向けた。
「陽菜、ちょっと神崎と話してくるわ」
帰り支度をしていた陽菜が顔を上げる。
「あ、うん! 私、今日は先に帰ろうかなって思ってたから」
「そっか。じゃあ、また明日な」
「うん。神崎さんも、またね!」
「ええ。またね、小日向さん」
陽菜は手を振り、鞄を持って教室を出ていった。
俺は神崎と並んで廊下を歩き始めた。
***
向かったのは、校舎の一階にある談話スペースだった。
放課後ということもあって、利用している生徒は少ない。窓際のテーブルに座ると、神崎は鞄を隣の椅子へ置いた。
「……さて」
俺は少し身を乗り出した。
「何から聞いていい?」
「そんなに聞きたいことがあるの?」
「そりゃあるだろ。手から光の刃が出てくるんだぞ?」
「……光の刃、ね」
神崎が少し困ったように笑う。
「見た目はそうだけど、正確には斬撃を発生させる能力なの。名前は『斬界』」
「ざんかい……」
俺は小さく繰り返した。
「何か、格好いい名前だな」
「……そこ?」
「いや、重要だろ。俺だって能力があったら格好いい名前つけたいし」
「自分でつけたわけじゃないんだけど」
「……えっ」
「能力の分類上、そう呼ばれてるだけよ」
「……そうなのか」
ちょっと残念だ。
てっきり能力者が自分で名前をつけるものだと思っていた。
「でも、斬界って名前は結構気に入ってるわ」
「へえ。そうなのか?」
「ええ。最初に聞いたときは、少し大げさだと思ったけど」
「わかる。ちょっと必殺技っぽいよな」
「……それは否定しないわ」
神崎が小さく笑った。
俺は、あのとき柵を切断した白い刃を思い浮かべる。
「それって、何でも切れるのか?」
「何でも、というわけじゃないわ。材質や厚さによっては切れないものもあるし、私自身の状態にも左右されるから」
「へえ……」
「それに、届く範囲にも限界があるの。遠くのものを好きに切れるわけじゃないわ」
「……なるほどな」
俺は頷いた。
鳴瀬スクエアでは、神崎が男の動きに合わせて何度も位置を変えていた。
相手の攻撃を避けるためだけではなく、自分の刃が届く場所へ移動する必要もあったのかもしれない。
「……じゃあさ」
「何?」
「あの男みたいに、いろんなもの壊して暴れる相手って、結構大変なんじゃね?」
神崎が少し目を瞬かせた。
「……どうして?」
「いや、お前の能力って切るやつだろ? でも、周りに人がいたら、適当に切るわけにもいかないじゃん」
「……そうね」
神崎は小さく頷いた。
「あのときは、相手だけを見ていればいいわけじゃなかったから。避難している人の位置も、気にしないといけなかったわ」
「やっぱりな」
「あの女性のことも、もっと早く気づけていればよかったんだけど」
神崎の視線が、テーブルへ落ちた。
床を滑っていった金属の破片。その先にいた、年配の女性。
俺は膝の上で手を組み直した。
「……あれ、俺も直前まで気づかなかったぞ」
「でも、あなたは動けたでしょう?」
「近くにいただけだって。神崎は、あの男も相手にしてたし」
「だから仕方なかった、で済ませたくはないの」
静かな声だった。
俺は、何か言おうとして口を閉じた。
大丈夫だったからいい。
そう言えば、気が楽になるのかと思った。けれど、神崎が気にしているのは、そういうことではないらしい。
「……そっか」
それだけ答えると、神崎が顔を上げた。
「ごめんなさい。せっかく能力の話をしに来たのに」
「いや、俺が聞いたんだろ。謝ることじゃねえよ」
「……そうね」
神崎は小さく息を吐いた。
俺も少し姿勢を崩し、椅子の背にもたれる。
「それにしても、よくあんなに周り見られるよな。俺なんか、自分の行く方で精いっぱいだったのに」
「あなたも、結構見ていたんじゃない?」
「え?」
「さっき、私がどう動いていたか話していたから」
「ああ。まあ、逃げる途中に見てたからな」
「……ちゃんと逃げなさいよ」
「それはもう散々言われたって!」
抗議すると、神崎の口元が緩んだ。
「ふふっ。そうだったわね」
……まったく。
自分で聞いておいて、それはないだろ。
俺は肩をすくめてから、ふと思いついたことを尋ねた。
「能力って、使いすぎると疲れたりするのか?」
神崎の笑みが、少しだけ薄くなった。
「……ええ。もちろん」
「やっぱり?」
「身体的な疲労もあるし、それ以外の負担もあるわ」
「それ以外って……感情摩耗とか?」
「ええ」
授業では何度も聞いている。
能力を使うたびに、特定の感情が少しずつ薄れていく。疲れたから休めばいい、というだけの話ではない。
それでも、実際にどんなものなのかはよくわからなかった。
何しろ、俺自身には能力がないのだから。
「……神崎も、そういうのあるのか?」
何気なく尋ねた瞬間、彼女の表情がわずかに固まった。
「…………」
しまった。
聞いちゃまずいことだったか?
俺は慌てて口を開く。
「あ、いや。答えにくいなら別にいいぞ。変なこと聞いて悪かった」
「……ううん」
神崎は首を横に振った。
「ただ、何て説明したらいいのか、少し迷っただけ」
「……そっか」
俺は頷き、それ以上は聞かなかった。
テーブルの上に置かれた彼女の右手には、まだ薄く擦り傷の跡が残っている。
三日前は、そればかり気にしていた。
目に見えないところにも負担があると知っていたはずなのに、神崎を前にすると、つい忘れてしまっていた。
「……朝倉?」
「ああ、いや。何でもない」
俺が顔を上げると、神崎は少しだけ首を傾げた。
それから、話題を変えるように口を開く。
「朝倉は、能力がほしいと思ったことはある?」
「そりゃあるだろ」
返事は、すぐに出た。
「子供の頃なんか、いつか突然目覚めるんじゃないかって、結構本気で期待してたぞ」
「……そうなの?」
「ああ。寝る前に手を伸ばして、何か出ないか試したりしてた」
「……ふふっ」
神崎が口元を押さえて笑った。
「な、何だよ」
「ごめんなさい。ちょっと想像しちゃって」
「……笑うなよ。子供だったんだから」
「わかってるわ。でも……」
神崎は少しだけ笑いをこらえるようにして言った。
「今もやってたりする?」
「するわけねえだろ!」
思わず声が大きくなった。
……いや、正直に言えば、中学くらいまではたまにやっていたけど。
そこは黙っておこう。
「……そう」
神崎はまだ少し笑っていた。
「でも、今の話を聞いても、ほしいと思う?」
俺は返事をしかけて、少し考えた。
便利そうだから。
格好いいから。
そんな理由で憧れていたのは、事実だ。
けれど、何かを失うとわかったうえで使えるかと聞かれると、すぐには答えられなかった。
「……わかんねえな」
「そう」
「怖いとは思う。でも、俺にも何かできたんじゃないかって、考えちまうことはあるよ」
神崎は黙って聞いていた。
俺は、自分の手のひらへ目を落とす。
「この前だって、あの男を止められたわけじゃないしな。結局、神崎や対策庁の人に任せるしかなかっただろ」
「……あの女性を助けたでしょう?」
「それは、そうだけど」
「戦うことだけが、誰かを助ける方法じゃないと思うわ」
神崎は当たり前のように言った。
「あなたがあの人を支えてくれたから、私は男の方へ戻れた。それは、助かったの」
「……そうなのか?」
「ええ」
迷いのない返事だった。
俺は少しだけ言葉に詰まり、膝の上へ手を戻した。
正直、能力があればもっといろんなことができるはずだ、と思う気持ちは変わらない。
ただ、神崎にそう言ってもらえたことは、嬉しかった。
「……そっか。ありがとな」
「お礼を言ったのは、私の方なんだけど」
「ああ、いや……」
上手く説明できず、頭をかく。
神崎は少し不思議そうな顔をしたあと、それ以上は聞かずにいてくれた。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
「……結構話し込んじまったな」
「そうね」
「悪い。いろいろ聞いちゃって」
「別に。嫌だったわけじゃないから」
神崎はそう言って、隣の椅子から鞄を持ち上げた。
「ただ、次はもう少し普通の話でもいいんじゃない?」
「……普通の話?」
「そう。授業のこととか、好きなもののこととか」
「……ああ、なるほど」
確かに、今日は能力の話ばかりだった。
聞きたいと言ったのは俺だし、神崎もそのために時間を取ってくれたのだが、毎回これでは疲れるだろう。
「じゃあ、次は好きな食べ物でも聞くか」
「……どうして食べ物なの?」
「いや、無難だろ」
「朝倉が聞きたいだけじゃない?」
「……それもある」
神崎が小さく笑った。
「じゃあ、それは次に話しましょうか」
「おう」
俺たちは並んで談話スペースを出た。
***
校門を出る頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
神崎と並んで歩きながら、俺はさっきの会話を思い返していた。
白い刃を出して、金属を切る。
あのとき目にしたのは、ほんの一部分だったらしい。
届かない場所もある。切れないものもある。使えば、負担もかかる。
それでも神崎は、周りの人まで守ろうとしていた。
「……朝倉?」
「ん?」
「さっきから静かだけど、どうしたの?」
「いや。結構いろいろ聞けたなと思って」
「そう?」
「ああ。ありがとな、時間取ってくれて」
神崎は少しだけ目を丸くした。
それから、前へ向き直る。
「……どういたしまして」
駅前の交差点で、彼女が足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから」
「ああ。また学校でな」
「ええ。また」
軽く手を振り、神崎が駅の方へ歩いていく。
俺も反対方向へ足を向けた。
結局、神崎がどんな感情を失うのかは聞かなかった。
気にならないわけじゃない。
ただ、言いにくそうにしている相手へ、どうしても教えてくれと頼むようなことでもないだろう。
次に話すときは、さっき約束した食べ物の話でいい。
俺も気楽に聞けるし、神崎だって答えに困らないはずだ。
……まあ、とんでもなく高い料理を挙げられたら、俺の方が困るけどな。
そんなことを考えていると、腹が鳴った。
「……帰るか」
家に帰ったら、まず夕飯だ。
それから風呂に入って、今日は早めに寝よう。
……そういえば、明日の宿題が残っていた気がする。
俺は鞄を持ち直し、小さくため息をついた。




