2話 異能力とは
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「はぁ……はぁ……ちょっと待て、陽菜!」
アパートを出てから五分ほど。俺は早くも走り出したことを後悔していた。
「もう! 朝倉、少しは体力つけた方がいいよ!」
「うるせえ……! 朝飯食った直後に走る方が……身体に悪いだろ……!」
「だったら寝坊しなければよかったのに!」
まったくもって、そのとおりである。
言い返す言葉もなく、俺は交差点の手前で足を止めた。ちょうど信号が赤に変わったところだったので、休憩するには都合がいい。
陽菜も隣に並び、腕時計を確認する。
「八時三十分かあ。ちょっと厳しいかな」
「まだ十五分あるだろ。ここからなら何とかなるって」
「さっきまで走れないって言ってた人が、それ言う?」
「……人間、追い詰められると意外な力が出るんだよ」
「その力、朝起きるときに使ってほしいな」
ごもっとも。
俺は反論を諦め、呼吸を整えることにした。
そのとき、道路の向こうからニュース番組の声が聞こえてきた。
『――昨夜、鳴瀬市内の建設現場で発生した事故では、異能力者を含む救助隊による活動が行われました』
交差点の先に設置された大型モニターに、事故現場の映像が流れていた。
崩れた足場の下に取り残された作業員を救助するため、隊員たちが慌ただしく動いている。
その中心で、一人の男性が巨大な鉄骨を持ち上げていた。
「……すげえ」
思わず声が漏れる。
普通なら重機でも使わなければ動かせそうにない鉄骨が、男性の手によって持ち上がっていく。その隙間に別の隊員たちが入り、担架に乗せた作業員を運び出していた。
画面の下には、救助された二名はいずれも命に別状がないと表示されている。
「よかった。助かったんだね」
陽菜がほっとしたように言った。
「ああ。それにしても、あんなことができるんだな」
「朝倉、また能力が欲しくなった?」
「……まあな」
否定する理由もなかった。
俺の住む世界には、異能力と呼ばれる特別な力が存在する。
炎を操る者もいれば、身体能力を高める者もいる。能力の種類や強さは人によって違うが、中には映像の男性のように、人命救助の現場で活躍する者もいた。
もちろん、全員が能力を持っているわけではない。
俺もその一人だ。
十七歳になった今まで、一度だって不思議な現象を起こしたことはない。念じたところで物は動かないし、手のひらから炎が出たこともない。
まあ、後者は本当に出たら困るけど。
「もし俺にもあんな力があったら、もう少し人の役に立てるんだろうな」
何気なく呟くと、陽菜がこちらを見た。
「でも、あの人たちも大変そうだよ?」
「……そうだな」
異能力には代償がある。
それは、能力を使用するたびに特定の感情が少しずつ摩耗していくというものだ。
喜びを失う者もいれば、悲しみや恐怖が薄れていく者もいる。使った分だけ疲れて終わり、というわけにはいかない。
だからこそ、能力者が活躍するニュースを見るたび、すごいと思うのと同時に、少し複雑な気分になる。
あの男性は、何を代償にしているのだろう。
画面の中では救助された作業員が頭を下げ、周囲の隊員たちが片づけを始めていた。
「……あっ、朝倉!」
「ん?」
「信号、青!」
見ると、歩行者用信号が点滅を始めていた。
「やべっ!」
ニュースに気を取られすぎた。
慌てて横断歩道を渡り、陽菜と並んで学校へ向かう。
結局、校門にたどり着いたのは八時四十分直前だった。
「……間に合った」
「もう、朝から疲れちゃったよ」
「俺なんか一日分の体力使ったぞ……」
「それは朝倉が体力なさすぎるんだって」
そんなことを言い合いながら、俺たちは昇降口へ向かった。
何とか遅刻は免れたものの、一時間目からまともに授業を受けられるかどうかは、少々怪しいところだった。
***
午前の授業は、予想どおり苦痛だった。
一時間目の数学では睡魔と格闘し、二時間目の英語では教師に当てられて冷や汗をかいた。三時間目の現代文に至っては、教科書を音読させられたおかげで、ようやく眠気が覚めたくらいだ。
そして四時間目。
「今日は異能力の使用と、それに伴う感情摩耗について復習する」
教壇に立った教師の言葉を聞き、俺は教科書を開いた。
異能力に関する授業は、能力の有無にかかわらず全員が受けることになっている。
能力者だけの問題ではないからだ。
「異能力の使用によって失われる感情は、能力者ごとに異なる。例えば恐怖が摩耗する場合、どんな問題が考えられる?」
教師の問いかけに、前の席の男子が手を挙げた。
「危険なことをしても怖くなくなる、とかですか?」
「そうだな。では、怖くなくなることは良いことだと思うか?」
「えー……まあ、便利な気もしますけど」
男子が首を傾げると、近くの生徒が口を挟んだ。
「でも、車が来てても怖くなかったら危なくない?」
「いや、車が危ないのはわかるだろ」
「わかってても、怖くないなら無茶しそうじゃん」
教室が少し騒がしくなった。
教師はそのやり取りを聞いてから、黒板に「危険の認識」と「恐怖の感情」を書き加える。
「今の意見はどちらも大切だ。恐怖が摩耗したからといって、危険に関する知識まで失われるわけではない。だが、危険を前にしたときの反応や判断に影響が出る可能性はある」
なるほど。
確かに、車に轢かれれば怪我をするという知識があっても、怖さを感じなければ無理な行動を取ってしまうかもしれない。
逆に、恐怖を抑えられるからこそ、誰かを助けられる場面もあるのだろう。
どちらにせよ、簡単な話ではなさそうだ。
「先生、感情摩耗って休んだら治らないんですか?」
別の生徒から質問が飛んだ。
「疲労なら休息で回復するが、感情摩耗は別だ。基本的には、時間が経てば自然に元へ戻るというものではない」
「じゃあ、能力を使うたびに損してるってことですか?」
「そう単純には言えないな。能力を使うことで得られるものもある。ただ、その判断には代償を理解する必要がある、ということだ」
教師は一度言葉を切り、教室を見渡した。
「能力を持つ者は、自分の力を過信しないこと。持たない者も、能力者なら何でもできると思わないこと。それは覚えておいてほしい」
俺はノートにその言葉を書き留めた。
能力者なら何でもできると思わないこと、か。
今朝の救助隊員を思い出す。
鉄骨を持ち上げた男性の周りには、ほかにも大勢の隊員がいた。持ち上げた鉄骨を支える人間もいれば、負傷者を運ぶ人間もいる。
考えてみれば、能力が一つあったところで、全部一人でできるわけじゃない。
「なあ、朝倉」
隣の席から小声で話しかけられた。
「お前だったら、どんな能力が欲しい?」
「……瞬間移動」
「即答かよ。なんで?」
「今朝みたいな日に便利だろ」
「寝坊する前提じゃねえか」
男子が肩を揺らして笑った。
「もっと格好いい使い道とかないのかよ」
「あるぞ。忘れ物したときに一瞬で家へ帰れる」
「だから全部学校絡みなの、何なんだよ」
「日常生活で役に立つのが一番だろ」
そう答えたものの、実際に瞬間移動の能力が手に入るなら、もっといろいろなことをしてみたい。
遠くの街へ遊びに行くのもいいし、一度も見たことのない景色を探してみるのも楽しそうだ。
……ただ、能力を使うたびに喜びが失われるとしたら?
せっかく遠くまで行ったのに、何も楽しいと思えなくなる。
それは、ちょっと嫌だな。
「おい、そこ。私語は慎め」
教師の声に、俺たちは慌てて前を向いた。
危ない危ない。
これ以上目をつけられたら、次は黒板の前に立たされるかもしれない。
俺はシャープペンシルを握り直し、黒板の続きをノートに写した。
***
昼休みになると、教室の空気が一気に緩んだ。
机を寄せて弁当を広げる生徒たちや、購買へ急ぐ連中の姿が目に入る。
俺も鞄から昼食を取り出そうとしたところで、陽菜が弁当袋を持ってやってきた。
「朝倉、今日一緒に食べてもいい?」
「おう。別にいいぞ」
「ありがと!」
陽菜は近くの空いている席を借り、俺の机の前に座った。
「そういえば、四時間目の授業、結構真面目に聞いてたね」
「失礼な。俺だって興味のある授業はちゃんと聞くぞ」
「じゃあ数学は?」
「……その話はやめよう」
陽菜が笑う。
俺は話題を変えるつもりで、先ほどの授業について尋ねた。
「なあ、陽菜。お前はどんな能力が欲しい?」
「私?」
「ああ。もし一つだけ使えるとしたら」
陽菜は箸を持ったまま、少し考えた。
「うーん……料理がもっと楽になる能力かな」
「……すげえお前らしいな」
「だって、便利そうじゃない? 材料を一瞬で切れたり、オーブンの温度を細かく調整できたり」
「確かにな。でも、能力の代償が料理を楽しいと思う気持ちだったら?」
「それは嫌だなあ」
陽菜は困ったように笑った。
「だったら、自分で作る方がいいかも。失敗しても、次はこうしてみようって考えるのが楽しいし」
「……なるほどな」
いかにも陽菜らしい答えだった。
こいつにとって料理は、ただ食べるための作業じゃない。試行錯誤すること自体も、楽しみの一つなのだろう。
「朝倉は?」
「俺? 瞬間移動かな」
「えっ、どうして?」
「寝坊しても間に合う」
「あははっ! それなら、ちゃんと早起きすればいいだけじゃん!」
「……正論はやめろ」
まったく、夢のないやつである。
俺は弁当の卵焼きを口に運びながら、苦笑した。
「でも、朝倉が能力を持ってたら、どんなことに使うんだろうね」
「さあな。実際に持ってみなきゃわかんねえよ」
「そっか」
陽菜はそれ以上尋ねてこなかった。
俺も特に続きを話すことなく、弁当を食べ進める。
能力があったら何をするか。
そんなことは、子どもの頃から何度も考えてきた。
それでも、今の俺には何もない。
だからといって、日常生活で困ることが多いわけでもないし、能力を持つ人間を恨んでいるわけでもない。
ただ、誰かに助けを求められたとき。
そのとき、自分にも何かできればいいとは思う。
「……あれ?」
突然、陽菜が教室の後ろへ視線を向けた。
「どうした?」
「ううん。あれ、運ぶの大変そうだなって」
俺も振り返る。
教室の入口付近では、学級委員が大きな段ボール箱を前に困った顔をしていた。
どうやら、午後の学年集会で使う資料らしい。
その横には、同じくらい大きな箱がもう二つ並んでいる。
「誰か、ちょっと手伝ってくれないか!」
学級委員が教室に呼びかける。
何人かの生徒が顔を上げたものの、すぐには動かなかった。
俺は手元の弁当を見下ろした。
まだ半分くらい残っている。
しかも、昼休みだ。
正直なところ、面倒くさい。
「……朝倉?」
陽菜がこちらを見る。
「いや、何でもねえよ」
俺は残りのご飯を急いで口に運び、弁当箱の蓋を閉めた。
「ちょっと行ってくる」
「えっ、どこに?」
「手伝いだよ。あいつ、一人じゃ大変そうだし」
そう答えて立ち上がる。
能力があれば、あんな箱くらい簡単に運べるのかもしれない。
俺にはそんな力はないが、段ボールを一つ持つくらいなら何とかなるだろう。
……たぶん。
「おーい、俺も手伝うぞ!」
学級委員へ声をかけながら、俺は教室の後ろへ向かった。




