1話 隣人は今日も容赦がない
朝の布団には、人を堕落させる不思議な力があると思う。
特に五月の朝は危険だ。寒すぎず、暑すぎず、布団の中がちょうどいい温度に保たれている。こんな環境で起きろという方が無理な話ではないだろうか。
「……あと五分」
枕元で鳴り続けるスマートフォンに手を伸ばし、画面も見ずにアラームを止める。そのまま布団を頭まで引き上げ、俺は再び目を閉じた。
ああ、幸せだ。
できることなら、このまま昼まで寝ていたい。学校なんて午後から始まればいいのに。そうすれば睡眠不足で授業中に居眠りする生徒だって減るはずだ。
我ながら、なかなか合理的な提案だと思う。
もっとも、そんなことを生徒会に提案したところで、相手にされるとは思えないが。
……まあ、あと五分くらいなら問題ないだろう。
そう考えたのが間違いだった。
次に目を開けたとき、カーテンの隙間から差し込む日差しが、先ほどよりもずっと強くなっていた。
「……ん?」
嫌な予感がした。
できれば確認したくない。だが、現実から目を逸らしたところで時間が戻るわけでもない。
恐る恐るスマートフォンを手に取り、画面を確認する。
午前八時十分。
「……やっべ!」
勢いよく飛び起きた。
うちの高校では八時四十五分から朝のホームルームが始まる。家から学校までは徒歩で十五分ほど。着替えや身支度にかかる時間を考えれば、とっくに起きていなければならない時刻だった。
それなのに、今の俺は寝間着姿のまま布団に包まっている。
「なんで誰も起こしてくれないんだよ……!」
誰に向けるでもなく文句を言いながら、布団を跳ねのけた。
まあ、一人暮らしの俺を起こしてくれる人間なんて、この部屋にはいないんだけどな。
そもそも目覚ましを自分で止めたのだから、悪いのは完全に俺である。
そんな反省は後だ。今は一秒でも早く着替えなければ。
椅子の背もたれに掛けておいた制服をつかんだところで、スマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前を見て、俺は手を止める。
『陽菜』
隣の部屋に住んでいる、小日向陽菜からだった。
『起きてる?』
返信しようとしたところで、もう一通届く。
『朝ごはん、もうできてるよ』
そして、数秒後。
『もしかして、また寝坊した?』
「……なんでわかるんだよ」
思わず呟きながら、急いで返信する。
『起きてる』
送信すると、すぐに既読がついた。
『何時から?』
『今』
『やっぱり!』
画面越しなのに、陽菜の呆れた顔が目に浮かぶ。
『急いで着替えて来て。ごはん冷めちゃうから』
『悪い、今日は時間ないから朝飯抜く』
『だめ』
即答だった。
『いや、遅刻するって』
『だったら早く準備して!』
「……相変わらず容赦ねえな」
ため息をつきながらも、俺は着替える手を速めた。
陽菜は普段こそ明るくて穏やかな性格をしているが、俺の生活習慣に関しては妙に厳しい。特に食事については、母親かと思うほど口うるさくなる。
ありがたいとは思っているし、実際かなり助かっている。
ただ、寝坊した日くらいは朝食を抜くことを許してくれてもいいんじゃないだろうか。
……まあ、せっかく作ってくれたものを食べないのも悪いか。
そんなことを考えながら制服に着替え、洗面台へ向かう。
鏡に映った自分の姿を見て、思わず顔をしかめた。
「……なんだこれ」
右側の髪が妙な方向へ跳ね上がっている。寝癖というより、何かのアンテナみたいだ。
水で濡らして押さえつけてみるものの、少し目を離しただけで元に戻ってしまう。何度か格闘した末、時間がないことを思い出して諦めた。
多少変でも、一日くらいなら問題ないだろう。
……たぶん。
鞄を肩に掛け、忘れ物がないか確認する。教科書、筆箱、財布、スマートフォン。最後に鍵をポケットへ入れて、俺は玄関を飛び出した。
***
俺が住んでいるのは、鳴瀬市の住宅街にある二階建てのアパートだ。
築年数はそれなりで、設備も決して新しくはない。だが、家賃は比較的安く、学校まで歩いて通える。一人暮らしの高校生には十分すぎるくらいの物件だった。
そんなアパートの二階、俺の部屋のすぐ隣に陽菜は住んでいる。
扉の前に立ち、インターホンへ指を伸ばしたところで、中から声が聞こえてきた。
「開いてるよー!」
「……まだ押してないんだけど」
「足音でわかるもん!」
どんな聴覚をしているんだ、あいつは。
「お邪魔しまーす」
声をかけて扉を開けると、温かな味噌汁の香りが漂ってきた。
それだけで、空腹だった胃が急に存在を主張し始める。さっきまで朝食を抜こうとしていたのが嘘みたいだ。
靴を脱いで廊下を進むと、キッチンから一人の少女が顔を出した。
肩まで伸びた栗色の髪に、人懐っこい大きな瞳。小日向陽菜、俺と同じ高校に通う二年生の女子生徒だ。
高校一年の春に知り合って以来、何かと世話になっている。
「おはよう、朝倉!」
「おう。おはよう」
「ちゃんと起きられた?」
「見てのとおり、ばっちりだ」
「ばっちり寝坊したんでしょ?」
「……細かいことは気にするな」
「そこ、結構大事だと思うけど」
呆れたように笑う陽菜だったが、ふとその視線が俺の頭で止まった。
「…………」
「……なんだよ」
「いや、その……ふふっ」
「おい。笑うなよ」
「ご、ごめん。でも、その髪……!」
とうとう我慢できなくなったのか、陽菜は口元を押さえて笑い始めた。
失礼なやつである。
朝から人の寝癖を見て、そこまで笑うことはないだろう。
「これでも直したんだぞ」
「どこを!?」
「前の方とか」
「そこだけ妙に整ってるから、余計に変なんだって!」
そんなにひどいのか。
自分でも少し変だとは思っていたが、そこまで言われるとさすがに気になる。
陽菜はひとしきり笑うと、キッチンへ戻って指先を水で濡らした。
「ほら、ちょっとこっち来て」
「なんだよ」
「寝癖、直してあげる」
「いや、そこまでしなくても……」
「いいから。そんな頭で学校に行ったら、絶対笑われるよ?」
「……それは困るな」
俺が素直に近づくと、陽菜は少しだけ首を傾げた。
「しゃがんで」
「ああ、悪い」
膝を曲げて目線を下げると、陽菜が俺の髪に手を伸ばした。
「うわ、本当に頑固」
「悪かったな」
「朝倉に似たんじゃない?」
「俺もさっき同じこと考えたけど、人に言われると腹立つな」
「あはは、自覚あるんだ」
楽しそうに笑いながら、陽菜は跳ねた髪を整えていく。
額に指先が触れるたび、少しくすぐったい。それに、こうして顔を近づけられると、どうにも落ち着かない。
別に、陽菜に髪を直してもらうのは初めてじゃない。
それでも、近いものは近いのだ。
「はい、できた!」
陽菜が満足そうに手を離した。
「これで大丈夫?」
「うん。だいぶマシになったと思う」
「マシってなんだよ」
「だって、元がひどかったから」
「お前なあ……」
言い返そうとしたところで、陽菜が壁の時計を見上げた。
「ほら、早く手洗って。ご飯食べよう?」
「おう」
「時間ないんだからね?」
「わかってるって」
俺は洗面台へ向かいながら、ひそかにため息をついた。
まったく、同い年のくせに母親みたいなやつだ。
……いや、本人に言ったら絶対怒られるから、黙っておこう。
***
手を洗って部屋へ上がると、テーブルにはすでに朝食が並べられていた。
白いご飯に、豆腐とわかめの味噌汁。焼き鮭と卵焼き、それから小鉢にはほうれん草のおひたしまで添えられている。
朝からなかなか豪華な献立だった。
「……相変わらず、すげえな」
「そう?」
「俺だったら、朝からこんなに作れないぞ」
「朝倉の場合、まず朝ご飯を作るところから始めないとね」
「失礼な。卵くらい焼けるわ」
「この前、目玉焼き焦がしてなかった?」
「……あれは火加減を間違えただけだ」
「それを失敗って言うんだよ」
反論できない。
確かに、あの日の目玉焼きはひどかった。黄身が固まるのを待っていたら、いつの間にか白身の裏側が真っ黒になっていたのだ。
食べられないことはなかったが、二度と同じものを作りたいとは思わない。
「ほら、早く座って。冷めちゃうよ」
「おう」
いつもの場所へ腰を下ろし、両手を合わせる。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
まずは味噌汁を一口。
出汁の風味が口の中に広がり、寝起きの身体に温かさが染み渡る。
「……うま」
「よかった」
陽菜は嬉しそうに笑うと、俺の向かいに座って箸を取った。
こうして二人で朝食を食べるのも、今では珍しいことではなくなっている。
もちろん、毎日というわけではない。陽菜に用事がある日もあれば、俺が自分で適当に済ませる日もある。何か作ってもらったときには、材料費を負担したり、買い物を手伝ったりすることもあった。
最初の頃は申し訳なくて何度も断っていたのだが、「料理の練習にもなるから」と言われ、結局こうして世話になっている。
……正直なところ、俺が食べたいというのも大きい。
続いて卵焼きを口へ運ぶ。
ふわっとした食感に、ほのかな甘さ。そこへ出汁の風味が加わり、ご飯とよく合っている。
「……ん?」
もう一口食べてみる。
やっぱり、いつもと少し違う気がした。
「なあ、陽菜」
「なに?」
「今日の卵焼き、何か変えた?」
陽菜の箸が止まった。
「えっ?」
「いや、いつもより甘さ控えめっていうか……出汁の味が強くなってないか?」
すると、陽菜は目を丸くした。
「わかるの!?」
「うおっ、近い近い!」
思わず身を引く。
陽菜は身を乗り出していたことに気づき、慌てて座り直した。
「あ、ごめん! でも、びっくりした。よくわかったね」
「いや、何となくだけど」
「実は今日、ちょっと配合を変えてみたんだ」
「へえ」
「前に朝倉が、朝ご飯なら甘さ控えめの方が食べやすいって言ってたでしょ? だから、砂糖を少し減らして出汁を増やしてみたの」
言われてみれば、そんな話をした覚えがある。
確か何週間か前、陽菜が卵焼きを作ってくれたときだったか。
そのときは深く考えず、思ったことを口にしただけだった。
「……よく覚えてたな」
「そりゃ覚えてるよ。感想を聞いたの、私だもん」
陽菜は当然のように答えると、少し期待を込めた目を向けてきた。
「それで、どうかな?」
「うん。俺はこっちの方が好きだな」
「ほんと?」
「ああ。前のも美味かったけど、今日の方が鮭とか味噌汁と一緒に食べやすい気がする」
「そっか……!」
ぱっと陽菜の表情が明るくなった。
陽菜には、将来自分のカフェを開きたいという夢がある。
だから料理やお菓子作りには人一倍熱心で、休日になると新しいレシピに挑戦していることも多い。俺がこれまで試食させてもらったものだけでも、かなりの数になるはずだ。
中には、どうにも微妙な出来のものもあったけど。
もっとも、本人に言わせれば、それも立派な試作品らしい。
「でもさ」
「ん?」
「カフェで卵焼きって出すのか?」
「えー? 出してもいいんじゃない? モーニングとかで」
「ああ、なるほど。和食の朝飯が食えるカフェってことか」
「そうそう! パンとかサンドイッチもいいけど、ご飯が食べたい人だっているでしょ?」
「まあ、俺ならご飯がある方が嬉しいな」
「だよね!」
陽菜は楽しそうに頷いた。
「でも、メニューを増やしすぎると大変そうなんだよね。材料の管理もあるし、仕込みの時間だって必要だし……」
「最初から全部やろうとしなくてもいいんじゃないか?」
「うーん、それはそうなんだけど」
「お前、スイーツも出したいんだろ?」
「うん! 季節限定のメニューとか、絶対やってみたい!」
陽菜は箸を置くと、少し身を乗り出した。
「春なら苺のタルトとか、夏は桃を使ったパフェとか。秋は栗やさつまいももいいよね。あ、でも定番のチーズケーキも置きたいし……」
「待て待て。急にメニューが増えすぎだろ」
「あはは。やっぱり?」
まったく、楽しそうなやつである。
とはいえ、夢中になって話している陽菜を見ていると、こちらまで少し楽しくなってくる。
何より、将来やりたいことをここまではっきり語れるのが羨ましかった。
俺なんて、卒業後の進路すらまだ決まっていないというのに。
「……すげえな、お前」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「いや、ちゃんと考えてるんだなって。店を開くだけでも大変そうなのに、その先のことまで考えてるだろ」
陽菜は少し驚いたように瞬きをした。
それから、どこか照れくさそうに笑った。
「……朝倉がそんなこと言うなんて、珍しいね」
「なんだよ。俺だって褒めるときは褒めるぞ」
「うん、知ってる」
「だったら珍しくないだろ」
「ふふっ。ありがと」
素直に礼を言われると、妙に照れくさい。
俺は誤魔化すようにご飯を口へ運んだ。
「……まあ、店ができたら行ってやるよ」
「ほんと?」
「ああ。ただし、常連割引くらいは期待してるからな」
「えー? どうしようかなあ」
「今まで散々味見してきたんだぞ?」
「じゃあ、特別に最初の一杯はサービスしてあげようかな」
「一杯だけかよ。けちくせえ」
「そんなこと言う人には、サービスしませーん」
「すみませんでした」
即座に謝ると、陽菜は声を上げて笑った。
こういうやり取りをしていると、つい時間を忘れてしまう。
今日もそうだった。
食べ終わった茶碗を置き、何となく壁の時計へ視線を向ける。
「……なあ、陽菜」
「なに?」
「今、何時だ?」
「えっと……」
陽菜も時計を見上げた。
その表情が、みるみるうちに固まっていく。
「……八時二十五分」
「…………」
「…………」
「やばくね?」
「やばいね」
次の瞬間、俺たちはほぼ同時に立ち上がった。
「だから急いでって言ったじゃん!」
「お前も普通にカフェの話してただろ!?」
「朝倉が聞くからでしょ!」
「俺のせいかよ!?」
「そもそも寝坊したの誰!?」
「……俺です!」
完敗だった。
反論の余地が一ミリもない。
俺は急いで食器を流しへ運び、鞄を肩に掛けた。陽菜も手早く身支度を済ませ、玄関へ向かう。
「忘れ物ない?」
「たぶん!」
「たぶんって何!?」
「時間ないんだろ!?」
「そうだけど!」
二人で玄関を飛び出し、外廊下を早足で進む。
そのまま階段を下りようとしたところで、陽菜が足を止めた。
「ちょっと、朝倉!」
「今度は何だよ!」
「鍵、かけた?」
「…………あ」
しまった。
慌てて自分の部屋へ戻る。
案の定、鍵はかかっていなかった。
危ねえ……。
俺は急いで施錠すると、念のため扉を引いて確認した。
「よし!」
「ほんっとに、放っておくと何するかわかんないんだから……」
「悪かったって。助かった」
「去年も似たようなことしてたよね?」
「……まだ覚えてるのか」
「忘れるわけないでしょ。あれが初対面だったんだから」
ああ、そうだった。
高校に入学したばかりの春。引っ越してきて間もない頃、俺は部屋の鍵をなくしたと思い込み、廊下で途方に暮れていたことがある。
そのとき、声をかけてくれたのが陽菜だった。
管理会社へ連絡するために電話を貸してもらい、一緒に鍵を探してもらった。
結局、鍵は鞄の底から見つかったのだが、それ以来、陽菜には何かと世話になっている。
「まさか、あのときの人がここまで世話のかかる人だとは思わなかったなあ」
「俺だって、隣の部屋にこんな世話焼きが住んでるとは思わなかったよ」
「なにそれ。文句?」
「いや、助かってるって話」
「……そっか」
陽菜は少しだけ目を丸くすると、ふっと笑った。
「じゃあ、もっと感謝してもいいんだよ?」
「調子に乗るな」
「あははっ!」
まったく。
これだから、素直に礼を言うのは苦手なんだ。
「ほら、昔話してる場合じゃないぞ」
「あっ、そうだった!」
二人で階段を駆け下りる。
アパートの敷地を出たところで、陽菜が俺を振り返った。
「朝倉、走れる?」
「……できれば走りたくない」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「朝から全力疾走とか、体力の無駄遣いだと思わないか?」
「思わない!」
残念ながら、陽菜には通じなかった。
彼女は鞄を抱え直すと、先に駆け出した。
「ほら、早く!」
「待てって! 俺、まだ朝飯の消化も終わってないんだけど!」
「知らないよ! 寝坊した朝倉が悪いんだから!」
「それはそうだけど、もう少し手加減してくれよ!」
文句を言いながらも、俺はその背中を追いかける。
五月の住宅街に、二人分の慌ただしい足音が響いた。
まったく、朝からひどい目に遭っている。
……まあ、何だかんだ言って、こういう朝も嫌いじゃないんだけどな。




