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最弱の俺だけが、英雄たちの涙を覚えている  作者: 黒子丸
1章

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17話 放課後の寄り道

「……なあ、陽菜」


「ん?」


「勉強って、どうやったら好きになれるんだ?」


火曜日の昼休み。


俺は机に広げた数学の教科書を眺めながら、隣に座る陽菜へ尋ねた。


昨日、次の試験に向けて勉強を教えてほしいと頼んだ結果、今日の放課後からさっそく勉強会をすることになった。


……いや、早すぎないか?


まだ試験まで時間はあるはずだ。もう少し心の準備というものをさせてほしい。


「うーん。好きになろうとしなくてもいいんじゃない?」


「……え?」


予想外の答えに顔を上げる。


「好きじゃなくても、少しずつやればいいと思うよ。わからないところがわかるようになると、結構楽しいし」


「……それは元から勉強できるやつの意見だろ」


「そんなことないよ。私だって苦手な教科あるもん」


「例えば?」


「……物理とか」


「十分できるだろ」


「そんなことないってば!」


陽菜は苦笑しながら、自分のノートを開いた。


丁寧にまとめられた数式と、色分けされた重要事項。ページの端には小さな付箋まで貼られている。


……何だ、この完成度。


俺のノートとは別の生き物だな。


「ちなみに、朝倉はどこがわからないの?」


「どこって……」


俺は教科書へ目を落とした。


昨日の授業で扱った数列の問題。黒板の内容を写したところまでは覚えているが、そのあと先生が何を説明していたのか、ほとんど記憶にない。


「……ここから」


「えっと、何ページ?」


「最初」


「……最初?」


陽菜が教科書と俺の顔を交互に見た。


「朝倉、ちゃんと授業聞いてた?」


「聞いてたぞ。最初の十分くらいは」


「残りの四十分は!?」


「……記憶にございません」


陽菜は額に手を当てた。


「もう……。今日は最初からやり直そうね」


「……よろしくお願いします」


どうやら、放課後は長くなりそうだ。


***


六時間目が終わり、帰りのホームルームが済むと、俺は机に突っ伏した。


「……終わった」


「まだ何も始まってないよ?」


すぐ隣から陽菜の声が聞こえる。


「精神的にはもう終わってる」


「大げさだなぁ」


「だって、これから勉強するんだぞ?」


「昨日、自分から教えてって言ったんでしょ」


「……そうでした」


正論というものは、時に人を深く傷つける。


俺が渋々身体を起こしていると、教室の入口から声がした。


「小日向さん、朝倉」


振り返ると、神崎が立っていた。


「あ、神崎さん!」


陽菜が嬉しそうに手を振る。


「今帰り?」


「ええ。二人は?」


「今日は朝倉と勉強する予定なんです」


「……勉強?」


神崎の視線が俺へ向けられた。


何だろう。


なぜか、ものすごく意外そうな顔をされている。


「……何だよ」


「いえ。あなたが自分から勉強すると聞いて、少し驚いただけ」


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」


「授業中によく寝ている人」


即答された。


「……否定できねえ」


神崎は小さく笑った。


「どこで勉強するの?」


「駅前の図書館に行こうと思ってるんです。家だと朝倉、すぐゲームしちゃうので」


「ああ、なるほど」


「納得するなよ」


しかし、二人は俺の抗議など聞いていなかった。


「神崎さんもよかったら一緒にどうですか?」


陽菜が尋ねる。


「私も?」


「はい! この前、参考書買ってましたよね?」


「ええ。今日は特に予定もないけど……」


神崎は少し考えたあと、頷いた。


「それじゃあ、ご一緒させてもらおうかしら」


「やった!」


陽菜が嬉しそうに笑う。


俺としても、教えてくれる人が増えるのはありがたい。


……いや、待てよ。


教える人間が二人になったら、逃げ道が完全になくなるんじゃないか?


そんなことに気づいたときには、すでに話がまとまっていた。


「じゃあ、行きましょうか」


「うん!」


「……ああ」


俺は諦めて鞄を持ち上げた。


***


駅前の市立図書館は、学校から歩いて十五分ほどの場所にある。


一階には一般向けの蔵書が並び、二階には閲覧室と学習スペースが設けられていた。試験期間が近づくと学生で混雑するらしいが、今日はまだ空席が目立っている。


俺たちは窓際の四人掛けテーブルを選び、それぞれ教科書とノートを広げた。


「じゃあ、まず数学からやろっか」


陽菜が言った。


「……英語じゃ駄目か?」


「朝倉、数学が一番危ないって言ってたでしょ」


「いや、英語も十分危ないぞ」


「威張ることじゃないわよ」


神崎から冷静な指摘が飛んできた。


……ごもっともである。


結局、最初は数学をやることになった。


陽菜が数列の基本的な考え方を説明し、俺が問題を解く。その間、神崎は自分の参考書を進めていた。


「ここまではわかる?」


陽菜がノートの式を指さす。


「……おう」


「じゃあ、次の問題やってみて」


俺はシャープペンシルを握り、問題文を眺めた。


初項がどうとか、公差がどうとか。


……あれ?


さっき説明を聞いたはずなんだけどな。


「……陽菜」


「ん?」


「もう一回、最初から頼む」


「ええっ!?」


小声ながらも、陽菜が驚いたのがわかった。


向かいに座る神崎が、参考書から顔を上げる。


「……朝倉。さっきの説明、聞いてた?」


「聞いてたって」


「じゃあ、どこがわからないの?」


「……途中から」


「どの途中よ」


「……いい質問だな」


「褒めてないわよ」


神崎は呆れたようにため息をついた。


それでも、俺のノートを引き寄せると、書きかけの式に目を通してくれた。


「……ああ。ここで間違えているのね」


「え?」


「この問題、公差は三でしょ。でも、あなたは二で計算してる」


「あ」


言われてみれば、そのとおりだった。


神崎は俺のノートへ指を置き、式を一つずつ確認していく。


「考え方自体は合ってるわよ。最初の数字を間違えたから、後ろも全部ずれただけ」


「……なるほど」


「だから、最初からやり直す必要はないわ。ここだけ直せばいいの」


「おお……!」


試しに計算し直すと、今度はちゃんと答えが合った。


「できた!」


「ええ。正解」


神崎が小さく笑った。


「……お前、教えるの上手いな」


「そう?」


「ああ。陽菜の説明もわかりやすいけど、間違ってる場所をすぐ見つけられるのはすげえわ」


「ふふっ。神崎さん、ありがとうございます!」


なぜか陽菜まで嬉しそうだった。


「いえ、そんな大したことじゃ……」


神崎は少し照れくさそうに視線を落とした。


……へえ。


こいつ、褒められるとこういう顔もするんだな。


その後も、俺たちは一時間ほど勉強を続けた。


途中からは陽菜と神崎も自分たちの問題を解き始め、わからないところがあればお互いに相談していた。


俺も何とか数列の基本問題を終わらせ、次のページへ進む。


……思ったより進んだな。


一人でやっていたら、最初の問題で投げ出していたかもしれない。


もっとも、まだ試験範囲のほんの一部なのだが。


「……よし」


俺はシャープペンシルを置き、大きく伸びをした。


「今日はこのくらいでいいんじゃないか?」


「朝倉、まだ一時間ちょっとだよ?」


「十分頑張っただろ」


「……まあ、あなたにしては頑張ったわね」


神崎が時計を確認しながら言った。


「少し休憩しましょうか」


「賛成!」


俺は即答した。


二人は顔を見合わせて笑った。


***


図書館を出た頃には、午後五時を少し過ぎていた。


空にはまだ明るさが残っており、駅前の通りには仕事帰りの人たちが増え始めている。


「……疲れた」


俺が呟くと、陽菜が笑った。


「でも、今日は結構進んだね」


「ああ。お前らのおかげだわ」


「次もちゃんと復習してね?」


「……善処します」


「その返事、信用できないのよね」


神崎が言った。


「何でだよ」


「この前も同じこと言ってたもの」


「……記憶力いいな、お前」


「普通よ」


俺たちは駅前の歩道を歩き始めた。


ちょうど帰宅時間と重なったらしく、周囲には買い物客や会社員が行き交っている。


「そういえば、神崎さん」


陽菜が口を開く。


「ん?」


「今度、また一緒に勉強しませんか?」


「ええ。構わないわよ」


「やった!」


「ただし、朝倉がちゃんと復習してくるなら、だけど」


神崎がこちらを見る。


「……俺が条件なのか?」


「だって、同じところを何度も説明するのは大変でしょ」


「……ごもっともで」


陽菜が笑った。


そうして三人で歩いていると、駅前の広場が見えてきた。


普段ならそのまま通り過ぎる場所だったが、今日は少し様子が違っていた。


「……ん?」


広場の一角に、警察車両が停まっている。


その近くでは、警察官が数人の通行人に話を聞いていた。


「……また警察か」


思わず呟く。


「また?」


神崎が聞き返した。


「ああ。土曜日にスーパー行ったときも、警察官が何か聞き込みしてたんだよ」


「そうだったの?」


陽菜が驚いたように言った。


「初耳なんだけど」


「……あれ、言ってなかったっけ?」


「聞いてないよ」


「まあ、大した話じゃなかったし」


俺は肩をすくめた。


「近所で見慣れない人がうろついてたって通報があったらしい。それで確認してるとか何とか」


「……そう」


神崎は広場の方へ視線を向けた。


「こっちも何か調べてるのかしら」


「さあな。最近、物騒だよな」


「……鳴瀬スクエアの事件も、まだ解決してないものね」


陽菜の言葉に、俺たちは少しだけ黙った。


そういえば、昨日の男のことを橘さんに伝えてから、まだ何の連絡もない。


まあ、当たり前か。


昨日の今日で、すぐに何かわかるとも限らない。


「……あ」


そのとき、神崎が小さく声を上げた。


「ん?」


「あそこ、通行止めになってるみたい」


神崎が指さした先では、駅前広場から裏通りへ抜ける細い歩道に、簡易的な規制線が張られていた。


警察官が一人立っており、通行人を別の道へ案内している。


「……何かあったんかな」


「事故とか?」


陽菜が尋ねる。


「かもしれないわね」


神崎はそう答えたものの、少し気にしている様子だった。


俺も何となく規制線の向こうを見た。


特に変わったものは見えない。


ただ、奥の路地に停められた白い車の周囲で、数人の警察官が何かを確認している。


……まあ、俺たちには関係ないか。


「とりあえず、別の道から帰ろうぜ」


「そうね」


「うん!」


俺たちは通行止めになっている道を避け、大通りへ向かった。


その途中だった。


「あれ、神崎さん?」


背後から声がした。


振り返ると、警察官の近くに立っていた女性がこちらを見ていた。


黒いスーツに、落ち着いた色のコート。


長い髪を後ろでまとめたその女性には、見覚えがあった。


「……あ」


鳴瀬スクエアで会った、あの人だ。


「橘さん?」


神崎が少し驚いたように声を上げる。


女性は軽く頷き、こちらへ歩いてきた。


「こんにちは。偶然ですね」


「……お久しぶりです」


俺も慌てて頭を下げた。


「朝倉さんも。先日はご連絡ありがとうございました」


「い、いえ。あんな曖昧な話ですみません」


「お気になさらないでください。情報はどんなものでも、確認してみなければわかりませんから」


橘さんは落ち着いた口調で答えた。


その隣で、陽菜が少し緊張した様子で会釈する。


「こんにちは」


「こんにちは。小日向さんもお元気そうで何よりです」


「はい!」


短い挨拶を交わしたあと、神崎が規制線の方へ目を向けた。


「……橘さん。何かあったんですか?」


「少し確認していることがありまして」


橘さんはそう答えた。


当然ながら、それ以上詳しいことを話すつもりはないらしい。


「……鳴瀬スクエアの事件と関係してるんですか?」


俺が尋ねると、橘さんはこちらを見た。


「現時点では、お答えできません」


「……あ、すみません」


「いえ。ただ、皆さんは普段どおり過ごしてください。何か気になることがあっても、ご自身で調べようとはしないように」


「……はい」


俺は頷いた。


別に、調べるつもりなんてない。


というか、そんな面倒なことはしたくない。


それでも、橘さんがわざわざそう言うということは、何か危ないことでも起きているのだろうか。


「……それでは、私は仕事に戻ります」


橘さんは軽く会釈した。


「皆さん、気をつけて帰ってくださいね」


「はい。お疲れさまです」


神崎が答える。


俺と陽菜も頭を下げ、橘さんと別れた。


***


駅から少し離れたところで、陽菜が口を開いた。


「……びっくりしたね」


「ああ。まさか橘さんに会うとはな」


「……そうね」


神崎は少し考え込むように歩いていた。


「どうした、神崎?」


「……いえ。少し気になっただけ」


「何が?」


「橘さんが、あんな場所で何を確認していたのか」


「……まあ、仕事だろ」


「それはそうだけど……」


神崎は言いかけて、首を振った。


「……いえ。考えても仕方ないわね」


「そうそう。ああいうのは専門家に任せとけばいいんだよ」


俺が言うと、神崎は小さく笑った。


「あなた、そういうところは徹底してるわね」


「面倒なことには関わりたくないからな」


「……でも、いざというときは放っておけないんでしょ?」


「……ん?」


思わず聞き返すと、神崎は少しだけ口元を緩めた。


「何でもないわ」


「……何だよ」


「ふふっ。別に」


……最近、こいつも陽菜に似てきた気がする。


人をからかって楽しむところとか。


俺は小さくため息をついた。


***


その日の夜。


鳴瀬支部の会議室には、数人の職員が集まっていた。


机の上には、駅前周辺の監視映像から切り出された写真が並べられている。


その中の一枚には、黒い上着を着た男の姿が写っていた。


肩には、小さなバッグ。


顔は帽子の影に隠れており、はっきりとは確認できない。


「……これが、朝倉悠真の目撃した人物か」


職員の一人が尋ねた。


「時刻と場所は一致しています」


橘玲奈が答える。


「ただ、本人の証言では同一人物と断定できる特徴はありません。現段階では、あくまで確認対象の一人です」


「鳴瀬スクエアの映像とは?」


「照合を進めています。体格や歩き方に共通点はありますが、こちらもまだ断定できません」


玲奈は別の写真を机へ並べた。


鳴瀬スクエアの管理区域へ入っていく人物の後ろ姿。


そして、駅前の交差点を渡る男の姿。


確かに、似ている。


だが、それだけで同じ人間だと決めつけることはできない。


「……問題は、こちらです」


玲奈はもう一枚、別の資料を示した。


そこには、駅前の裏通りに停められていた白い車の写真があった。


「車両の所有者については現在確認中ですが、近隣の監視映像に、先ほどの男に似た人物がこの車へ近づく様子が記録されています」


「……乗り込んだのか?」


「そこまでは確認できていません。ただ、車両が数日間ほぼ同じ場所に停められていたという証言があります」


会議室に短い沈黙が落ちた。


「鳴瀬スクエアの件と関係がある可能性は?」


「あります。しかし、現段階では何とも言えません」


玲奈は慎重に答えた。


「まずは車両の詳細を調べます。それから、施設内の記録と照合できるものがないか確認します」


「……わかった。引き続き頼む」


会議が終わり、職員たちが席を立つ。


玲奈は一人残り、机の上の写真を見下ろした。


黒い上着の男。


駅前の白い車。


そして、鳴瀬スクエアの管理区域へ続く通路。


まだ、すべてがつながったわけではない。


それでも、少しずつ輪郭が見え始めていた。


玲奈は写真をまとめ、資料を閉じた。


「……次は、何をするつもりなのかしら」


静かな会議室に、その声だけが残った。

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