16話 思い出せない顔
月曜日の朝。
俺は学校へ向かう道を歩きながら、大きなあくびをした。
「……眠い」
「朝からそればっかりだね」
隣を歩く陽菜が呆れたように笑う。
「仕方ないだろ。月曜日なんだから」
「月曜日じゃなくても眠いって言ってる気がするけど」
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないよ」
昨日は結局、買ってきた漫画を読み終えたあと、気になる場面を確かめようと前の巻まで読み返してしまった。気づけば日付が変わっていて、慌てて寝たものの、当然ながら睡眠時間は足りていない。
……まあ、後悔はしていない。
面白かったし。
「そういえば朝倉、昨日買った漫画どうだった?」
「めちゃくちゃ面白かったぞ。今回、主人公が結構追い詰められてさ」
「へえ、そうなんだ」
「最後の展開がまたすごくてな。敵だと思ってたやつが――」
「待って待って!」
陽菜が慌てて俺の話を遮った。
「それ、ネタバレじゃない?」
「……あ」
「私もいつか読もうと思ってたのに」
「悪い。危なかった」
「もう。朝倉って、好きなものの話になると止まらないんだから」
そう言いながらも、陽菜は楽しそうに笑っていた。
俺たちはそのまま学校へ向かう。
いつもの通学路。いつもの時間。周囲には同じ制服を着た生徒たちがいて、友達同士で話しながら歩いている。
そんな光景を眺めていると、昨日の出来事がふと頭をよぎった。
駅前で見かけた、黒い上着の男だ。何度も後ろを振り返りながら歩いていた姿が、妙に頭に残っている。
結局、あれからも誰に似ていたのか思い出せなかった。
「……なあ、陽菜」
「ん?」
「昨日、駅前で俺が立ち止まったとき、いた男覚えてるか?」
「ああ、知り合いに似てるって言ってた人?」
「そうそう」
陽菜は少し考えるように首を傾げた。
「うーん……ごめん。私はちゃんと見てなかったかも」
「そっか」
「どうしたの? 知り合いだった?」
「いや、それが思い出せなくてさ」
「そんなに気になるの?」
「……まあ、ちょっとな」
俺が曖昧に答えると、陽菜は不思議そうな顔をした。
「朝倉が、そこまで気にするなんて珍しいね」
「何だよ、それ」
「だって、入学してしばらく同じクラスの子の名前覚えてなかったでしょ?」
「……それは」
「ふふっ」
反論できなかった。
実際、俺は人の顔や名前を覚えるのが得意というわけではない。特に、普段あまり話さない相手となると、顔を見たことがあっても名前が出てこないことはよくある。
昨日の男にしても、顔をはっきり見たわけではなかった。それなのに、急いで歩いていく後ろ姿に、どこか見覚えがある気がしたのだ。
……まあ、勘違いかもしれないけど。
「考えてないときに、急に思い出したりするんじゃない?」
「……そうだといいけどな」
「私も、何か忘れたと思ってたら、寝る前に思い出すことあるよ」
「それ、次の日までに必要なやつだったら困るだろ」
「うん。だから、そのときはちょっと焦る」
陽菜は苦笑した。
そこで話は終わり、俺たちはいつもどおり校門をくぐった。
***
午前の授業は、特に何事もなく終わった。
数学では途中から先生の説明についていけなくなり、英語では当てられた問題に答えられず、クラスの何人かに笑われた。
……おかしいな。
別にふざけていたわけじゃないんだけど。
「朝倉、さっきの英語すごかったね」
昼休みになり、弁当を取り出していると陽菜が話しかけてきた。
「……何が?」
「先生に『もう一度お願いします』って三回も言ってたところ」
「だって何言ってるかわかんなかったんだよ」
「最後、日本語で説明してもらってたもんね」
「……あれは助かった」
陽菜は肩を震わせて笑っている。
人が真剣に困っていたというのに、随分と楽しそうだ。
「そんなに笑うなら、今度お前も当てられればいいんだ」
「私はちゃんと予習してるもん」
「……裏切り者め」
「何で!?」
くだらないやり取りをしながら弁当を食べていると、陽菜がふと顔を上げた。
「そういえば、今日って神崎さんとお昼一緒に食べられるかな?」
「ああ、どうだろうな」
先週、三人で話すようになってから、陽菜は随分と神崎を気に入ったらしい。
もっとも、神崎の方も嫌がっている様子はない。金曜日の訓練でも普通に話していたし、昨日も偶然会ったときには楽しそうだった。
「連絡してみれば?」
「うん。そうしてみる!」
陽菜はスマートフォンを取り出した。
しばらくして、画面を確認した陽菜が嬉しそうに笑う。
「神崎さん、今日は購買でパン買ってから来るって!」
「へえ。じゃあ、先に食ってるか」
「うん!」
近くの生徒に声をかけ、使っていない椅子を一つ借りる。俺たちは弁当を食べながら、神崎が来るのを待つことにした。
数分後、教室の入口から見覚えのある黒髪の少女が顔を覗かせた。
「小日向さん、朝倉。お邪魔してもいいかしら?」
「神崎さん! こっちこっち!」
陽菜が手を振る。
神崎は軽く会釈してから、俺たちの席へやってきた。
「悪いな、わざわざこっちまで来てもらって」
「別に構わないわ。購買の帰りだし」
そう言いながら、神崎は空いている椅子に腰を下ろした。手にはサンドイッチと小さな紙パックの飲み物を持っている。
「……神崎、それで足りるのか?」
「え?」
「昼飯。それだけ?」
「ええ。今日はあまりお腹が空いていないから」
「マジか。俺だったら五時間目まで持たねえな」
「あなたと一緒にしないでちょうだい」
即答された。
陽菜が笑う。
「朝倉、昨日は朝ご飯がお昼近くだったもんね」
「……ちゃんと食ったぞ」
「十一時に起きたって言ってたでしょ?」
「休日だったんだから仕方ないだろ」
神崎が呆れたように俺を見る。
「それで、今朝は眠そうにしていたの?」
「……夜、漫画読んでたら遅くなって」
「本当に、生活習慣を見直した方がいいと思うわよ」
「……はい」
何だか、最近説教してくる人間が増えた気がする。
俺は残っていた卵焼きを口へ運んだ。
***
昼食を終えたあとも、俺たちはそのまま教室で話していた。
陽菜が昨日買ったお菓子の型の写真を見せると、神崎が興味深そうに画面を覗き込む。
「これが、昨日話していた型なのね」
「そうなんです! 今度、これで小さなケーキを焼いてみようかなって」
「素敵ね。完成したら見てみたいわ」
「よかったら、神崎さんにも食べてもらいたいな」
「いいの?」
「もちろん!」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
「朝倉にも試食してもらってるんですけど、もっといろんな人の感想を聞きたくて」
「なるほどね」
神崎が俺の方を見る。
「朝倉は、ちゃんと感想を伝えられているの?」
「……何で疑うんだよ」
「あなた、何を食べても『美味い』って言いそうだから」
「……否定できない」
二人が笑った。
……まあ、実際そうなんだけどな。
「でも、一昨日はちゃんと違いを教えてくれたんですよ」
陽菜が言った。
「甘めの方が好きだって。何個でも食べられそうって言ってくれたの」
「あら、意外ね」
「……意外って何だよ」
「褒めてるのよ」
「絶対嘘だろ」
神崎は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺もつられて笑ってしまう。
少し前までは、廊下ですれ違っても名前すら知らなかった相手だ。それが今では、こうして昼休みに一緒に話している。
……まあ、悪くないな。
そう思っていたところで、神崎がふと口を開いた。
「そういえば、昨日はあのあと、どこかへ寄ったの?」
「はい! 途中でコンビニに寄って帰りました」
陽菜が答える。
「神崎さんは?」
「私は、そのまま帰ったわ。買った参考書を少し見ておきたかったから」
「……ちゃんと開いたのか」
「買っただけで終わりにするつもりはないもの」
神崎に言われ、俺は口を閉じた。
本棚へ入れたまま、ほとんど開いていない問題集が家にある。
何となく、そのことまで見抜かれた気がした。
「……朝倉」
「ん?」
「昨日、交差点で何か見ていたでしょう。知り合いだったの?」
……ああ。
あの男のことか。
「いや、まだ誰なのか思い出せてないんだよ」
「そう。少し気にしていたみたいだったから」
「朝も、その話してたんです」
陽菜が口を挟む。
「見覚えがある気がするんだけど、誰に似てるのかわからないって」
俺は、昨日見かけた男について説明した。
黒い上着を着ていて、肩には小さなバッグをかけていた。何度も後ろを振り返りながら歩いていて、その後ろ姿に見覚えがある気がしたのだ。
「……なるほど」
話を聞き終えた神崎は、少し考えるように顎へ手を当てた。
「顔は見えたの?」
「ほんの一瞬だけ。しかも結構離れてたし、顔には覚えがなかったんだよな」
「それなら、勘違いかもしれないわね」
「だよな」
俺もそう思っている。
ただ、何となく引っかかるのだ。
「……もしかして」
陽菜が小さく声を漏らした。
「ん?」
「鳴瀬スクエアで見た人だったりしない?」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……え?」
「ほら、一昨日のニュースで、管理区域に誰かが入ってたかもしれないって言ってたでしょ?」
「……ああ」
「朝倉、前にその通路へ入っていく人を見たって話してたよね。後ろ姿って言ってたから、もしかしたらと思ったんだけど」
あの日の光景を思い返す。
陽菜と店を回っている途中、関係者専用の表示が出た通路を見た。その奥へ、誰かが急いで入っていったのだ。
顔は、はっきり見ていない。服装も、作業員のようだったという程度の記憶しかなかった。
ただ、足早に通路へ向かっていく後ろ姿は、何となく頭に残っている。
昨日の男も、人の間を抜けるように歩いていた。
「……あれ?」
似ていた、気がする。
けれど、本当に同じ人間だったのかと聞かれれば、答えられなかった。今の話を聞いて、そう思い始めただけかもしれない。
「朝倉?」
神崎が声をかける。
「……いや、もしかしたらって思っただけ」
「どういうこと?」
「鳴瀬スクエアで見たやつと、昨日の男。何となく似てる気がしてさ」
神崎は少し表情を引き締めた。
「……同じ人だったの?」
「わかんねえ。そもそも、あのときも顔はちゃんと見てないし」
「そう……」
陽菜も、少し困ったように眉を寄せた。
「じゃあ、別の人かもしれないね」
「ああ。その可能性はある」
俺は頷いた。
急いで歩いている人間なんて、珍しくない。わざわざ事件と結びつけるのは、考えすぎなのかもしれない。
「……でも」
神崎が静かに口を開いた。
「もし気になるなら、橘さんに伝えてみてもいいんじゃない?」
「……え?」
「前に、通路で見た人のことを聞かれたんでしょう?」
「ああ、まあ」
「だったら、昨日こういう人を見たって伝えるだけでもいいと思うわ」
俺は少し考えた。
確かに、連絡するだけなら難しいことではない。ただ、相手がまったく関係ない人間だったらどうする?
俺の曖昧な記憶のせいで、余計な仕事を増やすことになるかもしれない。
「……でも、勘違いかもしれないぞ?」
「それも含めて伝えればいいじゃない」
神崎は落ち着いた声で言った。
「同じ人だったと決めつける必要はないわ。見たことと、そう感じたことを分けて話せばいいのよ」
「……なるほど」
確かに、それならいいのかもしれない。
陽菜も頷いた。
「うん。私もそう思う。朝倉が一人で確かめようとするより、橘さんに任せた方がいいよ」
「いや、さすがに追いかけたりはしねえよ」
「なら、いいんだけど」
陽菜は少し安心したように笑った。
俺も弁当箱の蓋を閉めながら、もう一度考える。
自分で同じ人物だと確かめる必要はない。昨日見たことを伝えて、あとは任せればいいのだ。
「……わかった。あとで連絡してみるわ」
***
放課後。
帰りのホームルームを終えた俺は、鞄を持って教室を出た。
陽菜は日直の仕事が残っているらしく、先に昇降口で待っていてほしいと言われている。
階段を下りたあと、廊下の端へ寄ってスマートフォンを取り出した。連絡先には、以前電話をかけてきた橘玲奈の番号が残っている。
……さて。
本当にかけていいものか。
昼休みには連絡しようと思ったものの、いざ電話するとなると少し緊張する。
相手は異常現象対策庁の職員だ。逃げた犯人のこともあるし、忙しいに決まっている。
そんな人に、「似てる気がしたんですけど」と伝えるのは、さすがに気が引けた。
……やっぱり、やめとくか。
画面を閉じかけたところで、一昨日のニュースを思い出した。
施設の管理区域に、関係者以外の人物が立ち入っていた可能性がある。
もし、本当に同じ人物だったら。
俺が何かできるわけではないにしても、黙っているのは何となく落ち着かなかった。
「……ええい、もういいや」
俺は通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、電話がつながる。
『はい、橘です』
「あっ、えっと……朝倉です。朝倉悠真です」
『朝倉さん?』
電話の向こうで、少し驚いたような声がした。
『どうされましたか?』
「あの、前に鳴瀬スクエアのことで電話もらったじゃないですか」
『ええ。覚えています』
「それで、ちょっと気になることがあって……今、お話ししても大丈夫ですか?」
『はい。大丈夫ですよ』
俺は昨日の出来事を説明した。
駅前で男を見かけたこと。その男が何度も後ろを振り返りながら歩いていて、どこかで見たような気がしたこと。
そして、今日になって陽菜と話し、鳴瀬スクエアで見かけた人物かもしれないと思ったことも伝えた。
話しているうちに、自分でも随分と曖昧な説明をしていると思った。
「……すみません。結局、同じ人かどうか全然わかんないんですけど」
『いえ。ご連絡ありがとうございます』
橘さんの声は落ち着いていた。
『念のため、いくつか確認してもよろしいですか?』
「あ、はい」
『その人物を見かけたのは、昨日の日曜日ですね。時間帯は覚えていますか?』
「えっと……三時前くらいだったと思います」
『場所は、駅前のどの辺りでしょうか?』
「ショッピングセンターから出て、駅の方に向かうところの交差点です」
『その人物は、どちらへ歩いていきましたか?』
俺は昨日の光景を思い出した。
「……横断歩道を渡って、そのまま駅とは反対側の通りに入っていきました」
『なるほど』
電話の向こうから、何かを書き留めるような音が聞こえた。
『服装についてはどうでしょう?』
「黒っぽい上着と、暗い色のズボンだったと思います。あと、小さいバッグを肩にかけてました」
『顔や年齢は?』
「……すみません。そこまでは」
『わかりました』
橘さんは短く答えたあと、少し間を置いた。
『鳴瀬スクエアで見かけた人物と似ていると感じたのは、どういったところでしょうか?』
「急いで歩いてる後ろ姿、ですかね……。でも、具体的にどこがって言われると、上手く言えなくて」
『同じ人物だと判断できる、はっきりした特徴までは思い当たらない、ということでしょうか』
「……はい。正直、そうです」
俺は空いている方の手で、鞄の持ち手を握り直した。
「友達に言われて、そうかもしれないって思っただけなんで、勘違いかもしれません」
『わかりました。ただ、見かけた場所と時刻がわかるだけでも、確認できることはあります』
「……そうなんですか?」
『ええ。必要であれば、周辺の防犯カメラなども調べられますから』
なるほど。
そういうものなのか。
『それと、朝倉さん』
「はい?」
『もし今後、似た人物を見かけても、追いかけたり声をかけたりしないでくださいね』
「……ああ、はい」
『今回の人物が事件と関係しているかは、現段階ではわかりません。ただ、万が一ということもありますから』
「わかりました」
『ご協力ありがとうございました。いただいた情報はこちらで確認します』
「あ、はい。よろしくお願いします」
『それでは、失礼します』
通話が切れた。
俺はスマートフォンを見下ろし、大きく息を吐いた。
「……緊張した」
ただ電話しただけなのに、妙に疲れた。
まあ、これで気になっていたことは伝えられた。あとは橘さんたちに任せればいいだろう。
俺はスマートフォンをポケットへしまい、昇降口へ向かった。
***
「お待たせ、朝倉!」
しばらくして、陽菜が小走りでやってきた。
「おう。日直終わったのか?」
「うん! 黒板消して、日誌を先生に出してきたよ」
「お疲れ」
「ありがとう。……あれ、朝倉?」
「ん?」
「何か疲れてない?」
「……まあ、ちょっとな」
俺は先ほど橘さんに電話したことを話した。
すると、陽菜は少し驚いたように目を丸くした。
「えっ、もう連絡したの?」
「ああ。帰る前に済ませとこうと思って」
「そっか……」
陽菜はそう言って、少しだけ笑った。
「よかった」
「……何が?」
「ちゃんと話せたならよかったなって。朝から気にしてたでしょ?」
「まあな。でも、結局同じ人だったのかはわかんねえぞ」
「それでも、気になってたことは伝えられたんだし、いいんじゃない?」
「……そうだな」
俺たちは靴を履き替え、校門へ向かった。
外はまだ明るく、グラウンドでは運動部の生徒たちが練習している。その掛け声を聞きながら歩いていると、陽菜がふと思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば、朝倉」
「ん?」
「来月の試験、そろそろ勉強始めないとね」
「……やめろ」
「えっ?」
「せっかく電話終わって安心したのに、もっと怖い話を持ち出すな」
「もう! 試験は怖いものじゃないでしょ!」
「俺にとっては十分怖いんだよ」
陽菜は声を上げて笑った。
俺もつられて笑う。
事件のことは専門家に任せたが、試験の方はそうもいかない。
今日の数学だって、黒板の式を写すので精いっぱいだった。あれを試験前日に全部理解しようとするのは、さすがに無理がある気がする。
「……なあ、陽菜」
「ん?」
「今度、勉強教えてくれないか?」
「いいよ!」
陽菜は即答した。
「でも、ちゃんと自分でも勉強するんだよ?」
「……善処します」
「もう、その返事!」
陽菜の笑い声が、夕方の通学路に響いた。
***
その日の夜。
鳴瀬支部の執務室で、橘玲奈は一枚の報告書に目を通していた。
夕方、朝倉悠真から受けた連絡をまとめたものだ。
男を見かけたのは、日曜日の午後三時前。場所は駅前の交差点付近だったという。
黒い上着に暗い色のズボンを身につけ、肩には小さなバッグをかけていた。服装だけなら、特に珍しいものではない。
悠真は鳴瀬スクエアで見かけた人物に似ていると感じたものの、同じ人物だと判断できる特徴までは覚えていなかった。
「……朝倉悠真、か」
玲奈は小さく呟いた。
以前の聞き取りでも、この少年は曖昧な記憶を無理に断定しようとはしなかった。今回も、自分が実際に見たことと、あとから知人と話して考えたことを分けて説明していた。
ただ、それで記憶の正しさまで保証されるわけではない。
玲奈は報告書を机へ置き、端末に保存された監視映像を開いた。
鳴瀬スクエアの管理区域へ通じる廊下が映し出される。
再生すると、一人の人物が現れ、急ぎ足で通路の奥へ進んでいった。
顔は確認できない。服装もありふれており、この映像だけで身元を特定するのは難しかった。
ただ、通路へ入った時刻は、大柄な男が一階で騒ぎを起こす少し前だった。
玲奈は映像を停止し、施設側から提出された出入りの記録を開いた。画面の時刻と、資料に記された内容をもう一度見比べる。
「……やっぱり、おかしいわね」
その時間帯に、該当する通路を使用したと確認できる従業員の記録はなかった。
もちろん、記録漏れの可能性もある。だが、施設側への確認でも、まだこの人物の身元はわかっていなかった。
玲奈は椅子の背もたれに身体を預けた。
大柄な男が騒ぎを起こす直前、別の人物が管理区域へ入っていた。
二つの出来事が偶然重なっただけなのか、それとも何か関係があるのか。今の段階では、どちらとも言えない。
机の上の報告書へ、もう一度目を向ける。
悠真が昨日見た男が、映像の人物と同じだとは限らない。それでも、目撃した場所と時刻がわかっているなら、確かめておく価値はあった。
玲奈は端末へ向き直り、駅前周辺の映像確認を依頼する文面を作成した。
目撃場所と時刻、男が進んだ方向を書き込み、人物の同一性は未確認であることも添える。
送信を終えると、停止したままの監視映像へ目を戻した。
通路の奥へ向かう後ろ姿を、しばらく見つめる。
「……どこへ行ったのかしらね」
玲奈は小さく呟き、映像の続きを再生した。




