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最弱の俺だけが、英雄たちの涙を覚えている  作者: 黒子丸
1章

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16/18

15話 見覚えのある後ろ姿

日曜日の午前十一時。


俺は今、ベッドの上で深刻な問題に直面していた。


「……腹減った」


昨日の夜、陽菜の作ってくれた夕飯をあれだけ食べたというのに、起きれば腹は減るものらしい。


枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。


十一時十三分。


休日としては、なかなか理想的な起床時間だ。


しかも、今日は陽菜に起こされていない。


昨日の約束を守ってくれたらしい。


「……素晴らしい」


誰にともなく呟き、もう一度布団へ潜り込む。


あと三十分くらい寝てもいいかもしれない。


そう思ったところで、腹が盛大に鳴った。


「…………」


……起きるか。


俺は渋々身体を起こし、洗面所へ向かった。


顔を洗ってから台所に立ち、昨日買っておいた食パンを取り出す。卵も牛乳もあるので、わざわざ外へ出る必要はない。


やはり、買い物はしておくものだな。


フライパンで目玉焼きを作り、トースターへ食パンを放り込む。


数分後には、それなりの食事が完成した。


「いただきます」


焼きすぎて端が少し焦げた目玉焼きを口へ運ぶ。


……うん、普通。


昨日の照り焼きとは比べるまでもないが、食えないわけじゃない。


スマートフォンで動画を流しながら食べ終え、皿を流しへ運ぶ。


そこで、昨日の陽菜の言葉を思い出した。


『次は朝倉が作ってくれる?』


「……目玉焼きなら作れるんだけどな」


ただ、ご飯と目玉焼きだけでは駄目だと言われそうだ。


……まあ、何か簡単な料理でも調べてみるか。


そう考えたところで、スマートフォンが震えた。


『朝倉、おはよう!』


『もう起きた?』


俺は時計を見た。


十一時四十二分。


『おはよう。ちゃんと起きたぞ』


『何時に?』


『十一時』


しばらくして、返事が届いた。


『本当にお昼まで寝てたんだね』


『有意義な休日だった』


『まだ午前中しか終わってないよ?』


ごもっとも。


続けて、もう一件届く。


『今日って、午後は何か予定ある?』


『特にないけど』


『じゃあ、ちょっと買い物付き合ってくれない?』


『昨日行ったばっかりなんだが』


『朝倉の買い物じゃなくて、私のだよ!』


なるほど。


そういうことか。


『何買うんだ?』


『お菓子の材料と、焼き型も見たくて』


俺は部屋の隅へ目を向けた。


昨日のゲームの続きも気になる。


ただ、欲しい漫画の新刊が出ていないか、本屋を覗きたい気もしていた。


『本屋も寄っていいなら』


『もちろん!』


『じゃあ行くわ。何時?』


『十三時に玄関前でどうかな?』


『了解』


スマートフォンを置き、流しの皿へ目を戻す。


出かける前に、これくらいは洗っておこう。


昨日、陽菜にも散々言われたしな。


***


午後一時。


アパートの廊下へ出ると、すでに陽菜が待っていた。


今日は白いブラウスに淡い青色のスカートという服装で、小さなショルダーバッグを肩にかけている。


「お待たせ」


「ううん。私も今出てきたところ」


「で、どこ行くんだ?」


「駅前のショッピングセンター。製菓用品のお店があるでしょ?」


「ああ、あそこか」


以前にも、陽菜に付き合って行ったことがある場所だった。


鳴瀬スクエアとは別の、駅前にある比較的小さな商業施設だ。本屋も同じ建物に入っている。


「昨日のお菓子、また作るのか?」


「うん。それと、新しい型も見たいんだよね」


「今のじゃ駄目なのか?」


「駄目じゃないけど、違う形のものも作ってみたいから」


「……なるほどな」


正直、俺にはあまり違いがわからない。


焼ければ同じではないかと思ってしまうが、陽菜にとってはそうでもないのだろう。


「朝倉、よくわかってないでしょ」


「……何でわかった?」


「返事が適当だったから」


「半分くらいは理解してるぞ」


「じゃあ、残り半分はお店で説明するね」


「……お手柔らかにお願いします」


陽菜が楽しそうに笑った。


俺たちは並んで階段を下り、アパートを出る。


空は薄く曇っていたが、雨が降る気配はない。昨日よりも少し気温が高く、しばらく歩くと、じんわり汗ばんできた。


「……暑いな」


「もう六月になるもんね」


「そろそろ夏かぁ」


「その前に梅雨だけどね」


「……ああ、そうだった」


洗濯物が乾きにくくなる、嫌な季節である。


雨が続くと、干す場所を考えるのも面倒だ。部屋の中へ適当に掛けておくと、今度は自分が通りづらくなる。


「朝倉、梅雨の間に洗濯物ためないでね」


「……先に言うなよ」


「やっぱり、今考えてた?」


「乾かないんだから仕方ないだろ」


「だから、まとめて洗おうとしない方がいいんだよ」


「……はい」


出かけて早々、生活指導を受けてしまった。


***


駅前のショッピングセンターは、休日らしく多くの買い物客で賑わっていた。


入口付近では期間限定の催しが開かれており、何人かの子供が足を止めている。


俺たちはその横を通り、二階へ上がった。


製菓用品の専門店に入ると、棚に見慣れない道具がずらりと並んでいた。


金属製の型、シリコン製の型、泡立て器、へら。


用途のわからない小さな器具もある。


……こんなに必要なのか。


「見て、朝倉。これ、可愛くない?」


陽菜が手に取ったのは、花の形をした小さな焼き型だった。


「おお、花だな」


「……それは見ればわかるよ」


「いや、可愛いと思うぞ」


「本当?」


「ああ。焼けたら、そのまま花の形になるんだろ?」


「うん。こんな感じ」


陽菜が商品の写真を見せてくる。


小さな焼き菓子がいくつも並び、表面には粉砂糖がかかっていた。


「……美味そうだな」


「形の話してたんだけど」


「見た目も大事だろ」


「ふふっ。それはそうだね」


陽菜は満足そうに頷き、今度は商品の説明を読み始めた。


少し離れた棚から似たような型を持ってきて、大きさや材質を見比べている。


俺も隣から覗いてみたが、どちらがいいのかはさっぱりわからなかった。


「……なあ、陽菜」


「ん?」


「俺、先に本屋見てきていいか?」


「あ、うん。ごめんね。もう少し迷いそうだから」


「謝ることじゃねえよ。ゆっくり見ててくれ」


「ありがとう。終わったら連絡するね」


「おう」


俺は店を出て、同じ階の本屋へ向かった。


入口近くの新刊コーナーを見たところで、思わず足が止まる。


「……おっ」


好きな漫画の新刊が並んでいた。


発売日をすっかり忘れていた。


一冊手に取り、裏表紙のあらすじを確認する。


……よし、買おう。


今日は思わぬ収穫があったな。


そのままレジへ向かおうとしたときだった。


通路の向こうを、見覚えのある女子生徒が歩いていた。


長い黒髪に、見慣れた制服。


……あれ、神崎じゃね?


相手はこちらに気づいていないらしく、本屋の奥へ向かっている。


俺は少し声を抑えて呼びかけた。


「……神崎?」


女子生徒が振り返る。


「……朝倉?」


やっぱり神崎だった。


「よう。奇遇だな」


「本当にね。あなたも買い物?」


「ああ。陽菜に付き合って来たんだけど、あいつが型を選んでる間に本屋へ」


「そうだったの」


神崎は頷き、俺の手元へ目を向けた。


「その漫画、買うの?」


「おう。新刊出てたから」


「どんな話なの?」


「能力者同士が戦うやつ。主人公がめちゃくちゃ強くてさ」


「……好きね、そういうの」


神崎が少し笑った。


「いいだろ。漫画くらい、強いやつが派手に戦っても」


「駄目だとは言ってないわよ」


「読んでみるか? 最初の巻なら家にあるぞ」


「そうね。今は、こっちを先に読まないといけないから」


神崎は、手に持っていた参考書を少し持ち上げた。


「……マジか」


「何よ、その反応」


「いや、休日に参考書を買いに来たのかと思って」


「買いに来たのよ。来月の試験に向けて、少し勉強しておこうと思って」


「……もう?」


「もう、じゃないでしょう」


神崎が呆れたように俺を見る。


「朝倉も、そろそろ始めた方がいいんじゃない?」


「一応、考えてはいるぞ」


「いつから?」


「……試験が近くなったら」


「それだと、直前までやらなさそうね」


否定できないのが悔しい。


俺が返す言葉を探していると、スマートフォンが震えた。


陽菜からだった。


『朝倉、買い物終わったよ!』


『今どこ?』


俺はすぐに返信する。


『二階の本屋。神崎もいるぞ』


数秒後、返事が来た。


『えっ、神崎さん!?』


『今行く!』


……反応早いな。


「陽菜、こっち来るってさ」


「そうなの?」


「ああ。神崎がいるって言ったら、すぐ来るって」


「……ふふっ」


神崎の口元が緩んだ。


俺たちはひとまず会計を済ませ、店の入口へ移動した。


少し待つと、買い物袋を抱えた陽菜がやってきた。


「神崎さん!」


「こんにちは、小日向さん」


「こんにちは! こんなところで会えるなんてびっくり!」


「私も驚いたわ」


陽菜は嬉しそうに笑い、神崎の袋へ目を向けた。


「何買ったの?」


「参考書よ。試験勉強に使おうと思って」


「そっか。私もそろそろ始めなきゃ」


「……おい、陽菜」


「ん?」


「お前までそんなこと言うのかよ」


「だって、試験あるんだもん」


「まだ先だろ?」


「今のうちに少しずつやった方が楽だよ?」


神崎が頷いた。


「小日向さんの言うとおりね」


「……二対一かよ」


どうやら、今日の俺に味方はいないらしい。


***


買い物を終えた俺たちは、三人でショッピングセンターを出た。


神崎も駅の方へ向かうというので、交差点までは一緒に歩くことになった。


「小日向さんは、何を買ったの?」


神崎が尋ねる。


陽菜は手元の袋を少し持ち上げた。


「焼き菓子の型。花の形になるのがあって、可愛かったんだ」


「へえ。花の形?」


「うん。朝倉にも見てもらったんだけど、食べることしか考えてなくて」


「おい。ちゃんと可愛いって言っただろ」


「最初は、花だなって言っただけだったよ」


「間違ってはいない」


神崎が小さく吹き出した。


「朝倉らしい感想ね」


「それで片づけるなよ」


俺が抗議すると、陽菜は笑いながら袋の中を覗いた。


「でも、そのあと写真見て、美味しそうって言ってくれたんだ」


「それなら、ちゃんと見ていたんじゃない?」


「そうそう。神崎はわかってるな」


「形より、食べる方をね」


「……お前もそっち側か」


二人に笑われた。


俺は買った漫画の入った袋を持ち直す。


本屋を出てから、さっき読んだあらすじが気になって仕方ない。


帰ったら、真っ先に続きを読もう。


「そういえば、金曜日の訓練、大変だったね」


陽菜の言葉に、俺は顔を上げた。


神崎が静かに頷く。


「ええ。まさか本当に仕切りが倒れるとは思わなかったわ」


「あの子、大きな怪我じゃなくてよかったね」


「そうね」


「俺、帰ってから少し腕がだるかったぞ。人運ぶの、結構きつかったし」


「朝倉は、普段あまり身体を動かしてないからね」


陽菜が言った。


「……そこへ持っていくのか」


「でも、今日はちゃんと歩いてるでしょ?」


「買い物って、運動に数えていいのか?」


「少なくとも、ずっとゲームしているよりはいいんじゃない?」


神崎まで言い始めた。


「……俺の休日に詳しくなってきたな、お前ら」


「朝倉が自分で話してくれるもの」


「そうそう」


二人に頷かれ、俺は小さくため息をついた。


余計なことは言わない方がいいのかもしれない。


駅前の交差点が見えてきたところで、神崎が足を止めた。


「じゃあ、私はこっちだから」


「ああ。また明日な」


「神崎さん、また学校で!」


「ええ。またね」


神崎が軽く手を振る。


俺も手を上げ、陽菜と帰り道へ向き直ろうとした。


そのときだった。


「……ん?」


通りの向こうで、黒い上着の男が目に入った。


買い物客の多い歩道を、人の間を抜けるように歩いている。


暗い色のズボンに、肩から下げた小さなバッグ。


別に、珍しい格好ではない。


ただ、周囲の人よりも歩くのが速かった。少し進んでは後ろを振り返り、また前へ向き直っている。


急いでいるのだろうか。


そう思ったとき、男が横断歩道の手前で少し身体をひねった。


肩にかけたバッグを押さえ、そのまま人の脇をすり抜けていく。


「……あれ?」


どこかで見たことがある気がした。


顔には覚えがない。


けれど、あの後ろ姿が妙に引っかかった。


俺が立ち止まっていることに気づいたのか、駅へ歩き出しかけていた神崎がこちらを振り返る。


陽菜も俺の顔を覗き込んだ。


「……朝倉?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや……」


もう一度、通りの向こうを見る。


男は横断歩道を渡り、駅とは反対側の通りへ入っていくところだった。


人の陰に黒い上着が隠れ、そのまま見えなくなる。


「知り合い?」


陽菜が尋ねた。


「……似た人がいた気がして」


「誰に?」


「それが思い出せねえんだよな」


「何それ」


陽菜が少し笑った。


俺も曖昧に笑い返す。


神崎はこちらを見ていたが、俺が軽く手を上げると、同じように手を振って駅へ向かった。


その後ろ姿を見送り、俺たちも歩き出す。


けれど、さっきの男の姿が頭から離れなかった。


学校で見た人だろうか。


いや、違う気がする。


近所の店員か、道ですれ違った誰かか。


考えても、はっきりとは思い出せない。


「朝倉、帰りにコンビニ寄ってもいい?」


陽菜の声で顔を上げた。


「ん? ああ、いいぞ」


「新しいお菓子が出てるんだって」


「……さっき材料買ってなかったか?」


「それは作る方。こっちは食べてみたいの」


「なるほどな」


「朝倉も漫画買ったでしょ? 同じだよ」


「……まあ、そうか」


好きなものは、気になる。


そう言われれば、俺にもよくわかった。


陽菜が新商品の話を始める。


俺はそれに相槌を打ちながら、もう一度だけ通りを振り返った。


男の姿は、もうなかった。


***


同じ頃。


鳴瀬市内の、とある建物。


窓の少ない部屋で、一人の男がスマートフォンを耳に当てていた。


「……ああ。確認した」


電話の向こうから、低い声が聞こえる。


『例の件はどうなっている』


「問題ない。ただ、警察が少し動き始めている」


『……余計なことはするな』


「わかっている」


男は窓の外へ目を向けた。


通りには何台もの車が行き交い、その向こうを買い物袋を提げた人々が歩いている。


「記録の件は?」


『必要なものは確保した。あとは予定どおり進める』


「……そうか」


短い沈黙が流れた。


やがて、電話の向こうの男が言った。


『真壁には、まだ動くなと伝えろ』


「……了解した」


通話が切れる。


男はスマートフォンをポケットへしまい、机の上へ視線を落とした。


黒いケースに収められた、小さな記録媒体。


それを手に取り、鞄の奥へしまい込む。


「……面倒なことにならなければいいが」


誰にともなく呟き、部屋の明かりを消した。


扉が閉まると、室内には通りを走る車の音だけが残った。

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