15話 見覚えのある後ろ姿
日曜日の午前十一時。
俺は今、ベッドの上で深刻な問題に直面していた。
「……腹減った」
昨日の夜、陽菜の作ってくれた夕飯をあれだけ食べたというのに、起きれば腹は減るものらしい。
枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。
十一時十三分。
休日としては、なかなか理想的な起床時間だ。
しかも、今日は陽菜に起こされていない。
昨日の約束を守ってくれたらしい。
「……素晴らしい」
誰にともなく呟き、もう一度布団へ潜り込む。
あと三十分くらい寝てもいいかもしれない。
そう思ったところで、腹が盛大に鳴った。
「…………」
……起きるか。
俺は渋々身体を起こし、洗面所へ向かった。
顔を洗ってから台所に立ち、昨日買っておいた食パンを取り出す。卵も牛乳もあるので、わざわざ外へ出る必要はない。
やはり、買い物はしておくものだな。
フライパンで目玉焼きを作り、トースターへ食パンを放り込む。
数分後には、それなりの食事が完成した。
「いただきます」
焼きすぎて端が少し焦げた目玉焼きを口へ運ぶ。
……うん、普通。
昨日の照り焼きとは比べるまでもないが、食えないわけじゃない。
スマートフォンで動画を流しながら食べ終え、皿を流しへ運ぶ。
そこで、昨日の陽菜の言葉を思い出した。
『次は朝倉が作ってくれる?』
「……目玉焼きなら作れるんだけどな」
ただ、ご飯と目玉焼きだけでは駄目だと言われそうだ。
……まあ、何か簡単な料理でも調べてみるか。
そう考えたところで、スマートフォンが震えた。
『朝倉、おはよう!』
『もう起きた?』
俺は時計を見た。
十一時四十二分。
『おはよう。ちゃんと起きたぞ』
『何時に?』
『十一時』
しばらくして、返事が届いた。
『本当にお昼まで寝てたんだね』
『有意義な休日だった』
『まだ午前中しか終わってないよ?』
ごもっとも。
続けて、もう一件届く。
『今日って、午後は何か予定ある?』
『特にないけど』
『じゃあ、ちょっと買い物付き合ってくれない?』
『昨日行ったばっかりなんだが』
『朝倉の買い物じゃなくて、私のだよ!』
なるほど。
そういうことか。
『何買うんだ?』
『お菓子の材料と、焼き型も見たくて』
俺は部屋の隅へ目を向けた。
昨日のゲームの続きも気になる。
ただ、欲しい漫画の新刊が出ていないか、本屋を覗きたい気もしていた。
『本屋も寄っていいなら』
『もちろん!』
『じゃあ行くわ。何時?』
『十三時に玄関前でどうかな?』
『了解』
スマートフォンを置き、流しの皿へ目を戻す。
出かける前に、これくらいは洗っておこう。
昨日、陽菜にも散々言われたしな。
***
午後一時。
アパートの廊下へ出ると、すでに陽菜が待っていた。
今日は白いブラウスに淡い青色のスカートという服装で、小さなショルダーバッグを肩にかけている。
「お待たせ」
「ううん。私も今出てきたところ」
「で、どこ行くんだ?」
「駅前のショッピングセンター。製菓用品のお店があるでしょ?」
「ああ、あそこか」
以前にも、陽菜に付き合って行ったことがある場所だった。
鳴瀬スクエアとは別の、駅前にある比較的小さな商業施設だ。本屋も同じ建物に入っている。
「昨日のお菓子、また作るのか?」
「うん。それと、新しい型も見たいんだよね」
「今のじゃ駄目なのか?」
「駄目じゃないけど、違う形のものも作ってみたいから」
「……なるほどな」
正直、俺にはあまり違いがわからない。
焼ければ同じではないかと思ってしまうが、陽菜にとってはそうでもないのだろう。
「朝倉、よくわかってないでしょ」
「……何でわかった?」
「返事が適当だったから」
「半分くらいは理解してるぞ」
「じゃあ、残り半分はお店で説明するね」
「……お手柔らかにお願いします」
陽菜が楽しそうに笑った。
俺たちは並んで階段を下り、アパートを出る。
空は薄く曇っていたが、雨が降る気配はない。昨日よりも少し気温が高く、しばらく歩くと、じんわり汗ばんできた。
「……暑いな」
「もう六月になるもんね」
「そろそろ夏かぁ」
「その前に梅雨だけどね」
「……ああ、そうだった」
洗濯物が乾きにくくなる、嫌な季節である。
雨が続くと、干す場所を考えるのも面倒だ。部屋の中へ適当に掛けておくと、今度は自分が通りづらくなる。
「朝倉、梅雨の間に洗濯物ためないでね」
「……先に言うなよ」
「やっぱり、今考えてた?」
「乾かないんだから仕方ないだろ」
「だから、まとめて洗おうとしない方がいいんだよ」
「……はい」
出かけて早々、生活指導を受けてしまった。
***
駅前のショッピングセンターは、休日らしく多くの買い物客で賑わっていた。
入口付近では期間限定の催しが開かれており、何人かの子供が足を止めている。
俺たちはその横を通り、二階へ上がった。
製菓用品の専門店に入ると、棚に見慣れない道具がずらりと並んでいた。
金属製の型、シリコン製の型、泡立て器、へら。
用途のわからない小さな器具もある。
……こんなに必要なのか。
「見て、朝倉。これ、可愛くない?」
陽菜が手に取ったのは、花の形をした小さな焼き型だった。
「おお、花だな」
「……それは見ればわかるよ」
「いや、可愛いと思うぞ」
「本当?」
「ああ。焼けたら、そのまま花の形になるんだろ?」
「うん。こんな感じ」
陽菜が商品の写真を見せてくる。
小さな焼き菓子がいくつも並び、表面には粉砂糖がかかっていた。
「……美味そうだな」
「形の話してたんだけど」
「見た目も大事だろ」
「ふふっ。それはそうだね」
陽菜は満足そうに頷き、今度は商品の説明を読み始めた。
少し離れた棚から似たような型を持ってきて、大きさや材質を見比べている。
俺も隣から覗いてみたが、どちらがいいのかはさっぱりわからなかった。
「……なあ、陽菜」
「ん?」
「俺、先に本屋見てきていいか?」
「あ、うん。ごめんね。もう少し迷いそうだから」
「謝ることじゃねえよ。ゆっくり見ててくれ」
「ありがとう。終わったら連絡するね」
「おう」
俺は店を出て、同じ階の本屋へ向かった。
入口近くの新刊コーナーを見たところで、思わず足が止まる。
「……おっ」
好きな漫画の新刊が並んでいた。
発売日をすっかり忘れていた。
一冊手に取り、裏表紙のあらすじを確認する。
……よし、買おう。
今日は思わぬ収穫があったな。
そのままレジへ向かおうとしたときだった。
通路の向こうを、見覚えのある女子生徒が歩いていた。
長い黒髪に、見慣れた制服。
……あれ、神崎じゃね?
相手はこちらに気づいていないらしく、本屋の奥へ向かっている。
俺は少し声を抑えて呼びかけた。
「……神崎?」
女子生徒が振り返る。
「……朝倉?」
やっぱり神崎だった。
「よう。奇遇だな」
「本当にね。あなたも買い物?」
「ああ。陽菜に付き合って来たんだけど、あいつが型を選んでる間に本屋へ」
「そうだったの」
神崎は頷き、俺の手元へ目を向けた。
「その漫画、買うの?」
「おう。新刊出てたから」
「どんな話なの?」
「能力者同士が戦うやつ。主人公がめちゃくちゃ強くてさ」
「……好きね、そういうの」
神崎が少し笑った。
「いいだろ。漫画くらい、強いやつが派手に戦っても」
「駄目だとは言ってないわよ」
「読んでみるか? 最初の巻なら家にあるぞ」
「そうね。今は、こっちを先に読まないといけないから」
神崎は、手に持っていた参考書を少し持ち上げた。
「……マジか」
「何よ、その反応」
「いや、休日に参考書を買いに来たのかと思って」
「買いに来たのよ。来月の試験に向けて、少し勉強しておこうと思って」
「……もう?」
「もう、じゃないでしょう」
神崎が呆れたように俺を見る。
「朝倉も、そろそろ始めた方がいいんじゃない?」
「一応、考えてはいるぞ」
「いつから?」
「……試験が近くなったら」
「それだと、直前までやらなさそうね」
否定できないのが悔しい。
俺が返す言葉を探していると、スマートフォンが震えた。
陽菜からだった。
『朝倉、買い物終わったよ!』
『今どこ?』
俺はすぐに返信する。
『二階の本屋。神崎もいるぞ』
数秒後、返事が来た。
『えっ、神崎さん!?』
『今行く!』
……反応早いな。
「陽菜、こっち来るってさ」
「そうなの?」
「ああ。神崎がいるって言ったら、すぐ来るって」
「……ふふっ」
神崎の口元が緩んだ。
俺たちはひとまず会計を済ませ、店の入口へ移動した。
少し待つと、買い物袋を抱えた陽菜がやってきた。
「神崎さん!」
「こんにちは、小日向さん」
「こんにちは! こんなところで会えるなんてびっくり!」
「私も驚いたわ」
陽菜は嬉しそうに笑い、神崎の袋へ目を向けた。
「何買ったの?」
「参考書よ。試験勉強に使おうと思って」
「そっか。私もそろそろ始めなきゃ」
「……おい、陽菜」
「ん?」
「お前までそんなこと言うのかよ」
「だって、試験あるんだもん」
「まだ先だろ?」
「今のうちに少しずつやった方が楽だよ?」
神崎が頷いた。
「小日向さんの言うとおりね」
「……二対一かよ」
どうやら、今日の俺に味方はいないらしい。
***
買い物を終えた俺たちは、三人でショッピングセンターを出た。
神崎も駅の方へ向かうというので、交差点までは一緒に歩くことになった。
「小日向さんは、何を買ったの?」
神崎が尋ねる。
陽菜は手元の袋を少し持ち上げた。
「焼き菓子の型。花の形になるのがあって、可愛かったんだ」
「へえ。花の形?」
「うん。朝倉にも見てもらったんだけど、食べることしか考えてなくて」
「おい。ちゃんと可愛いって言っただろ」
「最初は、花だなって言っただけだったよ」
「間違ってはいない」
神崎が小さく吹き出した。
「朝倉らしい感想ね」
「それで片づけるなよ」
俺が抗議すると、陽菜は笑いながら袋の中を覗いた。
「でも、そのあと写真見て、美味しそうって言ってくれたんだ」
「それなら、ちゃんと見ていたんじゃない?」
「そうそう。神崎はわかってるな」
「形より、食べる方をね」
「……お前もそっち側か」
二人に笑われた。
俺は買った漫画の入った袋を持ち直す。
本屋を出てから、さっき読んだあらすじが気になって仕方ない。
帰ったら、真っ先に続きを読もう。
「そういえば、金曜日の訓練、大変だったね」
陽菜の言葉に、俺は顔を上げた。
神崎が静かに頷く。
「ええ。まさか本当に仕切りが倒れるとは思わなかったわ」
「あの子、大きな怪我じゃなくてよかったね」
「そうね」
「俺、帰ってから少し腕がだるかったぞ。人運ぶの、結構きつかったし」
「朝倉は、普段あまり身体を動かしてないからね」
陽菜が言った。
「……そこへ持っていくのか」
「でも、今日はちゃんと歩いてるでしょ?」
「買い物って、運動に数えていいのか?」
「少なくとも、ずっとゲームしているよりはいいんじゃない?」
神崎まで言い始めた。
「……俺の休日に詳しくなってきたな、お前ら」
「朝倉が自分で話してくれるもの」
「そうそう」
二人に頷かれ、俺は小さくため息をついた。
余計なことは言わない方がいいのかもしれない。
駅前の交差点が見えてきたところで、神崎が足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから」
「ああ。また明日な」
「神崎さん、また学校で!」
「ええ。またね」
神崎が軽く手を振る。
俺も手を上げ、陽菜と帰り道へ向き直ろうとした。
そのときだった。
「……ん?」
通りの向こうで、黒い上着の男が目に入った。
買い物客の多い歩道を、人の間を抜けるように歩いている。
暗い色のズボンに、肩から下げた小さなバッグ。
別に、珍しい格好ではない。
ただ、周囲の人よりも歩くのが速かった。少し進んでは後ろを振り返り、また前へ向き直っている。
急いでいるのだろうか。
そう思ったとき、男が横断歩道の手前で少し身体をひねった。
肩にかけたバッグを押さえ、そのまま人の脇をすり抜けていく。
「……あれ?」
どこかで見たことがある気がした。
顔には覚えがない。
けれど、あの後ろ姿が妙に引っかかった。
俺が立ち止まっていることに気づいたのか、駅へ歩き出しかけていた神崎がこちらを振り返る。
陽菜も俺の顔を覗き込んだ。
「……朝倉?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや……」
もう一度、通りの向こうを見る。
男は横断歩道を渡り、駅とは反対側の通りへ入っていくところだった。
人の陰に黒い上着が隠れ、そのまま見えなくなる。
「知り合い?」
陽菜が尋ねた。
「……似た人がいた気がして」
「誰に?」
「それが思い出せねえんだよな」
「何それ」
陽菜が少し笑った。
俺も曖昧に笑い返す。
神崎はこちらを見ていたが、俺が軽く手を上げると、同じように手を振って駅へ向かった。
その後ろ姿を見送り、俺たちも歩き出す。
けれど、さっきの男の姿が頭から離れなかった。
学校で見た人だろうか。
いや、違う気がする。
近所の店員か、道ですれ違った誰かか。
考えても、はっきりとは思い出せない。
「朝倉、帰りにコンビニ寄ってもいい?」
陽菜の声で顔を上げた。
「ん? ああ、いいぞ」
「新しいお菓子が出てるんだって」
「……さっき材料買ってなかったか?」
「それは作る方。こっちは食べてみたいの」
「なるほどな」
「朝倉も漫画買ったでしょ? 同じだよ」
「……まあ、そうか」
好きなものは、気になる。
そう言われれば、俺にもよくわかった。
陽菜が新商品の話を始める。
俺はそれに相槌を打ちながら、もう一度だけ通りを振り返った。
男の姿は、もうなかった。
***
同じ頃。
鳴瀬市内の、とある建物。
窓の少ない部屋で、一人の男がスマートフォンを耳に当てていた。
「……ああ。確認した」
電話の向こうから、低い声が聞こえる。
『例の件はどうなっている』
「問題ない。ただ、警察が少し動き始めている」
『……余計なことはするな』
「わかっている」
男は窓の外へ目を向けた。
通りには何台もの車が行き交い、その向こうを買い物袋を提げた人々が歩いている。
「記録の件は?」
『必要なものは確保した。あとは予定どおり進める』
「……そうか」
短い沈黙が流れた。
やがて、電話の向こうの男が言った。
『真壁には、まだ動くなと伝えろ』
「……了解した」
通話が切れる。
男はスマートフォンをポケットへしまい、机の上へ視線を落とした。
黒いケースに収められた、小さな記録媒体。
それを手に取り、鞄の奥へしまい込む。
「……面倒なことにならなければいいが」
誰にともなく呟き、部屋の明かりを消した。
扉が閉まると、室内には通りを走る車の音だけが残った。




