14話 いつもと違う土曜日
土曜日の午前九時。
俺は布団の中で、何とも幸せな時間を過ごしていた。
今日は学校がない。授業もなければ、朝から重たい鞄を背負って歩く必要もない。
昼まで寝たって誰にも文句を言われない、素晴らしい休日である。
少なくとも、ついさっきまではそう思っていた。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「…………」
聞こえなかったことにしよう。
俺は布団を頭までかぶり、寝返りを打つ。
ピンポーン。
……しつこいな。
枕元のスマートフォンを手に取ると、陽菜からメッセージが届いていた。
『朝倉、起きてる?』
『起きてないなら起こすよ!』
「……もう起こしてんだよなぁ」
呟いたところで、さらに一件届く。
『お菓子、焼けたんだけど』
俺は画面を見つめた。
……なるほど。
それなら、少しだけ話が変わってくる。
布団から身体を起こし、寝癖だらけの頭をかきながら玄関へ向かった。
「はいはい、今開けるって」
扉を開けると、予想どおり陽菜が立っていた。
淡い色のカーディガンにデニムという私服姿で、片手には小さな紙袋を持っている。
「おはよう、朝倉!」
「……おはようございます」
「何、そのテンション」
「休日の朝九時に起こされた人間のテンションだ」
「もう九時だよ?」
「まだ九時だろ」
どうやら、俺たちの間には埋めようのない価値観の違いがあるらしい。
陽菜は呆れたように笑ったあと、俺の頭を見上げた。
「……それにしても、すごい寝癖」
「寝起きだからな」
「右側だけ跳ねてるよ」
「仕様だ」
「そんな仕様、直した方がいいと思う」
まったく失礼なやつだ。
俺があくびをかみ殺していると、陽菜は持っていた紙袋を差し出した。
「はい、これ。昨日話してたチョコレートのお菓子」
「ああ、もうできたのか」
「うん。昨日のうちに準備して、今朝焼いたんだ。少し冷ましてから持ってきたの」
「……朝から元気だな、お前」
「楽しみにしてるって言ってたでしょ?」
「言ったけど、朝九時とは聞いてねえぞ」
「時間あるときでいいよ。無理に今食べなくても」
そう言われて、紙袋の中を覗く。
小さな焼き菓子が、袋に分けて入っていた。見た目はほとんど同じだが、使ったチョコレートが違うらしい。
「……いや、せっかくだし、あとで食うわ」
「ふふっ。じゃあ、感想よろしくね」
「おう。任せろ」
「美味しい、以外も聞かせてね?」
「……昨日も言ってなかったか、それ」
「大事なことだから」
念を押されてしまった。
試食係というのも、案外責任のある仕事らしい。
「わかったって。食べたら連絡する」
「うん。あ、朝ご飯はちゃんと食べてからにしてね」
「……何で先回りするんだよ」
「今、これだけで済ませようとしてなかった?」
「…………」
陽菜が、じっと俺を見る。
俺は紙袋を抱え直した。
「……とりあえず、顔洗ってくるわ」
「うん。そうして」
陽菜は満足そうに笑い、隣の部屋へ戻っていった。
俺も扉を閉め、台所へ向かう。
二度寝するつもりだったのに、ずいぶん予定が変わってしまった。
……まあ、菓子があるなら仕方ないか。
***
朝食を済ませ、机の上へ焼き菓子を並べたのは、十時を少し過ぎた頃だった。
袋には、それぞれ小さなシールが貼られている。
『A』『B』
どちらに何のチョコレートを使ったのかは、書かれていなかった。
先入観なしで食べ比べてほしい、ということなのだろう。
「……なるほどな」
まずはAを一つ口へ運ぶ。
しっとりとした生地に、チョコレートの甘さが広がった。外側は少し香ばしく、気づけばもう一口食べている。
「……うま」
続いてBを食べてみる。
こちらも美味い。ただ、Aに比べると、少し苦味が強い気がした。
俺は二つを見比べ、もう一度Aをかじった。
それから、Bも食べる。
……うん。どっちも美味い。
困ったことに、それ以上の感想が出てこない。
「……どう伝えりゃいいんだ?」
陽菜は、将来自分の店を開きたいと言っていた。
せっかく試作しているのだから、ちゃんと役に立つことを伝えてやりたい。とはいえ、俺に材料や作り方の違いがわかるわけでもなかった。
しばらく考えた末、スマートフォンを取り出す。
『食べたぞ』
すぐに既読がついた。
『どうだった!?』
『両方うまかった』
『ありがとう! どっちが好き?』
……来た。
予想どおりの質問である。
俺は残っている二つの袋へ目を向けた。
『俺はAかな。Bはちょっと苦い気がする』
『なるほど! ほかには?』
『Aの方が何個でも食えそう』
少し待つと、返事が届いた。
『じゃあ、Bは一個で満足する感じ?』
『そうそう。嫌いな味じゃないけどな』
『わかった! ありがとう、参考にするね』
どうやら、これでよかったらしい。
俺は少し安心して、残っていたAを口へ放り込んだ。
『また作ったら食わせてくれ』
『もちろん!』
スマートフォンを置き、袋の中を覗く。
気づけば、Aはもうなくなっていた。
……これは確かに、どっちが好きかわかりやすいな。
Bの袋は閉じて、机の端へ寄せておく。
それから、ゲーム機の電源を入れた。
休日はまだ始まったばかりだ。
***
午後三時を過ぎた頃。
俺はようやくゲームを中断した。
理由は単純だ。
腹が減った。
朝飯は食べたものの、昼は残っていた焼き菓子をつまんで済ませてしまった。さすがに、それだけで一日過ごせるほど俺の燃費はよくない。
「……何か買いに行くか」
冷蔵庫を開ける。
卵はあと二つ。牛乳も残り少ない。
冷凍庫には、いつ買ったかわからない冷凍食品が一つだけ残っていた。
……なるほど。これはひどい。
昨日、陽菜に買い物へ行くと言ったのを思い出す。
明日ちゃんと聞くから、とまで言われていた。ここで何も買わずに済ませたら、あとで何を言われるかわかったものではない。
俺は財布とスマートフォンをポケットへ入れ、部屋を出た。
外では、春の終わりらしい暖かな風が吹いていた。
六月も近いというのに、今日は意外と過ごしやすい。住宅街には買い物帰りの家族連れや、自転車で遊びに行く子供たちの姿があった。
俺も近所のスーパーへ向かいながら、夕飯の献立を考える。
……肉、食いたいな。
できれば、焼くだけで済むやつがいい。
野菜も少しくらい買っておけば、陽菜に買い物袋を見られても困らないだろう。
店へ着くと、かごを手に取って肉売り場へ向かった。
「……おっ、鶏肉安いじゃん」
特売の札がついた鶏もも肉を一つ入れる。
続いて卵、牛乳、食パン。それから、野菜売り場で少し迷った末、カット野菜を一袋追加した。
かごの中を見下ろす。
……よし。
少なくとも、冷蔵庫を開けて途方に暮れることはなくなるはずだ。
レジへ向かおうとしたところで、入口の方に人が立ち止まっているのが見えた。
つられて目を向けると、ガラス扉の向こうに警察官が二人いた。
「……警察?」
何かあったのだろうか。
近くにいた客も、不思議そうに顔を見合わせている。
「事故でもあったのかな」
「さあ……」
そんな会話を聞きながら、俺はレジに並んだ。
警察官を見ると、どうしても鳴瀬スクエアの事件を思い出してしまう。
あの男は、まだ捕まっていない。
そう考えた途端、何となく入口から目を離しづらくなった。
……いや、何でもあの事件に結びつけるのは考えすぎだろ。
会計を済ませ、買ったものを袋へ詰める。
出口へ向かう途中、警察官の一人が店員と話している声が聞こえた。
「……この辺りで、見慣れない人物がうろついていたという通報がありまして」
「不審者ですか?」
「まだそうと決まったわけではありません。念のため、周辺を確認しています」
「そうですか……」
警察官は店員へ軽く頭を下げると、もう一人とともに歩いていった。
……見慣れない人物、か。
近所の話だと思うと、少し気になる。
ただ、詳しいことはわからなかった。俺は買い物袋を持ち直し、そのまま店を出た。
せっかく買った肉もある。
とりあえず、さっさと帰ろう。
***
アパートへ戻ると、ちょうど隣の部屋の扉が開いた。
「あ、朝倉!」
陽菜だった。
「おう。ただいま」
「おかえり。買い物行ってたの?」
「ああ。見てのとおり、ちゃんと行ったぞ」
袋を持ち上げると、陽菜が小さく笑った。
「よかった。あとで聞こうと思ってたんだ」
「本当に覚えてたのかよ」
「昨日、忘れないって言ったでしょ」
「……そうでした」
陽菜は、俺の買い物袋へ目を向けた。
「今日は何作るの?」
「鶏肉焼こうかなって」
「へえ。いいね」
「まあ、塩コショウで焼くだけだけどな」
「野菜は?」
「買ったぞ。カット野菜」
俺が袋の口を少し広げると、陽菜は中身を確かめた。
「……うん。ちゃんと買ってるね」
「何だよ、その確認」
「だって、自信ありそうだったから」
「我ながら、今日はまともな買い物をしたと思ってる」
「ふふっ。そっか」
陽菜は笑い、それから少し考えるように袋を見つめた。
「ねえ、朝倉。その鶏肉、今日食べるんだよね?」
「おう」
「よかったら、夕飯一緒にしない? 私が作るから」
「……え?」
思わず聞き返した。
「いいのか?」
「うん。私もちょうど、何作ろうかなって考えてたところだったの」
「でも、朝も菓子もらったばっかりだぞ」
「あれは試食でしょ。ちゃんと感想も聞かせてもらったし」
陽菜はそう言って、俺の袋を指さした。
「朝倉が鶏肉を出してくれたら、私のところにある野菜と合わせて作れるよ」
「……なるほど。俺が食材提供するわけか」
「そういうこと!」
陽菜の料理が食べられるなら、こちらとしても文句はない。
むしろ、塩コショウで焼こうとしていた肉が、もっと美味くなるのだ。ありがたい話である。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん!」
陽菜が嬉しそうに頷いた。
「十八時くらいにうちに来て。鶏肉は今預かってもいい?」
「おう。よろしく」
袋から鶏肉を取り出し、陽菜へ渡す。
「ほかに何か持ってくものあるか?」
「ううん。大丈夫。あ、食べ終わったら、お皿洗うの手伝ってね」
「そこは俺の仕事なのか」
「もちろん!」
即答された。
……まあ、料理してもらうんだし、それくらいはやるべきだろう。
「了解。皿洗いくらい任せろ」
「ふふっ。ありがとう」
陽菜は鶏肉を抱え、自分の部屋へ戻っていった。
俺も買い物袋を持ち直し、部屋の鍵を開ける。
冷蔵庫へ食材をしまってから、時計を見た。
十八時までは、まだ少しある。
……今度こそ、ゲームの続きやるか。
ただし、約束の時間を忘れないように、スマートフォンへアラームを設定しておいた。
***
十八時。
陽菜の部屋を訪ねると、扉が開いた瞬間、美味しそうな匂いが漂ってきた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
「いらっしゃい、朝倉!」
エプロン姿の陽菜が出迎えてくれた。
「もう少しでできるから、先に座ってて」
「おう。何作ってんだ?」
「鶏肉の照り焼きと、野菜のスープ。それからサラダだよ」
「……マジか」
塩コショウで焼く予定だった鶏肉が、随分と立派な夕飯になっている。
同じ食材でも、作る人間が違うとこうなるのか。
「何か手伝うことあるか?」
「じゃあ、そこのお箸とコップ、並べてもらってもいい?」
「了解」
頼まれたものをテーブルへ運ぶ。
台所では、陽菜がフライパンの中へ目を向けていた。肉を返し、タレを絡めてから火を弱める。
手順に迷う様子がない。
「……お前、やっぱすげえな」
「えっ?」
「いや、俺だったら肉焼いて終わりだったぞ」
「照り焼きも、そこまで難しくないよ。朝倉も練習すれば作れるって」
「……その練習が面倒なんだよなぁ」
「もう。食べる方は、全然面倒くさがらないのに」
「そっちは得意だからな」
「知ってる」
あっさり返された。
そのうちに料理が完成し、テーブルへ並んでいく。
照りのある鶏肉に、色鮮やかなサラダ。野菜スープからは湯気が上がっていて、隣には白いご飯が置かれた。
「……うまそう」
「じゃあ、食べよっか」
「おう」
向かい合って座り、手を合わせる。
「いただきます」
まずは鶏肉を一口。
甘辛いタレが絡んでいて、噛むと肉汁が広がった。柔らかく焼き上がっているうえに、ご飯との相性も抜群だ。
「……うっま」
思わず声が出た。
陽菜が顔を上げる。
「本当?」
「ああ。これ、めちゃくちゃ美味いぞ」
「よかった!」
安心したように笑い、陽菜も箸を伸ばした。
「今日は少し生姜を入れてみたんだ。朝倉、こういう味好きかなって」
「好き好き。ご飯何杯でもいける」
「ふふっ。おかわりもあるよ」
「……マジで?」
「うん。多めに炊いたから」
さすが陽菜。
俺の胃袋をよく理解している。
食べながら、今朝の焼き菓子の話になった。
俺が選んだAは、甘めのチョコレートを使ったものらしい。Bは、苦味の強いものだったそうだ。
「やっぱり、朝倉はAの方だったね」
「予想してたのか?」
「うん。でも、Bも美味しいって言ってくれたから、よかった」
「普通に美味かったぞ。あっちは、お茶飲みながらゆっくり食う方が好きかも」
陽菜の箸が止まった。
「……あ、それ、いいね」
「何が?」
「一緒に出す飲み物も考えられるなって。甘い方なら、そのまま食べてもいいけど……」
少し考えたあと、陽菜は俺を見る。
「ほら。朝倉、ちゃんと感想言えるじゃない」
「……言えないと思ってたのかよ」
「美味しい、で終わっちゃうこと多いから」
「それが一番大事だろ」
「うん。それは嬉しいよ」
迷いなく言われ、俺は返事に困った。
何となく照れくさくなって、茶碗へ目を落とす。
陽菜は気づいていないのか、そのまま話を続けた。
「でも、せっかくだから、いろんな人に食べてもらいたいんだ。朝倉とは違う好みの人もいるだろうし」
「まあ、苦い方が好きなやつもいるだろうな」
「うん。将来自分のお店を開いたら、好きな味を選んでもらえるようにしたくて」
「へえ。いいじゃん」
「でしょ?」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「でも、種類増やしすぎたら大変じゃね?」
「……それは、ちょっと心配かも」
「作るのもそうだけど、俺だったらどれ買うか決まらなくなるぞ」
「ふふっ。じゃあ、おすすめ教えてあげる」
「試食は?」
「それ、全部食べたいだけでしょ」
「ばれたか」
陽菜が声を上げて笑う。
俺も笑いながら、残っていた鶏肉を口へ運んだ。
誰かが作りたいものの話をして、それを食べる約束をする。
今の俺が気にしなければならないのは、茶碗のご飯がなくなりそうなことくらいだった。
「……朝倉?」
「ん?」
「どうしたの? 急に静かになって」
「いや。おかわりもらっていいかと思って」
「言ってくれればいいのに」
陽菜は笑って立ち上がり、俺の茶碗を受け取った。
***
夕飯を食べ終えたあと、約束どおり皿洗いを手伝った。
陽菜が調理器具を片づけ、俺は食器を洗う。
二人分なので、それほど多くはない。ただ、腹いっぱい食べたあとの立ち仕事は、少々つらかった。
「朝倉、そのお皿、裏もね」
「わかってるって」
「前に洗い残しあったから」
「……よく覚えてんな、そんなこと」
「洗い直したの、私だもん」
「……それは悪かった」
皿をひっくり返し、もう一度スポンジでこする。
最後の一枚を水切りかごへ置くと、俺は大きく伸びをした。
「……よし、終わった!」
「ありがとう。助かったよ」
「こっちこそ。夕飯美味かったわ」
「ふふっ。よかった」
陽菜はエプロンを外し、椅子へ腰を下ろした。
俺も向かいへ座り、出してもらった温かいお茶に口をつける。
テレビでは、週末のバラエティ番組が流れていた。
出演者が妙な失敗をして、それを見た陽菜が笑う。俺もつられて笑い、しばらく二人で画面を眺めていた。
「……ねえ、朝倉」
「ん?」
「また、こうやって一緒にご飯食べようね」
「おう。俺はいつでも歓迎だぞ」
「ふふっ。じゃあ、次は朝倉が作ってくれる?」
「……え?」
思わず陽菜を見た。
彼女は楽しそうに湯飲みを持っている。
「たまには、私も作ってもらいたいな」
「……目玉焼きでいいなら」
「夕飯に目玉焼きだけ?」
「ご飯もつけるぞ」
「それは当たり前でしょ!」
陽菜が声を上げて笑う。
俺も笑いながら、湯飲みを持ち直した。
「……まあ、何か考えとく」
「本当?」
「失敗しても文句言うなよ」
「言わないよ。楽しみにしてるね」
そう言われると、急に逃げ道がなくなった気がした。
……今度、簡単そうな料理でも調べてみるか。
そのとき、テレビの画面が切り替わった。
『続いて、県内で発生した事件に関するニュースです』
番組が終わり、短いニュースの時間に入ったらしい。
画面に映った建物を見て、俺は湯飲みを持つ手を止めた。
鳴瀬スクエアだった。
『今週月曜日に発生した異能力者による施設破損事件について、新たな情報が入りました』
「あ……」
陽菜が小さく声を漏らした。
俺も、テレビへ視線を向ける。
『捜査関係者によりますと、事件発生時、施設の管理区域に関係者以外の人物が立ち入っていた可能性があることがわかりました。警察と異常現象対策庁は、現在も逃走している男との関連を調べています』
「……管理区域?」
口にしてから、橘さんとの電話を思い出した。
従業員用の通路へ出入りする人を見なかったか。
あのとき、そう聞かれたはずだ。
俺が覚えていたのは、急いで通路へ入っていく人物と、そのあと扉を閉めた別の人物だった。
仕事中なのだと思い、気にも留めなかった。
もしかすると、あの中に従業員ではない人がいたのだろうか。
『捜査当局は施設内の記録についても確認を進めており、事件の詳しい経緯を調べています』
ニュースはそれだけ伝えると、次の話題へ移った。
「……朝倉」
陽菜が静かに口を開く。
「これ、電話で聞かれてたことだよね?」
「……ああ。たぶんな」
「じゃあ、あの男の人以外にも、誰かいたのかな」
「どうなんだろ。まだ可能性があるって話みたいだし」
俺は湯飲みをテーブルへ置いた。
あの大男が設備を壊し、みんなが逃げていた。
俺にわかるのは、そのくらいだ。
ほかにも誰かが関わっていたとすれば、何をしていたのだろう。
そもそも、あの男は何のために暴れていたのか。
考え始めると、わからないことばかりだった。
「……早く捕まるといいね」
陽菜が呟く。
「そうだな」
俺は頷いた。
覚えていることは、もう橘さんへ伝えてある。
今さら自分たちだけで考えたところで、新しいことがわかるわけではなかった。
陽菜もそれ以上は何も言わず、お茶に口をつけた。
テレビから、別のニュースを読む声が聞こえてくる。
俺は時計を見上げた。
午後八時を少し過ぎていた。
「……そろそろ帰るわ」
「うん」
「明日は、もうちょっと寝かせてくれよ」
陽菜がこちらを見る。
「お菓子、持っていかなくていいの?」
「もらえるなら、昼から伺います」
「ふふっ。急に丁寧になった」
「頼む。明日くらいは昼まで寝たい」
「しょうがないなぁ。じゃあ、明日は起こさないでおくね」
「……本当か?」
「うん。約束」
ようやく、休日らしい予定が一つ確保できた。
俺は安心して立ち上がり、玄関へ向かう。
「今日はごちそうさま。美味かったわ」
「うん。また作るね!」
「おう。楽しみにしてる」
靴を履き、扉を開ける。
陽菜が後ろから声をかけてきた。
「おやすみ、朝倉」
「おう。おやすみ」
隣の自分の部屋へ戻ると、ずいぶん静かに感じた。
さっきまでテレビがついていて、向かいには陽菜がいた。
一人の部屋へ帰ってきただけなのに、その違いが妙にはっきりしている。
俺は部屋の明かりをつけ、鞄も何も持っていないことを思い出して、少し笑った。
帰宅というほどの距離でもない。
***
風呂に入り、動画を何本か見ているうちに、夜は遅くなっていた。
スマートフォンを充電器につなぎ、ベッドへ寝転がる。
明日は、陽菜も起こしに来ない。
そう思うだけで、少し得した気分になった。
「……何すっかな」
とりあえず、午前中は寝る。
そのあとは、読みかけの漫画を片づけてもいい。続きが出ていたら、買いに行くのも悪くないだろう。
そんなことを考えていたところで、ふとニュースの映像が頭に浮かんだ。
管理区域に入っていたという、誰だかわからない人物。
今も捕まっていない、あの大男。
俺が見たものは、本当にただの作業風景だったのだろうか。
「……わかんねえって」
小さく呟き、枕元のリモコンで明かりを消した。
窓の外から、車の走る音が聞こえてくる。
いつもなら気にせず眠っている音だ。それなのに、今夜は車が遠ざかるまで耳を澄ませてしまった。
俺は寝返りを打ち、布団を引き寄せる。
せっかくの休日だ。
明日は、何事もなく過ごしたい。
そう思いながら目を閉じた。




