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最弱の俺だけが、英雄たちの涙を覚えている  作者: 黒子丸
1章

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18話 速すぎる男

「……やばい」


水曜日の昼休み。


俺は机に広げた数学のプリントを見つめながら、思わず呟いた。


昨日、陽菜と神崎に教えてもらった数列の問題。あれだけ時間をかけて説明してもらったのだから、さすがにもう解けるだろうと思っていた。


ところが、いざ一人でやってみると、途中から何をすればいいのかわからなくなった。


……おかしい。昨日はちゃんとできたはずなんだけどな。


「朝倉、どうしたの?」


隣から陽菜が覗き込んでくる。


「……昨日の問題が解けねえ」


「えっ、もう忘れちゃったの?」


「いや、全部忘れたわけじゃないぞ。最初の方は覚えてる」


「じゃあ、どこからわからないの?」


「……ここ」


俺が指さしたのは、問題の二行目だった。


陽菜はしばらくプリントを見つめ、それから俺の顔を見た。


「……朝倉」


「何だよ」


「昨日、復習してって言ったよね?」


「……言ってたな」


「した?」


「…………」


「朝倉?」


「……漫画読んでた」


陽菜は深いため息をついた。


「もう! せっかく神崎さんも教えてくれたのに!」


「いや、ちゃんと覚えてるつもりだったんだって!」


「だったら、今日こそ復習しないと駄目だよ?」


「……はい」


どうやら、俺の昼休みは数学に奪われるらしい。


陽菜は自分の椅子を少し寄せ、俺のプリントを指さした。


「ここは昨日と同じ考え方でいいんだよ。まず、この式を使って――」


そのときだった。


「あのさ、ちょっといい?」


突然、横から声をかけられた。


顔を上げると、見知らぬ男子生徒が立っていた。


短めの茶色い髪に、少し着崩した制服。背は俺より少し高いくらいだろうか。人懐っこそうな顔をしており、片手には財布を持っている。


「……ん?」


俺が首を傾げると、男子生徒は申し訳なさそうに笑った。


「悪い。二人の邪魔するつもりじゃなかったんだけどさ」


「いや、別にいいけど。何か用か?」


「ああ。ここの教室、二年A組だよな?」


「そうだけど」


「やっぱそうか。助かった」


男子生徒はほっとしたように息を吐いた。


「俺、二年D組の相沢蓮。ちょっと人を探しててさ」


「相沢?」


「ああ。よろしく」


蓮と名乗った男子生徒は、気さくに笑った。


「で、誰探してんだ?」


「えっと、確か……村田ってやつ。そいつ、このクラスにいない?」


「村田?」


俺は教室を見回した。


……いたっけ、そんなやつ。


少なくとも、すぐには顔が思い浮かばない。


「村田君なら、さっき購買に行ったよ」


陽菜が答えた。


「マジ? ありがとう!」


蓮は嬉しそうに笑った。


「いやー、助かったわ。あいつに貸してたもの返してもらおうと思ってさ」


「へえ」


「朝から探してたんだけど、なかなか捕まんなくて」


「それは大変だな」


「だろ? 今日中に返してもらわないと困るんだよ」


蓮はそう言ってから、俺の机へ視線を落とした。


「……ん? 数学?」


「ああ。ちょっとな」


「おっ、数列じゃん」


「わかるのか?」


「まあ、一応」


……何だと。


俺は思わず身を乗り出した。


「なあ、ちょっと教えてくれないか?」


「え?」


「この問題、昨日から全然わかんなくてさ」


「……朝倉!」


陽菜が横から声を上げた。


「今、私が教えてたでしょ!」


「あ、いや、別に陽菜の説明がわかりにくいとかじゃなくて!」


「じゃあ、ちゃんと聞いてよ!」


「……すみません」


蓮は俺たちのやり取りを見て、声を上げて笑った。


「ははっ! お前ら面白いな!」


「……笑い事じゃないんだけどな」


「悪い悪い。で、どこがわかんねえの?」


蓮は俺のプリントを覗き込んだ。


「……あー、ここか。これ、公式使えばすぐじゃね?」


「……その公式がわかんねえんだよ」


「マジか!」


再び笑われた。


……こいつ、なかなか失礼だな。


しかし、蓮はすぐに俺のノートを手に取り、簡単な式を書き始めた。


「ほら、これ。最初の数と、増えてく数がわかればいいんだよ」


「……おお?」


「で、こっちに代入すると――」


「……ああ!」


今度はすんなり理解できた。


「なるほど。そういうことか!」


「だろ?」


蓮は得意げに笑った。


「まあ、俺も数学そんな得意じゃねえけどな」


「……いや、十分だろ」


「これくらいなら何とかなるって」


陽菜が隣で苦笑している。


「朝倉、さっき私も同じこと説明したんだけど……」


「……え?」


「ほとんど同じこと言ってたよ?」


「…………」


……マジか。


蓮は一瞬きょとんとしたあと、また笑い始めた。


「はははっ! お前、ちゃんと話聞けよ!」


「……うるせえ!」


何だか、初対面の相手とは思えないくらい遠慮がない。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


***


結局、村田が教室へ戻ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。


「おっ、いたいた!」


蓮はすぐにそちらへ向かい、何やら話を始めた。


俺はその様子を横目に見ながら、解き終えたプリントを眺める。


……よし。今度こそ覚えた。


たぶん。


「朝倉」


「ん?」


「今日帰ったら、ちゃんと復習してね」


「……おう」


「本当に?」


「……善処する」


陽菜は呆れたようにため息をついた。


そんなことを話していると、用事を済ませた蓮が戻ってきた。


「いやー、助かったわ。ようやく返してもらえた」


「よかったな」


「ああ。あと、さっきは邪魔して悪かったな」


「いや、こっちこそ教えてもらったし」


「気にすんなって」


蓮は軽く手を振った。


「そういや、名前聞いてなかったな」


「ああ。朝倉悠真」


「朝倉か。よろしくな!」


「おう」


俺たちは軽く拳を合わせた。


「ちなみに、そっちは?」


蓮が陽菜を見る。


「小日向陽菜です。よろしくね」


「小日向か。よろしく!」


蓮はそう言ってから、少し不思議そうに俺たちを見比べた。


「……お前ら、付き合ってんの?」


「は?」


思わず声が出た。


隣で陽菜も目を丸くしている。


「えっ!?」


「いや、何か距離近いしさ。普通にそうなのかと思った」


「違う違う。こいつとは家が隣同士なだけだって」


「そうなのか?」


「ああ。去年、俺が引っ越してきたときに知り合ったんだよ」


「うん。それから学校でも一緒になって、仲良くなったんだ」


陽菜がそう説明すると、蓮は納得したように頷いた。


「へえ。じゃあ、まだ一年くらいなんだな」


「まあな」


「それでそんなに仲いいのか。てっきり昔からの付き合いなのかと思ったぜ」


「……何だよ、その言い方」


「いや、別に?」


蓮はニヤニヤと笑っている。


……こいつ、絶対に変なこと考えてるだろ。


「まあ、そういう関係じゃないなら、それはそれでいいけどさ」


「……何がいいんだよ」


「いやー、別に?」


「絶対何か考えてるだろ!」


蓮は声を上げて笑った。


その隣で陽菜も少し照れくさそうに笑っている。


……まったく。初対面から人をからかうとは、なかなかいい性格をしている。


そんなことを考えていると、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


「おっと、そろそろ戻らねえと」


蓮は時計を確認した。


「じゃあ、またな! 朝倉、小日向!」


「おう。またな」


「またね!」


蓮は軽く手を振ると、教室を出ていった。


その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく笑った。


……何か、騒がしいやつだったな。


「相沢君、面白い人だったね」


陽菜が言った。


「ああ。初対面なのに随分話しやすかったわ」


「ふふっ。朝倉と気が合いそう」


「……そうか?」


「うん。何となくだけど」


俺は蓮が出ていった扉へ目を向けた。


まあ、悪いやつではなさそうだった。


***


放課後。


帰りのホームルームが終わり、俺は鞄を持って教室を出た。


今日は陽菜が委員会の用事で少し遅くなるらしく、先に帰っていていいと言われている。


せっかく早く帰れるのだから、寄り道せずに帰ろう。


そう思いながら昇降口へ向かっていると、聞き覚えのある声がした。


「おっ、朝倉じゃん!」


振り返ると、蓮が廊下の向こうから歩いてきた。


「よう、相沢」


「今帰り?」


「ああ。お前も?」


「そうそう。部活ない日だからさ」


「へえ。何部なんだ?」


「陸上部。短距離やってる」


「……ああ、何か速そうだな」


「何だよ、その適当な感想」


蓮が笑う。


「いや、雰囲気的に」


「まあ、走るのは結構得意だけどな」


そう言って、蓮は軽く肩を回した。


「そういや、朝倉って部活入ってんの?」


「帰宅部」


「即答かよ!」


「立派な部活だろ」


「いや、部活じゃねえだろ!」


蓮は声を上げて笑った。


こいつ、よく笑うな。


「じゃあ、帰る方向同じなら途中まで一緒に行かね?」


「おう。いいぞ」


俺たちは並んで昇降口を出た。


校庭では、運動部の生徒たちが練習を始めている。グラウンドの端では、陸上部らしい集団が準備運動をしていた。


「相沢も普段はああいうのやってんのか?」


俺が尋ねると、蓮は頷いた。


「ああ。今日は練習休みだけどな」


「へえ。毎日走るとか、俺には無理だわ」


「慣れれば楽しいぞ?」


「いや、疲れるだろ」


「そりゃ疲れるけどさ」


蓮は笑いながら言った。


「走ってるときって、余計なこと考えなくて済むんだよな」


「……へえ」


「何つーか、頭空っぽにできるっていうか」


「それ、俺は寝てるときにできるぞ」


「ははっ! そりゃそうだ!」


蓮は楽しそうに笑った。


……やっぱり、こいつとは気が合いそうだ。


***


校門を出て、しばらく歩いたところで、俺はふと思い出したことを尋ねた。


「そういや、相沢」


「ん?」


「お前って能力者なのか?」


「ああ、そうだけど」


蓮はあっさり頷いた。


「……お、やっぱり」


「何だよ、急に」


「いや、陸上部って言ってたからさ。もしかして能力使って走ったりすんのかなって」


「あー、なるほど」


蓮は笑いながら首を振った。


「競技中は使わねえよ。普通の陸上大会じゃ、能力は禁止されてるし」


「……ああ、そりゃそうか」


「使えたら便利なんだけどな」


「ちなみに、どんな能力なんだ?」


俺が尋ねると、蓮は少しだけ得意げな顔をした。


「聞きたい?」


「……その顔、何か腹立つな」


「ひでえ!」


蓮は笑いながら、右手の親指で自分を指さした。


「俺の能力は『加速』。簡単に言えば、短い時間だけ自分の動きを速くできる」


「……へえ!」


思わず声が出た。


「マジで?」


「マジマジ」


「どのくらい速くなるんだ?」


「まあ、状況にもよるけど、普通に走るよりはずっと速いな」


「……便利そうだな」


「だろ?」


蓮は嬉しそうに笑った。


「でも、ずっと使えるわけじゃねえぞ。長く使うと身体に負担かかるし、細かい動きは結構難しいんだ」


「へえ……」


なるほど。速く動けるからといって、何でもできるわけじゃないらしい。


そういえば、神崎の斬界も何でも切れるわけではないと言っていた。能力にも、それぞれ得意不得意があるということか。


「……なあ」


「ん?」


「ちょっと見せてもらったりできる?」


俺が尋ねると、蓮は周囲を見回した。


「ここで?」


「ああ。ちょっとだけでも」


「うーん……」


蓮は少し考えたあと、首を振った。


「いや、やめとく。こんな人通り多いところで使ったら危ねえし」


「……ああ、確かに」


「今度、安全な場所なら見せてやるよ」


「マジか!」


「おう。その代わり、ちゃんと驚けよ?」


「任せろ。リアクションには自信ある」


「ははっ! 何だそれ!」


蓮はまた笑った。


俺もつられて笑う。


能力者というと、どこか自分とは違う世界の人間のように感じることがあった。


けれど、蓮と話している限り、そんなことはまったくない。普通にくだらない話もするし、冗談も言う。


……まあ、当たり前か。


能力があるからって、別に人間そのものが違うわけじゃないんだし。


***


駅前まで来たところで、蓮が足を止めた。


「俺、こっちだから」


「ああ。じゃあ、また明日な」


「おう!」


蓮は軽く手を振った。


「そうだ、朝倉!」


「ん?」


「今度、昼飯一緒に食おうぜ!」


「おう。いいぞ」


「よっしゃ! じゃあ、またな!」


蓮は笑いながら駅の方へ歩いていった。


俺はその後ろ姿を見送り、帰り道へ向かう。


……何か、今日は新しい知り合いが増えたな。


しかも、結構話しやすいやつだった。


明日も昼に来るんだろうか。まあ、来たら来たで面白そうだ。


そんなことを考えながら歩いていると、スマートフォンが震えた。


陽菜からのメッセージだった。


『委員会終わったよ!』


『朝倉、もう帰った?』


『今駅前。相沢と一緒だった』


『えっ、相沢君?』


『さっき別れたけどな』


『そうなんだ! 仲良くなったんだね』


『まあな』


すぐに返信が届いた。


『ふふっ。よかったね!』


……何がよかったのかはよくわからない。


俺はスマートフォンをしまい、歩き始めた。


***


同じ頃。


鳴瀬市内の、とある倉庫。


薄暗い室内には、段ボール箱がいくつも積み上げられていた。天井の蛍光灯が時折小さく明滅し、奥の方から換気扇の低い音が聞こえている。


その中央に、一人の大柄な男が座っていた。


真壁剛志。


鳴瀬スクエアで騒ぎを起こし、現在も逃走を続けている男だった。


「……いつまで待たせんだ」


低い声が、倉庫の中に響く。


向かいに立つ男は、表情を変えずに答えた。


「まだ動くなという指示だ」


「チッ……」


真壁は苛立たしげに舌打ちし、近くの木箱へ拳を振り下ろした。


鈍い音が響き、箱の表面に亀裂が走る。


「俺はもう十分働いただろうが」


「その点は評価されている。だが、今動かれれば余計な問題が増える」


「……知るかよ」


真壁は不機嫌そうに吐き捨てた。


「俺にあんな真似させといて、今度は隠れてろってか?」


「必要なものは回収できた。今は捜査が落ち着くのを待つべきだ」


「……必要なもの、ねえ」


真壁は鼻で笑った。


「俺には何を持っていったのかも教えねえくせに」


「お前が知る必要はない」


その言葉に、真壁の目が細くなった。


「……あ?」


倉庫の空気が一瞬、張り詰める。


しかし、向かいの男は動じなかった。


「余計なことを知れば、それだけ危険が増える。お前にとっても同じことだ」


「……チッ」


真壁はしばらく睨みつけていたが、やがて視線を逸らした。


「……で、いつまでここにいりゃいい」


「連絡があるまでだ」


「……退屈なんだよ」


「なら、静かにしていろ」


男はそう言い残し、倉庫の出口へ向かった。


扉が閉まる。


真壁は一人残され、しばらく天井を見上げていた。


やがて、ゆっくりと立ち上がる。


「……あのガキども」


ふと、鳴瀬スクエアでの出来事が頭に浮かんだ。


自分の前に立ちはだかった、黒髪の女子生徒。


白い光の刃を振るい、何度も攻撃を防いでみせたあの少女。


そして、その近くで何かと動き回っていた、無能力の少年。


「……次は邪魔させねえ」


真壁は低く呟いた。


手を伸ばし、近くの鉄製の棚へ触れる。


ギシリ、と金属が軋んだ。


棚の表面が、ゆっくりとへこんでいく。


やがて真壁が手を離すと、そこには深く歪んだ跡が残っていた。


「……退屈だぜ」


真壁は口元を歪めた。


倉庫の中には、換気扇の音だけが響いていた。

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