第9回/上り下り
夜明けまでに、決めなければならなかった。
ジェーンは、革の旅装を抱えたまま、寝室に立っていた。窓の外は、まだ暗い。けれど、東の空の端が、わずかに白みはじめていた。時が、迫っていた。明日の夜明けに発つ、と女は言った。その夜明けが、もう、すぐそこまで来ていた。
彼女は、革の衣に着替えた。
絹の寝衣を脱ぎ、肌に、粗い革を通した。それは、これまで彼女が身につけた、どんな衣とも違った。重く、かたく、ごわついていた。肌に馴染まず、肩に食い込んだ。けれど、その重みが、たしかだった。この衣は、彼女を飾るためのものではなかった。彼女を、運ぶためのものだった。歩き、働き、生きるための衣。
鏡を、見た。
革の旅装をまとった女が、そこにいた。亜麻色の髪、白い額は、変わらない。けれど、それは、もう、誰もが羨む伯爵夫人ではなかった。鏡のなかの女は、見知らぬ、けれど、どこか懐かしい顔をしていた。長いあいだ、忘れていた、自分自身の顔だった。
ジェーンは、寝室を出た。
最後に、この城を、歩いておきたかった。
彼女は、階を下りた。冷たい石の段が、革の靴底ごしに、固く感じられた。一段ずつ、踏みしめるように。手すりに触れた。磨き上げられた木の、なめらかな手触り。何千回と、この手すりに、手を滑らせてきた。その感触を、指が覚えていた。
大広間へ出た。
暗く、ひっそりとしていた。長い卓。並んだ椅子。壁には、先祖の肖像が、闇のなかに浮かんでいた。彼女が嫁いできた日、この広間は、灯りと、人と、祝いの声で、満ちていた。あれから、何年が、過ぎただろう。彼女は、卓に、指を這わせた。冷たい木。ここで、数えきれぬ食事をした。骨を抜かれた魚。皮を剝かれた果実。すべてが、与えられた。
ありがとう、と彼女は、小さく言った。卓に。椅子に。この、満たされた歳月に。
階を、また上った。
回廊へ出た。あの、東の回廊。長い窓が並び、いつも閉ざされていた、あの場所。彼女が、城門の歌を、はじめて聞いた場所。指先を硝子に当て、外を見つめた、あの場所。
ジェーンは、窓辺に立った。
そして、掛金を外し、窓を、開けた。
夜明け前の、冷たい空気が、流れ込んだ。もう、誰も、それを閉めようとはしなかった。彼女は、開いた窓から、外を見た。街道のわきの、空き地。そこに、人影が動いていた。荷を積み終えた、旅の者たち。発つ支度の、最後の。
時が、来ていた。
彼女は、回廊を戻ろうとした。そのとき。
「奥さま」
声が、した。
ジェーンは、振り返った。回廊のはしに、ベスが立っていた。火かき棒を手にした、年若い召使い。朝の暖炉を熾しに来たのだろう。ベスは、ジェーンの姿を見て、立ち尽くしていた。革の旅装。開かれた窓。その意味を、ベスは、悟ったようだった。
二人の視線が、絡んだ。
ジェーンの胸が、つめたく張りつめた。ベスが、声を上げれば、すべてが、終わる。城の者が、目を覚ます。夫が、駆けつける。彼女は、引き留められる。やさしく、案じられ、また、あの厚い硝子の向こうへ、連れ戻される。
ベスは、口を、開きかけた。
ジェーンは、動けなかった。ただ、その娘の目を、見つめた。火のそばで、自分のむき出しの顔を、見られた、あの夜。何も見ていません、と言ってくれた、あの娘。
ベスの目に、いくつもの色が、よぎった。
戸惑い。怯え。それから――何か、もっと、深いもの。ベスは、ジェーンの革の衣を、見た。開かれた窓を、見た。そして、ゆっくりと、口を、閉じた。
ベスは、一歩、退がった。
そして、回廊の壁ぎわに、身を寄せた。道を、空けるように。火かき棒を握りしめたまま、目を、伏せた。何も見ない、というように。何も言わない、というように。
ジェーンは、息を、ついた。
彼女は、ベスのそばを、通り過ぎようとした。すれ違いざま、足を、止めた。
「ベス」と、ジェーンは言った。
娘が、顔を上げた。
「わたしの名は」とジェーンは言った。「ジェーン、というの」
ベスの目が、見開かれた。
レディ・ジェーン・ハミルトン。キャシリス伯爵夫人。城の者は皆、彼女を、奥さま、と呼んだ。その名を、その立派な名を、口にして、頭を垂れた。けれど、彼女自身の名を――ただの、ジェーンという名を、呼んだ者は、いなかった。父が与え、夫が冠した名のなかから、彼女が、はじめて、自分で選んで、差し出した、たったひとつの音。
「ジェーン」と、ベスは、繰り返した。小さく。囁くように。
「ええ」とジェーンは、微笑んだ。「ジェーンよ」
それは、施しでも、命令でも、なかった。奥さまが、召使いに与える、何かでは、なかった。ひとりの女が、ひとりの女に、自分の名を、対等に、手渡したのだった。
ベスの目に、涙が、にじんだ。
「行ってらっしゃいませ」と、ベスは言った。「ジェーンさま」
ジェーンは、頷いた。そして、回廊を、歩き出した。階を、下りた。最後の段を、踏みしめた。
大扉の前に、立った。重い、樫の扉。これを開ければ、もう、戻れない。彼女は、両手を、扉に当てた。冷たい木。力を、こめた。
扉が、軋みながら、開いた。
夜明け前の、青い闇が、彼女を迎えた。冷たい風。湿った土の匂い。遠くで、驢馬が、低く鳴いた。
ジェーンは、城を、出た。
坂を、下りはじめた。革の靴が、土を踏んだ。一歩、また一歩。誰にも、連れられず。誰にも、与えられず。自分の足で。自分が、選んだ道を。
そのとき、背後の、城のほうから、馬の蹄の音が、聞こえた。
ジェーンの足が、止まった。
まだ暗い坂の上、城の方角から、一頭の馬が、近づいてくる。その背に、人影。藍の上衣。灰のまじった髪。
夫が、帰ってきたのだった。ちょうど、彼女が、出てゆく、その時に。




