第10回/帰宅
伯爵は、夜通し馬を駆っていた。
前の日、彼は都へ発っていた。妻のために、新たな贈り物を探すために。あの蒼い宝石が拒まれてから、彼はいてもたってもいられなかった。もっとよいものを。もっと妻の心を満たすものを。彼は都の商人をめぐり、絹を、香を、珍しい細工物を買い集めた。荷を馬の鞍に括りつけ、夜を徹して城へ急いだ。
一刻も早く、妻にこれを差し出したかった。
これだけのものを差し出せば、妻はきっともとの顔に戻る。あの、凪いだ湖のような、満たされた微笑みに。彼はそう信じていた。信じなければならなかった。それ以外の答えを、彼は持っていなかったから。
夜明け前、城の坂が見えてきた。
馬は汗にまみれ、荒い息を吐いていた。伯爵も疲れきっていた。けれど城が近づくにつれ、胸が高鳴った。もうすぐ妻に会える。この贈り物を差し出せる。彼は馬の腹を蹴った。
坂を上りはじめた、そのとき。
坂の下のほうに、人影が見えた。
青い闇のなかを、ひとり、坂を下りていく姿。伯爵は目を凝らした。革の旅装をまとった女。亜麻色の髪。その後ろ姿に、彼の心臓が跳ねた。
ジェーン。
なぜこんな時刻に。なぜあんな衣を。彼は口を開きかけた。妻の名を呼ぼうとした。
けれど、声は出なかった。
その後ろ姿が、あまりに迷いなく坂を下りていたから。一歩、また一歩。振り返ることなく。城を捨てるように。彼の知らない足取りで。彼の知らない女の、後ろ姿だった。
伯爵は、馬を止めた。
ジェーンの足が止まった。彼女も蹄の音に気づいたのだ。けれど、振り返らなかった。坂の途中で、背を向けたまま立ち尽くしていた。夫と妻。坂の上と下。二人のあいだを、夜明け前の冷たい風が吹き抜けた。
伯爵は馬を降りた。
何か言わなければならなかった。けれど、言葉が見つからなかった。彼はただ、妻の後ろ姿を見つめた。革の旅装。背負った小さな包み。それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。わかっていて、認められなかった。
ジェーンが、ゆっくりと振り返った。
その顔を、伯爵は見た。
朝の光がまだ届かぬ、青い闇のなか。けれど、彼には見えた。妻の顔が。それは、彼の知る穏やかな顔ではなかった。微笑みの仮面でもなかった。怯えと、覚悟と、何かを欲しがる激しさとが、むき出しになった、生きた顔だった。
「ジェーン」と、伯爵はようやく言った。
声が震えていた。
「どこへ、行くのです?」
ジェーンは答えなかった。ただ、夫を見つめた。その目に、憎しみはなかった。怒りも。ただ、深い深い悲しみがあった。彼を哀れむような。彼をいとおしむような。けれど、もう引き返さない、という目だった。
伯爵は、鞍の荷を解いた。
絹を。香を。珍しい細工物を。彼はそれらを両腕に抱え、坂を下りはじめた。妻のほうへ。一歩、また一歩。差し出すものを抱えて。空の手では近づけなかったから。
「見てください」と、彼は言った。必死に。「都で買い集めたのです。あなたのために。この絹を。この香を。あなたがこれまで見たことのないものを。何でもあります。何でも――」
「やめて!」
ジェーンが言った。
静かな声だった。けれど、それは伯爵の足を止めた。
「もうやめて」と、彼女は繰り返した。「お願いだから」
伯爵の腕から、絹が滑り落ちた。青い闇のなか、それは地に広がった。彼はそれを拾おうともしなかった。ただ立ち尽くした。両腕に、まだ抱えきれぬ贈り物を抱えたまま。
「なぜです」と、彼は言った。声がかすれた。「何が足りないのです。言ってください。わたしはあなたに、すべてを与えてきた。城を。財を。この身のすべてを。それでも足りないなら――わたしはどうすればいいのですか」
その言葉に、嘘はなかった。
彼は本当に、すべてを与えてきた。本当に妻を愛していた。そのことを、ジェーンは知っていた。だからこそ、それがつらかった。
「あなたは」と、ジェーンは言った。「何も間違っていない」
伯爵が顔を上げた。
「あなたはわたしに、すべてをくれた。あなたほど尽くしてくれる人はいない。それは本当よ」彼女の声は優しかった。残酷なほど優しかった。「でも、あなたはひとつだけ、くれなかった」
「ひとつ……いったい何を?」
「わたしが自分で欲しがる、その隙間を」
伯爵は、その言葉を理解しようとした。眉を寄せ、必死に。けれど、できなかった。彼の世界には、やはりその言葉を受け止める場所がなかった。
「わたしは」と、彼は呟いた。「あなたの欲しいものを――」
「知らないのよ」と、ジェーンは言った。「あなたは一度も知らなかった。わたし自身も知らなかったの。あなたが、知る隙をくれなかったから」
夜明けの光が、坂の上の城の塔を染めはじめた。
ジェーンは、もう何も言わなかった。彼女は夫に背を向けた。そして、坂を下りはじめた。今度は止まらなかった。
伯爵は追わなかった。追えなかった。両腕に贈り物を抱えたまま。差し出すものはこんなにもあるのに。受け取る者が去っていく。彼は坂の途中に、ひとり立ち尽くしていた。
地に落ちた絹が、朝風にはためいていた。
彼は城を振り返った。
開け放たれた大扉。誰もいない。彼はふらと坂を上った。妻ではなく、城のほうへ。なぜそちらへ向かったのか、自分でもわからなかった。ただ、空の手で妻を追うことが、できなかった。
寝室へ入った。
がらんとしていた。寝具は整えられたまま。鏡は誰も映さず。そして、窓辺の小机に。
宝石箱があった。
開けられたことのない箱。蒼い石の上に、薄く埃が積もっていた。彼が差し出し、拒まれた贈り物。その隣に、脱ぎ捨てられた絹の寝衣が、たたまれていた。
伯爵は、その宝石箱を見つめた。
そして、ようやく悟った。妻が欲しかったのは、この蒼い石ではなかった。彼が差し出した、どんなものでもなかった。妻が欲しかったのは――彼には永遠に与えられない、何かだった。
彼はその場に、膝をついた。
両手で顔を覆った。窓の外で、夜明けの光が街道を照らしはじめていた。




