第11回/東へ西へ
しかし、伯爵が膝をついていたのは、わずかなあいだだった。
彼は立ち上がった。顔を覆った手を下ろした。窓の外で、夜明けの光が街道を染めていた。妻は、まだ遠くへは行っていない。間に合う。彼はそう思った。追えば、まだ間に合う。
彼は厩へ走った。
「乳白の馬を引け」と、彼は馬丁に命じた。声が上ずっていた。「いちばん速い馬を」
馬丁は戸惑った。「あの馬は、まだ若うございます。気が荒く――」
「かまわん。早くしろ」
乳白の馬が引き出された。城でいちばん見栄えのする、白い馬。祝いの日や、客人を迎える日に、伯爵が誇らしげに乗る馬だった。けれど、長く乗りこなされてはいなかった。地位の、飾りの馬。伯爵はその背にまたがった。馬は嘶き、後ろ脚で立った。
「行け」と、伯爵は叫んだ。
馬は城門を駆け抜けた。
伯爵は東へ馬を走らせた。
街道は、東へ、西へと分かれていた。妻がどちらへ向かったのか、彼にはわからなかった。旅の者たちは風のように去る。行く先を決めない。彼はただ東へ賭けた。馬の腹を蹴り、朝の街道を駆けた。
風が顔を打った。
露に濡れた草が、馬の脚にはじけた。土が蹄に蹴り上げられた。伯爵は必死に手綱を握った。乗り慣れぬ馬は、彼の意のままには動かなかった。何度も道を逸れかけた。彼は力ずくで馬を御した。汗が背を伝った。
東の街道の果てまで駆けた。
妻はいなかった。旅の者の影もなかった。ただ、朝靄の立ちこめる無人の道が続いていた。伯爵は馬を返した。西だ。西へ向かったに違いない。彼は来た道を引き返し、今度は西へ馬を走らせた。
その同じころ。
ジェーンは、旅の一行とともに、北へ向かう細い道を歩いていた。
街道ではなかった。荷車が辛うじて通れるほどの、けものみちのような道。旅の者たちは大きな道を選ばなかった。人目を避け、風の通う、自分たちだけの道を行った。ジェーンは、はじめて、そういう道があることを知った。
足が痛んだ。
革の靴は、まだ足に馴染んでいなかった。小石が靴底ごしに足の裏を刺した。坂をいくつも越えた。息が切れた。城では、決してこんなに歩いたことはなかった。彼女はいつも運ばれていた。馬車で。輿で。誰かの腕のなかで。
けれど、いま、彼女は自分の足で歩いていた。
つらかった。脚は重く、肺は焼けるようだった。それでも、一歩ごとに、地面の固さが足の裏から伝わってきた。自分が、いま、この地を踏んでいる。自分の重みで。自分の意志で。その感覚が、痛みのなかに、奇妙な充溢をもたらした。
朝の光が、丘の上に差した。
一行は丘の上で足を休めた。ジェーンは地に座り込んだ。息を整える。汗が冷えて、肌に冷たかった。腹が減っていた。喉が渇いていた。城にいれば、決して味わわなかった飢え。
黄いろの女が、彼女のそばに来た。そして、黙って、固いパンのかけらを差し出した。
ジェーンは、それを受け取った。
固く、ぱさついた、黒いパン。城のやわらかい白パンとは、比べるべくもなかった。彼女はそれを口に運んだ。噛むと、口のなかでゆっくりとほどけた。素朴な麦の味。塩気のほとんどない味。
けれど、それは、彼女がこれまで食べたどんなものよりも味がした。
骨を抜かれた魚。皮を剝かれた果実。ひと口の大きさに切り分けられた、すべて。それらは味がしなかった。なぜなら、彼女はそれらを求めていなかったから。与えられただけだったから。けれど、この固いパンは違った。歩いて、飢えて、自分の手で受け取ったパン。だから、味がした。
「うまいかい」と、女が訊いた。
「ええ」と、ジェーンは言った。「とても」
涙がにじんだ。なぜ泣くのか、自分でもわからなかった。ただ、固いパンがこんなにもうまいということが、たまらなかった。
そのころ。
伯爵は、西の街道を駆けていた。
馬は疲れ、口から泡を吹いていた。伯爵自身も限界に近かった。けれど、彼は止まらなかった。妻を見つけるまでは。彼は行き交うわずかな旅人に問うた。革の旅装の女を見なかったか、と。皆、首を振った。
東へ駆け、西へ駆けた。
北の細道のことを、彼は知らなかった。大きな街道しか知らなかった。彼の生きてきた世界には、けものみちのような道はなかった。だから、彼は妻と同じ空の下にいながら、どこまでもすれ違っていた。
昼が近づいた。
伯爵の乳白の馬が、ついに足を止めた。汗まみれの馬は、もう一歩も進めなかった。伯爵は馬を降りた。広い街道のただなか。彼は四方を見渡した。東。西。北。南。どこにも、妻の姿はなかった。
彼は、はじめて思い知った。
自分が、妻の行く道を知らないことを。妻がどこへ向かうのか。何を求めて。彼は何ひとつ知らなかった。城のなかで、妻のすべてを知っていると信じていた。けれど、城を一歩出れば、彼は妻の何ひとつ知らなかった。
伯爵は、街道に立ち尽くした。
一方、丘の上の一行は、また歩きはじめた。
ジェーンは立ち上がった。脚はまだ痛んだ。けれど、さっきより軽かった。彼女は北の細い道を見た。どこへ続くのか、わからない道。誰も約束してくれない道。
その先に、何があるのか。
幸福が待っているとは限らなかった。寒い夜があるだろう。ひもじい朝があるだろう。後悔する日も、あるかもしれなかった。女は何も約束しなかった。それでも。
ジェーンは歩き出した。
自分の足で。自分が選んだ道を。
遠く、街道のほうから、かすかに馬の嘶きが聞こえた気がした。彼女は一度だけ足を止めた。けれど、振り返らなかった。そして、また歩きはじめた。北へ。風の吹くほうへ。
丘を越えると、城はもう見えなくなった。




