第12回/荒野の問答
それは、三日目の夕暮れのことだった。
一行は、広い荒野に出ていた。見渡すかぎり、丈の低い草が風にうねっていた。木はまばらで、空が大きかった。夕日が地の果てに沈みかけ、雲を茜色に染めていた。風が休みなく草を渡っていった。その音は、どこか、あの城門の歌に似ていた。低く、高く、もつれあう声のように。
ジェーンは、もう城の女ではなかった。
三日のあいだに、革の旅装は土と煙の匂いを吸った。足は靴に馴染んだ。手は火を熾し、鍋を洗うことを覚えた。亜麻色の髪は、無造作に束ねられていた。顔は陽に灼けはじめていた。けれど、その目だけが、奇妙に澄んでいた。あの、黄いろの女の目のように。
一行が荒野の真ん中で野営の支度をはじめたとき。
蹄の音が聞こえた。
ジェーンは顔を上げた。茜色の地平の向こうから、一頭の馬が近づいてくる。よろめくような足取りで。その背に人影。藍の上衣は汚れ、灰のまじった髪は乱れていた。
伯爵だった。
三日、三晩、彼は探しつづけたのだった。東へ、西へ、知るかぎりの街道という街道を。妻が、人目を避けた北の細道を行ったことを、彼は知らなかった。最後まで、妻の行った道を知らなかった。それでも、彼は荒野をさまよい、さまよった果てに、ただ偶然、ここへ行き着いたのだった。乳白の馬は痩せ、彼自身もやつれ果てていた。
伯爵は馬を降りた。
よろめきながら、彼はジェーンのほうへ歩いてきた。一行の男たちが身構えた。けれど、女が手でそれを制した。黄いろの女は火のそばに座ったまま、ただ見ていた。
伯爵は、ジェーンの前に立った。
二人は向かい合った。荒野の風が、二人のあいだを吹き抜けた。夕日が、伯爵のやつれた顔を染めていた。彼の目には、涙がにじんでいた。
「なぜです」と、伯爵は言った。
かすれた声だった。三日分の問いが、その一言にこもっていた。
「なぜ、家を捨てた。土地を。あの城を。なぜ、金を捨てた。あなたは何ひとつ不自由のない暮らしをしていた。羽毛の寝床も。あたたかい火も。骨まであなたを愛する夫も」彼の声が震えた。「なぜ、そのすべてを捨てて、こんな――こんな荒野へ」
ジェーンは、夫を見つめた。
その問いを、彼女は待っていたのかもしれなかった。なぜ、と。城のなかで、誰も彼女に問わなかった問い。彼女自身さえ、長いあいだ問うことを忘れていた問い。
彼女は口を開いた。
「そんなものが」と、ジェーンは言った。「何になるの」
風が草を渡った。
「羽毛の寝床が何になるの。あたたかい火が。金が。あなたの城が」彼女の声は静かだった。けれど、迷いはなかった。「わたしは、そのすべてのなかで、息ができなかった。満たされていながら、飢えていた。あなたはわたしに、すべてをくれた。けれど、わたしが自分で何かを欲しがる、そのただひとつのことだけは、永遠にくれなかった」
「わたしは」と、伯爵は言った。「あなたを愛していた」
「知っているわ」と、ジェーンは言った。「だから、つらいの」
彼女は荒野を振り返った。沈みゆく夕日。うねる草。大きな空。
「今夜、わたしはこの荒野で眠る。冷たい地の上で。羽毛の寝床もなく。風に打たれて。明日、何があるかもわからない。飢えるかもしれない。後悔するかもしれない。誰も、何も約束してはくれない」
彼女は夫に向き直った。
「それでも、わたしはここにいたい。あなたの城のあたたかい寝床より、この荒野の冷たい地の上で。自分で選んだ、この場所に。羽毛の寝床が、なんだというの。わたしはもう、与えられる女ではない」
伯爵は立ち尽くした。
彼の腕には、もう差し出すものは何もなかった。絹も、香も、宝石も、三日の旅のどこかで失われていた。彼はただ、空の手でそこに立っていた。あの冬の子供のように。差し出すものを持たない、空っぽの手で。
そして、彼はついに悟った。
妻が欲しかったのは、彼の差し出す何かではなかった。妻が欲しかったのは、彼の空の手では決して掴めない、何かだった。与えることでしか愛せない彼には、永遠に届かない何か。妻が自分で選び、自分で掴む、その自由だった。
「わたしには」と、伯爵は呟いた。「わからない。最後まで、わたしにはあなたがわからなかった」
「ええ」と、ジェーンは優しく言った。「わからなくて、いいの。さようなら」
伯爵は、長いあいだ妻を見つめた。
それから、ゆっくりと背を向けた。彼はよろめく馬の手綱を取った。もう、またがる力もなかった。彼は馬を引いて歩きはじめた。来た道を。荒野を抜けて。城のほうへ。
その背中は小さかった。茜色の地平に溶けていく、孤独な影。彼は振り返らなかった。振り返れば崩れてしまうことを、知っていたのかもしれなかった。やがて、その姿は夕闇に紛れて見えなくなった。
ジェーンは、それを見送った。
涙が頰を伝った。哀れだと思った。心から。けれど、その涙は、後悔の涙ではなかった。
火のそばで、黄いろの女が立ち上がった。そして、ジェーンの隣に来た。二人は並んで、夫の消えた地平を見ていた。
「いいのかい」と、女が言った。
「ええ」と、ジェーンは言った。
女はジェーンを見た。三日のあいだ、ただの一度も口にしなかったことを、言った。
「ジェーン」
ジェーンの胸が震えた。
名だった。彼女の名。父が与え、夫が冠した名ではなかった。城の者が頭を垂れた、立派な名でもなかった。この、名を持たぬ女が、はじめて呼んだ、ただのジェーンという音。所有するためでも、従えるためでもなく。ひとりの女が、ひとりの女を、対等に呼ぶ声。
名を持つ者が、名を捨てて。名を持たぬ者に、名を呼ばれて。
ジェーンは、はじめて、自分が誰のものでもないことを知った。
「行こうか」と、女が言った。
「ええ」と、ジェーンは言った。
夜が降りてきた。荒野に、星がひとつ、またひとつ灯った。風が草を渡った。低く、高く、もつれあいながら。一行は火を囲んだ。ジェーンも、その輪に加わった。
その夜、彼女は歌った。
はじめて、自分の声で。誰のためでもなく。下手な、かすれた声だった。けれど、それはたしかに、彼女の声だった。
荒野の先に、何があるのか。
それは、誰にもわからなかった。




