第8回/名のない約束
朝、宝石箱の蒼い石には、薄く埃が積もっていた。
ジェーンは、その箱の蓋を、そっと閉じた。蓋が、かちりと鳴った。閉ざされた箱を、彼女は窓辺に残したまま、外套を取った。昼の光のなかで城を出るのは、はじめてだった。夜の闇に隠れることを、もうしなかった。咎められるなら、咎められればいい。彼女のなかで、何かが、すでに決まりかけていた。
街道のわきの空き地に着くと、様子が、変わっていた。
天幕が、半分、畳まれていた。荷車に、鍋や、丸めた布や、繕いものの道具が、積まれていく。男たちが、驢馬に荷の紐を結びつけていた。出立の支度だった。風のように来た者たちが、風のように、去ろうとしていた。
ジェーンの胸が、つめたく締めつけられた。
あの女は、まだ残った焚き火のそばにいた。灰をかき集め、火を消そうとしていた。黄いろの布で束ねた髪。陽に灼けた手。ジェーンが近づくと、顔も上げずに言った。
「発つのね」
「ああ」と女は言った。「ここには、長くいすぎた」
煙の匂いが、薄れかけていた。火が、消えようとしていた。ジェーンは、その消えかけの火を見た。雨の夜にも、消えずに燃えていた、あの火を。それが、いま、女の手で、灰に埋められていく。
「どこへ」とジェーンは訊いた。
「さあね」女は灰をならした。「風の向くまま。決めちゃいないよ」
「いつ、戻るの」
「戻らないさ」女は、はじめて顔を上げた。深く澄んだ、暗い目。「あたしらは、同じ場所へは、二度と戻らない」
二度と。その言葉が、ジェーンの足もとを、崩した。
この火も、この声も、この女も、いちど消えれば、二度と戻らない。彼女がこれまで失うことを恐れたのは、城の宝や、地位や、夫の愛だった。けれど、いま、彼女がいちばん恐れているのは、この、灰に埋もれていく小さな火だった。なぜ、と問う必要も、なかった。胸が、答えを知っていた。
「連れて行って」
ジェーンは、言った。
声が、震えていた。けれど、言葉は、はっきりと出た。喉の奥の、長くこわばっていたあの場所から、まっすぐに。
「あなたたちと、行きたいの。城を出て。何もかも、捨てて。あなたたちと――」
「お黙り」
女が、遮った。
鋭い声だった。ジェーンは、口をつぐんだ。女は、灰の上に立ち上がり、ジェーンを、まっすぐに見た。その目に、これまで見たことのない、厳しさがあった。
「あたしは」と女は言った。「あんたを、誘っちゃいない」
ジェーンの息が、止まった。
「いいかい」女は、ゆっくりと続けた。「あたしは、あんたに、来いとは言わない。あんたを連れて行くんでも、ない。あんたの行く先を、決めてやるんでも、ない」
「でも、わたしは――」
「あんたは、また、それかい」女の声が、低くなった。「誰かに、決めてもらおうとしてる。連れて行ってくれ。あなたたちと行きたい。――それじゃあ、あの城と、何が違うんだい」
ジェーンは、打たれたように、立ち尽くした。
連れて行って。その言葉は、たしかに、懇願だった。誰かに、自分の行く先を、委ねる言葉。城のなかで、夫にすべてを委ねていたのと、同じだった。与えられることを待つのと、連れて行かれることを待つのは、根が、同じだった。彼女は、まだ、自分の足で、選んでいなかった。
「あたしは」と女は言った。「あんたの面倒を、見やしない。あんたが、ついて来たって、楽な道は、ひとつもない。寒い夜もある。ひもじい朝もある。あんたは、いまの暮らしを、何もかも失う。あたしは、その代わりに、何ひとつ、約束しない」
女は、灰の上に、唾を吐いた。
「あたしが言えるのは、ひとつだけさ。あたしは、誘わない。あんたが、来るか、来ないか。それだけだ。それは、あんたが、自分で、決めることだ」
風が吹いた。半ば畳まれた天幕が、ばたばたと鳴った。
ジェーンは、女を見つめた。
この女は、何も与えてくれなかった。施しを断り、名を明かさず、いまも、何ひとつ約束しない。導いてもくれない。手を引いてもくれない。城の夫が、すべてを与えてくれたのとは、正反対だった。
けれど、この女だけが、彼女に、問いつづけた。
何が欲しいのか。欲しがることは、罪ではない。そして、いま――それは、あんたが、自分で、決めることだ。
与えられるのではなく。連れて行かれるのでもなく。自分で、選ぶこと。それが、どれほど、こわいことか。失うものの大きさを思えば、足がすくんだ。城の温もり。羽毛の寝床。飢えの心配のない暮らし。骨まで愛してくれる夫。それらを、すべて、自分の手で、手放すということ。
誰のせいにも、できない。夫のせいにも、この女のせいにも。自分で選び、自分で、その結果を、背負う。
それが、欲しがるということの、本当の意味だった。
「わかったわ」とジェーンは、言った。
女は、何も言わなかった。ただ、ふっと、唇のはしを動かした。笑ったのか、ただ息を吐いたのか、わからなかった。そして、灰を踏み消し、荷車のほうへ、歩いていった。
「いつ、発つの」とジェーンは、背に問うた。
「明日の、夜明けさ」女は、振り返らずに答えた。「夜明けに、ここを発つ。それまでに、来る者は来る。来ない者は、来ない。それだけだ」
ジェーンは、坂を上った。
城が、夕日に染まっていた。温かそうな、安らかな、彼女の世界。その美しさが、今日は、胸を刺した。明日の夜明け。それまでに、決めなければならない。自分の足で、この坂を、もう一度、下りるかどうかを。
寝室へ戻ると、窓辺の宝石箱が、目に入った。
そして、その隣に、見慣れぬものが、置かれていた。
ジェーンは、近づいた。たたまれた、一着の衣だった。革の、旅装。粗い、けれど丈夫な、長い旅に耐える衣。城の絹でも、天鵞絨でもない。歩き、働き、風に打たれる者の、衣だった。
誰が、ここに。
ジェーンは、それを手に取った。革は、かたく、冷たかった。けれど、その手触りには、嘘がなかった。彼女は、それを、胸に抱いた。
窓の外、街道のわきに、最後の、消えかけの火が、見えた。




