第7回/空の手
伯爵は、その夜から眠れなくなった。
妻のことが、わからなかった。雨に濡れたいと言った、あの顔。彼の手を拒んだ、あの声。何度思い返しても、理解の糸口が掴めなかった。彼は寝椅子に座り、暗い天井を見上げ、ただ、考えた。何が足りなかったのか。どこで、間違えたのか。
考えながら、彼の意識は、遠い昔へ沈んでいった。
彼は、何も持たない子供だった。
それを、長いあいだ、誰にも話したことがなかった。いまのキャシリス伯爵を見て、その出自を疑う者はいない。けれど、彼は知っていた。自分が、どこから来たかを。
幼いころ、彼の家は貧しかった。父は早くに死に、母は彼を持て余した。弟や妹が次々と生まれ、母の腕は、いつも下の子たちで塞がっていた。彼の居場所は、どこにもなかった。母の膝も、父の肩も、彼のものではなかった。
ある冬の記憶があった。
ひどく寒い夜だった。彼は、母に何かを差し出した。道で拾った、きれいな小石。母が喜ぶと思った。母の顔を、こちらに向けたかった。けれど母は、腕のなかの赤子をあやしながら、ちらりとそれを見て、言った。「そんなもの、いらないよ」と。
そんなもの、いらない。
その言葉が、幼い彼の胸に、深く刺さった。差し出したものを、受け取ってもらえないこと。それは、自分そのものが、いらないと言われるのと、同じだった。彼は、握りしめた小石を、捨てた。空いた手を、見つめた。何も持たない、空っぽの手を。
それから、彼は学んだ。
人に必要とされるには、与えなければならない。空の手では、誰も振り向かない。差し出すものがあって、はじめて、人は自分を見てくれる。受け取ってもらえて、はじめて、自分はここにいていい。彼は、そう信じて、生きてきた。
長じて、彼は、いくつもの家を渡り歩いた。
はじめは、遠縁の家だった。子のないその家が、利発な彼を見込んで、養子に望んだ。彼は、応えた。算術に長け、人の機微を読み、家の差配を誰よりもよく回した。役に立つ子だった。求められる子だった。空の手の子供は、自分が誰かの役に立つあいだは、その家にいていいのだと知った。
やがて、彼の評判は、より大きな家の耳に入った。
格上の家が、彼を養子に望んだ。前の家は惜しんだが、彼は移った。差し出せるものが多いほど、より高い場所が、彼を求めた。彼は、新しい家でも、応えた。さらに役に立ち、さらに必要とされ、さらに上の家から、声がかかった。そのたびに、彼の立つ場所は、一段ずつ、高くなっていった。
それは、出世というより、証明だった。
差し出すものがある限り、人は自分を求める。受け取ってもらえる限り、自分はそこにいていい。家を移るたびに、幼い日の信条が、繰り返し裏書きされた。空の手では、誰も振り向かない。けれど、満たした手は、より高い場所へ、迎え入れられる。彼は、与えることで、のぼりつめた。
最後に彼を迎えたのが、キャシリスの家だった。
子のない老伯爵が、彼の才を見込み、跡継ぎに据えた。こうして、何も持たなかった子供は、伯爵となり、城を持った。血ではなく、差し出しつづけた値打ちによって、その座を得た。誰も、彼の出自を疑わなかった。彼自身さえ、忘れようとした。けれど、忘れられなかった。のぼりつめてなお、彼の根には、あの冬の、空っぽの手があった。
そして、彼は、レディ・ジェーンを妻に迎えた。
ジェーンを、彼は心から愛した。
彼女に、すべてを与えたかった。あの冬の、空っぽの手を、二度と思い出さずにすむように。彼女が望むものを、望む前に。彼女が飢える前に。彼女が、ただの一瞬も、満たされぬ思いをせずにすむように。それが、彼の愛だった。彼の知る、たったひとつの、愛の形だった。
与えているとき、彼は幸福だった。
ジェーンが、彼の用意したものを受け取り、微笑み、ありがとうと言う。そのたびに、彼の胸の、あの空っぽの場所が、満たされた。自分は、必要とされている。差し出したものを、受け取ってもらえている。だから、自分は、ここにいていい。
それなのに。
伯爵は、暗闇のなかで、自分の手を見た。
その手は、もう空っぽではなかった。城も、財も、地位も、すべて、この手のなかにあった。彼は、与えられる人間になった。あの冬の子供は、もう、どこにもいないはずだった。
それなのに、妻は、彼の手を拒んだ。
そんなもの、いらない。
ジェーンは、そうは言わなかった。けれど、雨に濡れたいと言った彼女の声は、幼い日の、母の言葉と、同じ響きを持っていた。差し出したものを、受け取らない。彼のいちばん恐れていた言葉。彼のいちばん深い傷を、妻は、知らずに、押し開いた。
彼は、震えた。
夜が明けるころ、伯爵は、ひとつの結論にたどり着いた。
足りないのだ、と。きっと、与えるものが、まだ足りないのだ。だから妻は、満たされない。もっと与えれば、もっと尽くせば、妻はきっと、もとの穏やかな顔に戻る。あの、凪いだ湖のような、満たされた微笑みに。彼は、そう信じることにした。それ以外の答えを、彼は、持っていなかった。
その日、伯爵は、都の商人を呼んだ。
最も美しい宝石を、と命じた。妻が、これまで見たことのないほどの。金に糸目はつけなかった。商人は、海の向こうから運ばれた、見事な首飾りを差し出した。蒼い石が、いくつも連なり、光を集めて輝いていた。
伯爵は、それを、妻の部屋へ運んだ。
「ジェーン」と彼は言った。声を、明るく保とうとした。「あなたに。都の商人から、取り寄せました。あなたの瞳に、きっと映えます」
彼は、宝石箱を開けて、見せた。蒼い石が、朝の光に煌めいた。
ジェーンは、それを見た。
彼女の顔に浮かんだのは、喜びではなかった。困惑でも、なかった。もっと、静かな、もっと深い、悲しみのようなものだった。彼女は、宝石を見て、それから、夫を見た。
「もう、十分よ」と彼女は言った。「もう、何もいらないの」
伯爵の胸が、ぎくりと縮んだ。
何もいらない。また、その言葉だった。彼の差し出すものを、拒む言葉。彼は、必死に、笑顔を作った。
「足りないなら」と彼は言った。「言ってください。何でも、用意します。これでなければ、別のものを。あなたの欲しいものを、何でも――」
「あなたは」とジェーンは、彼を遮った。やさしく、けれど、はっきりと。「わたしの欲しいものを、ひとつも、知らないのね」
その言葉が、伯爵を、貫いた。
彼は、立ち尽くした。宝石箱を、手に持ったまま。蒼い石が、虚しく、光っていた。妻の欲しいもの。彼は、それを、知らなかった。これまで、知っていると、思い込んでいた。妻のことは、妻自身よりも、わかっていると。けれど、違った。彼は、何ひとつ、知らなかった。
彼が知っていたのは、自分が、与えたいものだけだった。
伯爵は、宝石箱を、窓辺の小机に置いた。開けたまま。蒼い石を、そこに残して。何と言えばいいのか、わからなかった。彼は、ただ、部屋を出た。
ひとり、廊下を歩きながら、彼は、また、自分の手を見た。
その手は、宝石を差し出して、拒まれた手だった。あの冬の、小石を握りしめた、子供の手と、同じだった。財を成しても、地位を得ても、彼は、何も変わっていなかった。空の手が、こわかった。受け取ってもらえないことが、こわかった。だから、与えつづけた。与えることでしか、愛し方を、知らなかったから。
ジェーンは、宝石箱を、開けないまま、窓辺に置いた。
蒼い石は、朝の光のなかで、ただ光っていた。誰の指にも触れられず。誰の首にも掛けられず。やがて、その上に、薄く、埃が積もりはじめた。
窓辺からは、街道が見えた。空き地の天幕は、まだ、そこにあった。けれど、いつ畳まれてもおかしくなかった。一族は、風のように去る。ジェーンは、それを、知っていた。
時が、ないのだと。




