第6回/雨を聞く夜
嵐が来たのは、その夜更けだった。
風が城の壁を打ち、塔のあたりで低く唸った。やがて、雨が降りはじめた。はじめは細く、それから、堰を切ったように激しく。雨粒が硝子窓を叩く音が、寝室にまで届いた。厚い壁ごしの、遠い、くぐもった音。それでも、雨は雨だった。
ジェーンは、寝床のなかで目を開けていた。
眠れなかった。あの火のそばの夜から、彼女のなかで、何かが少しずつ動いていた。声を出してみた、闇のなかの自分の名。ベスの、見て見ぬふりをしてくれた目。一族が、もうじき去るということ。それらが胸のなかで混ざり合い、彼女を眠らせなかった。
雨の音が、聞きたかった。
ただ、それだけのことだった。厚い硝子の向こうの、くぐもった音ではなく。じかに、肌で、耳で、あの音を聞きたかった。いつかの夜、「雨の音が好き」と言った、あの言葉。あれから一度も、彼女は雨を聞いていなかった。
伯爵は、隣の寝椅子で眠っていた。妻の眠りを見守るのだと、嵐の夜はいつもそばにいた。穏やかな寝息。やさしい人の、やさしい眠り。
ジェーンは、そっと起き上がった。
裸足の足が、冷たい床に触れた。その冷たさが、かえって彼女を目覚めさせた。窓辺へ歩く。掛金に手をかける。固く閉ざされた、あの窓。長いあいだ、誰も開けなかった窓。
指に力をこめた。掛金は、軋みながら、外れた。
窓を、押し開けた。
その瞬間、雨と風と夜気が、どっと部屋へ流れ込んだ。雨の音が、もう遠くなかった。すぐそこにあった。激しく、生々しく、地を打ち、葉を叩き、世界じゅうを濡らす音。冷たい飛沫が頰にかかった。風が髪を乱した。湿った土の匂いが、肺の奥まで満ちた。
ジェーンは、目を閉じた。
これだ、と思った。これが、雨の音だった。長いあいだ、彼女から遠ざけられていた音。やさしさの名のもとに、閉ざされていた音。彼女は窓辺に立ち、全身で雨を浴びた。寝衣が湿り、肌に張りついた。寒かった。けれど、その寒さが、たまらなく、生きていた。
「ジェーン」
背後で、声がした。
伯爵が、起き上がっていた。寝ぼけ眼で、それから、開いた窓を見て、はっと目を見開いた。
「窓が」と彼は言った。慌てて立ち上がる。「冷えます。風邪をひいてしまう」
彼は窓辺へ歩み寄り、掛金へ手を伸ばした。いつものように。妻を案じて。やさしさから。窓を、閉めようとした。
「閉めないで」
ジェーンは言った。
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。喉の奥の、長くこわばっていたあの場所から、まっすぐに出た声。彼女は、夫の手と、掛金のあいだに、自分の手を割り込ませた。
伯爵の手が、止まった。
「開けておいて」とジェーンは言った。雨に濡れた顔で、夫を見て。「雨の音を、聞いていたいの」
伯爵は、妻を見つめた。理解できない、という顔だった。
「けれど、冷えます。あなたが病気にでもなったら」
「ならないわ」
「濡れています。髪も、寝衣も。乾かさなくては」
「いいの」とジェーンは言った。「濡れていたいの」
伯爵の顔に、はじめて見る表情が浮かんだ。
困惑だった。彼の足場が、わずかに揺らいでいた。これまで、彼は妻の望みを、すべて知っていた。妻が口を開く前に、その望みを言い当て、叶えてきた。妻のことは、妻自身よりも、自分のほうがわかっている。そう信じて、疑わなかった。
それなのに、いま、目の前の妻が、わからなかった。
雨に濡れたいという妻。寒さを望む妻。彼の差し出すすべてを、拒む妻。彼の知る、穏やかな、満たされた妻ではなかった。彼の手のなかから、何かが、こぼれ落ちようとしていた。
「なぜです」と彼は言った。声が、かすかに震えていた。「何が、不足なのですか。言ってください。何でも、用意します。足りないものがあるなら――」
「足りないんじゃないの」
ジェーンは、首を振った。雨の滴が、頰を伝った。それが雨なのか、別のものなのか、自分でもわからなかった。
「あなたは、何も間違っていない。何ひとつ。あなたは、わたしに、すべてをくれた」彼女は言った。「ただ――わたしは、欲しがりたいの。自分で。あなたに与えられるのではなく。たとえそれが、雨に濡れることでも。寒さでも。自分で、選びたいの」
伯爵は、その言葉を、理解しようとした。眉を寄せ、必死に。けれど、できなかった。彼の世界には、その言葉を受け止める場所が、なかった。与えること。満たすこと。それが彼の愛のすべてだった。与えられることを拒む愛など、彼は知らなかった。
「わかりません」と彼は、ついに言った。正直に。途方に暮れて。「あなたが、何を言っているのか、わたしには、わからない」
ジェーンは、夫を見た。
その顔に、怒りはなかった。憎しみも、なかった。ただ、深い、底のない悲しみがあった。この人は、本当にわからないのだ。わからないまま、わたしを愛しているのだ。その愛が、わたしを、こんなにも息苦しくさせていることを、永遠に、知らないままで。
「ええ」とジェーンは、静かに言った。「わからなくて、いいの」
彼女は、もう、説明することを諦めた。
伝わらない、とわかった。どれほど言葉を尽くしても、この人とわたしのあいだには、越えられない壁がある。厚い硝子のような、透き通った、けれど決して通り抜けられない壁が。彼はその向こうで、やさしく微笑み、わたしの望みを言い当てつづける。永遠に、的を外したまま。
伯爵は、掛金から手を離した。
彼は、何も言わずに、寝椅子へ戻った。背を丸めて座り、両手で顔を覆った。妻のわからなさを、抱えきれずに。ジェーンは、その背中を見た。哀れだと思った。心から。けれど、その哀れみは、もう、彼女を引き留める力を持たなかった。
彼女は、窓辺へ向き直った。
雨は、まだ降っていた。激しく、生き生きと。ジェーンは、開いた窓の外を見た。
すると、見えた。
街道のわきの、空き地の闇のなかに、小さな火が、灯っていた。嵐のなかでも、消えずに。雨に打たれながら、それでも、揺れながら燃えていた。遠い、けれど、たしかな火。
ジェーンの胸が、その火に、まっすぐに引かれた。
雨の音のなかで、彼女は、長いあいだ、その火を見つめていた。




